沢村柚子は3年付き合っていた男と別れた。
別れの理由は、「あいつは俺じゃないと駄目なんだ」という陳腐なものである。陳腐なものではあるが、3回連続同じ理由で男にフラれると流石に辟易してくる。あー、そうですかーってなもんだ。大概、つきあいがマンネリ化してきたときとか、仕事がすっごく忙しくなって男に構えなくなったらこう言ってくるんだ。もう慣れた。
それでも、一応食い下がる。
「ちょっと待ってよ。どういうこと?」
「お前は、しっかりしてるだろ。…でもあいつは弱いから…俺じゃないと駄目なんだ。」
「な、にそれ。」
「だから、ごめん。」
「ちょっと待って。納得できるわけないでしょう。浮気したのはそっちじゃない!」
「分かってる、だからごめんって謝ってるじゃないか。」
「謝ってすむなら、警察いら…。」
柚子が男の肩をつかんだ。男がそれを振り払う。…そのときだった。
「きゃっ…!」
「ゆ、柚子!」
運悪く、すぐ側が階段だった。男の振り払った腕にバランスを崩した柚子は、ヒールの高い靴の踵を踏み外し、ふわりと身体が浮いた。落ちる…!と思った瞬間、男が柚子の身体を捕まえようと腕を伸ばす。
しかしそれは届かなかった。
世界がひっくり返り、
暗転。
水音。
ゴン。
「ごぼっがぼぶくぅ…!(いった、頭打った!) 」
柚子は、気がつくと池の中に落ちていた。おお、水! なんで水があるのか分からないけど助かったーー! と思った0.5秒後に強かに頭を打ちつけ、本当に今度こそ、意識が暗転したのだ。
後に語る。
意識が遠のく最後の瞬間。30cm程度の水に沈んでいきながら、柚子は、
「ああ、人間。30cmの浅さでも溺れて死ぬんだな。」
そう思った。
****
様々な種族が交わり生きている世界、グリマルディ。
その世界に存在する国のひとつ、クーロンは狼族が王となって治める古き国だ。その昔、この国の王は人語を解する狼そのものだったという。王は人との交わりを深くするために人の子から妃を娶りたいと思ったが、その神々しい狼の姿に人の子は恐れを抱き、妻となる娘が居なかった。王はたいそう悲しんだが、その悲しむ姿を哀れに思った神が、別の世界から1人の娘を遣わした。恐れを抱かぬ娘と狼の王は、一目で恋に落ちた。そうして、王はこの娘を王妃に迎え、自分にこの娘を遣わしてくれた神に深く感謝した。王と王妃の治める国は大いに栄え、立派な息子、娘達を多く育んだ。
以後、信心深い王の下に、時折、異界から娘が贈られる事がある…という。
だが、それはすでに伝説である。
最後に娘が贈られたと言われるのは、6代も前の完狼の王の下。
娘が贈られずとも狼族の王は代々国をよく治め、さらに様々な種族に国を開き、いまでは多くの人種が入り乱れて賑わっている。王妃も人や一族にこだわることなく迎えられている。しかし、それでも狼族の血は薄まることなく、王族には色濃く狼族の特色が現れる。
現在、クーロンに存在する王族は3人。
先代の王狼尾のコルベは、息子に代をゆずって悠々自適の隠居生活を送っている。
今代の王は狼耳のワールブルクという。
そしてもう1人。
狼頭のラングミュアはワールブルクの兄である。王という職務を選ばなかった彼はワールブルクに継承権を譲った後、長年諸国を旅していたのだが、この日、ワールブルクの戴冠5周年記念祭に合わせて帰国していた。
狼頭の将軍ラングミュア。
賢者の王ワールブルクの治世の元、後にその物語が伝説となる男である。
****
クーロン王城ホワイトサイズの奥の間。神に最も近いと言われる名の無いこの場所は、神殿よりも神聖な場所だ。歴代の神官すら足を踏み入れることが出来ない、王族のみが許されるこの場所には、浅い泉がひとつだけ存在する。
