終電一つ前くらいの時間の余裕をもって、山科は彩乃のことを送ってくれた。彩乃の最寄の駅から道すがら、手をつないで歩く。
アパートの部屋の前まで送ってもらって、名残惜しく別れた後、彩乃はポフンとベッドに体を投げ出した。
まだ月曜日だというのに、一週間分のいろいろな出来事が全部終わった後くらいの疲労感がある。もちろん、悪い意味ではなかった。今日一日で……いや、会社が終わってからこの時間までのほんのわずかの間に、今まで経験したことのないことばかりが起こった。山科への恋心を認識してから、あっという間の出来事だ。
こんなに目まぐるしいものだとは思わなかった。恋の話をしていた友人の顔を思い出す。皆もこんな風に恋愛をしているのだろうか。彩乃は、友人から恋の話を聞くのは嫌いではなかったが、恋の話をするのは好きではなかった。だがこうして自分が恋を自覚すると分かる。誰かに聞いてほしいし、相談したくなるし、決して正解の無いだろう答え合わせをしたくなる。
ふわふわと考え事をしながらお風呂に入って一息つくと、山科からラインが来ていた。明日も仕事なのに遅くまで連れ回して悪かったという謝罪だ。何と返せばいいのか分からなくて、しばらく悩んで、楽しかったことと、山科が無事帰宅できてよかったということと、おやすみなさいを送る。
「も、明日から何着ていけばいいんだろ……」
そういえば今日はそんなことになるとは思わなかったから、適当な服を着てしまっていた気もする。こんなことで悩むなんて……みんなも同じなのだろうか。もっとかわいい服を着ていけばよかったかも。
「水戸さんに相談してみようかな……」
社内の人に吹聴する気持ちは一切ないが、水戸は信頼できる人だし、彼女に相談したら色々とアドバイスをくれるかもしれない。もし機会があれば話してみよう、そう思って、ベッドに入ると、山科からも「おやすみ」の一言が来た。
たったこれだけのことなのに嬉しくて、よく眠れそうな気もしたし、胸がいっぱいで眠れなさそうな気もした。
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経理と秘書課は、帰る時間が一緒になることはあまりない。秘書課は常務や社長のお供をして帰社時間が遅くなることは常だったし、定時後に出かけていくことも多いからだ。その代わり、昼休みにカフェでランチのタイミングが一緒になれば、山科と城谷、二人揃って彩乃と水戸と同席になるし、山科とは何度か、朝の出勤が一緒になった。
朝一緒になった時間に、山科が彩乃のことを気にかけるようになったきっかけについても聞かされた。義姉の璃子から花瓶を回収してほしいと頼まれたことのようだ。彩乃が「ずっと前」から気にしていたと話を聞いて、「ずっと前」から続けていたのは自分ではないと焦ってしまったと正直に話した時、山科はたいそう慌てていた。
「だからあの時、少し様子がおかしかったのか……」
「すみません」
「いや」
ふうむ……と腕組みをしてしばし考え、山科が一つ提案をする。
「どういうタイミングで誤解を彩乃に与えるのか予想がつかないな。もし何か不安になったら言ってほしい」
「あの、今は不安じゃないですから」
「それならいいが、今後も何かあるかもしれないだろう」
そう言って、自分たちに関することで何か少しでも不安に思った時は、一人で考えずに山科にも考える機会を与えてほしいと念を押される。普通の恋人ってこう言う約束をするものなのかな? けれどそれもどこか、真面目な山科らしくて彩乃は嬉しくなった。
「そういえば、お義姉さん、花瓶を持って帰らなかったんですね」
「ああ、また来週に取りに来るって言っていたな」
「そうなんですね……それなら、週末に花瓶、用意しておかないと……」
「そのことだが、もしよければ週末に一緒に買いに行かないか?」
「いいんですか?」
山科がもちろんだ、と頷く。こうして週末、山科と一緒に買い物に行くことになった。
