土日に用意した花を持って、月曜日は少し早めに出社しようと思っていた日だ。いつものように、会社から一番近いカフェでコーヒーを待っていると、山科が隣に並んだ。
「おはよう」
「おはようございます」
ここで山科に会うのもお馴染みになった。路線が同じだから、これくらいの時間に会社に着くようにと計算すると、彩乃と動線が同じになるのだろう。
「今日はコーヒーなんだな」
「はい。苦いのが飲みたくて」
「そうか。俺もだ」
そうして、いつもと同じように一緒にエレベーターに乗って、一緒のフロアで降りる。一番奥の休憩室へ行って鞄とコーヒーを置いて、山科は椅子に座り、彩乃は花瓶を持って給湯室へ行く。彩乃が花の世話をするようになってから一年、変わらないはずの所作なのに、そこに時々山科がいるというだけで、特別な朝のような気がしてしまう。なんとなく「いいことがありそうな日」なのだ。
山科と一緒に居ると、何かを話さなくても、何かを話しても、心が穏やかでいられる。それでいてお腹の中を気持ち良くくすぐられているような、甘い緊張感が漂う。
だが、その日、いつもの山科と少し違う雰囲気で話しかけられた時、その違いが何なのか、彩乃には判断がつかなかった。
「ここの花の世話をしていたのは、湯木さんなんだな」
「はい」
「ずっと気になっていた」
そう言って、山科が口元を緩める。とても甘い瞳で、花瓶を見つめ、次に彩乃に視線を傾けた。何か言いたげに彩乃を見つめていたが、不意に、視線を外して何かを考え込む。
気になっていた、というのは、何だろう。
「気になっていた、っていうのは……」
「誰が、花の世話をしていたのか、っていうのが気になっていた。それが、湯木さんだと分かって、それで、」
気になっていたんだ。そう、はっきり言って、再び考え込む。
「湯木さん、今日、仕事が終わったら、食事に行かないか?」
「えっ?」
「遅くなりそうだったら、連絡してくれ。待ってるから」
「でも、山科さん、あの」
山科が携帯端末を取り出す。取り出して、またも「しまった」という顔をする。
「悪い、また気が急いて……無理にとは、言わないんだが」
「いえ、それは大丈夫です」
メールも電話番号も教えない理由はなかったが、ゆっくりする時間でもなかったのでひとまずラインの交換をする。そういえば、今までそう言った連絡先の交換を行っていなかったなと思い至った。ラインの画面を開いて山科に見せると、手早く登録を行ってくれた。
「……本当は、昼休みにでも話せたらいいんだが、今日は常務と出かけるから」
「はい。あの、常務とお出かけなんですね、頑張って下さい」
「いつものことだ。だが、ありがとう」
そう言って、山科が携帯の端末を確認する。おそらく常務が出社したのだろう。いつものように山科が先に席を立ち、彩乃がその背中を見送る。
「それなら後で。……定時後、また連絡する」
彩乃が頷いたのを確認すると、何度か後ろを振り向きながら、ようやく休憩室を後にする。山科の姿が見えなくなって、彩乃はじわじわと、先ほどの会話の意味を考えた。
彩乃は、恋というものを、おそらく、したことがない。彼氏もいたことがないし、好きな人もできたことがない。中学生の時までは、誰か男の子と話そうものなら隣人が邪魔をしてきたし、高校は女子高で、真面目に女子高生をしていたから男性には縁がなかった。大学生の時には、付き合ってほしいと言われたこともあったが踏み切れなかった。ふざけて眼鏡を取り上げて笑うような異性に、「本当は好きだった」と言われても信用できなかったし、「彩乃ちゃんって見てるといじめたくなる」などとわざわざ言ってくるような異性は絶対に無理だ。激しい感情を向けてきたり、こちらを低く見るような言葉を使ってくる人は、それがたとえその場を盛り上げる小道具だと分かっていても、どう対応すればいいのかわからない、という意味で困惑しかなく、愛情の対象には見られなかった。
だからこそ、この少し浮ついた気持ちの正体に薄々気がつきながらも、どう始末すればいいのか分からない。彩乃の性格から言って、山科に対して期待するなんて絶対に無理だし、かといって彩乃からアプローチする方法など思い浮かばない。
しかしほんの少しの揺らめきに、何かの変化を期待してしまって、楽しいような、それでいて強烈に不安なような気持ちに襲われてしまうのだ。
何か言われたわけではないのに、妙な期待を持つなと自分を戒める。
自分を戒めるために、不安な気持ちを抑えるために、なぜか期待とは反対の、否定する要素を探してしまう。
山科は「誰が花を変えているのか『ずっと』気になっていたと言っていた。彩乃が花の世話をしていたことに山科が気が付いたのは、山科が本社に移ってからだ。山科と彩乃が初めて会った日、山科は転勤してきた。
「私じゃない」
花瓶の世話は、彩乃が入社した時にすでに誰かが行っていた。半年ほどで花瓶を見かけなくなって、気になった彩乃が継続したものだ。だから、山科が見た小さな花は……彩乃の入社の前、山科が本社に居たわずかの間だろう。
どうしよう、自分じゃない。
