「皇帝の後宮に上がれ?」
カリスト王国の謁見室。玉座に座した女王リューンは綴じられた紙の束から顔を上げ、帝国の使者を見た。
控えているカリスト国側の人間は1人。女王の傍らに控えるには少なすぎる人数ともいえる。しかしそれも仕方のないことだった。カリスト王国は、つい1ヶ月ほど前に帝国との戦に、負けたのだ。
戦といっても、国土を荒らされたわけではない。宮廷内の内部紛争によって敗北し、帝国の属領となった。
狂王ベアトリーチェ。
先代の女王である。
彼女は、権力欲の濃い女だった。
夫である先々代のカリスト王は愚鈍で彼女の身体にただ溺れただけで一生を終えた男で、彼女が即位した時には既に政治は腐敗しきり、宮廷は権力を我が物にしようとする貴族で溢れ返っていた。
そうして出来ていた腐った土台に、夫……愚かな王という荷を落とした、妻ベアトリーチェが女王として君臨したのだ。
宮廷は外部からみればまるで腐りきった肥溜めそのものだった。
女王ベアトリーチェによる政治は15年に渡り続けられ、先々代の王の治世も含めると30年もの間、国民は地を這うような生活を強いられていた。そうした中、一部の善良な貴族は押並べて粛清されていったが、それでも生き残った者たちは帝国へ亡命し、皆、皇帝へと訴えていた。
この圧政を終わりにしてくれ、と。
そして、帝国の協力を得たカリスト王国の反乱貴族による旧宮廷の粛清が始まる。
カリスト王国からの亡命を受け入れた帝国が帝国東の領土開墾の許可を与えると、人心は国から離れていった。さらに、帝国から派遣された人員……カリスト王国を追われた元貴族の子女達……が宮廷に入り込み、官僚、騎士、兵士、侍女達が静かに入れ替わる。ベアトリーチェ自身は人を信じぬ女であったが、当時の混乱を極めた宮廷に入り込むのは金を積めば容易いことだった。それほどまでに腐っていた。
そして、一ヶ月前。ベアトリーチェの一人娘王女リューンの20歳の誕生日。
宴に酔いしれた貴族達に一斉に毒が振舞われた。王女リューンは無表情に、ただ自身の誕生日の宴に倒れていく貴族達を見下ろす。剣ではなく、毒を用いたのは慈悲であった。
「殺せ皇帝を。わが娘よ、あの憎き獣を殺しなさい!」
裏で動いていた皇帝の存在を知り、血を吐きながらリューンに縋るベアトリーチェの手を踏みつけ、王女リューンは笑顔を浮かべた。
「自分の娘も分からないのベアトリーチェ。あなたの娘はもうこの世にいない。死んで地獄に行くといい。そしてあの娘に二度と会うな!」
驚愕に眼を見開くベアトリーチェの自慢の顔を蹴り上げると、リューンは部屋を出て行く。そのやり取りを見たのは、……そしてその意味を知っているのは、リューンの侍女アルマとカリスト王国の若い国務尚書ラズリの2人だけであった。
以後、粛清の残務処理を淡々と眺めていたリューンは予想通りというべきか、傀儡の新女王となった。帝国の属領になるまでの間だけの、即位である。20歳になるまで社交界に一切出ることなく、城内の片隅の宮から一歩も出ることの無かった彼女は「幽霊王女」と呼ばれており、国政の責を問われることは無かったが、何の権限も与えられてはこなかった。これから帝国の手中に入るであろうカリスト王国の新宮廷には、絶好の傀儡だったのである。
そして、彼女自身も傀儡であることを受け入れた。
……はずだった。
女王の戴冠式は1週間前。
一国の女王の戴冠式であるにもかかわらず、諸国の招待は一切行わず謝辞が送られてきただけである。無論、皇帝からも。出席は新宮廷の、よく言えば新進気鋭の、悪意をもって言えば帝国の息のかかった文官のみ、だ。
彼らを交えた即位の席で、帝国から……表向きは、新宮廷から提示された条件を全て飲み、幾つかの質問をかわした後、最後に己の処遇を話し合う段で、彼女にある条件が突きつけられる。
それが、
「皇帝の後宮に上がること」
であった。
****
「ラズリさん」
「ラズリとお呼びください陛下」
「私以前に読んだときに幾つか条文修正しとけって指示しといたよね」
