「ゆきちゃんこっちも食べる? 油揚げの焼いたやつ、前に食べた時美味しかったよね」
「はい、食べます。あ、自分で取りますよ」
「いいよいいよ、ついでだから取っちゃうね」
彩乃の隣に座っている水戸が、小皿に焼いた油揚げを取り分けた。彩乃は瞳を輝かせてまじまじと見つめた後、綺麗にお箸で切り分けて、パクリと一口食べる。
もくもくもく……と、まるで小動物か何かのようによく噛んで食べる彩乃の様子を山科が凝視している。どうだ、かわいいだろう。ハムスターのようだろう。山科、もっと悶絶しろ。水戸はそう思ったが、もちろん口には出さなかった。
彩乃の大きな瞳に可愛いメガネがよく似合っている。そのガラス越しに二人の視線が合ったが、彩乃はモグモグとよく噛んでいるため話すことができないらしく、二人はそのままじっと見つめあっていた。
「おいしそうだな」
山科がそう言うと、食べ終わった彩乃が大きく頷く。
「すごく美味しいです、山科さんも食べますか?」
「食べる」
それにしてもそんなに凝視したら、いくら彩乃でも警戒するだろう、それ以上凝視するのは止めなさいと思ったが、彩乃は山科の視線を違う方向に受け取ったようだ。山科も頷いて、彩乃が小皿に料理を一切れとネギをたっぷり乗せてくれるのを待っていた。その間も、山科は彩乃の指先の動きを見つめ、「はいどうぞ」と言った眼鏡越しの目を見下ろしている。
「水戸、僕もあの料理食べたいんだけど」
「はいはい、お皿空けちゃってください」
「お前冷たいね。ゆきちゃんと比べて」
「なんで私が城谷に温かく対応しないといけないの」
「温かくか。それはそれで怖いな」
水戸が残り一切れになった焼き油揚げのお皿を取ってやると、城谷がその上の料理をつまんだ。何ごとか考えながらそれを口に運んでいた城谷は、香ばしい大豆の香りと油のコクを楽しむと、中ジョッキを一口二口飲んでゴトンと置く。
「水戸はさ、男いないの?」
「はあ?」
店員に梅酒ロックを頼んだ水戸が、ぎょっとした顔で城谷を睨みつけた。
「いないわよ。突然なんなの」
「そうか、ゆきちゃんは?」
「……いないと思うわよ」
「ふうん」
「ちょっと、ゆきちゃんは止めてよ、あんたと違って純情なんだから」
「僕が純情じゃないみたいな言い方やめてくれるかな。あと僕の好みはちょっと違うから安心していいよ」
「あんたが言うと、安心できないのよ」
「だから、それどういう意味」
彩乃は楽しげに山科と会話をしているので、城谷が水戸に絡んできた。城谷も道理が分からない男ではないので、二人に余計な口出しをしないようにヒソヒソ声だ。しかし、それまでおっとりと日本酒を楽しんでいた常務が、楽しそうに囁いた。
「城谷くんは、女性に人気ですからねえ」
「ねえ、常務もそう思いますよね」
城谷は非常に整った顔をしている。山科のような精悍なタイプではない、いわゆる美形だ。エスコートにも慣れていて、女性にも愛想がいい。典型的なモテ男で、女性の噂にも事欠かない男だった。事欠かない、と言っても、それがどのあたりまで本当なのかは疑わしいが、それは本人次第だろう。
「女性に人気って、常務まで。あのですね、僕は確かにご婦人は好きですけど、後ろ暗いことは何もありませんよ」
「ふうん」
「ふうん、って水戸、お前なあ」
なぜか城谷が困った顔をしているが、それは無視する。常務の空いた盃に日本酒を継ぎ足しながら、水戸は少しだけ声を抑えた。
「山科はどうですか、常務から見て」
「ふむ、山科くんは、少し真面目すぎるところがありますねえ」
「なるほど、分かります」
ウンウンと頷く水戸に、城谷もそこは同意した。
「山科は愛想がないですからね、なあ、山科?」
