山科と彩乃は、それからオフィスの廊下やカフェ、休憩室の自販機に飲み物を買いに行った時など、少しずつすれ違い、視線が合うようになった。同僚なのだから、すれ違えばお疲れ様ですと挨拶もするし、そうでなければ会釈をするのは当たり前だ。普段ならそのように誰かと挨拶をしても気に留めたりしないのに、なぜか彩乃は山科とのそうしたごく小さな邂逅が心に残った。単に朝「おはようございます」と言われただけなのに、「あ、今日は会えたな」という方向に思考が傾く。今日は見かけたな、とか、今日は見かけないな、とか、そんな風にいつの間にか目で追いかけてしまうのだ。
きちんと言葉を交わしたのは、花を活けようと朝早くに出社した時だった。いつものカフェでホワイトモカを熱めでオーダーし、赤いランプの下で待っていると、隣に背の高い男の人が並んだ。思わず見上げると、男の人は少し小さな声で「おはよう」と挨拶してくれる。
山科さんだ。
小さな彩乃と視線を合わせるように山科が顔を下ろすと、いつも挨拶するときよりも視線がぐっと近づく。思わず身構えそうになったが、眼鏡越しのクリアな視界で見る山科の目は、とても真面目で穏やかそうで、不思議と緊張感が解けてなくなった。
「おはようございます」
彩乃が返すと山科は頷いて、カウンターの向こうで店員がコーヒーを淹れている様子を見ている。自然、彩乃もそちらに視線を向けて、ホワイトモカの上に生クリームが乗せられていくのを見つめた。たまたま鉢合わせしただけなのに、まるで二人して一緒にコーヒーができるのを待っているようで、ふと、なぜか隣の山科が気になった。ちらりと見上げると山科と目が合う。
慌てたが、逸らすのも失礼な気がして何か言おうと口を開くと、山科が先制した。
「ここでいつも、買ってるのか?」
「あ、はい。朝早く来た時は、いつも」
「そうか。……あの、白いやつ?」
山科の視線の先には店員がホワイトモカの仕上がりに削りチョコレートを掛けてくれているところだった。出来上がりを告げられて、カップがカウンターの上に置かれる。山科はそれを引き寄せて、彩乃に持たせてくれた。
「ありがとうございます」
「白くて、甘そうだな」
「今日はちょっと甘いものが欲しくなったんです」
「俺もたまにそういう時がある」
「えっ?」
からかうような笑みではなく、楽しそうな声で山科が言いながら、自分のコーヒーを受け取った。男らしく精悍な顔つきの山科が、甘くてクリームたっぷりのホワイトラテを飲むところを想像して、思わず顔をほころばせると、香ばしくて温かなコーヒーの香りが届いた。
そのいい香りに、心がすうっと解けるような心地がする。
「いい匂い」
「コーヒーに詳しいわけじゃないが、朝はこの匂いじゃないと目が覚めないんだ」
「私もそういう時あります」
「いい匂いだよな」
言いながら、ごく自然に一緒に飲み物を持って店を出る。裏の入り口を通ってエレベーターに乗った時、やっと彩乃は気がついた。まるで二人で一緒に出社したみたいではないか。
エレベーターが開いて先に降ろしてもらった。彩乃は休憩室に用事があり、山科は秘書課に行くはずだ。隣を歩いていいのかな? ここでお別れなのかな? そう一瞬思ったが、山科がそのまま休憩室に歩いていくので、彩乃もついていく形になる。当たり障りのない会話もちっとも嫌ではなく、休憩室に着いてしまった。
山科は当然のように座り、コーヒーを置いた。そうして、立ち竦んでいる彩乃に視線を向ける。いくら男の人が苦手な彩乃でも分かった。山科の視線は「座らないのか?」と聞いているのだ。出社したらそれぞれの部署に行く道筋が正しいはずなのに、まるで申し合わせたように一緒に休憩室に来てしまって、どうすべきか一瞬迷った彩乃は、花瓶の存在を見て思い出した。
