「トリック・オア・トリート?」
「ハッピー・ハロウィン!」
日本でハロウィンがメジャーな催しものとして定着したのはごく最近のような気がする。この日、街はちょっとしたものから本格的なものまで、様々な仮装をした若者で溢れていた。普通のサラリーマンに混ざって、包帯をぐるぐる巻きにしたミイラ男や、大きな注射器のぬいぐるみを持った血みどろナース、猫耳をつけてはにかんでいる女の子は、吸血鬼のマントを翻した男の子がエスコートしている。
七瀬沙耶はそんな往来を行く人々にお菓子を配っていた。
沙耶の実家は父と兄がやっている小さな和菓子屋で、商店街でもそこそこ人気の店ではあったが、最近少しばかりリニューアルをした。若者にも寄ってもらいやすくするために店内のデザインを少し洒落たものにして、小さいながらもホッと一息つけるようなカフェスペースを併設したのだ。おかげで近所のおばあちゃま達から、会社帰りのOLさんまで、幅広い年代の人たちが立ち寄ってくれるようになった。
それはいいのだが、小さな店がリニューアルするにはそこそこまとまったお金が必要で、現在はそれを返すためにあの手この手を考えて、小さなことからコツコツと、いろいろなことを試みている。
今年のハロウィンもその一環で、沙耶は兄と父に頼まれて店の呼び込みを行なっていた。呼び込みといっても、商店街を歩く人々に小さなお菓子のサンプルを渡すという簡単なものだ。渡すお菓子は小さなお干菓子やおまんじゅうなどで、ハロウィンに配るには少しギャップがあるが、それはそれで貰う人は楽しげで、お祭りのちょっと浮かれ気味の足でその場で口に入れて、何人かは店で品物を買ってくれた。商店街ではくじ引きなんかも行われていて、買い物客もそれなりに多く賑わっている。受け取ってくれる人がいないという状態にはならず、このペースだと早めに配るお菓子がなくなってしまいそうだ。
仮装をした小さな子供達が沙耶の足元にかけてきて、パアッと顔を輝かせる。
「魔女だー!」
「魔女がいるー!」
ワアアアア!
もちろん呼び込みの沙耶もハロウィンらしい格好をしている。もとい、させられている。赤紫の縁取りが美しい黒いフードのロングマントの中は、編み上げのアクセントが効いたミニワンピース。スカートの中からはアシンメトリーな形のペチコートがクシャクシャと覗いている。兄がどこからか調達してきた魔女のドレスは、やたらと本格的なものだった。
そうした魔女の格好の沙耶は、「トリックオアトリート」の言葉とともにお菓子をねだる子供達にあっという間に囲まれる。忙しくお菓子を配っていると案外楽しく、時間が経つのはすぐだった。
お菓子をねだる子供達が、飲みに繰り出す仮装の若者や、初めての仮装に恥じらうカップルになった頃、ふと視界の端っこに背の高い、カボチャ頭の仮装をしている人がいるのに気がついた。
誰だろ。
これって、ジャック・オ・ランタンっていうのだっけ。あれは、カボチャのランタンの事だっけ。ハロウィンの由来もカボチャの由来も詳しく知らない沙耶にとって、ハロウィンによく見るカボチャのお化けの顔、という程度の認識だ。沙耶はカボチャ頭を心の中で「ジャック」と名付けた。
沙耶が首をかしげると、ジャックも真似するように首をかしげる。こっちを見ているのかな? と、そう思った瞬間、お菓子をねだる集団が沙耶を取り囲まれた。彼らにハッピーハロウィンを唱えてお菓子を配ると、ジャックはもういなくなっていた。
仮装をした人はたくさんいるのに、なぜだかそのジャックは強く印象に残る。とてもスマートで、かっこよかった。
もう一度見てみたいなと思う好奇心は、眼福を味わいたい気持ちにもよく似ていて、沙耶は残りのお菓子を配りながらも、あのちらりと見ただけのジャック・オ・ランタンの姿を探していた。
だが結局最後のお菓子を配り終えるまで、ジャックに会うことはできなかった。
****
沙耶の呼び込みの甲斐もあって、店はまあまあの売り上げだったようだ。店の閉店時間と大体同じくらいの時間にお菓子を配り終えた沙耶は、せっかくなので魔女の格好のまま街をぶらぶら歩くことにした。実はお目当のお店があるのだ。