「おもしろくもないのに笑うのはおかしいだろう」
急に話を振られたが、それに対して山科が、ニコリともしないで答えた。
秘書課の性質上、常務などのお供で多くの人と顔見知りになる機会があるが、そういう場であっても、相手が誰であっても、クソがつくほど真面目を貫くのが山科という男だった。つまり悪く言えば愛想がない。
「女の子から真面目すぎるとか、面白くないなどと言われないか?」
そう問われて、山科がムッとした。
「なぜ分かる」
そしてその返しに、問うた本人と水戸が、ゴホゴホとむせる。まさかあっさり肯定で返ってくるとは思わなかったのだ。お互い酒が入っているからか、余計なことを口走っているようだ。
「今はいないんだろう? その分じゃ、いたとしても真面目すぎるってフラれそうだな」
「長いこといない。好きでもないのに付き合うのもおかしな話だ」
「好きな子がいなかったってことか? だから真面目すぎてモテないんだよ、もったい無い。ねえ、もったい無いと思わない? ゆきちゃん」
「おい、城谷」
急に真顔になった城谷が、彩乃の方に視線を向ける。二人のやり取りを不思議そうに見ていた彩乃が、わずかに首を傾げた。
「真面目すぎると、ダメなんですか?」
「ん?」
「真面目というのは、好きになる理由だと思いますけど……」
その言葉に、山科が驚いたように酒を飲む手を止め、常務が楽しそうに笑った。城谷と水戸が顔を見合わせ、互いに何か気恥ずかしいものを見たように視線を逸らす。
「……融通が利かない、とはよく言われるから反省している」
違う、そうじゃない。
山科と彩乃以外の誰もがそう思ったが、しかし、この二人の雰囲気と空気感を壊さないためにも、そこは全員が口をつぐんだ。
****
最寄駅の方向が同じだという理由で、山科が送ってくれることになった。終電も近くなってきた電車の中は少し混んでいるが、山科の大きな身体が彩乃の壁になってくれている。
「あの。ありがとうございます、送っていただいて」
「かまわない。俺も同じ方向だから、湯木さん」
「あっ」
電車が揺れて、独特のざわめきとともに人の波が動いた。いつもなら小さな彩乃の身体は転がらないようにするのに精一杯だが、今日は山科が盾になってくれているのか、人のぶつかりを感じない。
「湯木さん、悪い、少し我慢してくれ」
もう一度、大きく揺れる。それを予測したのか、揺れる前に山科のつり革を持たない方の手が彩乃を支えるように触れた。山科の大きな掌を感じて彩乃の心臓が跳ね上がるが、謝罪する前に山科の手に力がこもる。
「あのっ、すみません! おも、重くないですか?」
「いや? 重さは感じない」
「でも、今思い切り体重かけてしまって」
「かけてくれた方がありがたい。支えるのが楽だ」
「は、はい」
言われて出来るだけ動かないように、だが少しだけ山科の手に身体を寄せた。しかし、しばらくして電車の揺れは落ち着いても、山科の手は彩乃を支えたままだ。どうしよう、もう大丈夫ですと言った方がいいのだろうか。そう、彩乃が悶々としていると、山科がこちらを見つめる気配がした。
「湯木さん」
「はい!」
緊張のために、声が上ずってしまう。しかし、それに気づいた風も気にした風もなく、山科が彩乃を支えたまま視線を向けている。背の高い山科を見上げるような形になって、近い距離に頬が熱くなりそうだ。
相変わらず、山科の彩乃を見る瞳は優しくて、緊張がホッと解ける。
だが、掛けられた言葉は思いがけないものだった。
「湯木さんは、付き合っている男はいないのか?」
一瞬、何を言われたのかわからない、という風に沈黙してしまうと、山科が気まずそうに視線を逸らした。
「すまん。込み入ったことを聞いて」
