しまった。
山科は気まずげに彩乃から視線を外す。勢いで、いや、勢いだけではないけれど、思わず言ってしまった。彩乃が異性からの意地の悪いからかいや、男特有のいじめ(たくなるというやつだろう)に、困っている様子で、もしかしたら自分もそんな男に見られていたかもしれないという焦りや、そんなことをする男どもから彩乃を隠したいという思いが前のめりになってしまったのだ。
どのように先を続けたらいいのかとためらっていると、タイミングよく料理が運ばれてきた。
マッシュポテトにとろけるチーズをたっぷりかけて、鉄板で焼いたものだ。鉄板の端っこにこんがりと焦げたチーズが泡を吹いていて、とても美味しそうだった。
しかし、なんとなく二人とも箸をつけることなく、互いに何かを打開するタイミングを待っている。
彩乃に気まずい思いをさせている、そう思って、山科は観念した。
「悪い、今のは、間違いだ」
「えっ、間違い?」
「あっ、いや、違う、間違いというのはそういう意味じゃない、言ったことは間違ってない」
聞き返した彩乃に慌てて首を振った。間違いだとほんの少しも誤解されるのはごめんだ。はっきりと否定して、山科はソファに座ったまま、彩乃の方に体ごと向き合った。
「好きだと言ったのは、間違いじゃない。今日、その話をしようと思っていた」
まだ彩乃は事態を飲み込めていない様子で、目を丸くして山科のことを見ている。
「本当は……、もう少し雰囲気のあるところで、ちゃんと言おうと思っていた。その、女の子は、そういうことを大事にするだろ? 俺は、そういうのに疎いから」
今日、彩乃に「好きだ」と言うことは決めていた。彩乃が早く来る日、城谷や水戸に邪魔されない時間に彩乃を捕まえて、夕食に誘って、そこで自分の想いを伝えようとしていたのだ。ただしもう少し、こんな勢いで言ってしまうのではなく、せめて女性が好きそうな場所で言いたい、そう思っていた。
「いつも何にも考えてないとか、言われるからな」
今まで付き合ってきた女性の話など詳細に彩乃に言うつもりは無かったが、それでも、少しばかり言い訳がましく口にしてしまう。女性に何も考えてないとか、一緒にいておもしろくないと言われるのは、おそらく付き合っていた女性を特別扱いしていなかったからだろう。それは山科にも分かっていたが、気持ちを動かすのは難しかった。しかし彩乃は違った。初めてその姿を目で追いかけて、初めて気になって、少しずつ話して、分かった。
人を好きになるというのは不思議だ。無自覚に選んでいた。彩乃のことは、特別なのだ。
「ちゃんと考えて、伝えようと思っていたんだが……」
しかし最終的には、勢いで言ってしまうという失態。山科は未だ不思議そうに自分を見つめる彩乃の頬に指を伸ばしそうになって、止めた。
「湯木、さん」
「はい」
彩乃の声が、かすれている。怖がらせてはいないだろうか。不安がらせてはいないだろうか。いつにも増して、心配になる。
「好きなんだ。……俺と、付き合ってほしい」
好きだと言ってしまえば、途端に心が軽くなった。そうすると今度は、まるで今までの山科の緊張が彩乃に移ってしまったかのように、隣で息を飲んだ。
「あの、私」
「ああ」
「はい」
「ん?」
今の「はい」は何に対する「はい」だったのだろう。つい聞き返してしまい、かあ……と顔を真っ赤にした彩乃の顔を見て、こちらの顔まで赤くなる。不安にさせたくない、そう思って、彩乃の髪に手を添える。
「すまん。今のは、OKの返事でいいのか?」
頷く彩乃を見て、もう一度、聞いた。
「俺と付き合ってほしい」
「はい」
今度は、彩乃がほんわりと笑った。山科が好きな、彩乃の優しい笑顔だ。ほっとして、安堵のため息がこぼれる。「よかった」と、彩乃の髪に触れたままそう言うと、彼女が恥ずかしそうにうつむいた。
****
「料理、食べるか」
「あ、わ、わすれてましたね」
「話し込んでしまった。すまない」
