獅子は宵闇の月にその鬣を休める

003.獲物を見つけた獅子

「髪を切った……?」

カリスト王国王城の客間で、シド・ハワード将軍は、魔道の通信具を使い、あるじたる皇帝アルハザードに経緯を報告していた。条文は滞りなく実行されるように締結されたこと、リューンの帝国入りには皇帝の指示通り宰相のラズリも同行すること、カリスト王国から連れて行く主な人員はラズリと侍女のアルマのみで、他の人員は帝国が用意すること。そして、シド一行に同行すること。全ての報告を皇帝は楽しげに聞いていたが、1つ、彼女が髪を切った件を報告したとき、彼の声はそれこそ通信具を通していても、こちらが戦慄くほどに低く威圧感を含んでいた。この場に皇帝がいなくてよかったと心底思う。シドは既婚者だ。子供も小さい。まだ死にたくは無い。

「なぜ」

皇帝が問う一言は鋭利で冷たい。相当怒っている。それはそうだろう。女性が髪を切るのは、修道院に入るときくらいだ。つまり婚姻の拒絶とも取れる。これから皇帝の後宮へ入ろうとする女性のすることではない。ましてや、相手は「獅子王」である。彼の下に侍りたいと思う女はあっても、拒絶する女はいないはずだ。少なくとも「王族」や「貴族」のような人間に。……恐らく皇帝陛下はそう思っているだろう。だからこそ、まだお互い顔を見合わせたことも無い女に「髪を切る」という明確な意思で拒絶されたことに憤っているに違いない。

「後宮入りが嫌だと」

「だが、先ほどのお前の報告からはむしろ進んで後宮に入ろうという姿勢に見えたが?」

シドに同行することを言っているのだろう。数週間とはいえ女王にまでなった王族がたった2週間で何の準備もなく後宮に入るなど、普通は考えられない。外から見れば、むしろいそいそと帝国にやってきたように見える。だが、シドの考えは違っていた。

「女王陛下は、『「慈悲」などと言って、女を一人後宮に上げるなどという税金のかかることには気が進まない』と仰られておりました」

「税金? ほう。……おもしろいことを言う」

オブラートに包むどころか、9割省略してなおかつ光も通さぬ地味な箱に入れて鍵を掛けたような言い回しだが、概ね間違ってはいないはずだ。多分。

「恐らく、私の一行に同行して無駄な様式や手順を省きたいのでございましょう。後宮入りが先になろうが遅くなろうが大した違いはありません」

「それに、帝国の護衛がその周りを固めれば、万が一のことがあってもそれは帝国われらの責任ということになるだろうからな」

「は……」

「シド、……女王のことをお前はどう見る」

「少々姫らしからぬところはありますが、指示のセンスも理解力も……それに、対話能力……も人並み以上……とでも言いましょうか。だが女性にしては表情も薄く、飄々として掴みどころがありませんし油断できません。猫のように気まぐれで、時折、とても荒々しい」

「随分買っているな」

「あのような女性は見たことありません」

「『慈悲』は気に食わぬか」

「そのようにおっしゃっておりました」

「ならば、『お前が欲しい』と伝えておけ」

「……それは、陛下が直接リューン様にお伝えください」

「なるほど」

一瞬、シドは獅子の目の前に兎を置いてしまったような気分になる。ゾクリとする低い声で、アルハザードは言った。

「そうしよう」

獅子が舌舐めずりしたのが見えた気がした。

****

エウロ帝国皇帝アルハザード・ウィーグラフ・エウロは、執務室にて先ほどの部下の報告を反芻していた。主に、カリスト王国の女王リューンという女のことを。カリスト王国の貴族達から、後ろ盾の要請があったのは2年前。何度か計画が頓挫しながらも、彼らは静かに伏し、狂王ベアトリーチェとベアトリーチェ派の貴族を一斉に粛清したのはつい1ヶ月前だ。

彼らが帝国の協力と引き換えに差し出したのは王家そのものだった。カリスト王国の重鎮どもは、国のために王家はいらぬと言ってきたのである。もちろん、帝国もこれを断る理由は無い。

カリスト王国は、ここ30年ほど宮廷の腐敗により国力は落ちていた。だが、それでも帝国がこの国に目を向けなかったのは、帝国自身、アルハザードの皇位継承で多少ばたばたしていたからに過ぎない。