底板は磨かれた石のみであるはずなのに、常に美しい水が張られ、その水がどこから湧き出しているかは分からない。だが、枯れることなくこんこんと湧き出す泉は、息を潜めているとこぽこぽと小さな規則的な音を立てていて、心地よかった。
狼頭ラングミュアの気に入りの場所だ。
先代だの宰相だの乳母だの教師だの、口やかましい者達に追いかけられたとき、弟と一緒に必ず逃げ込むのがこの場所だった。剣と戦の技だけが自慢の自分に比べ、どう考えても弟のワールブルクの方が王に相応しく、政の面倒と王の仕事を押し付けたのは5年前。ラングミュアは国の要所の砦を視察し、兵の補強を考察するのが役目だ。…などと言いながら、自由気ままな生活を楽しんでいる。
戴冠5年祭に合わせて帰国し、帰国早々、王族直属の騎士団を作れ…などという仕事を任されそうになり、さて、どうしたものかとこの泉に逃げてきたのだ。まあ、悪い仕事ではないだろう。王の仕事が面倒だというだけで、王族としての責任感が無いわけではないのだ。
ラングミュアに現出した狼族の特色は、狼の頭だ。胸板から頭にかけて青灰色の毛皮に覆われ、その頭は人の形を成していない。腕を組んでごろんと床に寝そべったラングミュアは、薄青色の瞳を閉じる。くあ…と口を開けると鋭い犬歯が覗き、ふさりとした耳がぴくんと動いた。
式典は終わり宴が始まっている。さまざまな種族が入り乱れるこの国の宴は、華やかで楽しいものになるだろう。そうは思うが、ラングミュア自身は貴族の華やかさはそれほど好きではない。どちらかというと、粗野な兵士たちが酒を飲んでバカ騒ぎするのに付き合うほうが、気楽だった。自分にしなだれかかってきた女を連れ出してはみたものの、貴族令嬢の割りに娼婦のような大胆な女の動きに興が乗らず、そこらの男に任せ、自分は1人で宴を抜け出してきたのだ。
しかしそうそうのんびりもしていられない。そろそろラングミュアが居なくなったことに気付き、王城の者達が探し始めた頃だろう。行くか…と意識を浮上しかけたとき、それは起こった。
バシャン。
ぶくぶくと人が溺れるような泡を吐く気配。
静寂。
…静寂?
「おい、まずいんじゃねえのか…。」
人の溺れたような気配と静寂。静寂するのはまずいだろう。跳ねるように身体を起こしたラングミュアは、念のために腰の剣に手を掛け、服が濡れるのも構わず泉の真ん中へと入っていった。
泉はそれほどの深さは無い。ラングミュアの膝にも届かない程度である。その浅い水の中に、黒い何かがいる。いや、黒い…と思ったのは髪のようだ。象牙色の肌をして騎士服を簡素にしたような、奇妙な衣装を着た、腕も足も細い女がそこに沈んでいた。
何者かと思う前に身体が動く。浅いといっても意識の無い人間をこのように沈めていては、当然のことながら無事では済まされない。躊躇うことなく女を横抱きにして水から上げ、泉の岸へと運び、横たえた。
そっと扱ったつもりだが、硬い床の上に後頭部が当たった瞬間、不快そうに眉根がひそめられ瞳が開いた。痛かったか、どこか打ったのか?と問う前に、黒い瞳と視線が絡んだ。途端に、女が…どうやら微笑んだようだ、…ほう…とため息を付いて、ぎゅうと首に抱きついてきた。
「な…。」
泣く子も黙る狼頭のラングミュアも所詮は男。唐突に女に抱きつかれて、一瞬反応が遅れた。というか、つられて女の背に手を回してしまった。抱き合うような形になったのはほんの僅かの間で、話しかけようと口を開きかけると、首に回された手が解ける。ずるりと女の身体が崩れ、ラングミュアが支える手に身を委ねた。
「お、おい、待て。お前…!」
頭を床につけないよう抱えるように身体を支えて呼びかけるが、女は全く呼応しない。どうやら気を失っているようだ。
「なんだってこんなことに…。」
