山科の義理のお姉さんは、結婚する前は彩乃や山科が勤めていた会社に在籍していたのだそうだ。
花を休憩室に置いていたのも彼女で、それを見初めたのが山科の兄で、見初めたきっかけが花を挿している璃子の姿だったのだという。山科の兄はエンジニアとしてこの社に出入りしていたことがあり、社員のいない間に深夜に作業を行い、それが終わった後、休憩室で一服させてもらおうと立ち寄った時、璃子のことを見たのだとか。
常務に頼み込んで紹介してもらい、猛烈なアプローチで今に至る……らしい。
「籍は入れたんだけど、披露宴がまだなの。お世話になった人たちを呼びたいと思っているのだけど、その時に、どうしてもあの花瓶に花を生けて飾りたいって、彼が言うから」
だから、取りに来たのだ、ということだ。
本当は、山科が本社勤務になったと聞いたので、頼んで持ってきてもらおうと思っていたらしい。璃子単独で花を活けていたから、璃子が退社したら花を飾る人はいなくなるはずだ。花瓶は璃子にとってはそれほど思い入れのあるものではなく、退社するときに単に忘れて給湯室に置いたままにしてしまっていたから、すぐ見つかると考えていた。
しかし花瓶はすでに使われていた。
「あ、話って、もしかして。花瓶を返して欲しいと……」
彩乃が隣に座った山科を見上げる。話というのは、花瓶を返して欲しいとか、そういうことだったのだろうか。それならますます自分が慌てたのは愚かだったとそれしか思い浮かばないが、山科は静かに頭を振った。
「いや違う。……その話もしようと思っていたが、今日話したかったのは別の話だ。璃子さんが来たのは不確定な要素だった」
「え?」
「あら、なによ不確定な要素って。お邪魔したみたいで悪かったわね」
言葉とは裏腹に、璃子が実に楽しそうに言った。それに対して山科がなぜか赤面して、静かに、だがはっきりと言った。
「俺は、湯木さんのことで、話がある」
「私の、ですか」
しかしその意味を彩乃は考えることもできず、それならば、一体何の話なのだろうかという疑問だけが残る。もうこれ以上の失態は見せたくなくて、ただただ、心を引き締めた。
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山科の事情も、別段込み入ったものではない。
彩乃に初めて会ったあの日、義姉の璃子に花瓶を持ってかえってきてもらいたいと頼まれていた山科は、少し早めに出社した。誰もいない間に給湯室を探そうと思ったのだ。しかし給湯室には人の気配がしたため遠慮して、休憩室で少し待つことにした。
こんな朝早くに出社する社員がいるのだなと思いながら、携帯端末でニュースなどを確認していると、その人の気配が休憩室にやってくる。
挨拶をしようと顔を上げると、花瓶を持った、彩乃がいた。
黒い髪は綺麗でまっすぐな風だが、日本人形めいた雰囲気は無い。小さな顔に大きなウェリントン型の眼鏡がよく似合っていて、その眼鏡の奥の瞳がパチパチと二度三度瞬きをして、こちらを見ていた。一目見ただけで警戒心が現れているのが分かって、愛らしい小動物を見たのに逃げられてしまう、という焦燥感に一瞬、囚われる。
咄嗟に、できるだけ、ゆっくりと、「おはようございます」と挨拶をしてみたが、やはりこちらを警戒しているか、怖がらせてしまったか、相手は明らかに挙動不審で、判断は付かなかった。これ以上怖がらせるのも忍びなく思い、花瓶のことはすぐに諦めて、山科は礼だけを言ってその場をやり過ごした。
しかし花瓶は回収せねばならない。花瓶のことをどう切り出すか、考えているうちに自然、小さな彩乃に視線が向かう。あまり男性社員と話をしているところは見たことがなく、同期の水戸とは仲が良さそうだ。よく眼鏡の形が変わる。それから、はっきりと分かったのは、所作がゆっくりと丁寧な女性だった。
向こうもまた、山科のことを覚えているのだろう。廊下をすれ違う時、カフェでランチにする時、同僚としては当たり前の挨拶を繰り返すうちに、もっと見てみたい、もっと話してみたい、名前を知りたい、そう思うようになって、山科は朝、早い時間に出社してみるようになった。コーヒーを一緒に買って、彩乃が花の世話をする様子を見て、少しだけ話をする。優しくて穏やかで、そして真面目な彩乃に山科が心惹かれるのに、そう時間はかからなかった。
山科は自分から積極的に異性に近づいたり、好意を持ったりということが無かった。モテるモテないという問題ではなく、元来生真面目な性格から、異性との遊びにあまり無差別な好奇心を持っていなかったというのもある。
かといって、全く女性から声をかけられなかったというわけではなく、時折、山科のような精悍な男が好みの女性から付き合ってほしいと言われたこともあった。しかし、学生のときはそういうのもアリかと思って付き合ってはみたものの、向こうから好きだと言ってきたにもかかわらず、「真面目すぎて面白くない」とか「一緒にいてつまらない」と一方的に言われて別れることばかりで、困惑しかなかった。彼なりに好きになろうと意識を向けたし、大事にしていたはずだが、女の方から離れていく。
