キスの日小話。
「サティ、サティ、どこだ。拗ねてないで出てきてくれ」
ピウニー卿は泣きそうな顔で、自宅の中をあちこちをうろうろしていた。2人で選んだ居心地のいいソファに置いたふかふかのクッションをまくり、結婚の祝いに理の賢者から貰った壷をひっくり返して振る。食堂の食器棚を開き、客間のローテーブルの下を覗いた。
サティ、というのはオリアーブの騎士ピウニー卿の妻である。
何度も一緒に旅をした愛らしい魔法使いである彼女は、時々ピウニー卿の予想もつかないような可愛い事で拗ねて、寝台の下に隠れたり、クッションの奥に潜り込んだりしてしまう。
しかし、その拗ねる理由が可愛らしく悪意の無いものだから、ついついピウニー卿も許してしまうのだ。
「サティ」
ピウニー卿の声が甘く低くなった。みつけた、という証拠だ。サティのお気に入りの書庫の読書台の影から、ゆらゆらとセピア色の尻尾が揺れている。そうして、その声を聞いて見つかった、と分かったのだろう。尻尾がひょこりと読書台の後ろに消えて、代わりに小さな猫の顔がそうっとこちらを伺った。
「ピウニーのバカ」
「……いつも俺の腹がふとましいと言っているのは誰だ」
「女の子と、男の人とは違うの」
ぐるう……とサティが喉を鳴らしたが、ピウニー卿には愛らしい声にしか聞こえない。今日のサティの拗ねた理由は、ちょうど猫になったサティのお腹回りのやわらかみを撫で回し、「ちょっとやわらかくなったかな」とうっかり口を滑らせてしまったことだった。
妻の可愛い威嚇に顔がにやけるのを堪えながらピウニー卿は読書台のそばに座り込んだ。抱き寄せるように両手を広げると、のそりとセピア色の猫が出てきて、ぴょんと飛び上がる。
ピウニー卿はサティの身体を受け止めて、ほう……と溜め息を吐いて抱き締める。あたたかくてやわらかい猫の毛皮に頬擦りをして、抱いたまま立ち上がった。
セピア色の毛皮を持ち上げて、伸びた猫の身体に困った顔をする。
「さて、サティ。そろそろご機嫌を直して、哀れな夫に口付けのひとつもくれないか?」
「もうお腹のこと言わない?」
「サティが言わないなら」
くっくと笑いながら、ピウニー卿が眼を閉じてサティに顔を近付けると、唇にざらりとした舌の感触を覚えた。
「これだけか?」
「これだけ!」
ピウニー卿の腕を蹴って、サティの身体がひょいと無くなる。軽やかな身のこなしで腕の中から消えた重みを振り向くと、妻は小さな猫の身体を翻して、書庫を出て行く。行き先の予測はつく。ピウニー卿はゆっくり歩いて寝室に向かうだけだ。
じっくりと時間を掛けて廊下を歩いて、寝室の扉をノックすると、ゆっくりとそれが開く。
きっとサティは機嫌を直しているだろう。ピウニー卿はサティの身体を引き寄せて、セピア色の髪を撫でた。顔を下ろして唇を求める。猫の身体も悪くはないが、キスをするならこちらのサティの方がいいに決まっている。