カリスト王国は、もとより、多くの優秀な魔道士を輩出する相対的に魔力の高い人材を有している国ではあったが、先々代の愚王とその妻ベアトリーチェは、王族であるにも関わらず、普通かそれ以下の魔力しか無かった。恐らくそのためであろう、魔力の高い優秀な人材は国の中枢から追いやられ、全て諸国に流れてきている。

特にここ10年ほどは、アルハザードが皇位に就いて優秀な人材を登用していたことによって、カリスト王国の貴族や出身とする魔道士や文官が多くいた。そんなカリスト王国が戦も無しに手に入ったのだから、帝国としても歓迎しないわけが無い。その代わり、王家は取り潰さねば、そう思っていた。

だが、潰すべき王家の残り火は滅ぼされはしなかった。生まれてから20年、一歩も外に出されることなく、一部の貴族や侍女しかその顔を知らず、国政に口を出すことも無く、社交の場に出て男達の目を喜ばせたわけでもない幽霊王女。滅ぼされなかったというよりも、忘れられていたと言った方がいいだろう。恐らく、傀儡として使えなければ、殺したとて差し支えなかったに違いない。そういうどうでもいい存在。だからこそ、生かされたのだ。

瑣末なことだが、彼女が女王になり、分かったことが1つある。彼女はかなりの量の「癒しの魔力」の持ち主だそうだ。20年間幽閉といってもいい扱いを実の母から受けていたのは、そうした事情もあるのかもしれない。もっとも、リューンの魔力がどれほどのものかは分からないが、癒しの魔法は別段珍しい魔力というわけではない。

そんな「幽霊王女」だったから、アルハザード自体も忘れていた。新宮廷と女王の間に交わされる、そして帝国との外交にも一部関わる条文を締結しようというときに、その条文の直しを見るまでは。それはてっきり新宰相のラズリ辺りからの修正かと思っていたが、よくよく問うてみれば、予想に反して「幽霊王女」……新しい女王からの提案だという。それを聞き、皇帝は女王に対する認識を改める。

そこに書かれている提案は、王家を潰し、ベアトリーチェに反抗したものを擁護し、帝国に自国を差し出すという基本姿勢だった。ただ、決して王国に仕えてきた者たちが国を追われることのない様に、国籍は変われど、その地を守ることが出来るように、カリストの地での仕事を与えることも忘れてはいなかった。そして最後に彼女自身は「修道院に入る」という。国を売っての命乞いかと見るものもいるかもしれない。だがそうではあるまい。それならば傀儡の領主として生きていけば済む。彼女は自分の命が「不要」であることを知っている。だからこそ、静かにひっそりと、国を見守りたいのだろう。死ねといえば死ぬかもしれぬ。アルハザードは、そこまで思った。

自分のこの仮説は正しいのだろうか。その王女……いや、女王を、是非ともこの目で見てみたい。彼女は決して領主などになることは選ぶまい。修道院に入れても会えないことは無いだろうが、もし本当に得がたい女であったら困るではないか。

それならば。

手に入れてしまえばいいのだ。今のうちに。つまらぬ女であってもそれはそれでかまわない。後宮には既につまらぬ女が3人も入っている。アルハザードは後宮の女達に何の価値も見出してはいなかった。子供を生ませる価値すらない。どの女も義務的に1度抱いただけで通ってはいない。2人は過剰すぎ、1人は控えめすぎた。子は女にも似るのだ。子を為すのは皇帝の義務だと言うが、彼女らに生ませたいとは思えなかった。あるいは、この女王が本物であればどうだろう。身分的にも皇妃に迎えても差し支えないではないか。

……それにしても。

「髪を切っただと?」

アルハザードは1人ごちた。自分でも驚くほど不機嫌だ。聞けば彼女はこちらでは珍しい豊かな黒髪だったという。自分はまだその黒髪をこの手に梳いていないというのに、その髪を切っただと?