ラングミュアは舌打ちしそうになりながら女を見下ろす。黒い髪は水を含んでいて、一層黒く見える。濡れた服は身体のラインをはっきりと現している。白い薄布ごしに肌の色が分かる程度に肌に張り付いていて、気を失っているからとはいえ、無抵抗に身を投げ出している様子が妙に艶かしい。ラングミュアは狼の瞳を獲物を眺めるように細めると、親指でそっと女の柔らかな唇をなぞってみる。そのまま指の背を頬に滑らせ、張り付いている髪の毛をぬぐってやった。
身体が冷えている。
ラングミュアはマントを脱ぐと、女の身体に巻きつける。横抱きにして、立ち上がった。
王族しか立ち入ることの出来ない、奥の間の泉に沸いて出た女。これが為す意味は…一つしかない。クーロンの王族なら…いや、クーロンに住まう者ならば誰もが知る伝説だ。
「厄介なもんを…。」
今度こそ大きく舌打ちして、ラングミュアは早足に奥の間を後にした。
****
「兄上! やっぱりここに隠れていたのですね。まったく…!」
宴の途中で女の肩を抱いて消えたと思った兄を探して、若い国王ワールブルクは奥の間の入り口で兄の姿を見つけた。途中でラングミュアに放り出されたらしい女は、他の男と懇ろになっており、兄の行方は分からない…という。こういうときに兄がいるのはたいてい奥の間だ。神聖な場所だから…と神官達は奥の間への出入りにいい顔をしないが、この場所は実に落ち着く場所で、兄弟たちのいい休憩場所になっている。
狼耳ワールブルクに現出した狼族の特徴は、丁度人の顔でいえば耳があるだろうすぐ上の辺りから、ぴょこんと出ている狼の耳だ。予想通りというか、兄の姿を見つけた弟は…だが、常とは違う兄の様子に、警戒するように耳を裏返した。
「兄上…その女性は? 連れ込んだ、というわけではなさそうですが。」
「流石の俺も奥の間に女は連れ込まん。」
「まさか…。」
「そのまさか、だろうな。」
「ということは…兄上の?」
「おいおい、冗談じゃねえぞ…。」
なぜか、パア…と顔を輝かせた弟王を睨みつける。だが、そのような恐ろしい視線もものともせず、ワールブルクは王としてはまだ若い、少年のような顔に輝くような笑顔で言い放った。
「ということは、兄上! とうとう兄上も覚悟を決めたのですね!」
「何がだ。」
「伴侶が遣わされたということは、神が認めた証ですよ。誰が何と言おうとも!」
「黙れ。あれは伝説だ。」
「伝説も何も。こうして目の前に現れたじゃないですか、覚悟を決めてください。」
「キメねえよ!」
「やあ、神が娘を遣わす…というのは本当だったのですね。それにしても信心深い証ですね兄上! だからこそ、兄上が…。」
「誰が信心深いって?…ワールブルク、その軽い口を沈められたいか。」
「兄上が、王になるとやっとお心を決めて…、いだっ!」
バスッ!…と鈍い音がして、ワールブルクの腰ががくんと落ちた。ラングミュアがワールブルクの膝の裏を蹴ったのだ。
「お前が政治、俺が軍事。それは親父も納得済みだろうが。話は後だ。とりあえずこいつを介抱するから、部屋を用意してくれ。」
チッ…と舌打ちした瞬間、愛らしいワールブルクの顔が腹黒くなった。「えーえー分かりましたよ…。」とぶつぶつ言いながら、ワールブルクとラングミュアは奥の間の前から立ち去った。
****
柚子は夢を見ていた。
『おまえは1人でも生きていけるから。』
『どうせおまえは俺なんか必要としていないだろう。』
『おまえは強い。』
だから。
『あいつには俺が必要なんだ。だから、別れてくれ。』
もう言われ慣れた。
そう言われ続けてきたから、自分なりに結構がんばってきたけれど。
もうそろそろ、頑張るのをやめにしたい。
そう思って瞳を開けると、
そこには昔実家で可愛がっていた犬が居た。
そっか。そうだね。いつもお前は分かってくれていたよね。
そう思って、ぎゅ…と温かな首に抱きつく。
この首周りのふかふかが大好きなのだ。頬擦りをするように、頬を毛皮に埋める。
そうしていると再び眠くなってきて、柚子はもう一度目を閉じた。
