004.私から見た、あなた

日々過ごすに連れて、山科から彩乃に声をかけることが多くなった。単なる挨拶だけではなく、足を止めて話をする。普段の彩乃ならば、よく知らない男の人と話すことなんてないだろうと思っていたが、不思議と山科とは話すことが多くあった。秘書課での話、常務の話、そして彩乃の所属する経理課の話。もともと山科がいない時であっても、秘書課と経理課は何かと顔を合わせることが多かった。

その日、山科が彩乃に伝票の依頼をする時、小さなミルク飴を机の上に置いてくれた。

「あ、ありがとうございます」

「今日のカフェ、ちらっと見たけどランチが照り焼きチキンだった」

「本当ですか?」

「ああ」

じゃあ、その処理頼む。そう言って、山科が秘書課に戻っていく。しばらくその背中を見送った後、山科が置いていった伝票に視線を落とすと、離席していた水戸が戻ってきた。

「今の山科?」

「はい、この間の出張の精算だそうです」

他にも幾つかの伝票をまとめて確認している彩乃に山科のことを聞きたくてたまらなかったが、水戸はなんとか我慢する。山科と話した後の彩乃は、すごく愛らしい顔をしているのに気がついているだろうか。言葉を交わせて嬉しかった、そういう顔をしているのだ。

山科に彩乃の名前を教えたのは水戸だった。水戸は山科と同じ秘書課の城谷とよく話す仲なのだが、その時たまたま一緒にいた山科に、「そういえばランチの時に一緒にいた女子社員は……」というわざとらしさで、話題を振られたのだった。聞き方が下手すぎると思ったが、名前だけは教えてあげた。同僚に同僚の名前を教えるのは悪いことではあるまい。いつの間にか、言葉を交わす程度の仲にはなったらしい。

山科は女の噂を一切聞かない真面目な男だ。彩乃もどことなく気にしているし、余計なお節介にならない程度に世話を焼いても馬には蹴られないだろう。

自分も仕事に戻ろうとパソコンに目を向けた時、彩乃が「あ」と声をあげた。どうしたのかと振り向くと、彩乃がにっこりと笑う。

「今日お昼どうしますか? カフェの日替わり、照り焼きチキンなんだそうです」

「おいしそう。行こうか」

「はい。山科さんが、教えてくれました」

ニコニコとそうやって報告する彩乃に、いよいよ世話焼きオバちゃんをしたくなる。

「山科、いいやつでしょ」

「はい、さっきミルク飴くれました」

ほら、と言って小さな包装紙に包まれた飴を見せてくれる。今のところ彩乃にとって「飴をくれるお兄さん」という認識なのだろうか。しかしそうは言っても、水戸が見る限り彩乃がそれほど男の人に興味を持つことはほとんどない。常務のような優しそうなおじいちゃんのことは気にかけているが、年の近い同僚の話をすることはない。

それならば男性社員の方はどうかというと、眼鏡をかけたおとなしそうな愛らしい彩乃のことをかまいたい同僚は一定数いるのだが、そういう男たちはなぜか皆、一様にアプローチの仕方を間違える。彩乃は真面目で初心なのには間違いないが、気弱そうに外見とは裏腹に、実は頑固で推しに強い。それゆえ、軽薄なアプローチは通用しないのだ。

真面目で誠実な山科は、彩乃にぴったりだと思う。

もっとも、本当にこれでは世話焼きオバちゃんだから、今はまだ、何も言わないが。

「少し早く行っちゃう? カフェ」

「はい、もう少ししたらキリがいいです」

「了解」

カフェに行ったら多分、山科いるだろうな……と予測したが、それは彩乃には言わないでおく。十五分後、果たしてそれは水戸の予想通りになるのだった。

****

「やっぱり来たな」

「山科さんが言うから」

そう言いながら山科が笑って、彩乃が頬を赤らめた。ビルに入っているカフェは、カフェと言っても注文した品物を自分で取ってレジに並ぶセルフ方式だ。彩乃たちが向かうと、ちょうど同じくらいのタイミングで山科と城谷がやってきた。水戸と彩乃、山科と城谷がカウンターにトレイを滑らせながら、厨房に注文したのは今日の日替わりだ。

「この子が噂の水戸の後輩?」

「え?」

互いの顔見知りが四人並んでレジをすませると、自然、ランチの席は相席になった。斜め前の席に座った城谷が、興味津々の顔で彩乃を見ている。彩乃はお箸を持ったまま動きを止めてしまった。