「それほどまでに嫌か、俺のものになるのが」

アルハザードは笑みを浮かべた。獲物を見つけた獅子さながらに。

愚かなのか、誇り高いのか。その誇りは女王としてのものなのか、それとも別のものなのか。分からなければ確認すればいいのだ。この手と、この目と、この身体で。彼女は2週間で出立するという。会えるのはそれからさらに1週間程度後になるだろう。これほど楽しみな日もあるまい。

****

「シド将軍閣下。皇帝陛下とはどのような方なのでしょう」

「リューン様」

「はい?」

「その敬語をおやめください」

「まあ、何故でしょうか」

旅程最後の宿泊地で、シドと共に食事を取りながらリューンは戸惑ったような表情で首を傾げてみせた。短いはずの髪は今はフードを浅めに被って隠している。その完璧な淑女の装いを見ながら、シドはため息をついた。玉座ですさまじい台詞の応酬を見せてから3週間。彼女はいっそ不気味なほど、淑やかで慎ましく猫を被っている。はっきりいって、怖い。

「皇帝陛下は……、敵には恐ろしく、味方には厳しい方です。……だが、公明正大であられる。どんな人間であっても、身分や年齢を問わず実力を評価する力をお持ちです」

「そうですか」

……リューンは、ふっと瞳を細めた。その表情が見覚えのある玉座での表情で、シドは苦笑する。そうやって時折表情を移ろわせるのは彼女の計算なのだろうか。

「どうされましたか?」

「いいえ。……ただ、それでは平凡な方はお側には居られないでしょうね」

「……そうですな。皇帝陛下の下には優秀な人材が多く集まります」

「シド将軍のように?」

「恐れ入ります」

「彼が帝位に就かれて10年とか」

……10年であれば、政情もこれから安定するといったところだろうか。彼自身、先代の皇帝の弟と自分の弟……叔父と兄弟とで、帝位を争い今の地位に就いたと聞いている。詳しくは知らないし知ろうとも思わないが、恐らく血なまぐさいことも多くあったに違いない。となれば、やっとその火が沈静化したころか。まだまだ古い貴族達も多いだろうし、子も居ないというから、中流貴族達は躍起になって若い皇帝に娘を差し出していると予想できる。それこそ後宮の争いも無いわけが無い。ああ、くっそ、面倒くさいな。……大人しくしておこう。

やれやれといった風にため息をついたリューンを見ながらシドは首を傾げた。

「いかがされましたか?」

「そういえば……陛下はどのような女性がお好きなのですか?」

「は?」

「陛下のお好みです。既に3名の方が後宮に入り、寵を受けているとお聞きしましたが」

「気になるのですか?」

「ええ、あまり関わりになりたくないので」

リューンは真顔で言った。

「関わりたくない、というと」

シドのその問いかけはさらりと無視して、リューンは指を折る。

「お胸が大きいとか、お顔が美しいとか、大人しいのがいいとか、従順なのがいいとか、体力あるのがいいとか」

「リューン様……」

「そもそも、どなたか特別に寵を受けている方や、今後受けそうな方はいないのですか?」

「……どういう意味でしょう」

「できれば、その方に子供でも生んでもらえば、」

「リューン様!」

「はい」

いつものリューンに戻り、またもここに皇帝があればその怒りを買うだろうことを口にする。この場に皇帝は確かに居ないが、それでもそのようなことを皇帝に進言するかもしれないなど、想像するだけで恐ろしい。シドは思わず咎めるようにリューンを呼んだが、意外にも彼女は素直に返事をした。

「冗談でもそのようなことを陛下の前で進言なさらないでください」

「怒られますか」

「……怒られます」

「怖いですか」

「……怖いです」

「まあそれはいいとして、」

リューンは小鳥のように首を傾げた。急に年齢相応の顔になって可愛らしい。

「どなたか御子でも授かりそうなお姫様はいないの?」

「皇帝陛下は……」

シドは、はあ……とため息をついた。

「うん」

「後宮に上げた姫君の下には、それぞれ1度ずつしか通われておりません」

「……はい?」

「貴族達が直接寝所に差し出す娘はことごとく追い出され、差し出してきた貴族は粛清を受け、夜会でも、陛下に声を掛ける姫君は全て一瞥したのみで震え上がります」

「前半は分かるとして、……一瞥で落すとか、どんな帝王ですか」

「……」

「でもちょっとまって。それって……あの、なんというか、……淡白なんですか……?」

「……淡白?」

「それとも高級娼婦でも雇ってるの?」

口調を崩し、なおかつさらっと聞いたリューンに、シドは額を押さえてうなだれた。リューンはそれを肯定と受け取る。ああー、男色とか特別性愛者とかではないのね。それはよかった。いやよくはないだろ。

「……子供生ませるわけでもなく、処理するわけでもなく、とか、……貴族達のバランス取るのは分かるけど、通っていない以上、バランスを取る……という意味も無いような。あ、ある意味バランス取ってるのか、通ってないんだったら。でも、それって後宮維持するだけでも税金かかるだろうに、どこから出費してるの?」