しばらくたって意識が戻ってくる。
傍らで聞こえる人の声と、ずきずきと痛む後頭部。
口を開こうとすると、喉が渇いてくぐもった声しか出ない。
「う…ん…。」
眠気なのか気だるさなのか瞼も身体も重い。それでも無理して瞳を開けると、見知らぬ天井が視界に入った。
どこだここは。
そう意識が反転したときに、ぬ…と誰かが自分を覗き込んだ。その覗き込んだ顔を見て、柚子は驚愕する。同時に胸に落ちてくる温かい思いと、懐かしさ。ああ。夢だと思っていたのに、夢じゃなかったんだ。
その顔に、躊躇うことなく柚子は抱きついた。
いいにおい。お日様の匂いがする。
「為五郎…会いたかったよう。」
「は? タメゴロウ?…って、おい、待て…」
「おお、この積極性! 兄上、やはりこの女性は運命の…。」
「違うだろうが!っていうかなんなんだ離せおい、どこ触って、待て! 女! 女ああああああ!」
「もうずっと一緒に居て。ずっと側に居て。」
「待て、待て待て待て待て待て待て!」
「兄上、一緒に居てと仰っているではありませんか兄上! やはりここはひとつガバーっと! 大丈夫、僕は外に…」
「ワールブルク黙れ話がややこしい!」
何か、男の声が争ってるような気がするけど気のせいだろう。気のせいというか、うるさい。
どうでもいいけど、ほんっとに後頭部痛い。
その痛みで、いよいよ、柚子は覚醒を果たした。
「ううん…いった…あたまいた…。」
それは頭痛という類ではなく、どうも打ち身とかそういう類の痛みだった。柚子は今度こそきちんと明確な意思を持って目を開ける。そして、視界に入ったのは。
「為五郎?」
「俺はタメゴロウじゃないと言っているだろう。」
…そうは言っても、どこからどう見ても為五郎にしか見えなかった。
しかし、為五郎と決定的に違うのは、服を着ている…ということだ。どう見ても為五郎そっくりの頭(胸あたりまでふかふかの上等な毛皮だ!)に、軍服めいた立派な服。ぴたりと身体に沿うような形に包まれているのは、見事な男の身体の人間。
為五郎が服を着ている。
もしくは、為五郎が人間になった?
「た、…為五郎、人間になっちゃったの…?」
「だから、さっきからなんなんだタメゴロウっていうのは。お前の男の名か?」
「や、何言ってんの為五郎。」
再び、まじまじと為五郎(仮)を眺める。やっぱり為五郎だ。しかしなぜこんなところに為五郎が…? よくよく思い出せば、柚子は確かつきあっていた男ともみ合いになって階段から落ちたはずだ。柚子は後頭部を触ってみる。
「いった…。」
「…大丈夫ですか?」
為五郎らしい野太い声とは全く異なる、澄んだ男の人の声が聞こえる。柚子が頭を上げると、蜂蜜色のくるくる髪に同じ色の犬の耳が生えた天使のような綺麗な顔の男が、心配そうに柚子を覗き込んでいた。綺麗な顔+犬耳。全く好みの顔ではないが、柚子の美的センスが、こいつぁ本物だぜ…と訴える。
「やっぱり…そうか。」
この後頭部の痛み。為五郎が人間でしゃべっている。そして犬耳の天使。…なんだか水に落ちて助かった…って気分になったような気もするんだけど、結局助からなかったのか。そしてここはきっと天国。人間の男なんてなんぼのもんじゃいって思った柚子に与えられた最後の楽園に違いない。…なんで犬なのかは分からないけれど、きっと神様が私の願望を叶えてくれたんだ。大好きな為五郎。最後に人間になった為五郎と話ができるなんて…と、柚子はたいそう幸せな気分になった。
「おい、大丈夫か。頭、まだ痛いのか?」
為五郎が心配そうに(見える)瞳で聞いてきた。綺麗な冷たい薄青色の瞳はやっぱり為五郎だ。柚子は悲しげに笑って、為五郎の頬に手を伸ばした。
「為五郎。私、死んじゃったの?」
「は? おい、落ち着け。死んでない。なんなんだ、お前。もしかして、ここに来た理由が分かってないのか?」