和菓子屋の店じまいは、飲み屋などよりはよほど早い。街はこれからという雰囲気で、仮装した人たちに休日出勤を終えたサラリーマンも混じりあった不思議な空間になっていた。キョロキョロと周囲を見渡すと、ふわふわの白狐の男の子だとか、スーツを着た赤鬼さんだとか、袈裟を着た狸だとか、ハロウィンにはちょっと不似合いな和装の妖怪の仮装も混じっていたりなんかして、商店街はちょっと独特の楽しい雰囲気だ。
沙耶は手に持った籠から一個だけ残しておいた丸い落雁を取り出して、薄い包み紙を外して口に含んだ。ふんわりとした甘みが口の中に広がって、サラサラと溶けていく。
落雁はすぐ溶けて無くなって、甘い余韻だけを楽しんでいると、ちょうどお目当の雑貨屋に到着した。アンティークの品物を扱うこの雑貨屋は、まるでここだけヨーロッパの路地裏に迷い込んでしまったかのような不思議な雰囲気のお店だ。大学生の沙耶には少し敷居が高いのだが、ガラス越しに見るオルゴールや小さな食器はちょっとした憧れだった。
ショーウィンドウから覗いてみると、付けられている値札が高くてまだお店に入ったことはないのだが、今日のバイト代で買おうと思っているものがある。珊瑚色のガラス玉と、乳白色のガラス玉が、大きさを違えて連なっているネックレスで、ガラス玉には見えない不思議な色に一目で心惹かれたのだ。値札にはヴィンテージビーズのネックレス、と書かれている。
取り置きしてもらおうかな。
敷居の高いお店に初めて入る理由を見つけて、意を決して沙耶は顔を上げてみたが、お店の中には誰もいないようだった。
お店は閉まっているのかもしれない。だが、それならば明日の朝一番に来たら間に合うだろうか。少し残念な気持ちでショーウィンドウに向けてため息を吐くと、ゆらりと隣に誰かの並んだ気配がした。
「あ」
ガラスに映った魔女の隣に、ひょろりと背の高い男の人が並んでいる。その男の人は、シャープなブラックスーツにあちこち擦り切れた赤いネクタイを着こなして、白い手袋に綺麗な革靴を履いていた。スーツを着ていてもほっそりと見える身体の一番上には、よく熟れた橙のカボチャが乗っていた。カボチャは目と鼻と口がくり抜かれていて、つまりジャック・オ・ランタンだ。
お菓子を配っているときに見たジャックに違いなかった。
つりあがった黒い穴と、ガラス越しに目があったような気がする。
首をかしげると、ジャックも同じように首をかしげた。
「ジャック?」
思わず名前を呼ぶと、ジャックは長い腕をふうわりと身体の前に下ろして、優雅に紳士の礼を取る。
「こんばんは、魔女のお嬢さん」
その仕草があんまり優雅で、沙耶は思わず小さく笑った。
「こんばんは、ジャック・オ・ランタン」
仮装の人だろうか。頭のカボチャとほっそりとしたスリムな身体が様になっていて、沙耶は自然と顔がほころんだ。
「ジャックで構いませんよ、魔女のお嬢さん」
「私は沙耶よ」
「サヤ。魔女のサヤ、魔女のサヤ」
ゆっくりと噛みしめるように繰り返すジャックの声は、カボチャの被り物でくぐもっているかと思っていたのに、随分とはっきりと、そしてどことなくコミカルな外見からは想像が出来ないくらい低く響いた。
なぜかその声とスマートな雰囲気に胸がそわそわして、それを誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「あなたもハロウィンの仮装ですか? 素敵なジャック・オ・ランタンね」
「はて」
ジャックのカボチャが斜めに傾いで、ほっそりとした長い手の指先が、カボチャの顎を撫でた。
「私は仮装をしているつもりはありませんが」
「え……でも」
これが仮装でなければなんだというのだろう。どことなく不思議な物言いのジャックから目を離せず、沙耶はショーウィンドウから離れてジャックに向き合った。
「今宵は収穫祭、ゆえに魔女の瞳には私の真なる姿が見えてるのやもしれませんね」
「真なる姿?」
「ええ、私はこう見えても、かつては収穫祭を取り仕切る妖精だったのですよ」
「だった?」
「はい。代替わりして、隠居するためにこの街に引っ越して来たのです」
この街は住みやすい街ですねえ、と商店街を見回しながらジャックが感慨深けに言った。どうやらジャックの今日の仮装は「そういう」趣旨らしい。
「ところで、魔女のサヤ」
「あ、はい!」
ジャックもまた、沙耶に向き合った。こうして改めて見ると、ジャックは随分背が高い。沙耶の視線はジャックの胸のあたりまでしかなく、見上げる形になってしまう。カボチャの頭を少し下げて、どうやら沙耶を見下ろしているジャックは、おもむろに胸に手を当てて、沙耶を覗き込む様に身体を傾けた。
