つないでいる手が強張ったのが伝わって、彩乃にとっては歓迎すべきではない男なのだろうということが山科にも分かった。山科は彩乃の指を絡めるように手を繋ぎ直して、腕を引いて身体を寄せる。
山科のそうしたわずかの動きに彩乃が反応して、こちらを伺うように見上げる。山科が軽く頷くと、彩乃が、ぎゅ……と手を握り返した。
目の前の男が、少し苛立ったように続ける。
「何してんのこんなとこで。買い物?」
彩乃は頷いて「うん」とだけ言って、俯いていた視線を持ち上げたようだった。それが意外だったのか、男は彩乃を見て眉をしかめる。明らかに機嫌が悪くなったようだが、彩乃は山科の手を強く握ったまま、続ける。
「買い物終わったから、これからお昼」
「ふうん」
「それじゃ」
ペコ、とお辞儀をして彩乃が山科の手を引いた。山科も失礼にならない程度に黙礼すると、促されるように方向を変える。
変えようとした、時だ。
「ちょっと待てよ、なあ彩乃、そいつ彼氏?」
言われた瞬間、ピク、と彩乃の手が震えた。……が、山科自身は失礼な物言いの男に対して呆れて、ため息しかない。しかし彩乃自身は、待てと言われて足を止めざるを得ないのだろう。彩乃が足を止めてもう一度男に視線を向けると、男が一歩、二歩、彩乃に近づいた。
彩乃の反応が悪いと思っているのか、「おい」と少し声を大きくした時、彩乃がギュ、と山科の腕に縋るようにつかまった。
「そう。お付き合いしている人」
男の動きが止まる。その隙に山科は、空いている方の手を前に回して、覗き込むように彩乃の髪を一撫ですると、男に向き合ってやった。
相手が誰か分からない、しかも初対面に「そいつ」呼ばわりだ。名乗る必要もなさそうだったが、彩乃の負担は増やしたくない。無愛想な山科がそれだけは厳しく秘書課で鍛えられた「失礼にならない程度に相手を尊重した会釈」を取る。
「山科と言います」
口調は淡々と言ったが、男はムッとしただけで何も言わず、礼も取らなかった。しかしそんなことはどうでもいい。用事は終わったと判断した山科は、「彩乃?」と、そこだけは努めて甘く呼ぶ。
山科としてはそこまでで終了だ。彩乃が嫌がっているのは明らかで、おそらく彩乃の知り合いではあるだろうが、名乗りもしない男に意味不明の視線を向けられるのも不愉快だった。
失礼ながらさっさと帰れと思っていると、四人目の声が割り込んだ。男が連れている派手やかな女が、絡まるように男の腕に体を押し付けて、ねえねえと声をあげたのだ。
「ねー、誰よ、彰ぁ。早くいこ」
「うるさいな、少し待てよ」
「何よ。その女、知り合い?」
「お前には関係ないだろ?」
何やら揉めているようだ。山科は小さく苦笑して、「失礼します」とだけ言うと、つないだ手を解く。すかさず彩乃の背中に腕を回して回れ右させた。
彩乃の身体を隠すように背中に回ると、彩乃もまた、急ぎ足でその場を離れる。後ろから「おい、彩乃」と聞こえるので、念のため小さく「よかったか?」と聞くと、何度もうなずいて山科の服をぎゅっとつかんだ。
「行こう、行きましょう」
「わかってる」
そのままショッピングモールを出て、彩乃を車に乗せた。
****
どこに行くというわけではなく、山科が車を走らせる。ひとまず帰り道の方向に出発して、しばらくして、彩乃が「ごめんなさい……」とポツリと言った。
「彩乃が謝ることは何もないと思うが」
「でも、お昼食べられませんでした」
「昼飯なら、これから別の店に食べに行けばいいだろう?」
「……」
謝る必要がないのは当たり前のことだ。先ほどの出来事は愉快なものではなかったが、彩乃が山科に対して謝罪しなければならないようなことは何もなかった。
