窓の外に視線をやると、その夜空には鋭い月が浮かんでいて、周囲には星が撒かれている。どことなくその輝きがきつく硬質に見えるのは、空気が切れるように冷たいからだろう。硝子に少し近付いてみると頬に僅かの冷気を感じるが、室内の熱気にあてられた身体にそれは心地よい。
外の空気とは相反して、室内は暖かく賑やかだ。しかし華やかさはない。気心の知れた者や世話になった者を招き、温かな料理と美味い酒に興ずるというこじんまりとした集まりだった。
その集まりの中心にいるべき人物は、今、大きな硝子窓の近くに凭れ掛かって室内の気温に温まった頬を冷やしていた。
ジャンティーレ・マッツェリア。エスクウェリア王国マッツェリア侯爵家の嫡男であり、つい先日まで国境にあるウィミナリス砦の調査に派遣された兵士達の、指揮官の副官を勤めていた男だ。19歳という若さで任務を任されたジャンティーレは指揮官をよく助けた。兵士達は幾度かあった小競り合いの全てに勝利を収め、周辺の遺跡などの調査を行い、さらに兵士達への指導を含めて一定の成果を得ている。砦の調査は1年。任期を終えたジャンティーレは、兵士達と共に帰還した。今日はその帰還の祝いと、20歳になった祝いの日である。
若くしてその戦いぶりは今宵の冬の空気の如く冷たく鋭利で、士官時代からの友人であるエヴァンジェリスタ・フェルミ伯爵家嫡男の勇猛果敢さが虎であるならば、ジャンティーレの狡猾さは豹であると渾名された。黒い髪に黒い瞳、全てを見透かすような鋭くきつい視線に、薄く引き締まった唇。すんなりと整った長身の線はしなやかで、軍靴を履いて大理石の上を歩いていても足音をさせない軽やかな身のこなしの男だ。
侯爵家の嫡男でありながら社交の重要な時期を兵士として過ごしていたため、いまだ誰とも浮き名を流していないが、凱旋したその姿は、既にエスクウェリア王国貴婦人らの噂の的であった。あの黒い貴公子の隣に並ぶべき淑女は一体誰なのであろう、と。
もっとも、その華やかな経歴とは裏腹に本人は至って慎ましく、今日の祝いの日もまた大げさな席を設けるのをジャンティーレは辞退した。本来ならこうした祝いすら不要と両親にはあらかじめ言っておいたのだが、それでもこの会合が開かれたのには理由があった。
その理由を思い出し、今宵の主人公ジャンティーレは、ふ、と息を吐く。
しかし、古くからの馴染みの客が若き貴公子ジャンティーレを祝福しにわざわざこうして足を運んでくれているのだ。憂いた顔を見せる訳にもいかない。再び、挨拶に部屋を一周しようか……と視線を巡らせた時、ジャンティーレは1人の少女に目を留めた。
室内の皆に料理は行き渡り、食後の酒が振る舞われているところである。マッツェリア家の執事自ら主要な客へと給仕を行い、あまつさえその執事が1人の少女に小さなグラスを渡していた。
小さなグラスにはとろみのある黄色い液体が入っている。ほんの一口か二口で飲み干せるほどのそれは侯爵領で取れたレモンを使った果実酒で、凍らぬほど度の強い酒だ。それを12、3歳に見える少女が受け取り唇を付けようとしていた。
「待ちなさい!」
後口がよく飲みやすいとはいっても、ストレートで飲めば大人でも一口でくらりと喉が焼ける酒だ。それを年端もいかぬ少女に飲ませるなど、家の執事は何をやっているのか。ジャンティーレは慌てて少女のもとに駆け、グラスに手を伸ばした。
しかし、間に合わずに少女がこくんと一口飲み込む。それを無理矢理奪い取り、勢い余ってしゃがみこんだジャンティーレの膝に残りがこぼれた。
しん、……と会場内が静まり返る。
しかし、そんな静まり返った様子に気付くことなく、ジャンティーレはおろおろと少女の顔を覗き込んだ。少女は、目をぱちくりと瞬かせてジャンティーレを見詰めている。
「君、一口飲んでしまったのでは? 大丈夫か?」
「……あの」
「おい、ロリス! 何をやっているんだ。このようなお嬢さんに酒を勧めるなど」
「あの、ジャンティーレ様」
「大丈夫か? 今水を……ロリス、水を」
「ジャンティーレ・マッツェリア様」
会場内の全員が、呆気にとられた顔でジャンティーレを見つめている。執事のロリスですら、一体何を言っているんだこの人は……という表情だ。
「……おい?」
