「ジャ、ジャン……?」
「ルクレツィア!! 少々お待ちを!!」
ジャンティーレは急に大きな声を出すと、寝台の上から飛び降りて浴室に走り、拭き布を2、3枚持って飛ぶように戻ってきた。思わず起き上がったルクレツィアの背中を抱いて、拭き布でお腹をふきふきする。
「あ。あの、あの」
「ルチア! 違うんです、いや違わないんです、あの」
「ジャン……?」
「あの、……やっぱり、今日は、遅いですし、ルチアに、無理をさせては、いけませんから……」
ジャンティーレの言い訳の声が小さくなった。
本当は、違う。
先端の部分でぬめりを確認していたときからちょっと危ないかな……と思っていたのだ。あのとき、本当に……自分の右手とは一体なんだったのかというほどの心地よさだった。
つまり自分がうまくコントロールできなかったから最後まで出来なかったのだ。だが、それを正直に言うには自分が情けなく、まるでルクレツィアの身体を気遣ったみたいな言い訳をしてしまった。それで、ますます情けなくなってため息を吐きたくなったが、ルクレツィアに心配させないようにそれも飲み込む。
使った拭き布をサイドテーブルに置いて、ジャンは寝台の傍に戻った。
「ジャン……あ、の」
「ルチア」
何と言っていいのかわからず立ち尽くしていると、すでに寝間着を着ていたルクレツィアが頬を染めて顔を背けた。
「あの、何か、その、履いてください」
「あ」
しまった。淑女の前で自分は下着すら履かずに浴室と寝台の往復をしていたとは。「すみません」……と、声が低くなるのも止められずに、静かに下穿きを履く。
もう自分の部屋に戻った方がいいだろう。そう思ってルクレツィアを振り向くと、彼女は寝台の掛け布の片側を開けていた。
「ルクレツィア……?」
それがまるで、ジャンティーレにここに入っていいと言われているようで、思わず首をかしげる。その様子に、ルクレツィアははにかんだように頷いた。
「そのような格好では風邪をひいてしまいますから、あの、よかったら」
「同衾しても、よいのですか?」
「いずれ、その……夫婦になるのですから」
「ルクレツィア……!!……う、ぐすっ」
ジャンティーレはそれだけで胸がいっぱいになって、思わず鼻をすすった。
「まあ、ジャン、風邪をひいてしまいますわ!」
掛け布を大きく開けて、ぽんぽんと寝台を叩いているルクレツィアに慌てて、ジャンティーレがそこに潜り込む。恐る恐るルクレツィアの肩に触れてみると、随分と冷えていた。
「ルチアも冷えているではありませんか!」
「ジャンの方が冷たいです。こちらへ」
下履き一丁のジャンの身体に、ルクレツィアが掛け布をかけてくれた。羽毛入りのそれの下には肌触りのよい毛布も重なっていて、ジャンティーレの肩を暖かく包む。ジャンティーレも真似してルクレツィアの肩に掛け布を掛け、そして、そうっと、抱き寄せた。
「あ」
「あの、何も、しませんから」
「……はい。大丈夫です」
ルクレツィアがジャンティーレの腕の中に少しだけ、すり寄ってきた。あれほど情けないことをしでかしてしまった自分ではあるが、やはりルクレツィアの温もりが恋しくて、本来ならば自分の寝室に戻るべきなのだろうに、こうしてまた同衾してしまっている。
それでもこうしたいのだから仕方がない。せめて少しでもルクレツィアが寒くないようにと、身体をくっつけ合った。
「苦しくはありません?」
「だ、これくらい!苦しくもなんともありませんよ。ルクレツィア……何も、本当に何もしませんから、ゆっくり寝てください」
「はい……ジャン?」
「はい。ルチア」
ことん……とルクレツィアの額が、ジャンティーレの鎖骨にもたれかかった。
「おやすみなさい」
「お、やすみなさい」
