山科の家に泊まるとか泊まらないとか、泊まってみたいとかそうではないとか、そんなことを考えたこともないと言ったら嘘になる。
そして彩乃とてもういい大人なのだから、未経験ではあるけれども、恋人の家に泊まったら泊まったで一緒に眠って、ハイ終了、ではないことくらい承知していた。
山科とキスはもう何度もしている。部屋で二人きりで過ごしている時、山科はいつも彩乃と身体をピタリと触れ合わせ、頭を抱き寄せて頬を寄せている。小さな彩乃は時々バランスを崩して山科の胸板の上に顔が落ちてしまうのだが、そんな時、顔を上げると自然と距離が近くなって唇が触れ合う。
啄ばむような口づけをして、その唇が完全に離れる前に山科が低い声で彩乃を呼ぶ。唇の動きすら感じられるほどの距離は、彩乃が山科を呼んだらきっとまた触れてしまうだろうという奇妙な予感があった。「かおるさん」と唇を動かすと、案の定、山科の固い唇に彩乃の柔らかいそれが掠める。
山科が彩乃の身体を強く引き寄せた。
空いたもう片方の手も彩乃を抱き寄せるように回って、大きな身体が覆いかぶさる。
こうなるときは、時々あった。堪え切れないように山科の唇が再び重なって、今度は別の感触に口内がなぞられる。息を求めてなのか、それとも全く別の感触か、彩乃の喉の奥から抜けるような吐息が溢れ、その吐息の度に、密着した山科の硬い身体がかすかに震えるのを感じた。
大きな掌が抱き寄せる首筋と腰回りをゆっくりと撫でている。その手が一体何を求めているのか、分からないほど彩乃も鈍感ではない。もちろん経験は無いけれど、恋心が生み出すような可愛らしいものとは全く別の鼓動が胸を打つ。
この男性に、もっと触れたい。触れて欲しい。
けれど、未経験の感触は、彩乃の心に反して身体を驚かせてしまう。
触れていた唇が彩乃の唇から離れ、頬を滑り首筋に触れた時、びっくりしたように大きく震えて山科の服を強く掴んでしまった。
途端に我に返ったように山科の身体が離れる。山科が気まずげに視線をそらして、息を吐いた。
「悪い」
「あ、あの」
「お茶でも淹れよう。この前彩乃にもらったデカフェの茶葉」
「はい、わた、私が淹れますね」
「一緒に淹れる」
「はい」
彩乃が頷くと、山科がホッと安堵したように笑った。
山科の手が怖いわけではないと伝えたかったが、その先が全く怖くないかとなると、それもまた違う。彩乃は何もかもが未経験だ。もしもうまく出来なくて、優しい山科をがっかりさせてしまったらどうしようとも思うし、しかし、そういうことになるのであれば、山科以外には触れてほしくないとも思う。
山科の手が深く触れそうになって、躊躇い、離れてしまった後、無性に山科の身体に抱きつきたくなる。次は……次こそは……、離れそうになった山科の身体にぎゅっと掴まってみよう、そんなふうに思いながら、彩乃はキッチンに向かう山科の背中を追いかけるのだった。
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週末は約束があってもなくても、なんとなくお互いの予定を伝え合うようにしている。特に用事がなければ、一緒に買い物に出かけたり、山科の部屋で過ごしたりする。彩乃の方から博物館や美術館の企画展に行ってみたいと申し出る時もあるし、山科が観たい映画に誘われる時もある。彩乃はどちらかというと文字から情報を収集し、山科はどちらかというと映像から情報を収集する性格で、趣味が一致しているというわけではないと思うが、噛み合わないということもない。一緒にいると別々のことをしていても心地がいいし、相手が何をしているのかにも興味が湧く。
だから一緒にいない週末は、翌週、すぐに会社で会えるというのに物足りなくて、寂しい。
「来週の週末は、実家に帰ることになったんです」
次の週末、実家に戻ることになったと申し出ると、山科はふうむ……と顎を撫でた。
「泊まりか?」
「はい。部屋に帰ってもいいんですけど、晩食べて、翌日買い物に行きたいからって」
「なるほどな。ゆっくりしてこい」
彩乃は頷いたが、少しだけ寂しそうな表情になってしまったようだ。くつろいでいる山科の部屋のソファの上で、山科が静かに笑った。何かを言いかけて口を開き、少しだけためらった後、唇が近づく。