さすがにざわついた会場内の空気に気付いて、ジャンティーレが顔を上げると、蜂蜜のような色の大きな瞳がジャンティーレの黒い瞳を見上げていた。
そうして、幼い唇から紡がれたとは思えないほど、凛とした芯の強い声でジャンティーレの名前を呼ぶ。
「ジャンティーレ様、お膝が」
ぽん……と白い美しいハンカチで、少女がジャンティーレの膝を拭いている。おかしな空気に気が付いて会場を見渡すと、ジャンティーレの友人エヴァンジェリスタ・フェルミが、ニヤリと口角を上げた。
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マッツェリア家の客間に2人の男が座っている。1人は金髪の男で気心知れた風に足を組んでおり、もう1人はこの世の終わりを悲しむかのように両手で顔を覆っていた。短い黒髪の隙間から見える耳が、ゆでた蛸のように赤くなっている。
黒い髪のゆで蛸の方が、もごもごと何か叫んだ。大きな声だが顔を手で覆っているので言葉はどうにもくぐもっているように聞こえる。
「どうして全員何食わぬ顔で黙っていたんだ!!」
「……いや、誰かがお前に教えたと思っていたんだがな」
「俺は聞いてない、聞いてないぞ!」
先ほどから頭を抱えては赤い顔で同じことを繰り返し叫んでいるジャンティーレに、いささか悪戯が過ぎたかとうんざりしているのは金髪の男エヴァンジェリスタ・フェルミだ。フェルミ伯爵家嫡男である彼は、士官候補時代からの同い年の友人で、彼もまたジャンティーレと並ぶ騎士の1人だ。祝いの席に呼ばれたエヴァンジェリスタは、1人の女性をエスコートして今宵の席にやってきていた。
その女性……というのが、実はジャンティーレの見合いの相手である。
砦の副官という任務を終えたジャンティーレは侯爵家の嫡男だ。20歳を迎えた今、当然のように両親は彼のために見合いの席を整えようと息巻いていた。
任地に居る頃、親の手紙で既にそれを知っていたジャンティーレは、まだそんなことは考えられないから……と何度も断っていたのだが、見合いを受ける気になったのは、相手の名を聞いたからだ。
見合いの相手はルクレツィア・フェルミ。……友人エヴァンジェリスタの1つ上の姉である。ジャンティーレは会ったことは無いのだが、実はその名前はよく知っていた。任地に居る頃に何度か手紙のやり取りを交わした相手だったのだ。
ジャンティーレが砦の調査に着任したおり、その地方の歴史や特徴について勉強している……とエヴァンジェリスタに手紙でこぼした事があった。それを聞いたエヴァンジェリスタが、歴史と文化の研究をしている女性を紹介してくれたのだ。その女性がルクレツィアだった。
ルクレツィアはジャンティーレが赴任している地の歴史や地形、文化についてよく調べ、参考になるような資料を送ってくれた。それをきっかけに2人は文通をするようになったのだ。首都での出来事や季節の関心事、情勢なども的確に交え、ジャンティーレの身を心配する言葉を添えてくれる。変に甘く無い文体と、すっきりとした上品な文字は男だらけの砦で勤めるジャンティーレの癒しだった。
どのような女性だろうと常々思っていた。そうして、手紙だけと分かっていながら、若いジャンティーレはルクレツィアに恋心に似たものを覚える。
ジャンティーレの想像からするに、友人のエヴァンジェリスタが大柄で逞しい肉厚な男であったから、ルクレツィアもまた上背の高い華やかな女性なのだろうと思っていた。品の良い文字とそこに混じるジャンティーレへの思いやりの言葉に、女っ気の無い若い男は憧れと夢想と妄想を抱いていたのだ。
その夢想と妄想は1年に渡る砦での禁欲生活の中で膨張し、手紙に落とされた香水の香りだけで夢想に耽っ……、実際に夢想に耽ったのはそれほどの回数ではない、と言い訳をしたいが……正直言えばかなりの回数、抜……右手を使った。エヴァンジェリスタに言ったら殺されるだろう。
