獅子は宵闇の月にその鬣を休める

002.2人のリューン

「リュ……リューン様! 御髪が! 御髪をいかになされたのですか!」

リューンが自室に戻ると、肩の長さで、しかも毛先がばらっばらに切られた髪の毛を見て、侍女のアルマが叫んだ。それはそうだろう。この世界においては女の髪の毛はまさに女の女たる証。それを切るなどあってはならないことだ。

そう。この世界においては。

「どっちみち修道院に行くとき切るつもりだったから一緒でしょ。それよりごめんお茶。あと福祉関係の書類」

流石に自分の手で適当に切った髪の毛先はばさばさで、首元がうるさくて慣れない。だが未練も特には無い。リューンが元居た世界では、髪の短い女性も普通に存在する。

岩倉龍享年25歳。それが彼女の本当の名前と年齢だ。生まれたのは日本。そして死んだのもまた日本。だが今は、自分が生まれた世界とは異なる世界のカリスト王国という国で、リューン・アデイル・カリストとして生活している。彼女がリューンに成り代わって2年になろうとしていた。

****

龍がリューンに出会ったのは、今から8年前。彼女が12歳のとき、そして龍が19歳のときだ。龍が自分の屋敷の図書室で本を読んでいたときに、不意に見えた幽霊のような自分とそっくりの少女。それがリューンだった。リューンから見ても龍は幽霊のように見えていたらしい。

何の拍子か、日本の龍の屋敷の一部とカリスト王国王城の宮の一部が重なって、向こうからとこちらから、互いが亡霊のように触れられない、だが声の聞こえる存在として認識できるようになったのだ。ただしそれは常にというわけではない。時々気まぐれに重なるだけだったが、2人はすぐに仲良くなった。自分が存在する世界のこと、そしてお互いの悩みを打ち明けるうちに、2人は姿形ばかりではなく、それぞれの運命自体も少しずつ違いながら重なっていることに気が付いた。

リューンは荒れる国政を憂いながらも何も出来ない自分を嘆く王女だった。母である女王に宮廷の腐敗の苦言を呈すれば、いらぬことを王女の耳に吹き込んだ不埒者として彼女の侍女の首が飛ぶ。それは文字通り、首が胴体から離れることを意味していた。

また、龍は汚職に塗れた政治家の父を持ち、母は他所に男を作って出て行った。政治や経済を学んで、尊敬していた政治家の秘書になると、突然彼は豹変して女であることを強要され、政策を論じれば周囲から女の癖にと言われ、汚職した父の不作がまるで自分のことのように、ことあるごとに罵られた。

リューンに出会う前、龍は15歳のときに、ある出来事により自分が女であることに意味を見出せなくなった。そしてそれは、龍に出会った後、リューンが15歳のときにも降りかかった。

それでも……己の身を裂きたくなるほどの精神的身体的な苦痛を受けながらも、なおリューンが心を壊さず生きてこられたのは、龍の存在のおかげだった。そして、新たにやってきたアルマという侍女のおかげだった。龍が姉のように自分を愛してくれることによって、そしてベアトリーチェの存在に震えていた彼女を罵ったアルマの憎しみによって。リューンは生きる意味を見出した。

だが、その苦痛を与えられ続けて3年。責め苦によって彼女の身体が壊れた。最後に姿を見てから3ヶ月。龍はそのとき自分を襲おうとする上司の手から逃げるように図書室へ逃げ込み、そこで見つけたのだ。カリスト王国の宮のベッドの上で、冷たく動かなくなっている彼女の姿。そして彼女に縋り付いて、何かを言っている侍女のような女の姿。

龍はリューンと出会うまで、己の心は何も感じなくなったのだと思っていた。それほどまでに父に、そして周囲の人間に裏切られ続けた。しかしそれでも生きてきたのはリューンのためだった。リューンが妹のように自分を愛してくれたから、生きる意味を見出した。それなのに。

龍は叫んだ。リューンの名前を。上司から逃げるのも忘れて。何も無い虚空に叫んでいるように見える龍に、彼女の上司は自分のズボンを下ろしながら襲い掛かる。それを跳ね飛ばし、龍はベランダへ逃げて……追い詰められて、そして……飛び降りたのだ。