「経理の湯木さんだっけ。僕は水戸と、こっちの山科の同期で、秘書課の城谷だよ」

「はい、知ってます、城谷さん」

「何度か見かけるけど、なかなかこうして話す機会ないよね。僕が持って行く伝票はいっつも水戸が処理してしまうし」

「あなたがいつも私に押し付けるんでしょうが」

呆れたように水戸が肩をすくめた。二人のテンポのいいやりとりに口を挟めずにいると、城谷が彩乃に向かってにっこりと笑ってみせる。

女性が放っておかない系のすっきりとした、それでいて人懐っこい笑顔だ。城谷は女性に人気だという話だが、彩乃の偏見からすると、そういう男性社員は幾分軽薄なところもあるような気がする。実は彩乃はこういう、距離感のちょっとよく分からない男性と笑顔が苦手だった。社交性の強い人は一緒にいると話題に困らないし、沈黙を持て余すことはないが、こちらはこちらで弱い社交性をなんとかカバーして話を合わせたりしなければならない。それが苦手で、疲れるのだ。城谷は山科と違って、少し言葉が軽やかで表情が豊かな人だった。

「ほらほら、可愛い女の子だからってすぐそうやってニコニコしない」

「可愛い女の子にニコニコして何が悪いんだよ、ねえゆきちゃん」

「ちょっと、私のゆきちゃんを『ゆきちゃん』って呼ぶの止めてくれません?」

同期のよしみだろうか、まるで夫婦漫才のように軽妙な会話を繰り広げ始めた水戸に、標的の外れたらしい彩乃がホッとしていると、山科が目配せをして箸を持った。

「冷める前に食べるか」

「はい」

両手を合わせてぺこりと頷き、照り焼きチキンにお箸をつける。甘めでコクのある照り焼きソースがこんがり焼けた鶏肉と野菜に絡んで美味しい。下にパスタが敷かれていて、いい味になったソースが沁みて、これもまた美味しいのだ。もぐもぐと食べていると、柔らかい眼差しの山科と目があった。

城谷の面白そうな声が割り込んでくる。

「最近、山科がニヤニヤしてて気持ち悪い」

「何よそれ」

相手にしているのは水戸だ。

「無愛想で有名な山科が、本社こっちに戻ってきてから本当にずっとニヤニヤしてるんだよ」

何か含みのありそうな口調で、城谷が山科と、そして何故か彩乃の顔を見比べている。だが、彩乃は城谷の視線よりも言葉が気になった。

「無愛想、ですか? 山科さんが?」

「やめろ、城谷。誰が無愛想で、誰がニヤニヤだ」

「お前だろ。一緒に研修した時は、相手を威嚇するなって、めちゃくちゃ怒られたじゃないか」

「威嚇していないし、あれは入社一ヶ月だろうが」

「こっちに戻ってきた時もほとんど変わってなくて、常務に笑われてただろ」

「だからやめろって」

彩乃が首をかしげる。山科は確かに、城谷のようにいつも笑ったり、表情の起伏が激しくはないが、無愛想、とか、相手を威嚇する、ということはなかった。むしろいつもやんわりとした笑顔で、優しそうな人だなあという印象だったからだ。

「意外です。山科さんいつも優しそうだから」

「えっ、山科がなんだって?」

先ほどまでのどこか世間話の軽い風に話していた城谷が、本気で驚いた、とでも言うように聞き返してきた。何かおかしなことでも言ってしまっただろうかと思って彩乃が水戸を見るが、水戸は今度は助け舟は出さないつもりのようだ。

「あの……山科さん、いつも優しそう、って思ったんですけど……」

しかしよく考えてみれば、異性のことを「優しそう」と評するなど、相当恥ずかしいことを言った気がする。じわじわと喉の方から熱くなってきて、頬が赤くなったと自覚した時、ちらりと見た山科は口元に手を当てて彩乃から目を逸らしていた。

「す、すみません変なことを言って!」

「いやいや、変なことじゃないよ。でも『いつも』っていうのが可愛くて」

「そうよ、ゆきちゃん別に変なこと言ってないよ。むしろ城谷の頭がおかしい」

「なんだとう」

彩乃が謝ったのは山科に対してだが、フォローを入れてくれたのは水戸と城谷だった。再びじゃれあいが水戸と城谷に移って、ホッとして、恐る恐るもう一度山科の方を見ると、山科は視線を逸らしたまま「ありがとう」と彩乃になぜか礼を言った。