「トリック・オア・トリート?」
「あ!」
ハロウィン特有のその台詞に、沙耶は「しまった」と両手を口に当てた。最後のお菓子はつい先ほど、沙耶が食べてしまったのだった。お菓子を配っている時にジャックがこちらを見ていたことを思い出して、もしかしたらお菓子を食べたかったのかもしれないと、沙耶は申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい、お菓子はもうなくなってしまったの」
「おや」
「最後のお菓子は私が食べちゃった……」
「なんと! 収穫祭に妖精に配るお菓子を、魔女が食べてしまうとは」
なんだかとても魔女らしくないことをしてしまったようだ。沙耶は本物の魔女でもないのに、なんだか呆れられたような気がして、しゅん……と肩を落とす。すると、ジャックは大きく笑った。
「正直な魔女ですね! ああ、大丈夫、そんなに落ち込まないで、魔女のサヤ。なんて可愛い」
「あの……お店にはまだ誰かいると思うから」
「いえいえ、それには及びませんよ」
閉店はしたけれども、完全に人がいなくなるにはまだ早い時間だ。閉店の後の後片付けをやっている今なら、ちょっとだけ何かを分けてもらえるかも……そう思っての申し出だったが、ジャックはさほど気にしていない風に手を振った。
「トリック・オア・トリートの意味をご存知ですか?」
「えっと……お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ……」
「そう! お菓子も欲しいですが、私は」
ジャックは人差し指をピンと立てて、大きく裂けたカボチャの口元にそれを当てた。
「魔女のサヤ、私は可愛い魔女にいたずらしたい」
****
お菓子をくれなければいたずらするのは収穫祭のお約束ごと。風習には古来からの意味があり、二人が魔女と妖精の間柄ならば、それは大事に守るべき事柄。
魔女の沙耶に妖精のジャックが「トリック・オア・トリート」の契約を申し出て、それに対して「ごめんなさい」と謝ったのなら、いたずらをしてもいいってこと。
半ば強引にそう理由をつけて、ジャックは沙耶の手を取った。
「さあ、そうと決まれば行きましょう!」
「ちょっと、あの」
「隠居してからというもの、一人ではなかなか出来ないことがありましてね」
「なかなか、出来ないことって何?」
ウキウキと楽しげに手を繋いでジャックが沙耶を連れてきたのは、商店街のゲームセンターだった。一体どこに連れて行かれるのかと緊張していたのだが、不思議なことにジャックはそうした沙耶の緊張と警戒を緩ませる雰囲気がある。まるでおとぎの世界に迷い込んだような気持ちになって、周囲の音が気にならなくなるのだ。
それに今日はハロウィン。
魔女の格好をした沙耶と、ジャック・オ・ランタンの仮装をした男の人が、楽しそうにはしゃぎながら街を歩いていても、誰も気に留めない。
「ゲームセンター?」
「ゲームセンターと言うのですか? コインを入れたら楽しいことができると聞いております」
「楽しいことって」
表情は見えないはずなのに、どことなくキョトンとしている風なジャックが可愛くなって、沙耶はクスクス笑った。ゲームセンターの前に立ち止まったジャックの手を、今度は沙耶が引いていく。店内を一通りウロウロと見回って、ジャックの目を引いたのはUFOキャッチャーだった。
「これは! 魔女のサヤ、これならどうやるのか分かりそうです」
「やってみよっか、これ見て、ジャックの頭にそっくり!」
「私の頭はもっとぎっしり詰まっていますよ」
UFOキャッチャーの中身は、フカフカと柔らかそうなジャック・オ・ランタンのぬいぐるみだ。ジャックが憤慨した口調になったのがやたら楽しくて、沙耶はこのぬいぐるみを是非とも抱きしめたくなった。かなり大きめなカボチャのフカフカを狙うことにして、沙耶はお財布から小銭を出して投入した。
「ほうほう、このボタンを押すと、ふむふむ」
沙耶が一つ目のボタンを押して横の位置を合わせ、二つ目のボタンを押して縦の位置を合わせる様子をジャックは興味深げに眺める。狙いを定めたぬいぐるみを見つめる沙耶の顔の横に、ジャックのカボチャの顔が近づいた。カボチャの被り物を被っているはずなのに、息遣いが分かるほど近くに感じて、どことなくソワソワとした気持ちになる。
