012.「幼馴染」という呪いの言葉

「割れたのか」

「はい」

話を聞いていた山科が、彩乃の髪にそっと触れた。中学校の頃の話だ。くだらないと笑われても仕方がないと思っていたのに、山科の声は真剣だった。だからこそ、あの時の悲しかった気持ちが鮮明に思い出される。

あの日、彰の足の下で眼鏡は割れていた。

それが彩乃の意識から「幼馴染」が切り離された瞬間だった。

慌てたように離れた彰を無視して、彩乃は何も言わずにしゃがみ込み、ハンカチを広げて破片を拾った。たった一日しかかけられなかったお気に入り。両親が買ってくれた誕生日のプレゼント。店員の人が似合いますよって、言ってくれたのに。初めて、眼鏡でもおしゃれしてみようって思ったのに。

悲しかった。

割れたことも悲しかったが、あの時家族や店員さんと楽しい気持ちで選んだ大切なものが、彰に踏まれて壊れたことが悲しかった。まるで楽しい気持ちを馬鹿にされて踏みにじられたような気がしたのだ。大げさかもしれないが、少なくとも、中学生の彩乃にはそう感じた。

プラスチックの眼鏡はガラスのように粉々にはならなかったが、折れたフレームの端が尖っていて、彩乃の指を軽く傷つける。頭上で彰が何かを言っていたが、彩乃の耳には認識できなかった。

家までどうやって帰ったか分からない。ただぼやける視界を抱え、ふらふら帰っている途中で姉と彰の兄に見つかって、一緒に帰ってもらったことだけは覚えている。心配した姉が、彩乃の指を手当てしてくれたことも。

「私は眼鏡がどうして割れたかは家族には言わなかったんですけど、ふざけてたことを教室にいた何人かが見ていて、先生に言ったみたいでした」

それで、眼鏡を割ったのが彰だというのはおそらく、双方の両親には伝わったのだろう。何度か隣の家の両親や、彰の兄、そして彰本人が家に訪ねてきたが、彩乃は頑なに会わなかった。会って許すという行為が、どうしても出来なかったのだ。

幼馴染という人間は、彩乃達の家族が引っ越さない限り永遠に隣人だ。離れるには、彩乃が離れるしかなかった。だから彩乃は幼馴染も、そして異性も、いないところへ進学した。つまり、高校は女子校を選んだのだ。女子だけの環境は、それはそれで色々大変だったが、幼馴染がいないというだけでも気楽だった。

そうは言っても隣は隣、何かの拍子に顔を合わせることもあった。彰が入学した高校は、そのあたりでは一番の進学校だ。そこの進学クラスに入ったのだという彰は、なぜお前も来なかったのかと不機嫌に怒鳴り、自分はどこそこの大学に行くのだと自慢した。しかし心底どうでもよかった。彩乃はその進学校に行くだけの成績はあったし、事実、教師には進められていたのだが、幼馴染が行くと知って土壇場になって断ったのだ。彩乃はそれ以降は、静かに彰を無視し、彰が行くといった大学とは違う大学に入って、一人暮らしをすることにした。

そうしてようやく、彩乃は自由になった。元来の内気な性格と相まって、異性は相変わらず苦手だったが、コンパやゼミに参加して、少しずついい人と苦手な人の区別がつくようになってきた。苦手でない人は大体おじいちゃん教授だったり、あるいは誰かの彼氏だったりするから、何かがどうなることは全くなかったが、男の人が全員あの隣人のような人間ではないのだと確信できたのはよかった気がする。

思えば、中学校や小学校の時、仲良くなりそうな男の子ができたら、ことごとく彰に「ブスが調子に乗るなバーカ」と言われたり、変な噂を立てられたりしたのだ。それで男の子の友達など、できたことがなかった。

「それでも、やっぱり隣人は隣人なんです」

「実家に帰ればいる、ってことか」

「それだけじゃなくて」

彰の兄と、彩乃の姉。実は彩乃と彰と違い、この二人は幼い頃から仲よくて、幼馴染の恋のまま結婚したのだ。つまり彩乃と彰は親戚になってしまった。

そういえば彰の兄のことは苦手ではなかった。義兄になったその人は無口な男で、決して彩乃のことを過剰にかまったり嫌なことはしなかったからだ。むろん、そこに異性としての意識はなかったが、彩乃の姉のことばかりを見ている義兄のことを、彩乃はいつも微笑ましく、温かい気持ちで見ていたものだ。