「彩乃に悪い箇所は一つもなかったが、彩乃が謝るということは、あの男は親戚か何かか?」
「違います! あ、違わない……えっと」
「話したくないなら話さなくても構わないんだ。ただ、正直に言うと気になる」
彩乃が分かっているかどうかは分からないが、彩乃を好きな山科には分かる。あの男の視線は、明らかに彩乃に対して何かしら思うところがあるものだった。山科が彩乃とつないだ手、頭を撫でる時、そして彩乃が「お付き合いしている人」と言った時、はっきり分かるほど不機嫌な顔をした。
「嫌な思いを、しませんでしたか?」
「嫌な思いか……」
ううむ……と山科が考え込んだ。正確に言うと考え込むふりをした。客観的に見れば嫌な思いもしたのだろうが、彩乃に対してはそんなこと微塵も思いもしない。ただ、
「彩乃のことをジロジロ見ていて不愉快だった」
「え?」
彩乃が顔を上げる。ちょうど信号に差し掛かって一時停止た山科は、隣の彩乃に視線を向けて、頬に指を伸ばして軽く撫でた。みるみるうちに頬が染まったのを確認して満足すると、再び視線を前に向けてアクセルを踏む。
「それ以外は特にない。嫌な思いをしたのは彩乃じゃないか?」
男に相対した彩乃は見るからに不安そうで、山科の手を強く握られるたびに、その思いが伝わってきた。そのたびに、何度も男に対して「早くどこかに行ってくれ」と威嚇しそうになるのを堪えたのだ。
「あまり会いたくない人間だったんだろう」
そのように問うと、彩乃がうつむいて、ポツリと言った。
「隣に住んでた男の子です。一宮彰」
「隣」
「はい、小さい頃から」
「……幼馴染か」
悪気なくそう言うと、彩乃が独り言のように「もうそんな風に言われるのも嫌」……そう言って首を振る。彩乃が誰かのことを悪く言うのは珍しい気がしたが、ただ、予想がつくこともある。彩乃は「異性が苦手」と言っていた。小学校・中学校の頃から不愉快な思いばかりしてきたと。
「いい関係ではなかったみたいだな」
「……男の子が苦手って、言ってたでしょう」
「あいつが原因か」
彩乃が静かに頷いた。
****
彩乃は昔から男の子が得意とする女の子いじめが苦手だった。
苦手だと言っても誰も聞き入れてくれないが、本当に苦手だったのだ。言えば言うほど男からはからかわれ、女からはいい子ぶってると蔑まれるので、本当に信頼する人にしか打ち明けたことはないが、本当に本当に心底、苦手だったし、嫌いだった。
その原因は幼稚園の頃まで遡る。
幼稚園の頃からずっと、男の子は彩乃をからかう人間だった。よく考えれば、幼稚園や小学校の時の男の子というのは、多少そういうことがあるのだろう。けれど、穏やかな時間が好きなおとなしい彩乃にとって、男の子は怖い生き物でしかなかった。
幼稚園の頃、スカートを引っ張られ、髪の毛をつかまれ、泥だんごを投げつけられ、カエルの死体を見せつけられ、蝉の抜け殻を背中に貼られた。泣いたら罵倒され、先生に言いつければ男の子はたしなめられるが、後になって「言いつけやがって」と乱暴される。
だがそれでも、幼稚園の時はよかった。
小学校、中学校になってくると、ここに異性の「意識」というものが絡んできて、さらに彩乃を痛めつけた。彩乃をいじめてくる行為を誰に訴えても「彩乃ちゃんのことを好きだから、意地悪してしまうのね」と生温かい目で見られてしまうのだ。
小学校の高学年になると、彩乃は視力が落ちて眼鏡になったのだが、これもまた、異性の彩乃いじめに拍車をかけた。大人になれば眼鏡なんてファッションアイテムの一つだが、子供にとってはからかいの対象でしかない。ダサいだのメガネザルだのと言われるのは日常だ。
