一度実家に戻るかどうか問われて、彩乃は戻らないことを選択した。山科は戻したがっていたようだが、今はまだ、家族に会いたくない。
実家に連絡を入れようと携帯端末の画面を開くと、姉の名前がホーム画面に表示された。
「あ」
「電話か?」
「はい。姉から。……出ます」
「ああ」
車内に流れる音楽を山科がミュートし、彩乃は姉の美乃梨からのコールをしばらく見つめ……受信した。
『もしもし、彩乃?』
『う、うん』
『今、どこにいるの? 買い物、ではないんでしょう』
『……うん』
『あのね、彩乃。隼人から……聞いたのよ。今、どこにいるの? 一人?』
『今ね、今……お付き合いしている人に、来てもらって、一緒にいる』
『……お付き合いしてる人? そう……』
電話越しの声であったが、美乃梨はホッと安心したようだった。そしてやはりというべきか、美乃梨は隼人から事情を聴いているとのことだった。隼人はどのタイミングで入ってきて、どこまで把握していたのだろう。キスされたとか、身体を触られていたとか、そこまで隼人が知ったかどうかは分からない。
あの後、彰を玄関に突き飛ばしていたような気はするが、自分のことで精いっぱいでそれ以上は見ていなかった。
『彰君のことは心配しなくてもいいわ』
『心配?』
『隼人が力一杯殴ったって』
『そっか……』
姉からのその言葉で、少なくとも、彰が彩乃に「何かした」という事実は認識されたのだということが分かった。美乃梨は詳しくは言わなかったので、どのような話が伝わったのかは結局分からなかったが、彩乃にしたら、今はそちらの方がありがたい。
『今、彼氏さんと一緒にいるの?』
『うん。山科薫さんっていう人』
『山科さん? 来てくれたの?』
『……うん』
『そう……それじゃあ、今日は帰らない?』
『えっ?』
一息ついて、美乃梨は深刻そうな口調を少し崩して、優しく、そしてどことなくくだけた風に言った。
『彼氏と一緒にいるんでしょう? 今日は一緒にいた方が良くない?』
『いや、でも』
『その方が、彼も安心するでしょ』
『そ、そうだけど、あの』
『彩乃、あのね。……今日は彼と一緒にいた方がいいわ。絶対に、そうしなさい。迎えに来てくれるくらい優しい彼なら、なおさら』
今日は帰らない、という選択肢を持っていなかった彩乃は慌てて「違う」と否定しようとしたが、いつもは必ず彩乃の話を聞いてくれる美乃梨が、今日に限って押しが強い。美乃梨は家族との食事会は心配ない、父と母と隼人には自分から話しておくからと強く諭す。
『その代わり、もし彼がいいと言ったら』
美乃梨の声に、彩乃が運転をしている山科をちらりと見る。山科もまた、彩乃に視線を向けた。どうした? と瞳を優しく細めて、安心させるように頷く。
『明日、彼氏と一緒にお昼を食べに来ない?』
もちろん、予定がなければ、だけど。そのように何度か念を押して、『その人はそこにいるのよね?』と聞いてきた。彩乃はひとまず『聞いてみるから』と言って電話を切る。
「彩乃? お姉さんは、なんと?」
「えっと……」
しかしなんと言えばいいのか。彩乃の自惚れでなければ、美乃梨の「今日は帰らない」という言葉には、言外に「明日まで彼氏と一緒にいてもいい」という意味が含まれている、ように聞こえた。ただ、それを山科が許諾するかどうかは別問題だ。
「今日は、……その」
「彩乃?」
「明日、お昼に間に合うように実家に戻ればいいって……」
山科は視線を前にしたまま、少し黙った。何事かを考えているような沈黙が、車内を支配する。先ほど音楽も切ってしまったから、音もない。先ほどの会話で彩乃が山科のことを恋人だと紹介したことは知れている。だから、彩乃の言った意味を、考えているのだろう。
だが沈黙がいたたまれなくて彩乃が慌てて言った。
「あのっ、私、自分の部屋に」
「彩乃」
だが、かぶせるように先制される。
「それなら、彩乃。今日は俺の部屋に……泊まったらいい」
「……は」
はい。と即答してしまった。