プルプルと頭を振って、彩乃は山科のさらにポテトとチーズを取り分けようと手を伸ばした。はい、と答えてしまったが、胸と頭がいっぱいで、とり分ける手が震えてしまう。
「ゆき、さん、彩乃?」
「うわ、はい!」
がちゃんとスプーンを落としてしまった。山科の低い声で「あやの」と呼ばれると、恥ずかしくて心地よくて心臓がうるさい。だが、山科は別な風に取ったようで、ハンズアップのポーズを取って、少しだけ座る位置をずらした。
「悪い、……迷惑ではなかったか」
「え?」
「緊張させてしまっている」
心配そうな声に彩乃は首を振った。緊張はしているが、迷惑だからではない。間違えたくなくて、少しだけ言葉を考えて、ゆっくりと言った。
「緊張するの、当たり前です」
「当たり前、か」
「……好きな、人に、好きっていわ、言われたので」
「……」
今度は山科が顔を赤くした。それを見たとき、半端なく恥ずかしかったけれど、やはり心のどこかがホッと安心したのを感じる。胸に手を当てて、ふぅ……と長い息を吐いて気持ちを落ち着かせると、山科の皿に今度こそちゃんと、料理を取り分けた。
山科がその皿を取って、料理を口にする。彩乃も同じく口に運んだ。こんがりと焦げたチーズは味がしっかりしていて、柔らかいマッシュポテトのまろやかな味とよくあう。
「チーズの焦げた部分美味しい」
「そうだな。ほら、ここは焦げてるぞ」
山科が鉄板の上から焦げている部分を取って、彩乃の皿に入れてくれた。少し離れていたソファの体は、また元の通り近づいて、いや、最初の時よりは気持ち近くなっている気がする。そして緊張はあるけれど、怖いとかそういう意味の緊張ではない。言葉にしたりされたりすることによって、よりはっきりと気持ちを自覚して生まれた緊張感だ。
好きな人が、隣にいる。
「食事が終わった後、観覧車にでも誘おうと思っていたんだ。そこで言うつもりだった」
「観覧車」
「そこの駅ビルの上に、あるだろ」
「はい、私乗ったことなくて」
「俺もだ。乗ってみるか?」
「乗ってみたい、です」
会社の最寄りではないから乗る機会は無いのだが、会社からも見える観覧車は、季節によって様々なライトアップがされている。大きい駅だが実はあまり降りる駅ではなく、そもそも異性に縁遠い彩乃は外から見て綺麗だなと思うだけで乗ったことはなかった。
それならば……と食事を終えて、店を出る。おそらく観覧車があるということでこの駅を選び、この駅の最寄の店を予約してくれたのだろう。観覧車があることは知っていたが、店に来る前……山科に告白されるまでは、観覧車に乗るなんて思いも寄らなかった。
「終電には間にあわせるが、少し遅くなるな。構わないか?」
「もちろんです、それに」
「ん?」
「あの、もう少し、お話し、したいです」
「……俺もだ」
山科の大きな手が彩乃の手を包み込んだ。どきりとして彩乃が山科を見上げると、「行こう」と少し手を引いて促す。手を掴まれたりするのとは違う、並び、触れ合うためにそっと繋がれた手は、一緒にいる安心感があった。
だが、ついさっきまで自分の気持ちすらはっきりさせることができず不安に揺れていたのに、好きと言っただけで、もうこんな風に距離が近づいていいのだろうか。世間の仲の良い二人って、こんな感じなんだろうか。大きな安心感は、恋が初めての彩乃にとって、これがちゃんとした形なの? という不安感も少し伴う。
「山科さん」
「ん?」
「私、浮かれてるかもしれません」
「……俺も」
「え?」
「俺も、今すごい浮かれてる。いきなり観覧車乗りたいなんて言い出して、似合わないと笑われないか心配だ」
確かに、山科はいかにも硬派そうだから、女の子と観覧車に乗って告白する、何て鉄板は思いつきそうにない気がする。それくらいは、恋には疎い彩乃も想像できた。そんな山科が自分と今、手をつないで観覧車に乗ってくれるというのだから少しおかしくて、気持ちがいい風に緩んでしまう。