瞼の横に唇が押し付けられて、包み込まれるようなぬくもりを感じる。安心できる山科の腕に包まれて、彩乃の頭の上に顎が乗せられた。最近、山科は彩乃を後ろから抱きしめてこうするのがお気に入りらしい。
それでも浮かない顔をしていたからだろうか、山科がやや考え込んで、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「隣人と顔をあわせることはなさそうか?」
隣人……この間会った、一宮彰の事だろう。彩乃は頷いた。
実家に戻る事になったのは、姉の美乃梨とその夫……一宮彰の兄隼人との間に子供が出来、少々気が早い赤ん坊グッズを見に行こうと誘われたからだ。それならば、その前の日に実家に戻って家族と隼人を交えて食事でもしようかということになった。彰は家から出ていると聞いた。それに家族と一緒に居れば、顔を合わせることは無いだろう。
もちろんそうは思っても、先日のことがあるからあまり気は進まない。
「彩乃、日曜日に帰ったらすぐに連絡してくれ」
「え?」
「彩乃の部屋と俺の部屋、それほど離れていないだろう。少しでも会いたい」
そう言って、彩乃の首筋に山科が顔を埋める。いつもはしっかりとしている風な山科が、二人きりの時はわずかに彩乃に甘えてくる仕草が嬉しい。少し顔を傾けると顔を起こした山科の頬に触れる。山科が顔を寄せてわずかに唇が触れ合った。
深い口づけよりも、そうしたほんの少しの触れ合いの方が、今は彩乃の心を柔らかく溶かした。
****
週末は一緒にいられないなら、金曜日、仕事の帰りに泊まって……という事態にはならなかった。もしかしたら山科の負担になるかもと思えば彩乃から言い出すことはとてもできないし、彩乃の部屋に来てもらうにしても、実家に出かけるからバタバタするに決まっている。
それでも夕食は一緒に食べて、「もし何かあったらすぐに電話してくるんだぞ」と念を押された。彰とは接点が無いはずだから心配無いとは思いつつも、山科には何か思うところがある様子だ。
実家まで車で送るという山科の申し出は、魅力的ではあるものの、そこまで甘えるわけにもいかないので断った。昼過ぎくらいに実家に着くように家を出て、電車に乗って、最寄りの駅で降りる。実家に戻る途中、お気に入りの店でケーキを買おうかどうしようか迷って……結局、明日にしようと断念した。明日、帰るときに姉夫婦へのお土産にして、それから山科に買って帰ることにする。
姉の美乃梨にラインでメッセージを送ると、どうやら両親を連れて食事に出かけているらしい。夫の隼人は午前中は別の用事があって自分の実家……すなわち隣家にいるとのことだった。
実家は自分の部屋とは違う、懐かしいけれど少しよそよそしい香りがする。一人暮らしに慣れた頃に感じるようになったもので、こういうとき、家族と楽しい時間を過ごした後に一人の部屋に戻るとホッとするのだ。別に家族が疎ましいわけではないけれど、いろいろなしがらみから自由になれた気持ちにもなる。
実家に戻ると、そのしがらみの一つと時折顔をあわせるというのも、アウェイ感を感じる要因の一つかもしれない。美乃梨と隼人の結婚式の時は、おめでたい席であるという大きな喜びの隅っこに、彰と顔を合わせる憂鬱さが、トゲになって刺さっていた。もう小さい頃のことなのにくだらない。いつまでもくさくさと悩んで、自分が嫌になってしまう。
彰がいるから嫌……などという理由で、いつまでも両家の慶びや行事に水を差したくはない。彰を相手にしないにしても、隣家を避けるのはお門違いだ。
そのように考えていたから、郵便受けの中に宛先の違う郵便物を見つけた時、あまり気負いのない風にそれを届けに行った。
ちらりと実家の玄関から隣家を確認したら、隼人が帰ってきているからだろう、美乃梨・隼人夫妻の車が止まっていた。姉も言っていたし、隼人は在宅のはずだ。
インターフォンを鳴らすと、扉の向こうからどことなく面倒そうで、気だるげな足音が聞こえる。
「はい?」
ガチャリと扉を開けたのは、一宮彰だった。
****
予想もしていなかったから彩乃は咄嗟に何もできなかった。彰の方も一瞬驚き言葉を失ったようだが、しかし彩乃よりも先に立ち直る。