地面に当たる衝撃は無かった。その代わり、リューンと心が混ざりあった。

「ねえ、龍……あなたはもっと生きていたい?」

「リューン、あなたは?」

「私はもう少し生きていたかったけど、今は少し自信がないな」

「そう。ねえ、リューン。私は出来ることなら貴女に触れたかったな」

「そうね。私も……ねえ、りゅう。私の我侭を聞いてもらってもいい?」

「もちろん」

「私の人生をりゅうにあげる。だから貴女の人生を私にちょうだい」

「どういう意味かな」

「リューンとして生きて待っていて。いつか必ず貴女に会うから」

リューンと龍は同じ魂を持った違う人間で、そのときは少しだけ龍の生きる力が強かった。だが、身体の損傷が少ないのはリューンだった。癒しの魔力だけは人より多く持っていたリューンは、自分の身体を龍のために癒し、龍はリューンより多く生きた人生経験で鍛えた魂の力でリューンの身体に入った。

「リューン様! リューン様!……なんという、なんてこと。貴女はここで死んでいい人間ではない! 生きてその罪を償いなさい。何もしなかった罪を! 王族でありながら、何もかもに耳を防いできた罪を! リューン様!」

「黙れアルマ」

「……リュ、リューン様……?」

死んだはずのリューンに手を掴まれ、ゾッとするほど低い声で囁かれた。アルマはその瞳を呆然と見返して息を呑む。いつも伏目がちで控えめだったリューンの瞳は、そこには、無い。

ベッドで倒れ、既に冷たくなっているリューンに縋りついていたアルマ。彼女の兄はベアトリーチェの手によって殺された。アルマは父と母を連れて帝国に亡命したが、その父と母も心労で死んでしまった。拾ってくれたのは、ラズリの父だ。カリスト王国の腐った宮廷に反旗を翻すという彼に、アルマが協力するのは必然だった。彼女はリューンの侍女として側に控え、事が起こったときはリューンの命がベアトリーチェに晒されないようにするのがまず第一の任務だ。しかし辛酸を舐め続けたアルマにとって、憎いベアトリーチェの娘は拍子抜けするほどに世間知らずで甘い娘だった。王族としての責務に目を向けず、ただ泣いて心殺して暮らすか弱い少女にしか見えなかった。

そのリューンがベッドの上で死んでいて、そして今、起きてアルマの手を掴んでいる。冷たくなっていたはずの手には、徐々に温度が戻ってくる。

「リューンが何もしなかったのは、あなたを守るためだアルマ」

「……な、にを」

「あなたに憎まれていることをリューンが知らないとでも思ってた?」

「リューン様……」

「時折彼女を苛む責め苦を、我慢していたのはあなた達の首を守るためなのに」

「……何の話を……」

「あなた達が思っているよりもずっとずっとベアトリーチェは狂ってる。……私は、彼女を殺します」

「……なっ……」

「私は龍という」

そうして話した。リューンが何をされていたのか。龍はたった一度だけだが、それを見たことがあった。リューンの受けていた苦しみ、そして、リューンが周囲が思うよりもずっと国政を憂いていたこと。王女として苦言を呈したら、彼女に会った貴族や侍女が何の罪もなく斬首されていたこと。それゆえ、口を閉ざしていたこと。

そして、龍が異世界の人間であること。リューンと姿形も運命もよく似ていること。リューンも龍も2人とも死んで、その身体と人生を龍が貰ったこと。

アルマは龍の話を信じ、そして泣いた。リューンの過酷な運命と、傷ついた身体と心に気づけなかったことを悔やんで泣いた。一時でも主人だった彼女に、憎しみしか向けてこなかった、それは罰だと龍は思う。リューンが何もしなかったことが罪なら、彼女はもう罰を受けている。そんな龍の話を聞いて、アルマは誓ったのだ。今度こそ主人を守ろうと。

それから2年。龍、いやリューンはベアトリーチェに恋人を与えるよう指示し、アルマは睡眠や記憶を操る術を使ってリューン自身の身の安全を確保した。アルマはリューンの許可によってラズリに何もかも打ち明け、彼が入閣した後は適宜報告を受けた。