二人で、まるで高校生カップルみたいな気分で券を買ってゴンドラに乗り込むと、ゆっくりと、平日の夜空に向けて動き出した。
少しずつビルが離れていき、やがて道路や歩いている人が遠くに見えるようになっていく。
「わあ」
「すぐ高くなるんだな」
「観覧車のイルミネーション、向こうのビルに写ってますね」
彩乃は景色の綺麗に見える方のガラス窓に張り付いて、チカチカと動く夜の街の光に目をこらす。まだ地上に近いからか、人の動きがはっきり見えて、時々、その人達が観覧車の方を見上げているのが分かる。
「そっちに乗っていいか」
言いながら、山科は彩乃の答えを聞かずに隣に移動した。そうして、もう一度、彩乃の手を握って、自分の膝の上に乗せる。
夜景ではなくて、山科の方を見る。
意志の強そうな眉に、すっと通った鼻筋。短めに切った髪は黒々としていて、染めたりはしてなさそうだ。喉も肩も大きくて、男らしくて……やっぱり優しそうな人だなと思う。
「あの」
「どうした」
「私、で、いいんでしょうか」
「どういう意味だ」
「山科さん、優しそうで」
「優しそうで?」
「あの、誠実そう、だから」
それに自分は誰かを恋愛をしたことがない。何もかもが初めてで、どのように男の人と一緒に過ごしていいのかもよくわからない。そんな自分が本当に彼女としていいのだろうかと、何が不安なのかもよく分からない不安に陥ってしまう。
どう説明すればいいのか分からなくて、言葉に困っていると、ふうむ……と山科が真剣な顔で顎を撫でた。
「優しそうで誠実そうだと言われるのは嬉しいが、俺がそうだと、なぜ彩乃と付き合ってはいけないんだ?」
「それは……」
山科が女性にモテそうだから、とは言えない。
「すみません、私ちょっと面倒なことを言いました」
「何がだ。彩乃が言ったことのどれも面倒なんて思っていない」
多分「自分でいいのか?」という疑問を口に出してしまったのは、「彩乃がいい」と言って欲しかったからだ。めんどくさい保険なのだ。自分がそんな風な、面倒なことを言ってしまったんだということに気がついて、罪の意識でいっぱいになってしまう。
しかし山科は彩乃の言ったことをあまり気にしていない様子で、少し考えると言葉を続けた。
「俺が優しく見えるなら、多分それは相手が彩乃だからだと思う。さっきも言っただろう、好きな女に優しくするのは当たり前だと。俺は普段は、クソ真面目と言われても優しいなんか言われたこともない」
当たり前のようにそうやって言って、真面目な顔で山科は空いている方の手で彩乃の髪をゆっくりと撫でた。撫でる瞬間、嬉しそうに笑う。
「こうやって触れてみたかった。これからは堂々とできるな」
その真剣な顔を見て、彩乃は少しでも「自分でいいのか」と思ったことを恥ずかしく思った。山科のことを信じていないように感じたのだ。山科が彩乃のことを好きと言ってくれたのだから、それを信じたい。彩乃もまた、山科のことを特別に思っている。
「あの、山科さん」
「ん?」
「私、私が……山科さんのこと、怖くないのは、山科さんだからだと、思います」
「……そうか」
彩乃の頭を撫でている手に少し力が込められる。山科の体の方に引き寄せられて、顔が近付く。唇が触れる、という距離で止まって、山科が「怖がらないでくれ」と囁いた。
眼鏡が取り上げられて、彩乃が目を閉ざすと、ふ、と唇が触れた。
ちゅ、と上唇と下唇を甘噛みされるように触れられる。
ほんの一瞬触れられただけなのに、その瞬間だけ時間を切り取ったように、強く長く感じられる。
唇が離れても、息遣いを感じる距離に二人の顔は留まっていた。少しだけ余韻を含めて、山科の顔が名残惜しげに離れる。
山科が彩乃に眼鏡をかけ直すと、もう一度、今度は山科が顔を少し傾けて、彩乃の唇の端にちゅ、と口付けた。
男の人に眼鏡を取られたのに、彩乃は全然、怖くなかった。