「いや、そんな慰めいらないの。死んじゃったんでしょう?」
「死んでねーよ! 少なくとも、グリマルディでは死んでいない!」
「ぐりま、なに?」
「グリマルディ。」
「やだ。為五郎、しゃべれるようになってもかっこいいね。」
「か…」
為五郎の毛がぼふんと逆立って、犬耳天使がニヤニヤ笑った。
「お前は何を言ってるんだ! だから、タメゴロウっていうのは誰なんだよ!」
「アラスカンマラミュートって犬。」
「俺は犬じゃねえ!」
いや、犬だろどう見ても。
つまり、柚子はまだ混乱の最中にあった。
****
説明には一日を要した。
この世界について。獣人を始め、様々な人種が存在すること。クーロンという国について。クーロンの王族と王族に現出する狼族の特色。
そして、時折神から遣わされるという女の存在。
納得には3日を要した。
そして。今。
「んっふ…為五郎…。あったかーい。」
「おい。」
「顎の毛皮もふもふだねえ…。」
「おい、ユズ。」
「ほっぺたの毛皮はここかなあ…。」
「ちょ、マテ、待てっていって…」
「うふん…あったか。」
「ユズ、寝るな起きろ!」
「んあ。」
ラングミュアは寝ぼけて自分の頭に擦り寄ってくるユズを引き剥がした。強引に引き剥がされ、ユズの形のよい眉が歪む。ううん…と瞳を一度固く絞って、ゆっくりと開いた。黒く潤んでしぱしぱと瞬いている瞳で、ユズは可愛らしく首を傾げてラングミュアを見ている。
「ラング? なんでここにいるの。」
「…また寝ぼけているのか。」
はあ…と溜息を付いて、起き上がる。
ユズがこの世界に来てから半年が経った。
本人たちは納得していないものの、ユズの身柄をクーロンで保証するために、ユズはラングミュアに与えられた神からの贈り物…とされているのだ。贈り物であるから、当然ラングミュアの所有になる。それゆえ、ラングミュアの側近くに置いている。
ユズはラングミュアの住まう居室の一角を与えられている。ただし寝室は別々。ラングミュアの寝室のとなりにユズの寝室を作らせ、扉一枚で行き来できるようにした。本当は寝室を一緒にするよう国王ワールブルクから勧められたが、2人とも断固拒否。…したくせに、ユズは毎晩毎晩ラングミュアの寝台で寝ている。そして寝ぼけては、ラングミュアの毛皮を堪能し身体を摺り寄せてくるのである。
伝説の解釈によれば、娘を贈られるのは「王」…とある。だが、ラングミュアは王ではない。王になる予定もつもりもない。…にもかかわらず、贈り物は自分のところに沸いて出てきたらしい。この出来事は伝説の解釈に新説を加えるべく神官を騒然とさせ、王位を兄に譲りたいワールブルクの腹黒度合いを増長させ、父のコルベは可愛い娘が出来たと母と2人喜んでいる。
しかし名実共に自分の妃にするつもりは、ラングミュアには無い。
「さっさと起きろ。侍女が来るぞ。」
「ん…。」
「まだ寝るのか?」
「んーん…起きる。お風呂。」
むくりと起き上がり半眼を擦りながら、裸足のままぺたりと床に降りて、上着も羽織らずに浴室へと歩いていく。色めいた雰囲気の微塵も無いその後姿に溜息を吐きながら、ラングミュアも起き上がった。
別のところも起き上がった。
「…。」
断じて、妃にするつもりはない。ないったらない。
反応してるのは朝だからだ。ちくしょう。
****
新設した騎士団に所属する騎士たちの指導をしつつ、ラングミュアは不機嫌だ。先ほどまで、弟であるワールブルクがいたのだが、いつものとおり「ユズとの婚儀はいつにしますか?」とか、「いっそ子を先に作っても…。」などと、たいそう嬉しそうに煽って帰っていった。
ワールブルクはラングミュアを王にしたいらしい。…政が得意な自分は宰相で充分…などという。だが、父コルベとラングミュアの意見は異なる。父コルベは武に長けた王だ。その前の祖父も戦を得意としていた。2代、武を得意とする王が続いたのだ。次の世は安定と穏やかさを形にしていかなければならない。それが父とラングミュアの意見だ。
