001.真面目ちゃん

眼鏡を外してコシコシと眉間を揉み解し、再びそれを掛け直そうとして指を伸ばすとそこに目的のものはなかった。

あれ、さっきそこに置いたはずなのにどこだろう。顔を上げてキョロキョロと視線を巡らせるが、それはどこにもない。瞳に力を入れてみても、誰の顔もはっきり見えず、どこか生ぬるい剣呑とした……悪く言えばニヤニヤと嘲笑されているような空気を感じた。

隣からはしゃいだ男の声がする。

「結構、度がきついやつかけてるんだねー、湯木ちゃん」

「えっ? あ」

どうやら隣の席の男が彩乃の眼鏡を取り上げたようだ。隣の男……声から察するに同僚だと思われる……が笑っているようだが、目がはっきりと見えないから定かではない。眼鏡を取り上げた目的はおそらく、困っている彩乃を見たいのだろう。こういう目には何度もあってきたのでよくわかる。

眼鏡を取り上げられて「度がきつーい」と言われる。よくある話だ。眼鏡あるあるである。親しい友人にされるならいいが、さほど親しくない人にされるのははっきり言って不愉快だ。しかし彼らからすると「たかが眼鏡」、断ると空気を悪くする。

彩乃の望まない方向にノリのいい人間はどういう階層にもいるもので、そういう人達は飲み会などで結構安易に眼鏡を取り上げてくるのだが、あれは一体なんなのだろうか、この眼鏡が伊達眼鏡だとでも思っているのだろうか。彩乃は本当に目が悪いから、眼鏡を取り上げられるのは非常に困るのに。

しかも本当に困るから困ると言っても、面白がるのをやめない。

「あの、返してもらえないですか」

「んー、どうしようかなー」

どうしようかなーじゃなくて、その眼鏡は彩乃のものであり、伊達眼鏡ではなく本当に視力を矯正している器具だ。返してもらわねば困る。そしてもっと困るのは、彩乃はこういうちょっと軽いノリが苦手だ。嫌いではないが困惑する。自分がノリの悪い人間であることは自覚している。もともと冗談のよく分からない人見知りな性格を、社会人というスキルでカバーしているだけなのだから。

「本当に見えなくて、本当に困るから」

嘘ではない。本当に困る。しかし同僚は、追い打ちをかけてきた。

「そう? じゃあ、初恋の話聞かせてくれたら返してあげるー」

「えっ?」

なぜ自分の視力矯正機器と引き換えに、もっとも苦手な話をしなければならないんだろう。彩乃が何をしたというのだろう。自分が何か悪いことをやっただろうか、お酒も食事もおしゃべりも、それなりにこなしていたはずなのに、一体何が悪かったのか。

「え、あの」

「湯木ちゃんの初恋っていつですか?」

「だから、あの、眼鏡ないとこまっ」

口ごもる。大学生を経て、すでに社会人2年生だ。人と話すことは得意ではないが、もちろん話せないというわけではない。さりとて、うまく話せている自覚はないし、咄嗟にユニークな話は切り返すことができない。いつも「真面目ちゃん」とからかわれる所以だ。さらに言えば、相手はこうやって口ごもる彩乃の反応を楽しんでいる。

「本当に、やめて、あの、」

やめなさい、湯木ちゃん困ってるじゃない……という声は多分彩乃の先輩、水戸の声だ。彩乃がこういう雰囲気を苦手にしていると知っている女性の先輩で、こういう時に真っ先にかばってくれる。しかも水戸は空気を盛り上げることも得意だが、本気で怒ってこの場の空気を凍らせることにも躊躇いが無い。つまりこうなってくると先輩が本気で怒ることもあり得る。

それは避けたかった。

「初恋とかは……、したことないです」

「えっ、またまたー、真面目ちゃんだねえ。そういうのなし。憧れの男の子とかいたでしょ? 小学校の時とか中学校の時とかさー」

「いないですってば」

「幼馴染とかさ、いなかったの?」

幼馴染。確かに彩乃には二人いた。隣に住んでいた兄弟。だが幼馴染だからなんだというのだろう。急に剣呑な雰囲気になった彩乃に、男は何かを勘違いしたらしい。

「あれー? 図星?」

「違います、あの、いい加減眼鏡返し」

「やっぱり幼馴染っていいよなー、憧れるし、初恋の代名詞だよな!」

「だから」

本当に困って泣きそうな声になる。視界はぼんやりとしていて、目元に力を入れなければ本当に何も見えない。かといって目元に力を入れて視力を調整しようとすると、男の人たちはそういう顔をブサイクだとか言ってくるではないか。

「ねえねえ、やっぱり幼馴染の男の子、好き……」

「やめて! 眼鏡返してください!」

我慢できなくなって、彩乃は大きな声を出した。しかもはっきりと空気読めない発言をした。してしまった。本当なら「やめてくださいよーもー」とか、「全然好きじゃありませんでしたー」と言うのが正しい回答だったのかもしれないが、それを言うと大体何かを勘違いして、「照れちゃって」となるのがたまらなく嫌なのだ。

彩乃の大きな声に一瞬男が怯んだようだった。少し静かになって、彩乃の手元に眼鏡を置く。

「ムキになるとこが逆に怪しいよなー。ほら眼鏡」

女性陣たちの(主に先輩の水戸の)「お前やりすぎ」という雰囲気も読んだのだろう。彩乃の指先で分かるくらいの距離に眼鏡が置かれ、慌ててそれを身に着ける。クリアになった視界に顔を上げると、隣には案の定、面白そうに笑っている男の同僚がいた。

何がそんなに楽しいのだろう。

彩乃は何にもしていないのに人の視力を奪っておいて、挙げ句の果てに初恋の話を披露しろと言い、彩乃が本気で困っているのにそれを見て笑っている。辟易すると「空気が読めない」、反抗するとエスカレート。一体どうすればいいのか。

沈黙している彩乃に取り繕うように男が言った。

「でもさ、幼馴染がいるって本当? やっぱり初恋はその人だったりするの?」

そう聞かれて、彩乃は心底嫌そうな顔をする。

「なんとも思っていないです。人を見るなり怒るか嫌なことしか言ってこないのに……」

半ば吐き捨てるように言った。彩乃は本気で幼馴染のことを口にするのが嫌だったし、あれを初恋の人だなどと言われると本当に吐き気がする。しかしこういうと必ず、男も女も、皆一様にこう言うのだ。

「意地悪するほど好きだったんだな、その男の子!可愛いじゃないか」

どこが?

彩乃の腕に、鳥肌が立った。