そんなジャンティーレに、自分の見合いの相手がルクレツィアだと知って断る事が出来るだろうか。いや、出来ない。それどころか、女を知らない男が金を握りしめて初めて娼館に行く時のごとく、緊張と期待でやはりいろいろと膨張した。ちなみにジャンティーレは黒の貴公子と呼ばれるほどの見目と地位にある男だが、好きな女しか抱かないと決めていたので、金を握りしめて娼館に行った事も無く、形式的に女性をエスコートする術に長けてはいても恋をしたことがなく、ましてや女を口説いたことも無い。しかし年頃である。年頃なのである。だからこそ手紙で抜け……夢想に耽ることが出来たのだ。
今宵の宴にはルクレツィアも出席するとあらかじめ聞いていた。しかし会場のどこにもそれらしき姿は無く、かといって「ルクレツィア殿はどこかー!」などと聞き回るような真似も出来ずに居たのだ。がっついてるみたいだし。
それなのに……。
「しかしまさか見合いの相手を子供と間違えるとはな」
意地悪そうに笑うエヴァンジェリスタはもちろん確信犯である。ジャンティーレを驚かせようと、わざとルクレツィアの姿を奥に隠していたのだ。ルクレツィア自身はそそうのないようにとジャンティーレに挨拶に行きたがっていたが、のらりくらりと話題を逸らして行く手を塞いでいた。まさかここまで上手くいくとは思っていなかったらしい。
本来ならば侯爵家と伯爵家では爵位が異なるから、エヴァンジェリスタはジャンティーレに対してこうした態度を取ることはあり得ないが、2人の時は単なる友人であり仲間である。エヴァンジェリスタの楽しそうな表情を恨めしげに睨みつけ、再びジャンティーレは麗しい黒髪をぐしゃりと抱えて盛大にため息を吐いた。
「あれで21歳とは思えないだろう、普通は!」
そして、そのエヴァンジェリスタの姉、ルクレツィアというのが、先ほどジャンティーレがリモンチェッロを奪い取った少女その人だったのだ。
つまりジャンティーレは見合いをする予定だった1つ歳上の憧れの女性を、皆の前で子供扱いした上に、その酒を取り上げるという真似までしでかしてしまったのだ。
「あれが……あれが、ルクレツィア殿……」
ぐふうん……と意味の分からぬうなり声を発して、ジャンティーレは先ほど醜態を見せてしまったばかりの少女……いや淑女の姿を思い浮かべた。
想像とは全く異なっていたが、 美しい少女……いや女性だった。蜂蜜のような金茶色の髪に、ぱちりと大きな同じ色を帯びた瞳、ふっくらとした唇。背の高さはジャンティーレの胸の高さに届くかどうかという程度で、その位置から大きな瞳でこちらを見上げられると、自分より歳上の女性とはとても思えない。
「せっかく、黒の貴公子ジャンティーレ卿が見合いをする気になったかと思えば、当の本人の顔も知らずに初対面で子供扱いとは……」
「しか、仕方がないだろう! お前の姉が、まさか、あんな……」
「あんな、とは何だ。お前、俺の姉をあんな呼ばわりか?」
「だから、違う!」
酒に強いらしい……というのも手紙で知っていた。ルクレツィアは、マッツェリア侯爵領で作っているレモンとリモンチェッロに興味を持っていて、何度か口にしてみたい……というような事を書いていたからだ。ジャンティーレは酒にそれほど強く無く、いやむしろ弱い部類で、そうした話題にいまいち乗り切れないのが残念だった。
ともかくジャンティーレはルクレツィアという女性について、上品で、お酒の味も知っている華やかな才女。そんな印象を抱いていたのである。
それがまさか、あんな酒の一滴も飲めそうにない少女めいた女性だとは思っていなかったのだ。
****
「とてもよい香りですわ」
「マッツェリアの初代が南から持ち帰ったのです。領館には初代の樹もありますよ」
「まだ残っているのですか?」
「ええ。初代から分たれた子たちが、今、マッツェリア領自慢のレモンになっています」
「全てかしら?」
「……という話ですが、幾分古い話ですからね」
「ぜひ今度見せていただきたいですわ」
首都にあるマッツェリア侯爵家の庭には、領の特産品であるレモン……という酸味の強い柑橘種の木が植わっている。マッツェリア領ではレモンを初めとする多くの柑橘類が特産なのだが、その最初となったのが、初代が持ち込んだこのレモンである。
レモンを強い蒸留酒に漬け込んで出来るとろみのある果実酒は、マッツェリア領でしか作成されない酒だ。
様々な地方の特産や伝統、歴史や文化を研究しているルクレツィアには興味深い話であるらしく、……とはいっても、何度か手紙で同じような内容をやり取りしたことがあるのだが、それでも楽しげにジャンティーレの話を聞いてくれている。
