湯木彩乃は少し早く出社するのが日課だ。十分会社に間に合う時間の、さらに早起きするというのは億劫なときもあるが、持ち帰りのできるカフェに寄ったりパン屋に寄ったりする余裕があるのは悪くない。
少しだけ早く出社して、彩乃の会社が入っているビルの階の、一番奥の休憩室のテーブルの上に小さな花を飾る。この習慣は彩乃が入社する前からあったもののようだが、誰がやっていたのかは知らない。いつもそこにあるのが当たり前に思っていたのに、いつからか無くなってしまって、ずっと気になっていたものだ。
その花瓶のことが心のどこかに引っかかりながら日々の仕事に追われていた時、ふと、給湯室の水道の下の棚に小さくて可愛いコロンとした花瓶が一つ、置いてあったのに気がついた。休憩室のテーブルに置いてある花が生けられていたものだとすぐに分かる。そうして、気になっていたものの答えが出た時、彩乃は居ても立っても居られなくなった。誰がやっていたのか分からない習慣を、自分が引き継ごうと思ったのだ。
花瓶はとても小さいサイズで、花屋で買うような大きな花は活けられない。さてどうしようかと思った彩乃は、まずは自分の部屋に花を飾ることにした。花屋で手頃な花束を自分用に買って部屋に飾り、その中から少しを切った余りを持ってくる。それが小さな習慣になった。
その日も同じように花の世話をする。給湯室で前の花を始末して持ってきた花を活けた後、カフェで買った飲み物と、花瓶を片方ずつ、両手に持って休憩室をそっと覗いてみた。一応、人がいないかどうかを確認したのだが、その日、彩乃はそこに信じられないものを見た。
人がいたのだ。
いや、信じられないというのは語弊がある。ここはいくつもの会社が入っているオフィスビルだし、この階にはもちろん彩乃の勤務先も入っている。ということはここで働いている社員だって休憩室にくるだろうし、いて当然だ。だが、彩乃は社員と鉢合わせしたことはほとんど無い。1年間よくよく観察した結果、誰も来ない時間を選んでいるからだ。
人がいるなら仕方がない。それも知らない男の人だ。用意した花瓶は給湯室に置いておこう、そう思って、静かに足を後ろに引く。
が、早々に見つかった。
「おはようございます」
男らしい、低く甘くない声が聞こえた。
男が携帯端末をいじっていた顔を上げ、椅子をガタンと引いてこちらを見ている。この時間だ、彩乃と男以外に人がいるはずもなく、今の挨拶が彩乃に向けられたことは明白だった。誰もいないと油断していた心はなかなか立直らず、言葉が出てこない。
「お、ハヨウゴザイマス」
かろうじてそれだけ言って、ジリジリと後ずさるが、それよりも先に男が立ち上がってこちらにやってきた。男は随分と背が高く、長いリーチですぐさま彩乃の元に辿り着く。思わず身構えたが、男はもちろん何もすることなく、軽く会釈をしてすれ違った。
「その花。朝早く、ありがとう」
「えっ?」
すれ違うだけのはずだったのに、男から驚くほど優しい声が聞こえてハッと顔を上げる。男の人と、思いがけず近い場所で目があった。
とても近距離だったが、いつも初対面の男の人に感じる苦手意識は感じなかった。
****
その時、あまりに慌てていた彩乃は花を休憩室に飾ることができず、給湯室に置いてしまっていた。ひとまず翌日、給湯室から休憩室に移動させることによって飾ることはできた。その日の朝は誰もおらず、安堵する反面、あの人はいったい誰なんだろうというかすかな疑問が残る。「ありがとう」とお礼を言ったということは、きっと同じ階の人で、同じ階だとすれば、同じ会社の社員のはずだ。
だが見たことのない人だった。ということは、働いている部署が大きく違うのだろうか。彩乃はそう結論付けた。とはいえ、一年間一度も声を掛けられたことのないほど上手くやっていたのに、あの日たまたま花のことを知られたというのは、気になる出来事であるのは間違いなかった。これからどうしようという気持ちもあるけれど、そこまで後ろ向きな感情でもない。どちらかというと、好奇心に近い。
男の正体を彩乃が知る機会は、案外すぐにやってきた。