「承っております」
「まあ、確かに大方飲んでくれたっぽいね。ハワード将軍閣下、それについては感謝いたします」
リューンは帝国からの文書をカリスト王国の新宰相ラズリに渡しながら、胡散臭い視線を向ける。リューンが指定した修正事項はほぼ飲んでもらっていた。当然だ。修正した条件に帝国を害するものはひとつも無かった。リューンからの指示は、粛清した一族郎党に関する締め付けや処分をさらに厳しくするものであったり、帝国に亡命した元カリスト王国国民への待遇への懇願であったり、無実の罪で幽閉されている貴族達への補償であったり、ベアトリーチェに歯向かい罪に問われたもの達への恩赦である。
だが。
「シドでかまいません。リューン女王陛下」
「ハワード将軍閣下」
カリスト王国新宮廷との新たな取り決めと、帝国との外交条約締結の使者として赴いていたシド・ハワードは内心舌を巻く。傀儡であることを受け入れた女王は、政治も分からぬ小娘などではなかった。属領となった後の人事内政の決め事……これまで帝国とカリスト新宮廷が練ってきた計画を正しく理解し、すでに幾つかの指示を出していたのだ。その内容には、帝国も預かり知らぬようなカリスト独自の内情も含まれていて、だが結果的には帝国にもカリスト王国の国民にも不利になり得ぬようなものだった。
そうして、その上で、女王は最後の条件を提示してきた。その条件が、
「リューン女王はその身分を捨て、髪を下ろして出家し、修道女になること」
……というものだ。
粛清にあって、一族の女が修道院に入り一生を幽閉されて過ごすことはよくあることである。カリスト王国の新しい女王はそれを自ら選んだ。
もとより、女王の処遇については一切の言及が無かった。恐らく傀儡の当主として数年を過ごし、帝国の当たり障りの無い貴族を夫に据えられ、子供を生んだら帝国に取られでもするのだろうと考えられていた。そもそも新宮廷にとって狂った女王の血筋など不要であるし、彼女が帝国のものになるのは間違いない。だからこそ、リューンは「出家する」という条件を加えたのだ。
それなのに。
「で、なんで後宮に上がる必要が?」
「女王の身分を捨てたいのであれば修道院に入る必要など無い。後宮に上がる機会を与える。……との皇帝陛下のご意向です」
「うん。だからなんで?」
「なんで」と言われても。シドは面食らった。
つい先日まで、終始控えめで言葉を挟むのことなどほとんど無かったリューンが、今は女王とも思えぬ飄々とした口調で自分を見つめ返してくる。
「リューン女王陛下は、皇帝陛下のお側に侍りたいとは思われませんか」
「思わないですね」
「お子を賜れば、ご身分からいっても皇妃になるのも夢ではございませんが」
「へえ」
リューンは思う。自分からよもやこんなS気たっぷりの声が出るとは。そもそもなぜ自分が後宮などに。めんどくさい。リューンはにっこりと綺麗な笑みを浮かべて言った。
「御子が欲しいなら、すでに入内している3人の姫君にお願いすればよろしいのではなくて?」
「……リューン陛下」
「まあ、修道女になったところで下腹捌いて子宮でも取らない限り子供を作る機会はありますし、皇帝陛下の預かり知らないところで別の傀儡として担ぎ揚げられる可能性は減らしたいのも分かりますけどねえ?」
「……リューン陛下!」
シドとラズリが余りの言葉に同時にたしなめる。だが、リューンは淡々としたものだ。要するに皇帝の手元に置かねば後々禍根の種になり得るかもしれないとか心配してるんですかこのすっとこどっこいが。ちっせえなー。それなら最初から女王の処遇の条文入れとけよ。忘れてた? 忘れる程度の存在だったら、修道女になろうがなるまいが一緒だろうが。あーあーあーあー、もうめんどくさい、いっそ殺してくれてしまえばよかったのになあ。女王の凶行を止められなかったのは王女としての罪だ! とかってさー。……狂王の娘であれば見せしめとしてもその価値は十分にあるでしょうに。……そしたら、今ここでこんな小娘の我侭聞かずに済んだんじゃね?