2人は今、首都にあるマッツェリア邸の庭を散歩していた。
ジャンティーレの誕生日……ルクレツィアを子供と間違えた日の翌日に見合いを行った2人は、こうして時々逢瀬を楽しむようになっていた。
長身のジャンティーレと、その胸の高さにようやく届くか届かないかというほどのルクレツィアは、並んで歩くとやはり大人と子供のようだ。そのような小さな淑女がジャンティーレと並んで、おっとりと歩いている。こちらを見上げる大きな瞳と、触れると折れそうなほっそりとした身体、それでいてむっちりとした唇と薔薇色の頬が稚い。
初見こそ妄想と異なる印象を抱いたが、会えば会うほどジャンティーレはルクレツィアに対して、今にも爆発しそうな心臓の鼓動を抑えきれないでいた。
そしてその鼓動の正体を持て余していた。
夢想どころの話ではなく、一歩間違えれば犯罪者に認定されそうなほどではなかろうか。先日もエヴァンジェリスタに言われたばかりだ。
『姉は、幼女趣味の男に気分の悪い眼で見られたり、近づかれたりすることがあるから気をつけろ』
それを聞いてジャンティーレは慄いた。
ルクレツィアに抱くこの思いは、よもや幼女趣味と言われる類のものであるのか!?
ジャンティーレは見目こそ麗しい貴公子であるが、恋をしたことが無い。そのため、自分のこの悶々とした思いが恋なのか、はたまた幼女趣味であるがゆえの性的嗜好なのか判断がつかなかった。目の前の女性を思えば心がほんのりと柔らかくなり、大事にしたいと思う。それなのにその服を脱がせてみたいという危険な感情も隣り合わせだ。大事にするためならどんなことも我慢できるはずなのに、自分の身体はその意思に反して物理的に痛重い。恋慕とはもっと美しい感情なのではなかったのか。こんなにも浅ましく自分の下半身と直結するものなのだろうか。やはりこの変態的な感情は幼女嗜好というものなのだろうか。くそっ、この変態野郎が!
もちろんこれは恋なのだと信じたい。見合いであるのに恋した女性と結婚できる……夫婦になる。しかも初恋だ。なんというすばらしいことだろう。しかし、今まで自分は女性に対して何かしら恋心を抱いたことがなく、自分がいったいどういう女性に心惹かれるのかも分からなかった。はっきりしているのは、ルクレツィアからの手紙と自分の右手があれば、……いや、それはいい。
健全な男並みに性欲はあるので悶々さがいや増している中、ジャンティーレはルクレツィアをこっそり見下ろした。
パッと見た感じは、やはり愛らしい子供に見える。
しかしよく見れば当たり前だが顔の造作はしっかりと整っているし、声も涼やかでよく通り、幼稚で拙い響きはどこにも無い。話をしていても子供らしい部分は全く見受けられない。小さいころから首都レムスの女学院に通っていただけあって話題選びも言葉遣いも所作も美しく、すっと伸びた姿勢と真っ直ぐな視線に目が離せない。
そう、目が離せない。
頬も首筋も真っ白で、冷気に当たるとほんのり色付く。この服の下にも同じように白い柔肌が隠されているのかと思うと、どれほどの柔らかさなのか確認したくてたまらず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ジャンティーレ様?」
「……は」
はひ。
変な息が出て、ジャンティーレは思わず手で顔を覆った。
「ジャンティーレ様、お顔が」
「お、おか、おかしいですか!?」
よもや淑女の前で、自分は奇怪な顔を晒してしまっているのだろうか。そう思ったが、ルクレツィアは小さく笑って首を振った。
「いいえ、お顔が赤くて。寒くなってきましたものね。もうお部屋に戻りましょう」
「え、ええ」
本来ならば淑女の手を取ってエスコートすべきところだろうが、ジャンティーレはぷいと顔を背け、ルクレツィアの手を取ることなくぎくしゃくと歩き始めた。もちろんその小さくて柔らかな手に触れたくなかったわけではなく、むしろ触れると引いて抱きしめてしまいそうになる御しがたい己が原因である。
だから、ルクレツィアがジャンティーレの手を少し寂しげに見ていた表情になど、気がつくはずも無かった。