彩乃は家族のことが嫌いなわけではなかったし、それに隣人のご両親もいつも彩乃に優しかった。だから実家に帰りたくないという気持ちは全くない、しかし、何か用事があって両家同士が顔を合わせれば、そこには必ず、彰がいる。

「変な話で、すみません」

「変な話じゃない」

「でも、おかしいでしょう。中学校の時ですよ、くだらないって思いませんか?」

「思わない」

「それくらいどうにでもできるとか、いい子ぶるなとか思いませんか?」

「思わない。そんなことを言う奴がいたのか」

少なからず、いた。彩乃の態度は煮えきらず、いじめに対抗しないのはかわい子ぶり、被害者ぶっているのだと。

そして何より辛かったのは、この苦痛を誰に訴えても「甘酸っぱい初恋の思い出」という話にしかならないことだった。あんな男など大嫌いなのだといえば言うほど、何も知らない人たちは、相手が小さいころから見知っている隣人だというだけで二人の関係を「幼馴染」と名付け、いじめられた過去を「初恋」だと断定する。それゆえ、彩乃は恋の話を嫌いになった。

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男という生き物が。

少なからず好きな女に意地悪をするという気持ちを、山科も分からないわけではない。そして彩乃は小さくてちょこまかしていて可愛らしいから、困惑した顔を見たいと男に思わせてしまうのだろう。もちろん、彩乃がちょっと困った顔をするのを山科は好きだったが、かといってわざわざ意地の悪いことをするつもりはなかった。

そして、これはおそらく彩乃に言えばイヤがるだろうから言わないが、彰という男は小さい頃からどうにかして、彩乃に構って欲しかったに違いない。彩乃に対して「好き」という気持ちがあったかどうかは知らないが、それでも他の女の子とは違う思いを抱いていたのは間違いないだろう。

「彩乃は、その隣人のことをどう思っていた?」

彩乃の気持ちを疑うとか、そういうものとは別に、聞かずにはいられない。彩乃はふるふると首を振った。

「どう思ってもいないです。嫌いだったけど、できれば関わりたくないって思っていました」

「そうか。おかしなことを聞いて、悪かった」

山科は手を伸ばして彩乃の髪を一房、指先に乗せる。そのまま一房をぎゅっと握ると、彩乃が心配そうに山科を見た。その瞳を見て、今が車内であることを苦く思う。たった今、抱き寄せて自分の体に触れさせたい。

「たった今、彩乃に触りたい」

「みずしなさ、」

「かおる、だ」

「かおる、さん」

車内に甘い雰囲気が漂った時、ぐう、と彩乃のお腹が鳴って、話は終わった。彩乃の顔が真っ赤になったのを見て、山科が優しく笑う。すみませんすみませんと謝る彩乃に、山科が笑いながら「遅くなったが昼飯にしよう」と言ってくれた。

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結局一時間かけて彩乃と山科の家のある近辺にまで戻り、山科の家の近くで食事をすることになった。山科がよく行く店でいいかと問われ、二つ返事で頷く。案内されたのはレトロな雰囲気のある喫茶店で、喫茶店ならではのメニューが美味しそうだ。

熱く焼けた鉄板の上に、ケチャップで味付けしたナポリタンは、生卵が乗っていて、柔らかいパスタに絡んで少しずつ焦げていく感じがたまらなく美味しい。

「彩乃」

「はい」

「もし時間があったら、俺の家に来ないか?」

「え?」

「いや、……もう少し、一緒にいたくて」

珍しく山科が視線をそらして、頬を赤くしていた。男の人の家に二人きり、だが恋人同士ならば、普通だろうか。けれど、離れたくないというのは彩乃もまた、同じだった。それに少しだけ、男の人の一人暮らしが……いや、もう少し有り体にいうと山科の一人暮らしを見てみたい気がした。

「はい。あの、お邪魔してもいいですか?」

「もちろんだ。見られて悪いものは……多分置いてないからな」

「キョロキョロしたりしませんよ」

山科と言葉をかわすのは、どうしてこう穏やかな気持ちになれるのだろう。先ほど彰に会ってささくれた気持ちを山科がいとも簡単に解きほぐして、彩乃を安心させる。山科は城谷や水戸が言うように、決して表情が豊かなわけではない。けれど、彩乃と話すときは優しい眼差しで、真面目に向き合ってくれる。真面目すぎるとか、面白くないとか、そのように評されるというけれど、山科と過ごすのは何よりも穏やかで柔らかな、居心地の良い時間だった。