普段なら初めて会った男の人にこんなに胸を騒がせたりしないのに、ハロウィンというちょっと特別なイベントが沙耶の気持ちを浮かれさせているのか、警戒心レベルを下げているのか、要するに、こんなカボチャ頭に沙耶は不思議なくらい胸をときめかせているのだった。
「おっと、外れましたね」
「あれ、全然ダメだった」
「ふむ、なるほど」
雑念だらけだったからだろうか、狙いは外れて、ぬいぐるみはアームが引っ掛かってボヨンと揺れただけだった。全然取れそうにないなあ、こういうのってどうやって取るんだろ……そう思っていたら、チャリンチャリンと音がした。どうやらジャックがお金を入れたらしい。背の高いカボチャの紳士は沙耶を丁重に退かし、ボタンの前に立つ。
ジャックが狙いを定めてボタンを操作すると、全然見当違いのところに行ったと思ったバーは、うまくぬいぐるみの端っこを引っ掛けた。
「わあ! 取れた!!」
ボヨンと柔らかいカボチャのぬいぐるみが取り出し口に落ちる。早速取り出すと、予想通り、綿が緩めに入ったボヨボヨとした柔らかさだ。ぎゅっと抱きしめると、ジャック・オ・ランタンの顔がフニャリと歪んで抱き心地がとてもいい。
「差し上げますよ、魔女のサヤ」
「えっ、でもジャックが取ったんだよ」
「そうは言いましても、私が持つにはいささか可愛らし過ぎますからねえ。自分の顔にそっくりですし」
スマートなジャックが、手を顎に当ててふうむと考え込む仕草をした。確かに、ジャックがジャックの顔のぬいぐるみを部屋に飾って愛でている姿は想像できない。というよりも、想像してしまうと笑ってしまう。沙耶がジャックのぬいぐるみをジャックの顔の隣に当てた。
「これ、ほんとにジャックにそっくりね」
「人の世では、私の顔がぬいぐるみになっているとは」
「フカフカで、抱き心地がすごくいい!」
「私には貴女の方がだき心地が良さそうに見えますが」
手袋をした片方の手が、そっと沙耶の頬を滑っていく。たったそれだけの行為なのに、不意に距離が近くなったような気がする。どことなく色めいた雰囲気に、沙耶の頬が熱くなった。
「そんな可愛い顔をなさると、本当にいたずらをしたくなりますよ」
「え……?」
「ほら、またそのような顔で私を見上げる」
「ちょ、っと、私変な顔はしてないわ!」
「ええ、とても愛らしい顔をしています。……魔女のサヤ、いたずらをすると言ったのを忘れたのですか?」
急に恥ずかしくなって視線を彷徨わせると、色めいた雰囲気が消えて再びジャックが沙耶の手を取った。
「さあ、魔女のサヤ。行きましょう、まだ収穫祭が終わるには時間があります」
「行くって、今度はどこへ……?」
連れて行かれたのは、人間たちの間で流行っているというコーヒー屋さんだった。
「一度飲んでみたかったのですよ」
「スタバのコーヒー?」
「ほう、スタバというのですか」
ジャック・オ・ランタンと魔女の二人の客は、仮装というにはかなり本格的で、店内の注目を集めている。いつもだったら恥ずかしい沙耶も、仮装をして一時商店街でお菓子を配っていたからか、心も大きくなってちょっと得意な気分だった。ジャックの格好も素敵だし、そんな素敵なジャックと一緒に歩いているというのも気分がいい。
「何にする? 私は、えっと、」
沙耶は限定の甘いフレーバーの温かいコーヒーを選んだ。ジャックはまたしても距離が近い。沙耶の顔の横にカボチャの顔を並べて、肩越しにメニューを見つめている。
「ふうむ。コーヒーとやらの店であれば、私はぜひ普通のコーヒーとやらを」
その注文に店員は快く応じて、本日のドリップコーヒーにしてくれた。ランプの下で待っていると、素敵な魔女とカボチャのお二人さま、お待ちください、なんて言われてジャックは他の人にもジャックに見えるのだと思って、沙耶は少しホッとした。
だって、どこか現実的じゃないように思えて、もしかしたらジャックは沙耶にしかジャックに見えていないんじゃないかと思っていたからだ。
「魔女のサヤ? どうしました?」
カボチャ頭のぬいぐるみを抱えてぼんやりしていた沙耶の耳元を、ジャックの吐息がかすめる。ビックリして肩を揺らすと、ジャックの吊り上がった目が心配そうにこちらを見ていた。
心配そう?