この、休憩室に置いてある小さな花の習慣は、彩乃が始めたものではない。もし山科が、その花の人を探していたのだとしたら、気にしていたのだとしたら、それは彩乃ではない。
バカみたいだ。
別に何か言われたわけではないのに、「何か」を期待しているみたいで、バカみたいだ。
彩乃はため息を一つ吐いて、山科の連絡先が入ったラインアプリの画面を見た。何の話をするのかは分からないけれど、もし山科が花のお世話をしていた人を探しているのなら、正直に言わなければ。
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気持ちはついていかなかったが、仕事に影響を出すわけにはいかない。水戸は何か言いたげな顔をしていたが、こういう時はそっとしておいてくれる人だ。昼休みに一度だけ、山科から連絡が入った。気持ちは落ちているのに、その連絡だけで浮かれてしまうのをどうにかしたい。入ったメッセージは「定時には上がれるように仕事を終わらせる」とのことだった。
彩乃の方も特別なことがなければ、定時に終われるだろう。だが、何と言えばいいのか分からなくて、既読にしたまま昼休みが終わってしまった。仕事中に端末に触るわけにもいかず、気になったまま定時が来た。
誘いを断る、という考えはなかった。
ただ、期待している浅ましい自分と向き合うのが怖いだけだ。
定時が来て、彩乃は自分のマグカップを洗うために給湯室に足を向けた。休憩室から近い場所にあるそこは、扉があるわけではない。中に先客がいるようで、思いがけず話し声が聞こえてしまった。
その声が、聞き覚えのある低い声だったから、彩乃は思わず足を止めてしまう。
「……わざわざ取りに来たんですか」
「ええ。常務に挨拶もしたかったしね。薫くん、秘書課なんですって?」
山科と、そして山科と親しいらしい女性の声だ。別にやましいことなどないのに、足が動かず、進めない。
「懐かしいわ、この花瓶。よかった、まだあったのね」
その言葉を聞いた時、彩乃の心が一気に強張った。今山科が話している女性、それが彩乃の前の……おそらく山科が本社にいた時の、花の世話をしていた人だ。山科が……、気になっていた人だ。
たったそれだけなのに、彩乃は逃げ腰になってしまう。
「その話なんだけど……こっちへ」
彩乃がその場にとどまるか、後ろに下がるか、前に進むか迷っているうちに、山科の声が聞こえて二人の気配が彩乃の方向にやってくる。給湯室には扉があるわけではなく、ただ物影にいた彩乃はすぐに見つかってしまった。
「湯木さん?」
「あ……」
彩乃の嫌な緊張感とは裏腹に、山科はいつものような優しい笑顔を浮かべた。
「ちょうどよかった。湯木さん、この人が」
「私!」
「え?」
「私が、……私が、花の世話をするようになったのは、半年前なんです」
なぜか。……なぜか分からないが、山科がその女性のことを紹介するのが聞きたくなくて、彩乃は先制した。先制してしまった。
しかし山科の驚いた顔を見て、何をどのように言えばいいのか混乱する。
「だから、」
「湯木さん?」
「だから、山科さんの言ってるお花の人は……」
「ねえ、ちょっと待って。ここで話すと邪魔になるから、ちょっと移動しましょ」
彩乃の声がしぼんだ時、はつらつとした女性の声が聞こえた。そういえばここは給湯室の出入り口だ。彩乃は慌てて「すみません」と頭を下げたが、女の人は「いいのいいの」と笑いながら、彩乃と山科を給湯室から追い出す。幸いなことに、給湯室の周辺にも休憩室にもまだ人はいなかった。
休憩室のテーブルに彩乃が座ると、なぜか隣に山科が座った。山科が気遣うように彩乃を見ている視線を感じたが、いたたまれなくなって俯く。自分がひどくみっともないことをしているような気がして、現におそらく、彩乃はひどくみっともないに違いなかった。
二人の前に座った女性が口を開く。
「薫くん、こちらは?」
言われて彩乃が顔を上げる。改めて目にするこの女性は、緩やかなウェーブがかった黒い髪に、パチリとした大きな瞳、ふっくらとした唇と細やかな首筋、とても華やかで、それなのに派手さを感じさせない人だった。そうして、やはりまっすぐで嫌なところの何一つない真面目な顔をしている。自分に自信などない彩乃には、とてもまぶしい人だ。
それでも、これ以上山科にみっともないところを見せたくなくて、まっすぐ女性に視線を向けると、山科に紹介される前にぺこりと頭を下げた。
「経理課の、湯木彩乃、と言います」
「あ、ごめんなさい、先に名乗らせてしまったわね。私、薫くんの姉、……義理の姉の、山科璃子と言います」
「お、ねえさん?」
「ええ。薫くんのお兄さん、山科忍の妻です」
その正体を聞いて、彩乃の顔にカア……と朱が昇る。勝手に期待をし、勝手に勘違いをしていた。
「湯木さん? どうした」
「い、いえ、なんでも……」
何を期待し、何を勘違いしていたのか、具体的なことを山科に言えるはずもなく、彩乃はぶんぶんと頭を振る。その様子を見て、璃子は小さく笑っていたが、その視線には気がつかなかった。