「……陛下! なんということをおっしゃるのですか!……陛下は国民のことが心配ではなかったのですか?」
どうやら、「後々禍根の」……辺りから、思考が声になっていたらしい。ラズリが慌てたようにリューンの名を呼び、傍に跪く。シドは、眼を見開いて驚愕の表情を浮かべていた。リューンは2人の顔を見比べ、ため息をつく。
「あのさ。……私が後宮に入ろうが修道院に入ろうが、国民は万事変わりないでしょう? なんだったら帝国が指定する修道院にいれてくれてもかまわんよ私は。というかさ、私が後宮に入らなかったら、カリスト国民はどっか虐げられるわけ? あの皇帝がそんなことする?……その程度の男だったら、とっとと戦争起こして国滅ぼしてるでしょうよ」
かろうじて丁寧な言葉を保っていたリューンは、それもかなぐり捨てた。
シドとラズリは返す言葉も無い。まさにその通り。この30年で疲弊しきったカリスト王国が帝国に攻め込まれて勝てるはずも無いのだ。帝国の皇帝は「獅子王」と呼ばれ魔力も剣技も恐らく世界でもっとも強い男である。政も柔軟性に溢れ、若く身分が無い者でも実力と己への服従心があればすぐに重用した。軍事においては軍神とも呼ばれ、勝利以外なく、大胆な戦略をとるかと思えば慎重にことを運ぶ。そんな才気溢れる皇帝が、すぐにカリスト王国に攻め入らなかったのは、亡命した優秀な貴族の嘆願があったからこそだ。
国民は疲弊している。すぐに決着が着くとは言えど、戦争が起これば国土が荒れるのは必至。どうか、あの汚泥のような宮廷だけを一掃して欲しい。そうして反乱の計画書を提出したのはラズリの父。彼は、長きに渡りカリスト王国に仕えてきた最後の良心だったが、この反乱が成就する前にベアトリーチェの手にかかって死亡している。
そういう事情もあって、リューンは皇帝が国民を害さないであろうことを確信していた。会ったこともない男だが、だからこそ客観的に見てその政治姿勢は信用できるともいえる。女王が居ようが居まいが、カリスト国民を害するようなことは無いだろう。
無論、カリスト王家を滅ぼすことはあるだろうが。
「人質の価値もないだろうから後宮に入れて女王剥奪ってのは分かるよ?……でも子供も作れっていうのは……、まあそれはほれ、ハワード将軍閣下の口が滑っちゃったのかもしれないけど、何の得にもならないと思うよ。ましてあのクソ女の血が混じるのヤだとかさ、あのクソ女の娘が後宮で何しでかすかわかんないとかさ、下手すりゃ皇帝陛下の寝首かくんじゃねーのとかさ、いろいろ言われるよ、多分」
「それは……。しかし陛下は、女性に寝首をかかれるような方ではありません」
「論点ずらしましたよね今。ええ、ええ、そんなこと分かってます。……でも、外から見ればそういうことをしそうなややこしい女をわざわざ後宮に入れる必要はないでしょうと言っているのです。分かりませんか? 分かりますよね?」
リューンは口を挟んだシドにぴしゃりと言った。シドは33歳。帝国の騎士団をまとめ上げる将軍で皇帝の幼馴染でもある。皇帝の下にあって常勝を誇り、雷将とも呼ばれている歴戦の軍人だ。リューン女王は、その将軍を前にして、恐れることなく堂々と意見を述べている。しかも、割りと真っ当で、口は悪いが国民のことを考えてもいる。かなり利他的で冷静だ。この女王陛下が自分の主君を前にすれば、いったいどのような化学反応を起こすのか、それはそれで楽しい想像でもあったが、今のままでは帝国に連れて帰れそうにもなかった。
そもそも主君……獅子王アルハザード自身、今年33歳になるのだが、体躯も纏う気も並みの男ではない。金色の髪に群青色の瞳は猛々しく男盛りの美丈夫ではあるが、その群青でひとたび睨めばどんな猛者もその気配と魔力に震え上がり、威圧感は獅子をも平伏すと言われている。その主君に、女王が修正してきた条文を魔法の通信具を使って知らせたのはつい数日前だ。彼は、その条文を全て飲み、ただし最後の女王の処遇だけは許可しなかった。
曰く「面白い」と。
「そのような条件を自ら言って寄越す面白い女を野に放しておくわけには行かぬ。慈悲をくれてやる。後宮に上げよ」と。
皇帝陛下の命は絶対で、逆らえるものではない。
「女王陛下の仰ることも分かります。……しかし、帝国としてはその条文を変更するわけには参りません。今回の騒動、どのような意思で誰が動いたかは分かっておりましょう」
これは軽い脅しだ。要するに国を救ってやったのは帝国だから従えという実直で純朴な脅し。シドとしてもこのようなことを言いたくはなかったが、表向きも裏向きも無い、本心を言わねばこの女王の身柄を帝国に連れ帰ることなどできまい。