ただカボチャの皮を目の形にくり抜いているだけなのに、なんで心配そうな顔をしているって分かったのだろう。不思議に思ってそっとジャックの顎に手を伸ばすと、ジャックが驚いたように肩を揺らした。
「魔女のサヤ?」
「あ、ごめんなさい」
なんだか飄々としているように見えたのに、ジャックがあんまり狼狽えたので沙耶もまた狼狽えてしまった。その時、魔女とカボチャのお二人様、と呼ばれて我に返る。気まずいとも違う、なんだかすごく甘くてくすぐったい恥ずかしさが込み上げる。
「……謝ることはないのですが、ときどき魔女のサヤは無防備でいけない」
ジャックに片方の飲み物を渡される。
「いたずらをされても文句は言えませんよ?」
その声がどことなく色を帯びていて、心臓がどきりと跳ね上がる。受け取ったカップのほのほのとした熱さに手を温めながら、沙耶は唇を尖らせた。
「い、いたずらって何をするの……?」
「さて、それはこのスタバとやらを飲みながら考えましょう」
片方の手に飲み物を持ち、そしてもう片方は沙耶の手に収まった。カボチャのぬいぐるみはいつの間にか取り上げられていて、ジャックの小脇に抱えられている。そうして、「あ」と思った時には、指が一本一本絡まり合い、まるで恋人のように手を繋いで店を出た。
どうやら公園を目指しているようで、先ほどゲームセンターに行く時に引かれた手とは異なる触れ合いに、どことなく胸に甘いものを抱えながら歩く。なんとなく沈黙してしまうが、それは、さほど気になるものではなかった。恋人つなぎになった手は、二人の身体を少し近づける。
「こちらへどうぞ、魔女のサヤ」
公園のベンチに着くと、紳士よろしくジャックが胸元からハンカチを取り出した。それをベンチに敷こうとしたので、沙耶は慌ててそれを取り上げた。
「ちょっとちょっと、ジャック、そんなのいいよ」
「おや」
ハンカチを取り上げたままベンチに座ると、ジャックも隣に座る。ジャックはハンカチを握った沙耶の手を包み込むように握ったまま、コーヒーに口を付けた。
「なんと!? 苦い!!」
「えっ!?」
自分もフルーツの香りを楽しもうとフレーバーコーヒーに口を付けたところで、隣から思いも掛けない声が聞こえてきて驚く。見ると、ジャックの黒い目がゾワワとつり上り、裂けた口がふにゃふにゃと頼りなく曲がっていた。
え……?
カボチャをくりぬいただけの作り物のはずなのに、まるで生きているみたいにジャックの表情がふわふわと切り替わる。
いや、そもそも作り物の口でどうやってコーヒーを飲もうとしたの?