「処理」という言い方にシドは、ごほっとむせたが、体勢を立て直しつつ言った。

「服、嗜好品や連れてきた侍女などはそれぞれの家が捻出しております」

「ふーん。家の格が違ったら、もろ差別が出そうな風潮ですなー」

「……」

「今のは八つ当たりです、ごめんなさい」

つくづく変わった女性だとシドは思う。そもそも王族が「八つ当たりしましたごめんなさい」などと謝ることがまず可笑しいが、彼女はそれに気づいているのだろうか。自分を後宮に上げるために血税を使うなという台詞すら、権力の中枢にある……いや権力そのものの女王が言う台詞ではない。

それにしてもリューンは、実家がお金を出していると言えば貴族の格争いが後宮に表出するという。まさにその通りだ。だから、皇帝陛下は後宮にほとんど足を向けていないのかもしれない。自分が行かないと分かっていれば、寵を争うことなどあるまい。……だが、それはそれで姫君達にはかわいそうなのではないか。……そこまで思って、あの皇帝がかわいそうなどという情けと無縁であることに気づく。

ではリューンはどうだろう。リューンも同じように1度通われると、あとは後宮に閉じ込められたまま一生を過ごすか、どこかの貴族に下賜されるのだろうか。一時でも女王になった身分の女性の、しかも、……狂王ベアトリーチェの娘に、引き取り手があるだろうか。なければ、一生を後宮に閉じ込められたままだ。……これはリューンの思惑通りになるのではないだろうか。場所が修道院から後宮になっただけで。

もしも、皇帝がリューンに興味を持たなければ……だが。

「リューン様」

「なんでしょう」

「リューン様は、やはり後宮に入られるのはお嫌ですか」

「……では聞きますが」

シドの質問にリューンは苦笑した。口を付けようとしていた紅茶のカップを置いて答える。どうしてこう、為政者というのは。

「女は全員、後宮に入りたいと、あなた方が一様に思うのは何故ですか?」

「……」

「王族や貴族の女の至上の幸せといえば、王の女になること、という一般常識がまかり通るのはなぜでしょう」

「……皇帝陛下は、女性なら誰もが憧れる美丈夫であらせられます。武勲の誉れも高く……」

「……ふっ」

リューンは噴出しそうになるのをかろうじてこらえた。むっふ、とか変な声がでたかもしれない。

なるほど。皇帝の血筋なら美男子というのも頷ける。ちなみにシド将軍もかなりの男前だ。だからといって、何故、皆が皆、後宮に入ることを「断ることなどありえない」……と思っているのだろうか。王の妻になるのは女の憧れ……という一般常識は、一体どこから来るのだろう。まったく、腹の立つ。リューンは若干挑戦的な目つきでシドを見やった。その視線を受けてシドは沈黙する。

「つまり。私が、男を見た目で選ぶ……と」

「……」

シドは言い間違えたことを悟った。この女性が、自分の相手を「憧れの皇帝陛下」などという視点で選ぶはずがないのだ。瞑目して、素直に謝罪した。

「失礼いたしました」

「いいえ。八つ当たりですから」

「これもですか」

「はい」

リューンが挑戦的な目つきを解いて、今度は悪戯気に笑う。その表情に思わずシドの緊張も解け、瞳が緩んだ。

「リューン様。陛下はどのような女性がお好きなのですか……とお聞きになられましたな」

「ええ」

「陛下のお気に召す女性像など、私には計り知れませぬが、……ただ、皇帝陛下は凡庸な方は側に置かぬ方です」

「うん?」

「妃となられる方もまた同じでしょう」

「ほほー」

なるほどね、凡庸ならば側に置かれないのか。そもそもリューンは帝国の政に余計な口を挟む機会もつもりもないし、1回通ってつまらなかったら他の姫君と同じようにもう2度と通いませんってことになるだろう。そして、リューンは1回通ったら皇帝陛下が大変つまらなくなるだろう自信があるのだ。それならば、自分の居場所は修道院か後宮か……という違いだけかもしれない。何年か経って忘れた頃に、修道院行きたいんですけどーって言ったら引退させてくれるだろう。

よしその計画で行こう。1回我慢しないといけないのが大変に不本意だが、想定範囲よりは遥かに狭い。

リューンは、心の中でそれを「皇帝陛下に一回でヤリ捨てされる計画」と名付け、改めて作戦を練った。