「あの……、い、いません」
「そうか、よかった」
「えっ」
よかった、とはどういう意味だろう。だがそんなことを聞く才能が彩乃にあるはずもなく、もうすぐ最寄駅に着いてしまう。
「もうすぐだな」
「はい、ありがとうございます」
「かまわない。あの駅、確かカフェがあったよな」
「あります、けど……」
いつも朝早く出社した時に飲み物を買っているチェーン店の、別店舗が設置されている。なぜそんなことを問うのかと首をかしげると、山科が少し顔を低くした。
「甘いものが飲みたくなった」
「あ」
「飲んだ後は、甘いものかコーヒーのどっちかが欲しくなる」
それを聞いて、彩乃も心当たりがあってクスクス笑う。
「なんだ、俺が甘いものはおかしいか」
「いいえ、全然おかしくないです。私も、同じことをいつも思うから」
「飲んだ後?」
「はい、甘いものとコーヒー、欲しくなるから、たまに水戸さんと一緒に飲みに行きます」
「そうか、よかった。買って帰ろう」
そうだ、山科と初めて一緒にコーヒーを買った時、彩乃の買ったホワイトラテを見て「自分も飲みたくなる時がある」と言っていた。それを思い出して、男っぽい山科が甘いものを飲んでいる姿が想像できなくて、想像したら可愛くて、それで笑ったのだ。
しかし、彩乃の降りる駅と山科の駅が降りる駅は違うはずだ。そのことに気がついて、「あ」と顔を上げた時、ちょうど彩乃の最寄駅に着いてしまった。
「降りるぞ」
「えっ、でも、山科さんの家は」
もたもたしていたら降りる他の乗客に邪魔になる。そう思って、急いで彩乃は駅に降りたが、その間もずっと山科の身体は彩乃を守ったままだ。山科の手は彩乃の肩を離れてしまったが、改札に向かう人の波に押し流されないように彩乃を気遣いながら歩いてくれるのが分かる。
改札を抜けてひと心地ついて、ようやく彩乃は山科に向かい合った。
「山科さん、ここ、私の降りる駅です」
「知ってる」
「山科さんの駅って、二つ先ですよね」
「ああ。それくらいなら歩いて帰れるぞ」
「でも!」
「……付き合っている男がいるなら電話して迎えに来てもらえと言おうと思っていたが、いないんだろう?」
今度は彩乃が目を丸くする。つまり、山科が家まで送ってくれるというのだ。だがそれはあまりに申し訳なくて、ぷるぷると頭を振った。
「そんな、今からなら終電間に合いますよ、申し訳ないです」
「申し訳なくない。いつもは三駅くらいなら歩くから、大した距離じゃない」
「でも」
粘る彩乃に山科が、急に気難しい顔になった。怒られるのかと思って、思わず彩乃が身構える。
だが、違った。
「すまん。……気付かなかった。家を知られるのが嫌なら俺は……」
「ちが、違います!」
いくらいつも三駅歩くからといって、こんな遅い時間に二駅も歩かせてしまうなんて申し訳なさすぎる。困ってしまったが、だが、もっと困っているのは山科の方だった。いくら彩乃が言っても、山科は折れてくれなさそうで、彩乃はいつも異性に何か言われて困るのとは全く別の次元で、困ってしまった。
けれど、嫌な気分は全然なくて、困ってしまうけれど、心のどこかが心地よくて……。
ふと山科の困った顔を見上げると、その大きな身体の向こうにカフェの看板が見える。それを見て、彩乃は「わかりました」と頷いた。
「それなら、ホワイトラテ、おごります」
「えっ」
「送ってもらう、お礼です。かまいませんか?」
女性に奢ると言われたからか、山科は真剣な顔をして考え込む。彩乃がちらりとカフェを見た視線を追いかけて、その向こうに目的の店があるのを見つけた。もう一度、小さな彩乃を見下ろして、そうして
「わかった」
あの優しい、そして真面目な顔で、笑ってくれた。