飲み物を飲むことも忘れてまじまじと見つめていると、今度は黒い目をフニャリと細くして震わせた。
「なんと、こんな苦い飲み物を人間は飲んでいるのですか!?」
「え、あの」
「魔女のサヤ? サヤもこんな苦い飲み物を飲めるんですか!?」
「えっと……」
ブルブルと目と口元を震わせながら、ジャックはコーヒーと沙耶を交互に見つめている。涙が流れそうもない目元なのに、どことなく涙目になっているような気すらする。
もしかして、本当に本物なのだろうか。
ジャックの言葉を思い出す。
収穫祭を取り仕切る妖精だった、って。
「ジャック……」
「魔女のサヤ……沙耶?」
沙耶はベンチの傍に飲み物を置いて、ジャックの頭に手を伸ばした。両手で挟み込んで、黒い目をじっと見つめる。その向こうに何があるのか、何もないのか……。不思議なのに怖くはない。
「サヤ、サヤ、こら、魔女のサヤ」
「ジャック、ジャックは」
「サヤ?」
「本物なの?」
あなたは本当に本物だったの? そのように問う声が、なぜか切なく、寂しげに聞こえた。
****
「本物だと思っていただけていなかったのですか?」
「だって……」
しかしジャックの口調は責めるようなものではなく、優しく暖かなものだった。ジャックもまた、コーヒーを傍に置いて、自分の顔に懸命に触れる沙耶の手をそっと退かせる。
そうして、沙耶の頭を抱えるようにふうわりと抱き寄せられた。
「サヤ……魔女のサヤ、今は信じていただけているのですか?」
囁くように問う声は、やはりリアルな吐息になって沙耶の心と耳元をくすぐった。抱き寄せられ、沙耶の頬に頬をすり寄せるように顔を近づけ、唇の動きすら感じられるほどだ。
その感触に顔を上げたくて身じろぎするが、ジャックの力は意外と強く、やんわりと抱き寄せられているように感じるのに、顔を上げることができない。
そうして、信じているかと問われると、「信じている」と答えることが、なぜか沙耶には出来なかった。
カボチャ頭の妖精が存在するだなんて、そんなこと信じられるはずがないし、現実的じゃないし、それに、それに……。
もし、この魔法がハロウィンの日だけの不思議だとしたら。
「ジャックは……」
「サヤ?」
「ハロウィンが終わったら、いなくなってしまうの?」
沙耶が恐る恐るそう問うと、抱き寄せるジャックの腕が少し緩んだ。ようやく顔を上げると、そこにはいつものジャックのカボチャの顔があった。
「どうしていなくなると思うのです?」
「だって……今日が特別な、収穫祭の日だから……」
「だから、今日限りで私がいなくなる……と?」
沙耶が小さく頷くと、ジャックの目がほんのりと優しく緩まった。ジャックは沙耶を腕に抱えたまま、手袋を取った。
沙耶の髪をそっと梳き始める。
「私がいなくなると、魔女のサヤはそんなに切ない顔になるのですね」
それは、……今日限りでもうジャックに会えないのかと思うと、不意に寂しさを感じたからだ。それがどういう意味の寂しさなのかは、沙耶にはまだ分からない。
「安心して、サヤ。可愛い私の魔女」
「ジャック?」
「サヤ、私は私の魔女をおいてどこにも行きませんよ」
そう言われてジャックを見上げると、カボチャをくり抜いただけのつり上がった目が、優しく沙耶を見下ろしていた。
そう、優しい目。なぜ、分かるのだろう。
「可愛い魔女のサヤ。それはサヤが魔女の瞳を持っているからです」
沙耶は疑問を口に出していないのに、ジャックが答える。ジャックの指先が愛おしそうに沙耶の頬を滑り、目尻をキュッと拭った。いつの間にか、沙耶は瞳を潤ませていたらしい。ジャックの指先は関節のよく分かる繊細で筋張った手だった。
その手元だけがなんだかすごくリアルに見えて、沙耶は思わず笑ってしまう。そうするとジャックの口元も綻んで、「さあ、冷めないうちに飲みましょうか」そう言って、自分の分のコーヒーを手に持った。
「ほんとにいなくならない?」
「妖精は人間は騙しますが、魔女には嘘をつかないのです」
「私は人間だわ、魔女じゃない」
「おや、そうですか? 私には確かに魔女に見えますが」
「私に嘘はつかないの?」
「ええ、もちろん、貴女には」
ジャックがそう言うならきっとそうなのだろう。もし嘘だとしても、沙耶には見抜けないのだから仕方がない。沙耶はもう一度涙を拭って、スンスンと鼻をすすると、自分も飲み物を持って口を付けた。