「彩乃? 何お前、帰ってきてたの?」
「え……なんで、隼人さん、は?」
「あ? 俺が自分の家にいて悪いかよ」
「……」
「兄貴じゃなくて悪かったな」
「そんなことは言ってない」
彰が家にいて悪いとか、悪くないとか言っているわけではない。だが彰はいつもこうだ。彩乃が言うことをいつも彰の不機嫌な風に解釈して、刺々しい口調で彩乃を責め立てる。
「お前さ、この前」
「これ、私の家の郵便受けに入っていたから」
かけられた声にかぶせるように言って、彩乃は押し付けるようにハガキを差し出した。視界から外す最後の一瞬、彰の表情が非常に不機嫌に歪んだのが見えて、また不愉快なことを言われるのかと条件反射的に身構えてしまう。
その緊張を感じ取ったのか、彰の声が彩乃を侮蔑するように言った。
「この前会ったの、お前の彼氏だろ?」
「……」
差し出したハガキを彰は受け取らない。
「どんな奴? 年上?」
「……」
なぜこんなことを問われるのか分からない。隼人や美乃梨に聞かれたのなら楽しく答えることができただろうと思うのだが、彰に対してだけは、口を利くのも躊躇われる。
早く用事を済ませて帰ろう。そう思って、顔を上げた。
「これ、早く受け取って」
「なあ、あいつどんな男なんだよ。面白くなさそうなやつだったけど」
顔を上げてちらりと見た彰は、明らかに彩乃をからかうような、嘲りの視線が浮かんでいる。急に強くなった視線に、気を引いたと思ったのか、あるいは頭に血が上ったのか、彰は調子に乗ったように続けた。
「なんかさ、真面目そうで、つまらなくね?」
「真面目なのの何が悪いの?」
子供の頃のようにおどおどすることもなく、怖気付くこともなく、彩乃はまっすぐ彰を見た。その眼鏡越しの強い視線に今度は彰が黙り込んだ。
「真面目な人なの。優しくて、一緒にいて楽しい」
「……」
「何が気に入らないのか知らないけど、彰君には関係ない。彼のことを悪く言うのはやめて」
そう言って、彩乃は彰にもう一度ハガキを押し付ける。彰の手がそれを受け取ったのを確認すると、彩乃は触れたくもないものに触れてしまったように手を振り払って、踵を返……そうとした。
振り払われた手を彰が捕まえ、そのまま玄関に引き入れられる。
「ちょっと」
「悪かったな。優しくなくて、真面目でもなくて」
「はあ?」
「なあ、あんな真面目男でもお前に手ェ出したりすんのかよ」
「何、を……っ」
そのまま壁に押し付けられ、何が起こったのが把握しきれないまま彰の身体が近づく。壁に挟まれるように身体を押さえつけられ、片方の手で顎を掴まれた。
「俺にもやって見せろよ」
「やめ……」
やめてと叫ぶ前に、唇がふさがれる。もごもごと唇が動いていて、唇を開けまいと気を取られていたら、彰の足が彩乃の足と足の間に割り込んでこようとした。
気持ち悪い、そう思った瞬間に眼鏡が落ちて、彰の唇が離れる。眼鏡が無くなったのに彰の顔がはっきりと認識できるほど近くにあるのが、憎らしくて仕方がない。
「下手くそ。キスくらいでゴタゴタ騒いで」
それを聞いた途端、彩乃の頭が真っ白になった。玄関が開いた音がしたが、同時に、自分の感覚とは遠いところで、パンと頬を叩く音が響く。
気がつくと、彩乃は彰の頬を張っていた。
「テメ……」
「彰!!」
叩かれた頬を横に向けて彰が何かを言おうとしたが、その声は別の男の声にかき消される。彰の身体が彩乃から引き剥がされ、そのまま勢い良く玄関に投げ出された。背の高い男の人が彰を罵倒している声が聞こえるが、彩乃にはもうどうでもいい。
そのまま二人の横をすり抜けて、実家の中に駆け込む。後ろから「彩乃ちゃん!」と声が聞こえたが、その声に応えることはできなかった。
自分の部屋に飛び込んで、床の上に座り込む。
両手で顔を覆った。彰がなぜあんなことをしたのかが理解できない。どうにか頭を冷やそうと思うのだが、混乱してそれが出来なかった。
ラインがメッセージの着信を告げる。
その小さな音に意識を呼び戻して、カバンから携帯端末を取り出してみた。ロック画面に表示されているメッセージは山科からのもので、「無事ついたか?」とだけ、書かれている。
「かおっ、かおるさん……っ」
彩乃は、端末をぎゅっと握りしめた。