武の代ならばラングミュアの逞しい身体も、剣の腕も、そして狼族を現す狼頭もよい象徴となっただろうが、民が求めるものは平和な時間だろう。ラングミュアは自分の見た目…狼の薄青色の鋭い瞳と鋭い犬歯が…民に恐れを抱かせることを知っている。
だから、普通であれば王の伝説となっただろう贈り物の娘が自分の下に来たのは、はなはだ迷惑な話だった。そのせいで、王にさせられる…ということは無いだろうが、ワールブルクの王としての地位を揺るがすわけにもいかない。
…というのは言い訳だ。
本当は、あの、妙に飄々としてつかみどころの無い不思議な女に心惹かれている。ユズは変わっている。自分の狼頭を可愛いといっては愛で、あたたかいといっては抱きついてくるのだ。牙を剥いてやったときなど、怖がるどころか「牙だ! うわー、牙だ。見せて。」と言いながら、口を無理やり開かされたのには参った。男として「可愛い」という評価を受けるのは甚だ気に食わない話ではあったが、毛皮を撫でられるのは悪い気分ではなかった。そう。悪い気分ではないことが、これまた腹立たしい。
腹立たしいことは他にもあった。自分が心惹かれているにも関わらず、恐らくユズはラングミュアのことを男として見ていない。王族や狼族の関係を説明した後は、決して「犬みたいだ」とは言わなくなったが、最初はラングミュアのことをユズが仲良くしていたという「タメゴロウ」という犬に間違えていたらしいのだ。
そして今では、寝ぼけて寝台に入ってきては、ラングミュアのことをタメゴロウと間違えて抱きついてくる。
ならば1人で寝ろと言って突き放したこともあったが、そう言うといつもは気丈なユズが傷ついたような顔をして、その表情になぜかラングミュアも強く言えなくなってしまった。考えてみればユズはこの世界とは全く異なる世界から、何の説明も受けずに突然連れて来られたのだ。それなのに「1人で寝ろ」と突き放すのは、ひどく罪悪感を伴った。別にラングミュアが悪いわけではないのだが。
それ以降、「眠れないときだけだ。」…といって許可したら、何故か頻繁にやってくるようになったのだ。どうも夜中に起きては、部屋を間違えてしまうらしい。とても眠れていないようには見えないが、「タメゴロウ」…と愛しげに呼ばれると、腹の立つ反面、哀れにも思えてくる。時折寝ぼけては「タメゴロウ会いたいよう…。」とか「タメゴロウずっと一緒に居て。」とか言われると、ユズの孤独さが一際心に刺さるのだ。
年端のいかない若者ではないとはいえ、ラングミュアも男だ。ユズを欲しいと思わないわけではない。触れる身体はまろやかな曲線を描き、その身体を抱きたいと思うことは度々あった。心惹かれていることを自覚しているから尚更だ。まして、薄い夜着で頻繁に寝台にもぐりこんでは身体を摺り寄せてくる。よくもまあ、半年も我慢したものだと思うほどだ。
だが、ユズに必要なのはタメゴロウという愛玩犬であって、ラングミュアという狼頭の男ではない。
そう思うと、狼頭のラングミュアにユズを無理やり自分のものにするなどという、馬鹿げた真似は出来なかった。
****
ラングミュアが夜半に部屋に戻ると、また自分の寝台でユズが寝ていた。
やれやれ…とため息を吐いて、ユズに上掛けを掛け直してやる。自分はソファにでも横になるかと、寝台から離れようとした。そのときだ。
きゅ…と、上掛けを掛け直した自分の手をつかまれたのだ。
なんだ? と思って見下ろすと、眠ったユズが上掛けの中から手を伸ばしてラングミュアの腕を抱えようとしている。またか…と内心2度目のため息を付いて、そっとその手を外そうと指を掛けた。
「ラング…ラングのバカ。」
「は?」
