013.足踏み

新調した花瓶に最初に生ける花は何がいいだろう。そう考えながらの会社帰り、近所のスーパーに寄った時に閉まりそうだった花屋に飛び込んで、丸くてころんとした小菊を見つけた。

いつものように家に活ける分より少し多めに買って、剪定ばさみで活ける大きさに切る。一緒に買った花瓶を取り出して、試しに活けてみた。

「かわいい」

濃い青にうさぎのしっぽのような白が映える。合わせて買ったかすみ草も小さく切って一緒に挿すと、小さな花束ができたようだ。嬉しくなって、彩乃は携帯端末で写真を撮ると山科に送ってみた。

『明日はこれでいきますね』

返事はすぐに返ってくる。

『とても綺麗で清々しい』

その堅い物言いが山科らしくて小さく笑う。なんと返事をしようか考えていると、もう一度メッセージが入った。

『明日は早く出社か?』

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世の中の女の人は男の人と付き合うとか、恋するとか、好きになるとか、どのように折り合いをつけているのだろう。

『明日は早く出社か?』

『はい』

『分かった。俺もだ』

こんな小さなやりとりがあった翌朝、花瓶と小さく作った花束を紙袋に入れて出社すると、いつものカフェで一緒になった。

「おはよう」

「おはようございます、よかった。会えて」

「俺はそのつもりだった」

山科の言葉に彩乃が頷く。明確な約束ではないけれど、お互い、会えるつもりで出社した。こんな時間が重なり合うのがとても嬉しい。彩乃は甘いホワイトラテ、山科は良い香りのするコーヒーを頼んで、二人で出社する。もちろん会社だからプライベートの時のような距離感はないけれど、付き合う前にも持っていた、どことなく心地のいい朝の時間だ。

その日は山科も給湯室にやってきて、彩乃が花を活ける様子を見守りながら、前に使っていた花瓶を璃子に返すために紙に包んでいる。取りに来ると言っていたが、結局山科が届けることにしたようだ。

「昨日写真で見たが、その白い花、青い花瓶によく合うな」

「そうでしょう? お花屋さんで見て、とても可愛くて」

山科が頷いて、壊れものに触れるように、そうっと花瓶の花に触れた。その指先に既視感を覚えて山科に視線を向けると、彩乃の好きな優しい眼差しをしている。

ああそうだ。山科が、いつも彩乃に触れてくれる時の指先だ。

それに気が付くと、自分が触れられているわけではないのにくすぐったくなった。

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山科と付き合うようになってから、好きという気持ちに、より具体性が増していった。硬派で社会派なのかと思っていたら、案外バラエティ番組やコメディ映画が好きだったり、カレーは意外と辛口がダメだったり。そうした、一見、大したことのなさそうな発見でも、知らないことを知るたびに、彩乃の心は山科のことを好きになる。

手をつなぐとき、まずは彩乃の手をふわりと包み込んでから、一本一本の指を絡めることや、肩を抱くより頭を引き寄せることの方が多いこと。世の中の恋人同士もこんな風なのだろうか。無骨な指先も、喉仏のはっきり出ている首筋も、恥ずかしいのに、触れたくなってしまう。

特に予定がなければ、週末のどちらかは一緒に過ごしている。平日は仕事の終わる時間が重なれば、会社のすぐ近くで待ち合わせて食事をして帰った。そういえば時々、秘書課の人たちに、水戸と共に飲みに誘われるようになった。そういう時は、同じ方向だからということで、やはり山科と一緒に電車に乗った。

一緒に帰るとき、揺れる電車の中で、山科の手が彩乃の身体を少し引き寄せて人の波から守ってくれるのが好きで、気付かれないようにほんの少し身を寄せたつもりなのに、支える手が強くなる。そんな細やかな動きを感じ取ったり、気づいたりするのがとても楽しくて、そして嬉しい。

週末、金曜日に帰る時間が重なった時は、少し夜更かしをする時もあった。山科の家に誘われて、何をすることもなく一緒にいるのだ。そんな時、山科が何かを言いたげな顔をすることがある。

****

「週末一緒にいるなら泊まったりすればいいのに」

水戸がいうと、彩乃の顔がみるみる赤くなった。

会社の帰り、彩乃を可愛いカフェでの夜ご飯に誘った水戸は、早速気になっていたことを聞いてみた。先日山科と彩乃が付き合っていると知ってから、話を聞いてみたくてうずうずしていたのである。可愛いくせに男っ気がなかった……というよりも、むしろ男を苦手としていた彩乃を心配していたのはもちろん、朴念仁の山科が笑顔の優しい男に変わってしまったのも気になっていたのだ。

二人が付き合い始めたのはすぐに気がついた。だからわざとなんでもない風に聞いてみた。「ゆきちゃんってさ、山科と付き合ってる?」と。彩乃は眼鏡の下の目をみるみるまん丸にして、「なんで分かったんですか……」と答えたのだが、その時の顔を山科にも見せたかった。最高に可愛かった。

それはいいとして。

そもそも彩乃は精一杯普段通りを努めていたようだが、隠しきれていなかったのは山科だった。山科は普段の表情が生真面目だから、それが甘い雰囲気になるとすぐ分かる。そしてそれを、山科は隠そうとしていない。……というよりも、自分のあの表情に気がついていないのかもしれない。

ちなみに、城谷に聞いてみると「わからないわけがないだろ」とのことだった。朝、妙に軽やかに出社してきた日があったので尋ねてみたら白状したらしい。

そうして、先週末に秘書課と飲みに行った帰り道に送ってもらった時、初めて彩乃の部屋に招いたという話を聞き出した。彩乃の家でノンカフェインのお茶を入れて、深夜の背徳感に苛まれながらチキンラーメンを作って半分こした、という意味不明な話である。