基本的にリューンがすることは何もなかったが、帝国の内情や、思ったよりも酷い状態のカリスト王国の腐敗ぶりに眉を潜め、粛清が成った後の国政について、日本で勉強してきた多くの政治学経済学の知識からアドバイスという形で進言しておいた。

それは人事粛清の対象や範囲に留まらず、福祉・教育・リスク管理などの多岐に渡り、さらに5年後、10年後、15年後、20年後の計画に及んだ。リューンはアルマにしか会うことはなかったが、アルマはラズリにリューンから受けた進言を全て報告し、ラズリからの質問を再びリューンに報告した。

こうしたやり取りを続けて2年。ベアトリーチェおよびベアトリーチェ派の貴族を一斉に粛清するときを待った。

実行されたのは、リューンが20歳の誕生日の宴のときだ。恐らくこれほど一斉にベアトリーチェ派が集まるときは無かっただろう。無論、一族郎党の屋敷は既に押さえている。宴の配置も完全に掌握した。酒は貴族しか飲まない。そして、計画を知っているものは飲まない。……これは粛清の第一段階のはずだった。いわば脅しのようなものだ。だから児戯にも見える手を取った。そもそも、このような稚拙な計画が上手く行くこと自体異常だ。だが、その異常が発生するほどベアトリーチェ派は自分達の権勢を信じきっていた。

こうして、ベアトリーチェは死に、リューンが女王となったのである。

****

「リューン様……あれでは、将軍があまりにも」

「ああ、まあ確かにあれはちょっと言い過ぎたかなって思ってるよ。将軍が悪いんじゃなくて、あれは皇帝陛下が悪いよね」

「リューン様」

「でもさー、私皇帝陛下がどんな人か知らないし。別に我侭というほどの我侭言ってないし?」

「リューン様」

「ラズリさん、髪似合う?」

「リューン様!」

リューンは自室でアルマに切りそろえて貰った髪をいじりながら、ラズリの報告を受けていた。背中の真ん中辺りまであった豊かで美しい黒い髪は、今は肩に付くか付かないかの、ギリギリのところで切り揃えてもらっている。鋏を縦に入れて毛先を梳いてもらってリューンは満足気だ。この世界の住人にとって短い髪の女性というのはどうにも慣れないが、リューンの場合は清冽さを際立たせて清々しく美しい……と、ラズリもアルマも思った。だが、そもそも後宮に上がる予定の女性が髪を切るなど、論外中の論外だ。

「……で、さ。後宮の話なんだけど。アレは行かないわけには……」

「いきませんね……」

「ですよねー」

「リューン様、申し訳ありません」

「何がさ」

「リューン様のご希望を叶えることが出来なかったのは、私の不徳の致すところです……」

リューンの正体を知っているラズリは、本当に痛々しい面持ちで頭を下げた。それを見てリューンは苦笑する。彼が悪いわけではないし、まあ、全く予定していなかった事態ではなかった。ラズリやアルマがそうは思っていなくても、新宮廷派がリューンを売る事だって考えたし、皇帝陛下の人と為りを知らない以上、向こうが要求してくることも予測の1つには入れていた。……本当に皇帝陛下が要求してくるとは思わなかったが。物好きな男め。

「ま、皇帝陛下も髪が短くてがさつな礼儀のなってない女をどうにかするとも思えないし、すぐに飽きるんじゃない? 一国の元女王ともなればそれほど手荒な真似も出来ないだろうし、適当に大人しくしておけば放置してくれるでしょ」

「それならばいいのですが……」

ラズリの目から見れば、リューンは知識も教養も兼ね備えた美しい女性に見える。確かに普段の口ぶりも、物事のあしらいっぷりも破天荒だが、それを隠して一国の女王の威厳を持って振舞うこともできる。だからこそ、彼女の性格を知れば皇帝が放っておくとは思えなかった。そもそも皇帝が彼女を欲したのは、帝国と新宮廷派が提示してきた条文の原案修正が理に叶ったものだったからだろう。噂の幽霊王女と全く異なる評価だったから、興味を持ったに違いない。そして、実際彼女は「幽霊王女」などではないのだ。