****
「着替えだけ持ってきてくれ。化粧品とか、歯ブラシとかは買いに行こう」
そのように言われた彩乃は、翌日の着替えや一通り出来るメイク道具をカバンに詰めた。彼氏の家にお泊まりって、何を持っていけばいいのだろう。化粧品と歯ブラシは買いに行こうと言われたが、歯ブラシはいいとして、化粧品って……化粧水や美容液のことだろうか。どこまで持っていけばいいのかよく分からず、彩乃は一応ストックしている分の基礎化粧品とメイク道具を鞄に詰めた。一晩くらいならフルで揃わなくても大丈夫、だと思う。それに、山科と約束したのは30分後に近所のコンビニだ。旅行用の入れ物に詰める時間は無い。
あの時、泊まったらいいと言われて即答してしまった彩乃は、顔が真っ赤になったのを自覚しながら、翌日実家にお昼を食べに来いと言われてしまったことも白状した。
急に実家に招待されても困るだろうと思ったのに、言うと山科はあっさりと頷く。
「行こうと思っていた」
「え?」
「彩乃を連れてきてしまったのは俺だ。そのことをご両親にお詫びに行こうと思っていた」
「そんな! 電話したのは私のなのに!」
「だが来たのは俺だ。そして、俺のわがままで彩乃は俺と一緒にいるだろう」
「違う、私もかおるさんと一緒にいたくて……」
まくしたてるように言った途端、山科が嬉しそうに破顔したのを見て、彩乃は諦めたようにやんわりと息を吐く。山科の家に泊まるのも、急に実家に招待することになったのも、申し訳ないと思うと同時に嬉しいとも思ってしまう。
そんなやり取りを思い出しながら荷物を詰めていると、山科からラインが入った。そろそろどんな感じだ、との問いかけだ。見ると時計がもうすぐ約束の時間を示そうとしている。彩乃は「すぐ行きます」と慌てて返信して鞄を閉じる。
そういえば……と、掛けている眼鏡のフレームに指を触れた。実家に帰った時に掛けていたものは彰の家に落としてきてしまったのだ。よく考えたら今掛けているものは、実家に置いてある古い眼鏡だ。……置き去りにしてしまった眼鏡のことを考えると気が滅入ったが、彩乃は気分を少しでも変えようと、一番お気に入りの、少し大きめフレームの眼鏡を掛けて気合いを入れると部屋を出た。
あんなにも憂鬱だった心は、山科に会えただけでふわふわと浮き立つようだ。
****
彩乃の荷物を見ると、山科は「ずいぶん大きいな」と笑った。どれくらい何を持ってくるか分からなかったと訴えると、確かに自分も分からないと頷かれる。すぐに山科の家に行くのかと思ったら、買い物をしようと誘われ、色々なお店が入っている少し大きめの量販店に連れてきてくれた。
何を買うのかと問うと、枕を買うのだという。
「枕、ですか」
「持ってきてはいないだろう」
「も、ってきてはいないですけど」
「俺の家には一つしかない。間に合えばいいが、間に合わなかったら彩乃に悪いからな」
大真面目にそう言って、まずは寝具のところにやってくる。お泊まりの準備に枕って必要なものなのだろうか。だが、一つの枕を二人で使う状態が初恋の彩乃には想像できず、二つあったほうがいいかな、とも思う。一個一個ふかふかを楽しみながら枕を選ぶのは楽しく、彩乃は山科が持っているものと同じタイプのやわらかな枕を選んだ。
モコモコの肌触りがやさしい枕カバーも一緒に買った。これは山科も気に入って同じものを二枚。そしてレジでは結局お金は払わせてもらえなかった。
「彩乃用のものだが、俺の部屋に置くからな」
「そ、それなら、私の部屋に置くときは私が買いますから!」
山科が少し目を丸くして彩乃を見る。その視線を受けて、急に発言の意味するところに気がついた。これでは彩乃の部屋に泊まりに来て欲しいと言っているようなものだ。とっさにどう言えばいいのか分からなくなって言葉に詰まると、山科が買い物袋を持たない方の手で彩乃の耳元に触れた。
こうして人に触れられると、相手の体温と自分の体温をより現実的に感じる。
「そうする」