そう言わない男子もいるには、いた。しかし、そういう男の子たちは、なぜか彩乃の眼鏡を取り上げたり、わざわざ自分でかけて「度が高い」とよく分からない因縁をつけてくる。しかも総じて楽しそうだった。それらのうち、いくつかを先生や友達に訴えてみたこともある。しかし数度、「彩乃が可愛いから意地悪をする」「きっとその男の子は彩乃のことが好きなのよ」と言われてからは、それ以上言えなくなってしまった。
彼らは彩乃が困った顔をすると愉快がり、度を越すと「空気読めない」と言って、その場を白けさせた。どんな風に訴えても彩乃がそれらを嫌がっていることは伝わらなかったし、うまく伝えるほど小学校の時の彩乃にはコミュニケーション能力が足らない。どうすればいいのかわからなくなって、彩乃は人と話すのが苦手になった。
そういう異性への苦手意識の中心にいたのが、隣に住んでいた兄弟の弟だった。幼稚園の頃から彩乃の天敵で、ずっと彩乃いじめの中心にいた。幼稚園の頃のひどい意地悪も、メガネザル呼ばわりも、全部その隣人……一宮彰の行為だ。
彰は彩乃の目から見てもとても可愛い男の子で頭も良かった。要領のいい子で誰からも褒められ、小さい頃から先生や女の子にも人気だったような気がする。それなのに彩乃にだけはひどく意地悪なのだ。彩乃がその男の子を避けるようになるのはすぐだった。幼稚園の頃からずっと、できるだけ彰と一緒にならないように神経をすり減らしていた気がする。
しかし彩乃がどんなに嫌いでも、ただ隣人というだけで、……幼稚園の頃から顔を見知っているというだけで、幼馴染という範疇に入る関係性であることがひどく苦痛だった。彰を避けていたにも関わらず、なぜか彰は彩乃の目の前に現れる。顔を合わせれば眼鏡をからかわれ、おしゃれをすれば似合わないと馬鹿にされる。彼に会うと、無い自信がさらにズタズタにされて、理不尽な物言いに怒りが沸き、しかし我慢の限界に達してようやく怒ると、小馬鹿にしたように笑われるのが嫌でたまらなかった。
中学三年の時、誕生日に可愛いフレームの眼鏡を買ってもらったことがあった。店舗でかっこいい店員さんと一緒に似合うものを頑張って探して、買ったのだ。彩乃にとって、とても特別なものだった。
「なにその眼鏡、いつものやつと違うじゃん」
しかし放課後、そう、声をかけてきた彰は、見せてみろよと手を出した。だが、彰に眼鏡をおとなしく渡すはずもない。いつもなら、彩乃はこういう時に無視するか、オロオロしてしまうのだが、その眼鏡に文句を言われるのはどうしても堪え難かった。
「いやよ。彰君なんかに見せる必要ない」
そう言って、ぷい……とそっぽを向いて、机を片付け、帰ろうとして席を立つ。口答えをしたのが悪かったのか、オロオロしてみせなかったのが悪かったのか、いずれにしても、珍しく彩乃が強く言い返してしまったのが原因だろう。彰は顔を不機嫌に歪めて、「貸してみろよ」と彩乃の顔から無理やり眼鏡をむしり取った。
「やめて!」
彩乃が珍しく大きな声をあげた。彰の腕を掴んで、眼鏡を取り返そうとする。ぼやける視界の中、彰のニヤリと笑った顔だけがはっきりと見えた。
「返してよ!」
手を伸ばす彩乃の腕を掴んで押されたが、負けじと彩乃も彰の腕に掴みかかる。盗られまいと伸ばした腕から、するりと眼鏡が滑り落ちた。
カタン、と小さな音がして、眼鏡が床に転がる。
「あ、おい……あや、」
勢い余った彩乃に押されて、彰が一歩、後ずさる。その拍子に、パキ、と嫌な音がした。