まだ少し温かさが残っている。
「ほう! 苦い!!」
「大丈夫? ジャック、私のと交換する?」
「いいえいいえ、それには及びませんよ」
「そう? これ、すごく甘いよ」
「一口、一口だけいただけると……」
再びジャックの口元がフニャフニャと歪んだが、今度はもう不思議を感じない。でもどうなっているのだろうという純真な好奇心が沸き起こって、もう一度彼の口元に指先を触れさせる。
今度はジャックがその手を取り、すりすりと頬擦りした。
収穫祭が終わるまでもう少し。
****
あれから二人でいろんな話をして、星の見方を教えてもらって、だんだんと人の少なくなってくる街を散歩したりした。
そうして過ごして、気がつくと沙耶は一人暮らしの自分の部屋で目が覚めた。周りを見渡すとハンガーにはきちんと魔女の衣装が吊り下げられていて、自分はしっかり寝間着を着ている。
「夢だったのかな……」
しかし枕元に置いてあるカボチャのぬいぐるみが、昨日の夜が現実だったと知らせている。フワフワした綿のゆるいぬいぐるみは、昨日確かにジャックが取ってくれたものだ。
ぎゅっと抱えてみると、ジャックのいない寂しさは感じない。
「いつ、会えるんだろう」
いつ会えるんだろうなんていう感傷的な言葉とは裏腹に、なんだか今すぐに会える気がする。そういえば連絡先すら交換していなかった。そういうものがジャックには似合わない気がして、それに疑問も感じなかった。
もう一度会いたいなら連絡先くらい聞けばよかったのに。
「よし!」
沙耶はシャワーを浴びて着替えると、ひとまずバイト代をもらいに実家に向かった。
一日限定の実家でのバイトは、現金手渡しだ。いちおう受け取りにサインして封筒を確認すると、自分の貯金と合わせてあのネックレスを買えるくらいの金額が入っている。
いそいそと雑貨屋に向かってショーウィンドウを覗いてみた。
「あ!」
そこにいつもあったはずのヴィンテージビーズのネックレスは無くなっている。
「うそぉ……」
昨日見たときはまだ残っていたのに、朝一番に来て売れてしまっているなんて。
もしかしたら店の中に入れてしまったのかな。そう思って店の中を覗いてみると、そこには棚の埃をハタキで叩いている背の高い店主らしき人がいた。
そういえば、店主の姿を見たのは初めてかもしれない。幾度となく店の中を覗いていたのに、店主さんの姿を確認したことはなかった。
今ならお店に入るチャンスだ。どうしても諦められないあのネックレスのことを聞いてみよう。
そう思って、飴色に磨かれた木の扉に体重を掛けた。
カランコロンとドアベルが鳴って、店主が振り向く。やっぱりどう見ても背の高い店主は、三十歳くらいに見えた。腰周りが綺麗に見えるベストにスラックスを履いていて、きっちりとネクタイを締めている。どこにも隙が無さそうなのに、真っ白のドレスシャツの袖をシャツガーターで留めた様子が少しリラックスした風にも見えた。
「おや」
短かく刈った髪は金茶色で、彫りの深い顔は日本人離れしている。手足が長くスマートだが、かといってひょろひょろと痩せすぎということもなく、そして少し垂れ目気味の瞳は人懐こく愛嬌があって、とても……とても素敵な人だ。
店主は灰色の瞳を優しく細めて、掃除の手を止めた。
「あ、あの……」
しかし沙耶が言葉を失ったのは、出て来た店主がどう見ても日本人ではなかったからではない。彼が素敵だったというのも、少しは理由になるかも分からないけれど、それだけではない。
それは彼だったからだ。
沙耶には分かった。
なぜ分かったのか、沙耶にも分からないけれど確かに分かった。
「ジャック?」
呼ばれたジャックは嬉しそうに微笑む。
「ほら、分かったでしょう、魔女のサヤ。私の魔女は、ちゃんと魔女の瞳を持っている」
そう言ってジャックははたきを置くと、長い手を沙耶に伸ばす。
「さあ、こちらへ私の魔女。ちょうど貴女に似合いそうなネックレスがあるのですよ」
腕を掴まれ、抱き寄せられる。耳元を擽る低い声は確かに昨晩のジャックのものだ。唇が触れそうなほどの距離感にも覚えがあって嬉しくなって、腕の中で目を閉じた。
「ジャック? ジャックは人間になってしまったの?」
「人間の姿の私に興味はありませんか?」