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一体何を着ていけばいいのか、どの眼鏡を掛けようか、どんなシャンプーを使おうか、ネイルは塗ってもいいだろうか、お化粧はどうしようか、うんうん悩んでいると山科からメッセージが入っていた。
出来てから半年くらいの大型ショッピングモールに行ってみないかとの提案だ。そのショッピングモールは、彩乃の実家の近くで、このあたりからであれば車で1時間ほどのところにある。電車で行くのかと問うたが、どうやら山科が車を出してくれるらしい。
通勤するよりもさらに何を着るか迷いに迷ったが、ざっくりとしたスプリングニットに少し短めのスカート、それにベージュのウェスタンブーツを合わせてみる。可愛い服を着たり買ったりするのは嫌いじゃない。彩乃には姉がいるので、実家にいるときはよく服のコーディネートを教えてもらったりもしていた。
眼鏡は縁は太いがオーバル型のクセのないものにした。お化粧も頑張ったと思う。全部整って少し待っていると、ラインが入った。
迎えに来てくれた山科の車に急いで乗り込むと、信号待ちの間にまじまじと見つめられる。
「おかしく、ないですか?」
「おかしくない。会社にいるときと、少し雰囲気が違うな」
「山科さんも」
「俺は、いつもはスーツだからな」
会社ではスーツにネクタイの山科の方が、普段着のインパクトが違う。軽くて柔らかそうなインナーにジャケットを羽織っているのだが、少し袖をまくっているところから逞しい太い腕が見えて、スーツを着ている時よりもずっと男らしさを意識してしまう。
「山科さんは、スーツにネクタイも素敵だと思います」
「やめてくれ、そんなことを言われると、次はスーツにネクタイで来るぞ」
山科の言葉に、彩乃が小さく笑った。すると、山科が急に真面目な声になって、ちらりと彩乃に目を向ける。
「彩乃」
「はい」
山科から「あやの」と呼ばれるくすぐったさにはまだ慣れない。会社では「湯木さん」だからなおさらだ。
「もしよかったら、名前で呼ばないか?」
「え?」
「俺のことを」
信号で止まって、今度はまっすぐ彩乃の方に視線を向けた。
「わかるか、下の名前」
「は、はい! し、ってます」
山科が頷いて視線を道路の方に向けると、車が発進する。少しの間、沈黙が続いた。
もちろん、山科の下の名前は知っている。聞いていてよかったと心底思った。……が、それを呼ぶとなると気合いが必要だ。山科は彩乃のことを何の気負いもなく「彩乃」と呼んでくれた。それを聞いた時は本当にくすぐったくて、そして、特別なことではないのに特別な意味があるみたいな気持ちがしたのだ。
「かおる、さん」
「ああ」
山科から返ってきたのはシンプルな返事だったが、前を向いたまま嬉しそうに瞳を緩めた。単に名前を呼ぶだけなのになんでこんなに緊張するのだろう。だが、不思議なことに、たったこれだけのことでも距離が縮まる気がする。
それからの車中では、雑談の中で「山科さん」と「かおるさん」を混在させて、山科を笑わせたりしながら、あっという間に目的地に到着した。
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昼食の時間を少しずらそうということで、先に雑貨屋を巡ることになった。彩乃が歩き出すと山科が柔らかく手をつなぐ。やっぱり山科の手のひらは大きいし、体も大きいから人混みからも守られているような感じがした。
一応、どういうお店があるかは調べてきたが、ひとまずぐるっと一周しようということになった。小さい子供向けの雑貨屋でぬいぐるみを撫でてみたり、不思議なものが置いてある文房具屋をウロウロしてみる。彩乃はこういう店が大好きなのでいくらでも見ていられるが、山科は平気だろうか。時々心配になって聞いてみるが、山科は山科で、最近はこういうものがあるのかと、妙に感心しながら楽しんでいるようだった。