震える声で、そう返事をして、ルクレツィアの肩から力が抜けるのがわかった。
しかし、ジャンティーレは少しだけ手に力を込めて、ぽつりと言った。
「あの……ルクレツィア」
「はい?」
むろん、ルクレツィアは起きていたようですぐに返事が返ってくる。ジャンティーレは、根が正直で真面目な性分で、戦でない限り人を騙すのは基本的に嫌いだ。だからこそ、このもやもやと情けない気持ちを抱えたままではいられなかった。
だから正直に言ったのだ。
「俺……本当は、ルクレツィアに無理をさせたくないとかではなくて、あまりにも気持ちよすぎて、慣れてなくて、あんな風に」
「ジャン……」
「実際には、その……無理をさせてしまうんじゃないかって思います。うまくできないかも」
「ジャンったら」
腕の中でルクレツィアがくすくすと笑っている。そうして、そろそろと握り込んでいたルクレツィアの指が開いて、ジャンティーレの硬い胸板の上にぴたりと添えられた。色めいているのに優しくて、欲情的な意味でなくジャンティーレの胸をドキドキとさせた。
「私だって、あの、初めて、ですから……」
「ルクレツィア……」
「……私がうまくできなくても、失望なさいませんか?」
「失望など! とんでもない!!」
エヴァンジェリスタあたりが聞いたら、寝台で愛し合う男女が同衾しながら何を話してるんだと思っただろうが、二人はいたって真剣だった。真剣ゆえ、お互いに安心する。
「ありがとう、ジャン。それなら……きっと大丈夫です。私もがんばります」
「ルチア……」
「寝ましょう、ジャンティーレ」
「は、はい。寝ましょう、あ、の」
ジャンティーレの婚約者が、そして未来の妻が、ルクレツィアで本当に良かった。その幸福と幸運をジャンティーレは噛み締める。
「ルクレツィア……凄く、俺、愛してます」
「ジャン、私も……」
体温が心地よいのだろうか、ルクレツィアの声がうとうとし始めた。ジャンティーレは抱き寄せている愛しい婚約者のことがとても可愛く思えて、髪の毛を撫でてみる。それが心地よいのか、ルクレツィアが少しすり寄ってきて、今度こそ本当に抱いている重みが変わった。
よかった。
結局何にもできなかったけれど……それでも、よかった。ルクレツィアのことがもっと好きになったし、少なくともルクレツィアからは「私も」という言葉を聞くことができた。私も……私も、愛してます、って。
「うっふ」
その言葉と、先ほどのルクレツィアの肢体を思い出すだけで……そう、ルクレツィア、やはり胸も豊かで腰回りも細くて、金茶色の髪も柔らかくて美しくて、あどけない表情が色っぽくなっていく様子は本当にすばらしかった。先端を少し入れた時のあの感触、思い出しただけで
「く」
しまった。思い出しただけで射精しそうなのに思い出してしまった。つまり射精しそうだった。しかも記憶は鮮明だった。そして思い出せば出すほど記憶は行為の全てを追いかけていく。
これはちょっと、
「まずい」
まず何がまずいかというと、今眠っているルクレツィアを抱きしめているということだ。ルクレツィアの足がかすかにジャンティーレの太腿に当たっていて、この距離感は射精寸前のアレが余裕で触れる距離である。
「んん……」
コツンと何かが下半身に当たったからか、ルクレツィアがもぞもぞと寝返りをうった。これはダメだと思い下半身だけ距離を離す。ジャンティーレの体勢がルクレツィアに対して斜めになった。
しかし離れた体温が恋しくなったルクレツィアがジャンティーレにしがみついた。これは嬉しい。しかし今度はルクレツィアのほんわり豊かな胸が当たる。これはまずい。嬉しい。でもまずい。