「私、ちょっと」
「ああ」
すぐに理解したように山科が花瓶を彩乃の方に押し出した。
「これか」
「はい」
「俺はしばらくここにいる」
お互い用事があるわけではないから、別に山科が休憩室でコーヒーを飲もうが彩乃が給湯室で花の水を換えようが関係ないはずだが、山科がそのように言ったことに彩乃は何の不自然さも感じなかった。ただ何となくホッとして、頷く。
「行ってきます」
「荷物は見ているから、ミルクも置いて行けばいい」
肩にカバンをかけ、花を入れた紙袋を持った彩乃は、そこにさらに花瓶とホワイトモカを持とうとして呼び止められる。
「ミルクじゃありません、ホワイトモカです」
「ホワイトモカ?……分かった、覚えた」
慌ててテーブルの上にカバンと飲み物を置いて、紙袋だけを持って給湯室へと急いだ。
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いつもは自分のペースで作業するのだが、気持ち急いで花を花瓶に活ける。戻ると山科はコーヒーを飲みながら、携帯端末を見ていた。彩乃が戻ってくると顔を上げて、口元を緩める。彩乃が椅子に座ると、山科は小さく笑った。
「綺麗な花だな。持ってきたのか?」
「はい。あ、自分の部屋に飾ろうと思って買うんですけど、小さな部分とか切ってしまうので、余ったものを」
「そうか。小さい花瓶だからちょうどいいな」
熱めに作ってもらったホワイトモカは、ちょうどいい温度になっていた。口をつけると、しっかりとした甘さが喉に心地いい。ほのほのとした沈黙をどうしようかと困ることもなく、山科が無骨な太い指でそうっと花瓶に生けた花に触れてみている様子を眺めながら、ふっと頭に思い浮かぶ。
早起きしてよかったな。
「たまに早起きしたらいいことがあるもんだな」
「え?」
思ったことを言い当てられたみたいな気持ちがして、彩乃はびっくりして瞳を丸くした。発言した山科の方を見ると、テーブルの上に置いてあった携帯端末が振動する。
それを見た山科が、何かを操作した。
「常務だな」
「そうなんですか? いつもこんな時間に?」
「ああ。湯木さんは、経理だったっけ」
「はい、あ、山科さんは秘書課……」
言った瞬間、彩乃は名前を呼んでしまったことにハッとすると、山科もまた、少しだけ驚いたような顔をしていた。言い訳をしようとする彩乃の言葉を遮るように、山科が先制する。
「知ってるんだな、俺の名前」
彩乃は山科と自己紹介をしあったわけではない。それなのに思わず名前を呼んでしまった。謝ろうとした彩乃を「大丈夫だ」という風に手で制した山科は、立ち上がり、少しだけ気恥ずかしそうに自分の額に触れている。
「水戸先輩に聞いて。ランチで見かけたときに」
「そうか。水戸は同期なんだ」
「はい」
「俺も、水戸に聞いた。水戸と同じ経理の……湯木、彩乃……、さん」
彩乃が頷くと山科が笑んだ。真面目で融通の効かなさそうな顔をしているのに、笑うととても優しそうで心が穏やかな気持ちになる。男の人の表情を不安に思うことなく真っ直ぐに見つめられるなんて、初めてだ。
山科は飲みかけのコーヒーを持って立ち上がった。
それじゃあまた。
そう言って、休憩室を出て行く。ぺこりとその背中に会釈して、出て行く様子を見つめていると、休憩室と廊下の境目あたりで、山科が振り返った。
お互いに瞳が合って、初めてずっと背中を視線で追いかけていたことに気がつき、彩乃の頬が赤くなる。山科も少し照れたように瞳を伏せて、最後にもう一度軽く手を上げて秘書課のある方へと歩いて行った。