005.優しそうなひと

あの山科が「優しそう」とは。

思いがけない言葉に、城谷は顔が緩まるのを止められなかった。

同期の山科は普段から「優しそう」などという形容が一番不似合いな男だ。朴訥としていて、愛想がない。細身で中性的な顔つきの城谷と正反対の山科は、精悍な顔つきと体格で一定の女性から人気はあるのだが、しかし、いわゆる「モテる」という風ではない。端的に言うと女性に縁がない。真面目そうな人という評価はよく聞くが、優しそうな人という評価は聞かない。

普通、人間関係を円滑にするためにも、愛想の一つや二つは振りまくものだろうと城谷は思っている。例えば女性社員に挨拶をされれば、にっこりと笑うくらいは当然だ。しかし山科の場合はそれがない。城谷と違って女性に優しくはなく、どちらかというと女性とのアプローチにも興味が無い。合コンなどには連れていけないタイプだ。それなのに、彩乃からはなぜか「優しそう」という形容が出た。女性からの「優しそう」は褒め言葉ではないというが、彩乃のそれは、違うだろう。

そして思い返してみると、確かに「優しそう」なのだ、あの山科が。特定の女子社員限定で。つまり彩乃限定で。

たまに顔が綻んでいることがあったから何かと思っていたが、水戸と山科の三人で話していたときに気がついた。山科が水戸と一緒にいたという女子社員の話を出したのだ。わざとらし過ぎる。城谷も一緒にいたときに見かけたと言っていたが、正直城谷は気がつかなかった。

それから、朝出社したときに妙に機嫌がよかったり、経理課から戻ってきた後、やけに口元が緩まったりしていたのでおかしいと思ったのだ。

水戸は何か思うところがあるらしく、余計なことはするなと釘を刺されている。もちろん城谷も応援するつもりだ。だが、あの堅物人間が「優しそう」な顔を向ける女性を初めて見たのだ、好奇心を持ってしまうのは仕方がないだろう。

などと考えながら、パソコンから顔を上げると、常務と本日のお供の山科が、社長との打ち合わせから帰ってきたところだった。

「何かよいことでもあったのですか、城谷くん」

「常務、お疲れ様です。山科もお疲れ」

ノートパソコンを落として立ち上がると、常務は人の良さそうな顔で頷いた。山科は常務の上着と鞄を準備している。

「お疲れ様です。今日はご苦労様でした」

「いえ、お話、いい方向に進みそうでよかったです」

ちょうど、当社の拠点と複数社の業務の提携とデータ連携がカットオーバーになったところだった。実業務は秘書課が行うわけではないが、常務のトップ営業から始まったこの話をまとめるために、秘書課も各部署への資料提供や調査などに協力していたのだ。ようやくその業務も秘書課から離れ、その報告を社長に行っていたのだろう。

時間は少し遅くなったが、今日は常務のおごりで秘書課で飲みに行くことになっていた。……といっても、秘書課のメンバーは課長と山科と城谷、それに秘書課をまとめている常務の四人だから、少人数でしみじみと飲む程度である。しかも今日は課長が不参加だから三人だ。

社長との打ち合わせの間、残作業のメールや電話、資料の整理と留守番をしていた城谷は、店の予約も任せられていた。

「お店、予約しておきましたよ。行きますか?」

「ええ、私はもう出られますよ。しかし三人だけですか?」

「南方さんは早く帰るそうです」

「ああ。お子さんがいらっしゃいますからね」

ちなみに南方、というのは秘書課の課長で鬼の南方と言われている四十代半ばの女性である。居住まいの美しい仕事ができる人だが、鬼の南方という二つ名からも分かるように厳しい御仁だ。基本的に若い社長のお供というかお守りをしているが、毎日相当絞られていると聞く。秘書課の山科と城谷の二人も、もちろん鬼の南方に厳しく育てられた口だ。

まあそれはいいとして、城谷も帰宅の準備をして席を立った。山科が常務を先導して扉を開けると、おや?という顔をした。先に部屋を出た常務も、おやおやと優しい声を上げる。

