015.一緒にいるだけでいいから

シャワーを浴びた彩乃は、濡れた髪をろくに乾かさないまま家を飛び出した。駅まで走って、ファミレスに入る。お気に入りのお洒落なカフェもあったが、化粧も適当で髪も乾いていない自分のひどい格好を思うと、そんなところには入れない。ファミレスだったらいいのかと言われればそういうわけでもないが、誰も彩乃に気を留めない場所の方が今はありがたかった。

『彩乃、出かけてるの?』

家に帰ったのだろう姉からラインが入る。しばらく躊躇ったが、『ちょっと買い物に出かけてる』とだけ返した。隣人の家を出た時、彰を止めてくれた男の人は隼人だった。それならば、姉は隼人から事情を聴いているかもしれない。

だが、しばらくの間、あんなことを思い出したくなかった。ただ、今は山科に会いたかった。

注文を取りに来た店員に、コーンスープとドリンクバーだけを頼んで、端末をもう一度ぎゅっと握りしめる。今はこれだけが彩乃の心をつなぎ止める拠り所だ。

あの後。

山科からのラインに返信する代わりに、彩乃は思わず電話をかけてしまった。ほとんど無意識に連絡先を開き、コールのアイコンに触れてしまったのだ。おそらく端末を手にしていたのだろう、ワンコールで山科は電話に出た。

何と話せばいいのか、心の準備もできていないまま、ただ電話してしまい、彩乃が困惑して黙っていると、山科はいつもの優しい声で「どうした?」と問うてくれた。

彩乃は泣いていたと思う。

ぐずぐずとただ山科の名を呼ぶ彩乃を落ち着かせるように、大好きな声が彩乃を呼ぶ。

『彩乃?』

『……かおる、さ、かおるさん、あのっ』

『何かあったのか?』

『何にも、何にもない、です、あの、お電話してしまって』

『彩乃』

山科のしっかりとした声を聞いていると、混乱して甘えたくなるのに、頭のどこかは冷静になっていく。いざ電話してしまうと何を話せばいいのか分からず、「あの程度のこと」で動揺して電話してしまうことがひどくみっともないことに思えた。

『あの、大丈夫です、私』

『彩乃、今実家か?』

『は、い』

『さっきのラインで現在地を教えてくれ。今から行く』

『えっ、でも』

『家族といるところ悪いが、少しだけ抜け出す口実を考えておいてくれ』

『かおるさん……あの』

『現在地を教えるのが嫌なら最寄りの駅でも構わん。教えてくれないならこのあいだ行ったショッピングモールで待ってる』

『かおるさん!』

『一時間くらいで行く』

電話が切れた。

珍しく強引で有無を言わさなかった。しばらく考えたが、山科にショッピングモールで待たせるわけにも行かない。それに、

それに……、少しだけでもいい。山科に、会いたかった。

そうして彩乃はラインで住所と、もう一つ、最寄りのファミレスを教えてそこで待つと伝えた。シャワーを浴びて服を全部着替えて、古い眼鏡を掛けて家を出たのだ。シャワーは絶対に浴びたかったし、彰に触れられた服はすべて着替えたかった。本当は時間をかけて念入りに身体を洗いたかったが、隣の家に彰がいると思うと早くここから出て、どこかに行きたい。それに楽しい気分で家族と会うこともできそうにない。もうすぐ姉たちは帰ってくるだろう。でも今は家族ではなくて、山科に会いたい。だから、家ではなくてファミレスで待つことにした。

シャワーを使っている僅かの間に、温かいものでも食べて座っていろとメッセージが来ていた。それを見て、彩乃の心がほんの少しだけホッとする。何も食べる気にならなかったが、ファミレスに来てコーンスープを頼んだのは、そのメッセージがあったからだ。

ゆっくりといただく甘いファミレスのコーンスープは、喉とお腹を温めてくれた。多少落ち着いた気持ちになって、改めて姉とのラインを開く。

彩乃の返信に既読の文字は付いていたが、その後のメッセージはなかった。それはそれで少し安心したが、ホッとゆるまった心の隙間に、先ほどの出来事の記憶が押し寄せる。

彰は何故あんなことをしたのだろう。

思い出すだけで鳥肌が立つ。

キスを「キスぐらいで」と言っていた。その言動が許せなくて、そんなことを言うような軽薄な異性に触れられたというだけで身体が震える。あんな風にイライラするなら、彩乃に構わなければいいのに、何故わざわざ声をかけて、わざわざ不機嫌になるのだろう。彩乃を不愉快にさせるためだけにキスをし、抱きしめようとするというなら、本当に最低で暴力的だ。