ジャンティーレはルクレツィアが完全に眠るまで目をギラギラと開いたまま斜めの姿勢を維持し続けた。そして、ルクレツィアが完全に寝入ったのを見計らって、彼女が目覚めないようにそっと腕を離して、寝台を抜け出す。
寝台を抜け出し、自分の性欲に一時的な処置を施して、そうして再び寝台に戻る。
夜は気が遠くなるほど長かったが、愛する人と同じ寝台に眠るというのもまた、下半身に血が通って気が遠のくほど幸せだった。
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下半身を遠ざけて眠っていたはずなのに、朝目が覚めたらルクレツィアの身体を股で挟んでいた。
「ううん、ルチア、むにゃむにゃ」
ゴリ……と下半身に何か当たって、急に気持ちよくなって「ひい」とおかしな声をあげて目を覚ます。幸いな事に浅い眠りはすぐに脳内を覚醒させた。
「うわああ、ルチア!?」
「あの、あ、おはようございます、ジャン」
「おは、すみません!、すみま、すみません!!」
3重の意味ですみませんである。つまりルクレツィアの身体を股で挟んでいること。男の朝の事情により硬度が上がった下半身をルクレツィアに押し付けていたこと。ちょっとそれを動かしてしまったこと。
慌ててジャンティーレはルクレツィアから身体を離して寝台から下りた。
「ルクレツィア……! 俺、私は、一旦部屋に戻ってきます」
ルクレツィアは身体を起こし、目をパチパチさせながらジャンティーレを見つめている。
「朝食は、一緒に……」
「はい。ぜひ」
それでは、準備ができましたら迎えに来ます……と貴公子の一礼を取って、ジャンティーレは下履き一丁で男の事情は未処理のまま颯爽とルクレツィアの部屋を出て行った。
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これは絶対に気がつかれただろう。幾ら何でも淑女の前で股間を盛り上げたまま下履き一丁はなかった。
そう気がついたのはルクレツィアの部屋を出て行った直後ではあったが、ともかくその後のエスコートも朝食の時もルクレツィアはいつもの通りの様子で、ジャンティーレを安堵させた。
使用人達も、おそらくルクレツィアとジャンティーレが一晩同じ部屋で過ごしたことには気がついているだろうが、もちろん知らぬ顔をしている。婚前の性交渉は罪深いことではなく、むしろ婚約者同士が仲睦まじいことを歓迎している節があった。
雪はもう落ち着いていて、窓の外は真っ白な世界になっていた。家令の話によれば、除雪も始まっていて馬車も通行可能になっているようだ。
「少し、外に出てみますか?」
「はい」
朝食を終えてルクレツィアを誘う。早速もこもことした外套に身を包んだルクレツィアの手を取って、庭に降りてみると、かなりの雪が降り積もっていた。庭の草木には雪化粧というには少し重い白を被っているが、歩くほどの道はつけてあったので、そこをゆっくりと歩いていく。
「ジャンティーレ」
呼ばれてジャンティーレがルクレツィアを見下ろすと、柔らかなフードを被って、まるで雪の妖精か天使か何かのような愛らしい笑顔を向けてくれていた。
「今年も一年、宜しくお願いします」
「ルクレツィア……こちらこそ」
ジャンティーレは足を止めた。つられて足を止めたルクレツィアの頬にそっと手を触れて、そして身体を低くする。背の高さが随分と違うので唇に到達するまでかなりの距離があるが、それでも黒豹との異名を取る身体の柔軟性を生かして、ようやく唇が触れ合う……というところまで近づいたその時。
「姉上!!」
ババッ……!!と離れてジャンティーレが直立不動になる。馬の蹄の音とともに聞こえてきた声は、ルクレツィアの弟エヴァンジェリスタだった。