なんでも深夜にチキンラーメンを食べたくなる、という話を彩乃がしたのだそうだ。そうすると山科に大いに笑われてしまった。そうして、それなら半分ずつ食べるか、と言われ、思いがけず彩乃の家に寄ることになった。コンビニで袋入りのチキンラーメンを買って、特に具を入れるという工夫もしないで食べた、という。

しかしここでポイントなのは、飲んで帰った後にチキンラーメンを食べたという罪ではない。

「泊めてあげたの?」

「とめっ、えっ? 泊めてないです、そのまま帰りましたよ!」

「そうなの? 終電ギリギリだったでしょ?」

「そ、うですけど……終電逃しても歩いて帰れる距離だからって……」

「泊まったりしないの?」

「と、……泊まったりしたことない、です」

砂糖を吐くかと思ったので何気なく聞いただけなのだが、面白いほど動揺して、彩乃がブツブツと何かを考え込み始めた。かなり仲が良さそうだったし、週末は山科の家で過ごしていると聞いたので、てっきり「初めて彩乃の家に泊まった」話だと思っていたのだが、そこまで到達していなかったのに驚きだ。

「いつも週末一緒にいるんでしょう?」

「はい」

「山科の家にも遊びに行ってる」

「あのっ、どこかに出掛けた後、いつも山科さんが家でゆっくりしろって」

「うんうん」

「それで、毎食、外で食べるのも身体に良くないから、ご飯を一緒に作ったりしてて」

彩乃が恋の話をあまり好きではないことを水戸は知っている。その彩乃がおずおずと話す様子がとても微笑ましい。それに少しは自分のことを信用してくれたのだろうかと思うと、先輩冥利に尽きるというものだ。

それにしてもこの二人、毎週一緒に過ごしていながら、しかもどちらも一人暮らしであるにもかかわらず、お泊りデートをしたことがないとは意外だった。体の関係があるかないかなど、生々しいことを聞くつもりも想像するつもりもないが、週末一緒にいるなら「泊まっていけば?」くらい言いそうなものに。

「週末一緒にいるなら泊まったりすればいいのに」

食後のアイスコーヒーをストローでぐるぐるとかき混ぜながら何気なくつぶやいた一言に、見る間に彩乃の顔が赤くなっていく。

ストローの動きを止めて、水戸は目を瞬かせた。

なんだこの反応は。

「あのさ、二人とも……」

まだ寝てない、ってことはないよね? と聞こうとして、さすがに水戸は口を噤んだ。二人とも会社で顔を合わす人間だけに、そこを突っ込んで聞いてしまうのは複雑だ。なので山科を哀れむだけに留めておく。山科は彩乃に手を出していないのか? それとも彩乃が山科に許していないとか?

山科の性格から行くと、ただゆっくりと、彩乃とのことを進めているようにも思う。……だとしたら、いい歳した、しかもしばらく彼女のいなかった(らしい)成人男性が、今度こそ好きになった女の子、それも彩乃みたいな可愛い子と一緒にいて、手を出さずにいるのはどんな聖人だろうか。いや仙人か。それとも、悟りを開いているのか。我慢しているのか。

「山科は、泊まっていけばとか言わないの?」

「ええっ!?」

「毎週遊びに行ってるんでしょう?」

「それは……そうですけど」

「言われたりしない?」

「言われたり、しないです……」

彩乃の声が、羞恥ではなく小さくなっていく。しばらくアイスカフェオレを入れたグラスを見つめていたが、おずおずと顔を上げて首を傾げた。

「普通は、泊まっていって、欲しい、もの、なのでしょうか?」

聞かれて今度は水戸の方が返答に困った。普通は……泊まっていって欲しい、もの、なのではないだろうか。水戸は男ではないから、男心の真実が分かるわけではないが、男・女に関係なく、好きな異性と一緒に一晩過ごしたいと思うのは普通のような気もする。

「普通……って言うか、うーん、ゆきちゃんは、好きな人と一晩一緒にいたいなとか、朝一緒に目が覚めたいなとか、思わない?」

言っている自分が恥ずかしくなってしまう。好きな人の家に泊まりたいか、それが普通か、考えたこともなかった。だが、好きな人と一つのベッドでゴロゴロと甘えて過ごして、朝を迎えるのは、なんというか、その、例えようもない「そういう幸せ」を感じる。

……と、考えてしまう自分が、なんというか乙女チックではないか。彩乃と山科を見ていると、そういう穏やかなものが心に浮かぶ。

「山科さんも、そう思ってるんでしょうか……」

「山科の場合はそう思っていても、ゆきちゃん大事さに、まだ言い出していないのかも」

「大事さ、ですか?」

「う、うん。付き合って間もないのに、急に泊まっていけ、とかは言い出さないんじゃない? 真面目そうだし」

どことなく彩乃が前のめりになって聞いてきたので、あまりリアリティのあることは言い出せずに、なんとなくそれらしい理由をつけてお茶を濁してしまった。水戸が考えるにクソ真面目な山科は、彩乃可愛さのあまり、逆に手を出すことができないのではないのだろうか。彩乃はどう見ても手馴れている風には見えない。

それならば彩乃の気持ちはどうなのだろう。

「ゆきちゃんはさ、山科の家にお泊まりしたいなーとか、どこか一緒に旅行に行きたいなーとか思わない?」

彩乃の目が丸くなる。

そうして頬を真っ赤にした。

「思い、ます」

「うんうん」

おい山科。ゆきちゃんはとっても可愛いぞ。水戸は彩乃の照れた顔を写真で撮って山科に送りつけたい衝動に駆られたが、彼女の理性がかろうじて笑顔で頷くに留めた。