山科の答えに彩乃は頷くしかない。耳元に触れていた太い指先が、するりと頬を滑って下に降り、彩乃の小さな手を包み込んだ。
「あの」
「ん」
「晩御飯は、どうしますか?」
「そうだな……俺が作るか」
「一緒に作りますよ」
「何がいい?」
「食べたいものありますか?」
「なぜかオリーブオイルがあるから消費してもらえると助かる」
山科のその言い方は、なんでもないことなのに彩乃には心地がよくて思わず肩の力が抜けて笑ってしまう。それならパスタにしましょうと提案して、一度荷物を車に置いて、今度は食材を買いに行くことにした。山科と並んで買い物をするのは初めてではないけれど、恋人という特別感とともに、二人並ぶことの日常感を強く感じる。恋人になるのは胸がそわそわするものだが、それと同時に、彩乃は穏やかで何にも煩わされない時間が欲しい。山科と一緒にいると、そういう安心感があるのだ。
来ていた店舗の別棟が食品や日用品売り場になっている。カートをコロコロと押しながら何のパスタにするか相談していたら、釜揚げ桜えびのパックを見つけてしまった。そこで桜えびとアスパラであっさり目のパスタを作ることにする。パスタと、夜食用にビスケット、それから少しだけお酒も買って帰路に着いた。
山科の部屋は、……まるで自分のアパートに帰ってきたときのような、あるいはそれと同種の匂いがする。実際に鼻腔に感じる匂いではなく、居心地とか、そういうものだ。玄関に入って荷物を置くと、彩乃は思わず長い息を吐いた。
「疲れたか?」
「いえ」
「今日はいろいろあったからな」
長い息を吐いた気配が伝わったのだろう。心配してくれる山科が愛しくて、隣に並ぶ腕に少しだけ、寄り添った。山科が持っていた荷物を降ろして、やんわりと抱き寄せる。
「疲れたわけじゃなくて、ホッとして……」
「そうか」
「会いたかった」
「ああ」
そのまま、ぎゅ……と腕を回す。彩乃から積極的に山科にしがみついたのは、初めてだったかもしれない。いつも遠慮がちに背中に手を回したり、腕に触れたり、手を握ったりすることはあったけれど、今はただ、山科の硬い体を感じたかった。
山科の腕に力がこもり、硬い胸板が彩乃の柔らかい頬に触れる。その途端、我に返った彩乃は身体を引き離そうとした。
「あ、すみません、お化粧ついちゃう」
「そんなもの、洗えば取れる」
そう言って、さっきよりも強く……しかし彩乃が苦しくない程度にまた、抱き寄せる。いい匂いがする。もう一度、山科の腕に手をまわし、大きく息を吸った。
名前が呼ばれて、腕が外れる。
その代わり髪がそうっと撫でられて、彩乃の顔が上を向いた。片方の手が彩乃の眼鏡を外して、唇の近づく気配に目を閉じる。目を閉じるタイミングなんて知らなかったはずなのに、いつの間にか自然にできるようになった。一度、二度、唇をマッサージされるように食まれて、下唇を山科の舌がそっと舐めた。
「大丈夫か? 触れても、怖くないか」
そう言われて、そっと目を開けると、心配そうに彩乃を覗き込む山科の瞳が見える。
「怖くないです。……かおるさんが触れるのは、全然怖くない」
だからもっと触って欲しい。もっと触って、彰の感触を忘れたい。そういう思いを込めて彩乃は、もう一度ぎゅっと山科にしがみついた。
山科の手が彩乃の耳に触れ、頬を包み込んで、もう一度唇が重なりあう。今度は、山科の舌が唇の間を縫って入り込もうとする。それを受け入れるように彩乃が唇を開くと、舌先が吸われ、優しく撫でられた。
こんな風にされると、どうしてか、離れたくなくなってしまう。
ひとしきり舌を絡ませあう。いつの間にこんな風なキスができるようになったんだろう。教わったわけではないのに、彩乃は山科とどうやって唇を合わせればいいかを知っている。心地がよくて、少し恥ずかしくて、愛しい。
唇が離れる気配に彩乃が瞳を開けると、困ったように山科が小さく笑った。
「そんな顔をされると、離れたくなくなるな」
まぶたにそっと触れると、眼鏡をかけ直してくれて、照れ隠しのように山科は「行こう」と台所へと足を向けた。