結局は好きになった女でなければ付き合うことはできない。そう結論づければ余計に、女性とは縁遠くなってしまった。もともとギラギラと女を探すような性格でもない。
だから、すんなりと視界に入ってきて、すんなりと山科の心を柔らかくする彩乃のことは、大事に、大切にしたいと思う。そして山科のことを彩乃が「優しそう」と形容した時、はっきりと自覚したのだ。もし彩乃の目に山科が優しそうに映ったのであれば、それは相手が彩乃だからだろう。そして自分が優しくありたい女は、彩乃しか考えられない。
その、感情に。
山科は決着をつけるつもりだ。
食事の誘いに応じてくれた彩乃だったが、いつもに増して少し緊張しているようだ。義姉を紹介した時、彩乃を何か不安にさせてしまったようで、しかし何を不安に思っているのかが分からない。いつもなら沈黙も気にならないが、義姉に急かされるように二人で会社を出た山科は、今日は静かな二人の雰囲気に、どこか戸惑いながら予約していた店に通した。
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彩乃と山科が通されたのはソファとテーブルだけの小さなカップル席だった。柔らかなソファに隣に並ぶように座り、カーテンが閉められる。
小さな空間は二人きりを強く意識してしまう。しかも向かいの席ではなく、隣同士、間に境目のないソファに座ると、隣の体温がリアルに感じられた。
「こういう席もあるんですね」
「ああ……すまない、別の席に代わった方がいいか?」
山科が気遣うように問うたが、彩乃はプルプルと頭を振った。緊張はするけれども、もし山科が何か話があるというのなら、向き合う距離感よりも隣り合う距離感の方がいいだろうと思ったのだ。
「大丈夫です。あの……素敵な席だと思います」
「そうか。よかった」
メニューを見て、彩乃が気になったものを一つ、山科が気になったものを一つ、あとはそれぞれ楽しく相談しながら注文した。まずは山科はビール、彩乃は甘めのカルピスサワーを頼んで、グラスを合わせる。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
彩乃は家ではあまり飲まないが、外で食事をするときは、少しは甘いお酒が欲しいなと思う程度だ。料理が来るまでの間、お通しの洋風茶碗蒸しをスプーンでいただきながら、彩乃は山科の話を待った。
「湯木さんは」
「はい」
「時々、眼鏡を変えるんだな。よく似合っている」
似合っている、と言われて、「え?」と彩乃は顔を上げた。今日の眼鏡は一番のお気に入りのウェリントンだが、男の人に褒められたことはない形だ。もっと目立たない大人しいフレームにしておけばよかったと、顔を赤くした。
しかしそれを言うと、そうか? と山科は首をかしげる。
「細身のフレームもよく似合うが、それも可愛らしいと思う」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「コンタクトにはしないのか?」
「あんまり得意じゃなくて。すぐにまつげが入ってしまうんです」
「そうか」
そう言って、山科が彩乃を覗き込んだ。ソファのクッションが少し下がった感じがして、普通に近づくよりももっと距離が近くなった感覚がする。だが後ろに退く余裕もなくて、山科の顔を彩乃も見つめ返すしかない。
「眼鏡、あんまり褒められたことなくて。嬉しいです」
「褒められないか? よく似合うのに」
「褒められないですよ、中学校とか小学校の時は、よくからかわれました」
「ああ」
山科が小さく笑った。それを見て、小学校だの中学校だのの話を出してしまって、しまったと思う。だが、山科はからかうような笑みではなく、気遣うように頷いて、ビールを一口飲んだ。
「中学校とか小学校の時に言われたことって、結構、ずっと気になるよな。俺も背が低くてよくからかわれた。しかも坊主だったからあだ名はチビザルだ。大したあだ名でもないが、それだけに堪えたよ」
「そういうの、ムキになったら余計にからかわれるし、大人にはあだ名くらい大したことないって言われるんですよね」
「だろ」
「私は、メガネザルって言われてました」
「なんだそれ、ひどいな」
「小学校の時ですよ」
「小学校の時でも、だ。そういうの、ずっと気になるだろう」
そう言って、山科はひどく憤慨して、彩乃の頭をそっと撫でた。撫でられたことに驚いて、彩乃が思わず目を丸くすると、山科もまた驚いたような顔をして、「悪い」といって手を引っ込めた。
そうして、その場をごまかすように再びビールを飲んで、続ける。
「高校になって背が伸びて体も鍛えたから、俺はもうあんまり気にしていない。だが言われたことは覚えてる」