オフィスビルに入っているレストランに、先輩社員の水戸とランチにやってきた時、同じようにランチに来ているらしい男の姿を見かけたのだ。がっしりとした体格の背の高い、硬い表情の男は間違いなくあの時に見た人だ。同僚らしい線の細い男の人と並んで、トレイにサラダを取っている。
あ、と思った瞬間、男が視線を持ち上げた。今までどこか硬い表情だったのが、不意に優しい眼差しになってぺこりと頭を下げられる。その自然な仕草に自分も思わず頭を下げた。交わした視線はそれだけで、男は同僚と一緒に彩乃達がいる方向とは別の席に移動していく。
「あれ、ゆきちゃん、山科と知り合い?」
「やましな?」
「さっきの男。秘書課の山科でしょ?」
「すみません。お名前は知らなくて」
「ああ、そうだったのね。秘書課の山科薫っていうの。一緒にいるのは城谷健司ね」
先輩の水戸の話によると、彼の名前は山科薫というらしい。彩乃と同じ会社なのだが今まで知らなかったのは、最近まで別の拠点で仕事をしていたからだそうだ。ちょうど彩乃と初めて会ったあの日、本社に異動になったのだという。ちなみに城谷のことはなんとなく知っている。秘書課のイケメンとして、女性社員たちが憧れの眼差しで話していたのを聞いたことがあった。
「ゆきちゃんは入社二年目だから知らないと思うけど、山科と城谷は入社五年目でね。私と同期」
本日の日替わりはおろしハンバーグだ。付け合わせの卯の花を飲み込んだ水戸が教えてくれた。同じ経理課の水戸は彩乃の教育係だった社員で、トレーニングが終わっても仲良くしてくれている。いやらしさのないサバサバした女性で、いつも心地よい距離感で気に掛けてくれる人だった。「湯木」という名字の響きを気に入って、彩乃のことをいつも「ゆきちゃん」と呼んでいる。
「同期、ですか」
「うん。でも本社で一緒だったの一年くらいかな。いくつか立ち上がった拠点あったでしょ? そっちの手伝いをしてたんだって。で、その時の頑張りが認められて、常務が戻したがったみたい」
「そうなんですね」
常務は今年確か六十歳になられる穏やかな紳士で、有能な若手を秘書課で育てては放流しているという御仁だ。わざわざ呼び出されてその秘書課に配属されたとのことだから、常務に認められているということだろう。だが、それならばなんとなく女性社員が放って置かないような気がした。
「モテそうですね」
「え、誰が?」
「え? あの、山科さんが」
「どこが?」
きょとんとした顔で首を傾げた水戸を見て、彩乃もきょとんと首を傾げた。何かおかしなことを言っただろうかと思ったが、何がおかしかったのか分からない。
どこが? と言われても、彩乃から見て山科は……外見だけではあるが、男らしい顔をしているし背も高い。体格も良さそうだし、常務に認められた出世間違いなしの有能な社員ではないか。
そう言ってみると、水戸はふうん、という顔をした。
「山科はモテる……って感じじゃないと思うけどな。気になる?」
「えっ、違います!」
「うん、ごめんごめん。変なこと聞いちゃって。でもゆきちゃんが男の人を気にしてるの、珍しいなって思って」
「気にしてるってわけじゃ……」
気にしてるわけではない。ただ自分だけだと思っていた小さな世界に不意に入ってきた人だったから、少し気になっただけで。そして、ちっともそれが嫌な感じではなかったので、心の中に拒絶感が生まれなくて、それが気になっただけで。
不思議な人だな……そんな風に思いながら、もう一度、ちらりと山科の方を見ると目があって、彩乃は慌ててハンバーグに視線を戻した。
****
語尾を小さくしながら唇をとがらせ、ハンバーグを切り分けている彩乃をちらりと横目で見ながら、水戸はそれ以上の言及を止めた。山科と城谷、並んでいれば、十中八九、城谷の方がモテると女性は判定しそうだが、彩乃にはどうにもそのように映らないらしい。
どういう経緯で山科のことを見知ったのかは分からないが、なんとなく女の勘で分かることもある。
それゆえ、あまり追求してはその小さな可能性が壊れてしまうかもしれないことに気がついて、とりあえず今日のところは美味しいランチに集中することにした。水戸は彩乃が男と恋愛を苦手としているのを知っている。だからこそ、この可能性を大事にした方がいいと思ったのだ。