「…ないで…。」
「ユズ?」
「いかないで…。」
ラングミュアの動きが止まった。
「なんで…1人でって…」
何の話だ。
「おい、ユズ、何の話…」
ラングミュアがユズの声を聞き取ろうと、狼耳をひっくり返し鼻先を近づけた。すると、いつものようにぎゅっとではなく、そっとしがみつくようにラングミュアの首もとの毛皮に触れてきた。
「おい、ユズ、また寝ぼけてるのか?」
「ん…。ラング…らんぐみゅあ…」
「な…。」
甘えるように自分を呼ばれたのは自惚れだろうか。それほど力を入れられているわけではないのに、やめろと振りほどくことが出来ない。ラングミュアは、仕方なく、そっとユズの隣に身を寄せる。自分は狼頭のラングミュアだ。新設された騎士団の新たな将軍であり、クーロン国の王兄であるというのになんという無様なことだろう。
「ユズ?」
静かに呼びかけてみると、ほっとしたように笑んで、やはり常のように強引に抱きつくわけではなく、毛皮の端に遠慮がちに頬寄せてきた。ラングミュアは近づいた体温に誘われるように、ユズの身体に腕を回した。抱き寄せるように顔を近づける。花のようなよい香りは、貴族の女たちがつけているようなきつい香水ではなく、風呂上りの香りだろう。ユズは、いつも「あったかい」と言いながらラングミュアのことを心地よさそうに抱き寄せるが…。
「なるほど。」
確かにあたたかい。
自分の名を呼ばれたのが何故なのかも気になったが、ユズの身体のあたたかさは抗い難く、ラングミュアも狼の瞳をそっと閉じた。
****
「……。」
目が覚めると、何故かラングミュアの腕の中に居た。
「ラ…」
ラングミュア…と呼びそうになって、ユズは口を閉ざした。恋人の胸元にすがりつくように、きゅ…と首筋の毛皮にしがみついて、そしてその手を緩める。
「ユズ…? 起きたのか?」
低い声が耳元で響いて、頭を撫でる男の手を感じた。ユズの頬に朱が登り、胸が熱くなる。だが、ユズはそれを隠すように大げさにラングミュアの首に頬すりした。
「…為五郎の喉、ふかふかー…。」
「おい。」
撫でる手が止まった。それを残念に思いながらも、ユズは眼を閉じたままラングミュアの肩に乗るように身体を摺り寄せる。いつもは引き剥がされるが、何故かその日は引き剥がされず、困ったようなラングミュアの声が聞こえた。
「ユズ、起きてるなら離れろ。」
もうすこしだけ。
ユズがラングミュアの首筋と肩の境目のふかふかに頭を乗せた。妙に座りのいい具合に思わず溜息を零すと、ラングミュアも長く息を吐いた。
「寝ているのか?」
「んー…。」
寝たふりだ。
やがて諦めたように、ラングミュアがユズを呼ばなくなった。その代わり、ユズを肩に乗せたまま、離していた腕をユズの身体に回す。その心地よさと、引き剥がされなかった安心感に、ユズは大人しく収まった。
寝て起きて、いつも隣にいる狼が為五郎ではないことくらい、知っている。
ユズがこの世界に来て半年が経った。
最初は受け入れ切れなかった現実も、3ヶ月もすぎると諦めに変わる。そうして半年を過ぎた頃、流石に現実を受け入れた。
あのまま自分は頭を打って、死ぬ運命だったんだ…と思うことにした。
だけど思いのほかつらかったのは、元の世界に戻れない…ということに加えて、この世界で1人…という孤独感だ。だが、それは周囲の人に徐々に溶け込むことによって、上手く折り合いを付けられるようになったと思う。
それでも、1人の夜はいろいろなことを思い出してしまう。
ラングミュアの寝台に間違えて入ってしまったのは、最初は確かに寝ぼけてしまったからだ。なにせ、鍵も付けていない隣の部屋…というのがいけない。ラングミュアの体温が為五郎を抱いて眠ったときの温かさによく似ていて、心地よかったのは本当だ。一番最初に為五郎…と呼んでしまったのも本当。
けれどユズはちゃんと知っている。