黒の貴公子または黒豹と呼ばれているジャンティーレとは対照的に、虎と評されるエヴァンジェリスタは繊細で小柄なルクレツィアの弟とは思えないほど、がっしり系の筋肉質で迫力のある男だ。エヴァンジェリスタは馬を庭の入り口に止めて使用人に手綱を預けると、ずんずんとこちらに向かってやってきた。
「エヴァン? まあ、どうしたの、そんなに慌てて」
「慌てるも何も。雪で帰宅が遅れたと聞いて、迎えに来たのですよ」
白い息を吐きながらルクレツィアに一礼して、ジャンティーレと挟むように隣に並んだ。ジャンティーレも背が高いがエヴァンジェリスタもまた大きな男だ。二人に挟まれるとルクレツィアは本当に幼女のようだった。
エヴァンジェリスタはそんなルクレツィアに優しく瞳を細めながら、手を差し出した。
「雪ももう落ち着き、馬車も通れる様子です。ささ、こちらへ」
「おい、エヴァン」
先ほどからルクレツィアばかりを見ている姉至上主義にムッとしながら、ジャンティーレがルクレツィアの手を取り上げた。
そこでようやくエヴァンジェリスタはジャンティーレに気がついた風に大げさに肩をすくめてみせる。
「おや、ジャンティーレ。いたのか」
わざとらしく言って、エヴァンジェリスタは紳士の一礼を取った。家の爵位はジャンティーレの方が上だが、友人であるエヴァンジェリスタとの間であるからこそ許されるやりとりだ。
「いたのか、じゃないだろう。エヴァン」
邪魔だ。という言葉はさすがに飲み込んで、ちょっとお前退けよ、的な視線を送る。しかし、エヴァンジェリスタはそれをどう受け止めたのか、ニヤリと笑った。
「ジャンティーレ」
「な、なんだ」
「姉上が世話になったな」
「お、おう」
「ちょっと来いジャン。姉上、少し失礼します」
エヴァンジェリスタはジャンティーレと肩を組んで、ルクレツィアから少し離れたところに連れて行った。肩に腕を回して、ぐっと首を絞める風に力を込めると、ひそひそと声を落とす。
「おい、ジャン。……姉上が一晩世話になったことには礼を言う。……だが」
何が言いたいのかジャンティーレにもすぐ分かる。エヴァンジェリスタは姉上のその……心配しているのだろう。しかし心配するようなことは何もない。そう、何もないのだ! 不埒なことなど何もしていない!!
「待て、エヴァン。俺は、ルチアには何もしていない」
「ルチアって呼ぶな、くそ。……何もしていない?」
「そうだ。何もしていない。俺が不慮の一泊にかこつけて、不埒な真似をしでかすわけがないだろう」
「おい、もう一度聞くが、何も、していないのか?」
エヴァンジェリスタが念を押すように、一言一言区切って聞いた。ジャンティーレも念を押すように、一言一言区切って言い返す。
「断じて、不埒な真似は、していない」
自信満々の、しかし若干涙目のジャンティーレに、なぜかエヴァンジェリスタは憐れむような瞳を向けた。
「本当に何も、していないのか……?」
「何もしていない」
何度かそのやりとりを繰り返した後、エヴァンジェリスタはぽんぽん……と励ますように肩を叩いた。そして短く「そうか」と頷いた。
「……家で飲むか」
「はあ?」
「男同士でしか聞けない悩み事を聞いてやるよ……」
唐突に同情されて不審がるジャンティーレの肩を抱きながら、エヴァンジェリスタがルクレツィアの元に戻る。仲の良さそうな弟と婚約者の様子に、ルクレツィアがくすくすと笑った。
かくしてジャンティーレは婚約者を送り届ける口実にフェルミ伯爵家邸宅にお呼ばれされ、婚約者とその弟とともに和やかな時間を過ごすのだが、男同士でしか聞けない悩み事をジャンティーレが打ち明けたかどうかについては、知る由もなく。
黒の貴公子ジャンティーレと金の淑女ルクレツィアの仲の良さは、今年もまた、健全に健在なのである。