彩乃が花瓶を買おうと思っていたのは、和雑貨の店だ。和柄の小物や髪飾りを扱うお店で、日本の陶磁器も多く置いてある。和柄のブックカバーや小さな箸置きなどに心惹かれながら、花器のコーナーに行ってみると、いろいろな大きさのものが置いてあった。
「休憩室に置いてあったものは結構小さかったな」
「そうなんですよ、花瓶にしてはちょっと珍しいですよね」
小さい花瓶だったが、休憩室のテーブルに置くのはちょうどいい大きさだった。あまり大きなものだと倒してしまう危険があるし、それに見合うような花を活けると華やかになりすぎる。
「あ、これ」
一つ一つ吟味していると、とても可愛い花瓶を見つけた。土の質感も感じさせる丸い形の花瓶は、上が濃い青で、下に行くにつれて色あいが薄くなっていく。美しいグラデーションを艶やかな釉薬が覆っていて、時折、独特の模様が表れている。一目見て、気に入ってしまった。
手のひらに乗せてみると、ちょうどいいくらいの大きさで、彩乃が山科を振り返ると、山科も顔を低くして興味深そうに覗き込んでいる。
「いいな、これ」
「やまし、かおるさん、も、そう思いますか?」
「ああ。前のものとは少し雰囲気が違うが、大きさも丸い感じも」
「いいですよね!」
自分が褒められたような気持ちがして、ついつい、声がはしゃいでしまう。
「これにするか?」
「そうですね……」
もう少しウロウロしてみようかと少し思ったが、どれだけウロウロしても同じ気がする。それにもし他のところでいいものを見つけたとしても、それはそれ、これはこれで、使っていいではないか。
彩乃はこういう時、決断が早い。
「これにします」
「わかった」
だが、先制して店員を呼んだのは山科だった。「これをお願いします」と素早く頼んで、新しい花瓶を棚から取り出してもらう。そのまま彩乃ではなく山科を先導するようにレジまで案内され、当たり前のように山科が財布を出した。
「か、かおるさん、私が」
「彩乃」
そう言って、山科が彩乃に目配せをする。レジの前で払う払わないの話はしないほうがいい、という風だった。確かにこんなところで、言い合うのも場違いな気がする。彩乃はおとなしく引きさがったものの、レジを終えて品物を受け取り、店を出たところで山科の袖を引っ張った。
「あの、お代、私が出しますよ」
「いい。璃子さんに怒られる」
「でも」
「花はいつも彩乃が用意してきてくれてるだろう」
「それは……そうですけど」
「俺も協力したい。花瓶代くらい出させてくれないか」
そう言って、山科が大きな手で彩乃の髪を撫でた。大きな手が頭の全部を抱えるようで、何度かされたこの仕草を、彩乃はすっかり好きになっていた。その分、おとなしくせざるを得ない気もしてしまう。
「そろそろ昼にするか。腹が減った」
「……はい」
「そんなに恨めしそうに見ないでくれ」
苦笑した山科の手が彩乃の髪を離れて、するりと腕を滑る。そのまま腕を持ち上げられ、絡まるように手が繋がれ、山科の腕まくりした肌が触れる。
「何が食べたい?」
「かおる、さん、食べられないものとかありますか?」
「食べられるものなら大概大丈夫だ」
「私、辛いものが駄目です」
「本格インドカレーは無しか」
「お店ありました?」
そんなことを話しながら、山科に手を引かれるようにレストランの方面へと足を向けた時だった。
急に視線を感じて後ろを振り向くと、綺麗な顔をした細身の青年がこちらを凝視している。彩乃と目があうと、みるみるうちに睨みつけるような視線になった。青年の隣には華やかな女性がおり、大きな胸を青年にもたれさせるように腕を組んでいる。
その顔、その目に、彩乃が慌てて顔を背けて別の方向に行こうとしたが、それよりも先に「彩乃?」と山科が振り向いた。
彩乃の息が止まり、何かを言う前に青年の方が口を開く。
「彩乃? 何やってんだこんなところで」
隣人の、一宮彰だった。