ラングミュアは為五郎じゃない。誇り高い狼族の王兄で、力強い腕と逞しい身体を持っていて、とても綺麗で凛々しい狼頭の、男だ。
ユズがそんなラングミュアの寝台にもぐりこむたびに、為五郎と間違えるフリをしてラングミュアに抱きつくのは、ラングミュアの体温が、自分にどれほど安心を与えてくれていたのか、それを自覚してしまったからだ。その自覚がどういう意味を成すのか。
最初は戸惑った。明らかに為五郎(アラスカンマラミュート♂5歳)と同じ顔の、男にこんな感情を抱いてしまうなんて…と。でも、もし自分が一生このグリマルディで生きていくのだとしたら…この人の側に居たい。
幸いなことに、自分はラングミュアに贈られた贈り物…という扱いらしい。側に居るのに障害はなく、城の人たちも歓迎ムードだ。
そばに居たい。
しかし、当のラングミュアには全くその気が無い。
なんだか、女として見られていないようで寂しかった。やはり自分が人間だからなのだろうか。
そんなラングミュアだったが、為五郎と間違えてるフリをしたときだけは、ユズを寝台から追い出さないのだ。だから、いつも「為五郎」の側に居るフリをして、ラングミュアの側に居る。だって、そうしなければ「1人で寝ろ」と言って寝台を追い出されてしまう。当たり前だろう。ラングミュアにとっては恋人でもなんでもない年頃の女に、寝台にもぐりこまれるなんて。
もうそろそろ、寝台にもぐりこむような真似は止めたほうがいいと分かっていた。でも、この体温はすごく離れ難くて。
だから、お願い。もうすこしだけ。
****
今日もまた、朝起きたらラングミュアの隣にはユズが眠っていた。無性に腹が立ったので、耳元をべろんと舐めてやる。
「あふ…ん。くすぐったいってば。」
びくんと身体が揺れて色っぽい声をあげたものの、動じないのがやっぱり腹立たしい。
ユズにとってはやはりラングミュアはタメゴロウの代わりでしかないのか。もうこのまま押し倒してやろうか…そんな投げやりなことを思っていると、油断していた。
「耳…耳の毛皮。」
「…ちょ、変なところに、さわ、触るなユズ!」
「んんー…?」
いつものとおり、ラングミュアの寝台で眼を覚ましたユズは不機嫌そうに眉を寄せた。
「ラング? なんで?」
「だから…。」
はあ…と溜息を付いて、ラングミュアはユズの冷えた肩に上掛けを掛け直してやった。
「おいユズ。」
「ん…。」
「そんなにタメゴロウがいいのかよ。」
「ん?」
「いや…なんでもねえ。」
思わず言ってしまって、しまった…という声になった。これではまるで、誇り高い狼族の王兄が犬に嫉妬してしまったかのようではないか。そのような気持ちを知ってか、知らずか、枕に顔を埋めるようにユズが切なげに答えた。
「あのね…為五郎、おっちょこちょいで…いなくなってしまったの。」
「あ?」
「見つかったときには血まみれで…。」
「な…。それで、まさか…」
「や、怪我してたけど今は治って実家でぴんぴんしてる。」
「あのなあ!」
んふふー…と笑いながら、ユズがラングミュアに擦り寄ってきた。
困ったように、ラングミュアがユズの身体を抱き寄せる。
ああもう、まったく。
この生殺し状態、一体いつまで続くのか。
だけど、このあたたかさの側で眠るのはなんて心地よいのだろう。
そう思ったのは…さて、どちらだったか。
後に、王で無いのにも関わらず、神から贈り物を贈られたクーロンの王族として伝説になる狼頭の将軍ラングミュア。
伝説は、新たな解釈を生んだ。
神から贈られた娘は王のものではなく、クーロンという国で幸せになるべき女性が落ちてくるのだ…と。
けれども、今はまだ、ユズ…というか弱い女に翻弄される、一介の男である。
目下のライバルは、為五郎(アラスカンマラミュート♂5歳)
ただ、2人の寝室が1つになるのは近い…かもしれない。