「かおるさん……」

どのくらいの時間が経っただろう。

掠れた声で彩乃が呟いた声は、新たな客が入ってきたコール音でかき消えた。ふと顔を上げると、その客はまっすぐにこちらに向かってくる。

「彩乃!」

声は抑え気味だったが、駆け寄ってくるその人は……今までに見たことのないような必死で、そして何かを堪えるような顔をした、山科だった。

****

山科もドリンクバーを頼み、彩乃の隣に座る。心配そうに彩乃を覗き込む瞳に泣きそうになってしまうが、ここはファミレスだからとぐっと我慢した。

我慢した顔を隠すように、腰を浮かしかける。

「私、コーヒー取ってきます」

「後でいい、彩乃」

テーブルの下で、山科が彩乃の手を包み込むように握り、すぐに座らされる。

「平気か」

「かおるさん……あの」

「手が冷たい。それに髪も」

「……シャワー浴びて、すぐに出てきたから」

「髪も、乾かさずに?」

こくんと頷くと、包み込んでいる手にぎゅっと力が込められた。

「風邪を引いてしまう」

「……ゴメンなさい」

「謝ることは何もしていない」

山科の大きな手が、彩乃の髪をそっと撫でた。他の客も沢山いるからいつものような距離感では勿論ないが、それでも、彩乃の緊張が緩むには十分だった。

「話しにくいことか」

そう問われて彩乃は俯く。嫌いな異性から触れられたと恋人に打ち明けるのが、正しいことなのか間違ったことなのかの判断もつかない。それでも、黙っていることは出来なかった。

できる限り冷静に、合ったことだけを客観的に話そうと努めたが、それでも思い出すと恐怖で身体が強張った。いや、恐怖、というよりも嫌悪感というべきだろうか。とにかく身体がゾッとした。

「今日、郵便物の誤配があって……隣は、隼人さん、義兄がいるからって、思って……届けに行ったんです」

「一宮彰がいたのか」

「彰君は、家から出ているからいないって、おも、思ってたのに……」

彩乃が頷く。それで、山科の事を聞かれて、言い争っているうちにキスされ、身体に触れられたのだと……事の顛末を話した。

話す声が震え、鳥肌を感じ取ったのか、山科が手をさする。その優しい動きに彩乃が顔を上げると、山科が見たことのない恐ろしい形相でテーブルを睨みつけていた。

「かおる、さん? ……あの、怒って、ますか?」

ゆっくりと、山科が彩乃の方に視線を戻す。その表情は怒りそのもので、彩乃の心が一瞬、萎縮した。しかし山科が、ぎゅ……と眉をしかめ、彩乃に触れていない方の手で目を隠し、額を押さえた。そうして絞り出すように「悪い」と答える。

「怒ってる、が、お前に対してじゃない」

「え……」

「そもそも何でお前に対して怒る必要がある。俺が怒っているのは彰という隣人に対してだ。当たり前だろう」

「でも、でも……キスくらいで」

「キスくらい?」

山科の雰囲気が剣呑になる。山科が彩乃から手を離して、向き合うように身体をずらした。

「彩乃は、本当に『キスくらい』と思っているのか?」

「違う!」

「俺が『キスくらい』と言って、彩乃の言い分を聞かないと?」

「違う、違います……ごめんな、さい」

「……あいつが、そう言ったのか」

言ってしまった言葉に彩乃の瞳が熱くなる。だが自分が悪いのに泣くなんてみっともなくて、涙を堪えて俯くと、山科が彩乃の手をそっと握った。

その途端、ぽたりと一粒、涙がこぼれる。

「彩乃……悪い、怖がらせるつもりじゃなかった……」

その涙に慌てたように、山科が頬に手を当てる。彩乃の顔を覗きこんだ時、山科の表情に怒りはなく、ただ彩乃のことだけを視界に入れて、気遣っていた。

怖がっていない。そう伝えたくて頭を振ると、山科は静かに頷いた。腰に手を回してお互いの身体を引き寄せた。

「彩乃。隣人のやった行為は、立派な強制わいせつだ」

「え……?」

「手も顎も、掴まれたんだろう。無理やりだ。殴ってやりたい」

その怒りは、確かに彰へと向けられていて、彩乃の困惑の代わりに山科が怒ってくれているようにも思えた。そして、彩乃は悪くない、彩乃は怒っていいのだと言ってくれたようで、ぐちゃぐちゃになっていた心の中が少しずつ整理されていく。

「彩乃」

「はい……」

「その男の家は彩乃の家の隣だろう。行って話をつけてくる」

「えっ」

先ほどの怒りの声とは打って変わって、静かで真面目な声だった。それが逆に山科の本気を感じさせて、彩乃が思わず腕を掴む。

行ってほしくなくて、関わって欲しくなくて、彩乃はふるふると頭を振った。

「彩乃」

しかしどう言えばいいのか分からなくて、黙って頭を振り続ける。

山科はしばらく腕を掴んでいる彩乃を見つめていたが、ゆっくりと、二度、三度、深呼吸をした。

「わかった……」

「かおるさん」

「その男の家には、行かない。その代わり」

山科が、泣きそうな顔になる。

「これから家に来ないか。彩乃に触れたい」

彩乃は山科の服をぎゅっと掴んだまま、静かに頷いた。