「ううん、違うわ。人間になったらすごくかっこいいのに、でも、その、あんまり変わらない気がしたから……」
「ほら、そうやって私の魔女は私を誘惑するのだから」
ジャックの顔が、沙耶の顔に落ちてくる。やんわりと唇が重なって、離れた。
カボチャ頭じゃないからキス出来るのかな……と思うと少しだけ笑ってしまう。
****
さて。
遠く西方の国で収穫祭を取り仕切る妖精をやっていた男が、勤めに飽きて東方の国にやって来たのはつい先日。この国の不思議が集まる組織に誘われて、とある商店街に雑貨屋を開いた。
生活に困っているわけではない道楽者の妖精が、人間に化けて店を開けるのは気まぐれだ。いつだったか、そうした気まぐれで店を開けたとき、ショーウィンドウを覗く愛らしい魔女を見かけた。
本人は気が付いていないようだが彼女は確かに魔女の瞳を持っている。
妖精が仕入れた、いっとう気に入りのガラス玉のネックレスを、彼女もまた、気に入ったようだった。魔女の瞳を輝かせてネックレスを見つめる様子は可愛くて、彼女を見たくて妖精は毎日店を開けるようになった。店を開けてあのネックレスを並べると、可愛い魔女はいつも輝く瞳でそのネックレスを見つめていく。その生き生きした瞳に、いつしか妖精は恋をした。
この調子ならすぐにでも店に入って来て、あのネックレスをくださいな……と所望するに違いない。そうしたら声を掛けて、自分の手で彼女の首にネックレスを着けてあげよう。
そう思っていたのに一向に魔女は店の中に入ってこない。さていかがしたものかと思った時に、収穫祭の夜が来たのだ。
お菓子を配って小さな子供達にハーピーハロウィンを振りまく彼女は、やはり愛らしい魔女だった。だがいけない。あんな風に無闇やたらにお菓子を配っていたら、お菓子がなくなった頃を見計らって、悪い妖精に悪い契約を迫られてしまうのではなかろうか。
悪い妖精に騙される前に、しっかり捕まえておかないと。
収穫祭の夜は、本性を露わにしても怪しまれない不思議の夜。その証拠に、この街に住まう東方の不思議達も、仮装と称して本性を露わにしているようだった。妖精は収穫祭を取り仕切っていた頃の、秋の味覚の本性をその身に写し、ガラスを隔てない場所から魔女を見つめた。
そうして妖精は可愛い魔女に声をかけた。案の定、魔女は妖精の答えに応じて「お菓子はないの、ごめんなさい」を言ってしまう。あまつさえ、妖精に「ジャック」という名を与えて。
「あとは知っての通り」
言いながらジャックは沙耶の後ろに回り、その細い首にネックレスを着けてやった。珊瑚色と乳白色のガラス玉は、キメの細かい沙耶の肌色によく似合っている。
ジャックは自分の見立てに満足する。
「ああ、可愛い私の魔女」
こうして隠居妖精の元に魔女は遊びに来るようになった。
魔女の沙耶は実家の和菓子をお土産に持ってやってきて、妖精が開く雑貨屋の品物を輝く瞳で飽きずに眺めて過ごす。ジャックも時折その和菓子屋に遊びに行っては、東方のお茶を嗜むようになったから、商店街では変わり者の外国人として受け入れられるようになった。
大学から沙耶が帰って来ると、彼女の淹れたコーヒーを雑貨屋の奥で楽しむのが、二人のささやかな日常だ。
「ねえ、本当はジャックが悪い妖精だったんじゃないの?」
「そうですか? でももう貴女は私の魔女ですから、どちらでもいいじゃないですか」
ジャックは沙耶が淹れたコーヒーに手を伸ばす。そして砂糖を入れずに挑戦しては、その苦味に顔をしかめるのだ。
「うう、にがい!! サヤ! サヤはこんなに苦い飲み物が平気なのですか!?」
ウェエエと口を開くと人間の姿ジャックの様子はカボチャ頭の時とどことなく似ていて、沙耶は嬉しそうに笑う。
「ジャックって……本当はジャックという名前ではないのでしょう」
「人間の名はジャックと決めたのです。魔女のサヤ、私の魔女がくれた名前だから」
「本当の名前は教えてくれないの?」
「いずれ教えて差し上げましょう」
貴女が私のものになるときに。
そう囁いた言葉が沙耶の耳に届いたのかどうか。妖精のいたずらが果たして魔女に仕掛けられたのか、この二人はやがて恋人同士になったのか。それはまた別のお話で。
収穫祭の夜は終わっても、隠居の妖精と可愛い魔女の時間はまだまだこれから。