「まだ残っていたんですね、経理の湯木さんと水戸さん」

フロアの一部が明るくなっていて、誰が残っているかと思ったら経理課の二人だった。

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月次や年次の処理以外の残業は、それほど多くは無い。しかし、今日は提出の遅かった処理待ちで、全て終える時間が後ろ倒しになってしまった。経理全員でやるほどの仕事ではないので、水戸と彩乃で残って処理していたのだ。

最後の読み合わせをしていると、常務の部屋……秘書課の扉が開いた。

出てきた山科と目が合って、思わず読み合わせの声が止まる。

「ゆきちゃん、どうしたの?」

どうしたの、と言いながら、水戸も山科たちが出てきたのに気がついたようだ。常務からかけられた声に頭を下げると彩乃と顔を見合わせる。

しかし真っ先に二人のところにやってきたのは山科だ。

「湯木さん、まだ残っていたのか」

「はい。山科さんたちも」

「ああ。今から帰りだ」

「お疲れ様です」

山科は、少し眉尻を下げて心配そうな顔をしていた。その顔に小さく笑って、「読み合わせが少し残っているだけです」と帳票を見せる。その間に常務と城谷もやってきて、水戸と彩乃のデスクを見下ろした。

「あと少しで終わるのですか?」

「常務、お疲れ様です。はい、あと一枚、読み合わせしたら終わりです」

「ほう、それなら、よかったら一緒にどうですか? これから二人を連れて食事に行く予定なのですが」

「え? でも……」

「わあ! 本当ですか? ぜひ行きたいです! ゆきちゃん、チャチャッと読み合わせしてしまおう!」

常務からの誘いに水戸が瞳を輝かせた。どうやらこれから常務と城谷、そして山科の三人で飲みに出かけるらしい。あと十分、十五分程度で終わるならば一緒にどうか、ということだった。

山科が城谷に予約が大丈夫なのかと問うと、もうすでに城谷が店に電話をかけているところだった。席だけの予約だったので、二人が滑り込む余裕はあるようだ。

常務のおごりに二人も増えるなんて申し訳ないと思ったが、水戸が二つ返事で了承したため、ついていくほかない。ただ、正直な気持ちを言うと、もともと一人暮らしで彼氏もいない彩乃に、夜の予定はないし、それに山科が一緒だというのも少し……楽しみだった。

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店は会社から歩いてすぐの、個室のある居酒屋だった。常務と城谷、そして水戸が先導し、後ろを彩乃がついていく。自然、山科が彩乃の隣に並んだ。

背が高く、彩乃は山科の肩くらいだ。

「夜になるとまだ寒いですね」

「ああ、大丈夫か?」

「大丈夫ですよ、春コート買って正解でした」

「それを買ったのか」

「まだ寒いかなと思って」

もう桜も散ってしまったはずなのに、夜はまだ随分冷える。スプリングコートは着る期間も短いからいつも新調するのを迷うのだが、用意して正解だった。そう言ってコートの襟元を狭めてみせると、山科は大真面目に頷く。

「前は閉めたほうがいい。風を通さない」

「はい」

それに対して彩乃も神妙に頷いて、ごそごそとボタンを留めた。

それを聞きながら悶えているのは、前を歩いている水戸と城谷だ。ヒソヒソと声を潜め、後ろの二人に聞こえないように互いに耳打ちする。

「ちょっと、そろそろあのめちゃくちゃ可愛い小動物の話を詳しく聞きたいんだけど」

「っていうか、山科ってあんなオカンみたいなキャラだった? そっちこそ詳しく聞きたいんだけど」

春なのに冷える夜、新しいコートを買ったと笑う女性に「温かそうなコートだな」という褒め言葉は、真面目でいい言葉だが、口説き文句としてはいささか年季の入った夫婦か、久しぶりに会った娘に対する母親の言葉か何かのようだ。しかし、それに対して二人とも非常に楽しそうなところが水戸と城谷を悶えさせる。

ヒソヒソ話は後ろの二人には聞こえていないが、常務には聞こえているようだ。

「若いとはいいですねえ」

ふっふ、とニコニコ笑いながら、将来有望な若者たちに食事を奢るのを、実に楽しみにしているのだった。