ラズリが初めて彼女を見たのは、ベアトリーチェが死んだ夜だった。それまでアルマの報告から彼女がリューンではなく龍という別人であること、そして広い見識を持った知的な女性であることを聞かされてはいたし、実際に書簡だけとはいえ、2年間やり取りしてきて充分分かってはいた。それでも、あの夜、苦しむベアトリーチェをリューンが追っていったとき、親子の情にかられて手助けをするのではないかと一瞬疑ったのだ。そのときはリューンも共に殺さなければならない。しかしそれは間違っていた。リューンは解毒剤を掴む母の手を踏みつけ、それを飲むことを許さず、「死んで地獄に行け」と言ったのだ。それもとびきりの美しい笑顔で。そして死に行く女の顔を蹴り上げた。

その行動はラズリにとって衝撃だった。そこには敬意も哀れみも何も一切無く、ただ昏い底無しのような淡々とした憎しみしか無かった。「好きなように始末しておきなさい」そういって、部屋を出て行くリューンにラズリは一礼する。彼女は一筋だけ涙を流していた。恐らく、死んだ「リューン」のために。

以来、ラズリもまたアルマと同じく誓った。彼女を守ろうと。

「……侍女としてアルマが付きます。他に何人か連れて行きますか?」

「あー、いや、シド将軍ってどれくらい滞在したっけ?」

「残務処理あわせて、あと2週間ほどですね」

「後宮入りの準備って2週間位でできる?」

「そうですね……リューン様の身の回りで、何か入用のものはありますか?」

「いや。何か足りなければ、向こうから指示して用意もできるでしょ、身一つで行けばいいんじゃない?」

「それならば2週間も不要です」

「ふーん。なら、シド将軍の一行に連れて行ってもらいましょう。ついでに護衛もしてもらったらいい」

「リューン様」

「何か問題が?」

「いえ。それでかまわないのですか?……後宮入りをもっと先延ばしにする程度のことは許されるでしょう」

「後になるか先になるかだけの話なら、一番都合のいいときにやっとけばいいわよ。あとさ、ついでにもう1つ」

「なんでしょうか」

「アルマには悪いけど、侍女は彼女1人でいい。護衛は必要に応じて帝国が全て用意するようにお願いして」

「かしこまりました」

ひらひらと手を振って、シド将軍に相談してこいと指示する。シド将軍の帰還に合わせて後宮入り。侍女は1人だけで、他の人員は帝国が選ぶ。……これは我侭というほどではあるまい。帝国にとってはまず人員の身元調査は不要だし、カリスト王国側の不穏分子が女王側から入ってくる心配をする必要が無い。また、シド将軍が連れて帰れば彼にとっては皇帝陛下へのいい手土産になるはずだ。もっとも、リューンの身に何かあればそれは全て帝国側の責任、ということになるだろうが。

「それから、リューン様」

「何」

「帝国へは私も同行します」

「はあ?」

「皇帝陛下より正式に要請がありました。リューン様の家令を勤めさせていただきます」

「はあああああ?」

「リューン様の後宮での生活に滞りの無いように、事務手続きの一切を取り仕切るように指示されております。それから、帝国とカリスト領との渉外役を承りました」

「ねじこんできたわねラズリ……。そもそも、あなたが居なくなったらカリストの宮廷はどうするの?」

「おや、ずいぶん評価いただいているのですね」

「ラズリ、話逸らすんじゃない」

「カリストのことでしたら心配要りません。帝国もそれなりの要人を選出してくるでしょう。もう宰相も不要ですし、参議にはロザリンドが座す予定です」

ロザリンドは気鋭というわけではないが、堅実で誠実な政治家だ。彼の提出してくる国政案も真面目で、特に問題は無い。混乱がまとまれば、領政を安定に導くことはうまくできるだろう。トップはプレッシャーかかりすぎて荷が重いだろうから、サードあたりがちょうどいいと思うよーと進言しておいたはずだ。属領となれば領主が必要だけど、それは帝国がうまくやるだろう。

呆れたように自分を見るリューンに、ラズリはにっこりと笑って退出した。やっと自分のことを「ラズリ」と呼ばせたことに勝ち誇った表情だ。このやろう。