山科は今はずいぶんと背が高い。おそらく180cmはあるだろう。だが、小学校や中学校の時は背が低い方だったそうだ。しかも、兄弟二人揃ってバリカンで頭を刈られていたからいつも坊主だったという。背が低いことがコンプレックスだったそうだ。
小学校の時、中学校の時に言われたことは、ひどくコンプレックスになる。彩乃もそうだった。山科はおそらく、中学・高校の時に背が伸びたことで、コンプレックスは気にならなくなったんだろう。だが、彩乃はどうだろうか。
「私、私は……」
「うん?」
「男の子が苦手になって、女子校に行っちゃったんですよね」
「苦手?」
「ひどいことを言ってくるのは、いつも男の子だったから」
「今も苦手か?」
「今も、です。……男の人と付き合ったりとか、したことなくて」
軽く言ったつもりだったのに、山科は急に黙り込んだ。いつもだったら「男の子がひどいことを言ってくるのは、彩乃のことを好きだからじゃないか?」などと返されるのに、山科は彩乃のことを見ながら何かを考えているようだ。今度はさすがに見つめ合うことにはならなくて、彩乃の方から視線を外して俯いた。
「すみません、変なこと言って」
「変なことじゃないだろう」
静かに否定の声が返ってきて、しばらくの間沈黙が落ちる。今まではそれほど苦しくなかった沈黙が、今はなぜかいたたまれなくて、彩乃は恐る恐る問いかけた。
「あの……」
「ん?」
「あの、おかしくないですか?」
「おかしい? 何がだ」
「今時、男の人に意地悪されるのが、いやとか、そういう理由で、その……」
言われて、山科がまじまじと彩乃を見つめる。こんなこと、男の人に聞いたことなんてない。聞いたら何を言われるのか想像もつかず、かといって真剣に聞いてくれるとは思えなかったからだ。女子校の時も、大学の時も、周囲の友達が男の子と付き合ったとか、別れたとか、さらにはそれ以上の深い話まで、よく聞かされたものだが、彩乃自身が男の人と付き合ったことがないと告白するのは、なぜか気恥ずかしさを伴った。もったいないとか、好きな人を作りなよと言われるのはまだいいが、大学生の酔った勢いで「まだ処女なんだー」などというお決まりの揶揄は、彩乃にはきついものだった。
山科はそういうからかいをしてくる人間ではないと分かっていても、どうしても傷つきたくなくて、先まわりのように聞いてしまう。
「おかしくはない。……意地悪とやらをする男が一定数いるのも分かるけどな」
「分かる? ですか」
もちろん、彩乃にも山科が言いたいことは分かる。漫画や小説、ドラマを見ても、好きな女の子に意地悪をしてしまう男の子の話は鉄板だ。しかし実際はあんな風に可愛い展開になることは少ないと思う。少なくとも彩乃にとって、相手を傷つける言動に好きになる要素など、お互い一つもなかった。
全部の男の人がそうだというわけはない。自分のこの考え方自体が、男の人に対してひどい偏見だとも分かる。けれど、やはり苦手なものは苦手で、どうしても上手くかわすことが出来ない。
それならば、山科はどうなのだろう。
当たり前のようにその考えに行きついたとき、まるで彩乃の考えていることを読んだように、ぽつりと山科が口を開いた。
「湯木さん」
「は、い?」
「俺のことは、苦手か?」
笑われたり、困惑されたりするかと思ったのに、山科は真剣な眼差しだった。いつもと少し違う、穏やかな雰囲気はそのままだが、どこか切羽詰まっている。
真剣さは怖くはない。山科と一緒にいたら、どう言えばいいのか困ることもないし、嫌な気持ちにもならない。怖いのは、なぜ笑われるのか、からかわれるのか、全くわからない独特の困惑だ。山科といると、それを感じない。
「苦手じゃ、ないです」
「本当か」
山科が、顔全体をくしゃりと崩して笑う。本当に安心仕切ったように肩の力を抜き、ふ……と息を吐いた。そうして、なぜか「よかった……」とため息を吐くように言う。
「山科さん?」
「俺は、最近いろいろ湯木さんに話しかけたりしていただろう。苦手なのに、無理させてないかと一瞬焦った」
焦っただなんてそんな風に思わせてしまったのかと、彩乃が慌てる。
「山科さんは……私のことを、からかったり、しないでしょう」
「からかわれるようなことを、湯木さんは言ってないだろ」
「そう、かもしれないですけど、山科さんは、意地の悪いことも言わないです、だから……」
だから?
その先に続く言葉、「だから怖くない」と言おうと思ったのに、別の言葉が出てきそうになって口ごもると、山科がなぜか少し眉間にしわを寄せて、視線を彩乃から外した。二杯目のビールをテーブルに置くと、独り言か何かのように続ける。
「それは当たり前だ。好きな女にわざわざそんなことを言わない」
えっ
何を言われたのか一瞬分からなくて、隣に座った山科を見る。……山科も、また彩乃を見ていた。しかしその視線は彩乃と同じように驚いた表情をしていて、直後、顔を真っ赤にして口元を押さえたのだった。