「あの、かおるさん、もしよかったら、お昼食べながら言うのも何ですけど、夕食を一緒に食べませんか?」

「夕食? もちろんいいが」

「でも、一日二回も外食っていうのも何なので、その……」

口ごもっていると、山科が、気のせいでなければ、無邪気に瞳を輝かせたような気がした。

「作ってくれるのか?」

「ご、ご迷惑でなければっ」

「迷惑なわけないだろう」

夕食まで作るなんてでしゃばり過ぎていないだろうかと心配になったが、言ったそばから山科がとろけるような嬉しそうな顔になったので、言ってみてよかったとホッとする。彩乃にとっては何もかもが初めてで、こういうことを言い出すタイミングも、言い出していいものかどうかも、よく分からないのだ。

山科自身、時々料理をしているから道具が全く何もない、ということはないらしいが、一度山科の部屋に行ってみてから近所に買い物に出ようということになった。

美味しいコーヒーまで頂いて食事を終えると、早速山科の部屋に招待された。1LDKのマンションは、彩乃の部屋より随分広い。真面目な山科らしく綺麗に掃除しているし、それに生活感がないというわけでもない。少しだけ部屋を見せてもらうと、寝室の隅っこにダンベルが置いてあって彩乃を笑わせた。考え事をする時は筋トレをしているらしい。

包丁とお鍋、炊飯器ももちろんある。お米もあるので使わせてもらうことにして、急なので手の込んだもののリクエストはお互いやめようと相談して、買い物に行った結果、作ると決めたのは親子丼だった。だしの素もしっかり常備してあったので使わせてもらうことにする。

買い物に行ったり、花瓶を包みから出してみたりしていると、かなり遅くなってしまったが、昼食も遅かったのでちょうどいい。ゆっくりと料理を作って食べ終わる頃には、夜も少し遅い時間だった。

「うまかった」

「作るって言ったのに、手伝ってもらっちゃってすみません」

「いや、俺も完全に我流だが、料理は作るから一緒に作るのは面白い」

おつゆもお出汁もインスタントだったし、大半を手伝ってもらったから、彩乃はかなり手抜きをさせてもらった。今度はちゃんとした料理を作りますというと、山科もまた、何か料理を振る舞おうと約束をしてくれる。未来の約束が増えるのは嬉しいことだ。それが山科と一緒のことであれば尚更だった。

食後の紅茶を入れて、部屋に置いてあるソファに座らせてもらうと、山科も隣に座った。山科の腕が彩乃の腰に回されて、少し強めに抱き寄せられる。

「あやの」

名前を呼ぶ声が、耳元をくすぐる。今までになく距離が近くて、山科の温かい吐息が直に感じられた。それが少し離れて、もう一度、ぎゅ……と抱き寄せられる。唇が、頬に触れているのを感じて、撫でられる手のひらの動きに導かれるように顔を上げた。

眼鏡を外される。

吸い寄せられるように唇が重なって、前にした時のように、咥えるように甘噛みされる。

かおるさん、と呼ぼうとして、しかし唇が重なっていると声も出せず、彩乃は山科の腕をぎゅ、とつかんだ。

唇が少し離れたが、完全には離れない距離でもう一度名前を呼ばれる。返事をしようと唇が震えると、その隙を縫うように、濡れた何かが彩乃の唇の隙間に触れた。

「んっ……」

その途端、何かぞくりと不思議な感触が身体に走って、自分の喉から甘い声が溢れてしまう。彩乃を抱きしめる山科の腕が強くなって、今度は少し強引に、ぬるりと何かが、入ってくる。

山科の舌だと分かるのはすぐで、何か本能のようなものに引っ張られるように、彩乃が軽く口を開く。二人の舌が絡まり合って、触れ合って、山科の手が彩乃の腰を撫で、セーターの裾に入りかけたのが分かった。

……が、彩乃の肌に触れる直前に、山科が手を止め、口づけをやめた。

はあ……と、少し荒い息を吐いて、唇を離す。いつの間にか瞑ってしまっていた瞳を開けると、うっとりと彩乃を見つめる山科と目が合った。

こんなに近いと、眼鏡が無くても山科の顔が見える。

あんな口づけの経験なんて彩乃にはないのに、あの時間がとても甘くて心地の良いものだったことは分かった。しかし少しずつ冷静さを取り戻すと、同時に羞恥もまた、感じ始める。

山科の喉仏がコクリと動いたのが見える。

だが、その先に山科の手は進むことなく腕を緩め、やんわりと彩乃から身体を離した。