その言葉に、ずっと無表情だったリューンが静かに笑った。
「そこまで言ったなら分ってるんでしょう。どうせ私が後宮に上がるのは決定事項なんでしょうが」
リューンは自分の長く黒い横髪をくるりと指に巻きつけてはそれが解ける様を見ながら言った。
「……で、だからこそなんで?って聞いているの。皇帝陛下がそうまで私を後宮に入れたいのはどうして?……侮辱かなんかの一種?」
純粋にこれはリューンの好奇心だ。
確かに「修道院に入りたい」というのは我侭のひとつではあろう。王女、そして女王であるという責を放棄して隠遁するというのは、だが、許されぬほどの行動でもない。歴史的に見ても、戦争に敗北した女王や王女が修道院で結婚をせずにただ見張られて過ごし、そのまま静かに王家の血筋が滅んでいくことは多々あった。破竹の勢いたる獅子王にしてみれば、裏から協力したのみでその手を汚さずに手に入れた小国の姫の我侭に過ぎぬはずだ。
シドは、大きなため息をつき、呻くように言った。
「陛下曰く……『慈悲を』……とのことです」
「ああ、要するに上から目線ってこと?……何、『慈悲』? 馬鹿にしてんの?」
リューンの表情が一気に剣呑になりその場の空気が2、3度は下がった心地がした。これまでの会話から言って概ね予測していた回答だが、シドはその歯に衣着せぬ物言いに肝が冷える。ここに獅子王が居たら、この女性が無事で居るかどうか自信が無い。怖れを知らぬというのは時に罪だ。
一方リューンは、想像以上に独裁者じみた皇帝の答えに頭を抱えた。「慈悲」ですって。ただそれだけのために、すでに3人も姫の居る後宮に上がり、寵を競わねばならないのか。……いやいや寵を競うつもりはまったく無いが、男に一晩でも身を捧げるというつもりも無い。慈悲とやらで閨事を賜りたくもない、そんなに自信があるのかよ自分の性技に。しかも女一人世話するのによりにもよって一番豪華な後宮などと、どんだけ金かかると思っているんだろう……顔は見たことが無いが……皇帝陛下という男は。出来る限りコストパフォーマンスのいい方法を選んでやったというのによりによって「慈悲」? 顔洗って出直して来い。
「そんなもん、慈悲でもなんでもないでしょうが。なにそれ、モテる男はまともに計算もできないわけ?」
「りゅ、リューン陛下。いくらなんでもそれは皇帝陛下に不敬にあた……」
「後宮に入るのが『慈悲』だのなんだの女を馬鹿にしてるのはそっちでしょう! まだ『貴女の癒しの魔法が欲しい』とか言ったほうがマシだと伝えておきなさい!」
ガタンと玉座を立つと、リューンはオーバースカートの中から鋏を取り出した。それを自分の喉下に突きつける。
自殺か!……シドとラズリが真っ青になって慌てて駆け寄るその前に、
シャキン!
彼女の豊かな黒い髪が、肩上辺りでばっさりと切られた。
帝国も含めて周辺諸国では、女性は髪が長いのが常識である。髪を切るのは修道女のような者だけだ。だから女性の長い髪は大切にされている。それを後宮へ上がる前に切るというのは、相当なあてつけ……もとい、相当の抵抗心の表れだった。
「リューン様!」
髪の毛をぽいっと捨てて、玉座に鋏を置く。すっきりしたと言わんばかりに頭を振って、リューンはシドを見た。シドはかわいそうなほど蒼白になって、……そして、珍しいほどに声を荒げる。
「それほどまでに後宮入りがお嫌か!」
「それほどまでに後宮入りが嫌です!……でも……決定事項でしょう。後宮には上がります。その代わり、その多大なる『お慈悲』とやらは、私に向けるなとお伝えくださいませ。ああ、あと、女を一人後宮に上げて世話するとかって幾らかかると思ってんだ女に無駄金もとい血税かけてんじゃねえぞ折角コストパフォーマンスのいい王族のサバイバル方法考えてきてやったのになんでわざわざ一番金も手間もかかる方法選びやがったんだそれでも皇帝か分かってんのかこの野郎!……って、一字一句違えることなくお伝えになっておいてくださいますかしら?」
「……は? コスト? サバ……?」
「じゃあ私部屋戻るんで、ラズリさんあとお願いします」
それはそれは美しい笑顔をシドに向けると、完璧な淑女の一礼を取った。すさまじい台詞の余韻などどこ吹く風と、女王陛下はこの場を辞したのである。
玉座の間には哀れなラズリ宰相と、帝国のシド将軍が呆然と残されていた。
「一字一句全部伝えたら私が殺されてしまうだろう……」
シドは女王の言葉を主に伝えることを思うと、頭を抱えて震え上がった。