017.期待させないで

釜揚げ桜えびとアスパラのパスタは彩りも鮮やかで、実に美味しそうに出来上がった。ハーブの風味とオリーブオイルの良い香り、辛味は苦手なので鷹の爪はほとんど入れず、塩胡椒、それから少しだけ醤油で味付けした。

付け合わせはじゃがいものスープ。温めるだけの簡単なものだ。

「おいしい」

「ああ。醤油を少し入れると、味がはっきりするな」

「ちょっと香ばしくなりますね」

桜えびの塩気と旨味、それにアスパラガスのほっこりとした野菜独特の甘さが春らしくて美味しい。それほど豪華なものではない、いつも二人で作るのと変わらない食卓だ。だが今日は少し、違う。山科はビールを空け、彩乃もアルコール度数が高くないカクテルを口にしている。

いつも山科は彩乃を部屋に呼んだ時、帰りは車で送ってくれる。そのため山科の部屋で一緒に飲むことはないのだ。しかし今日は彩乃を「帰さない」……だから、こうして一緒に部屋飲みをするのは初めてで、普通のことなのに妙に意識してしまう。

「今日は本当によかったのか」

「はい、実家はそれほど遠くないのでいつでも行けますし、それよりその……」

「ん? どうした?」

「父と母が、張り切っちゃって」

「張り切る?」

彩乃は先ほど姉に電話したときのことを思い出して、少しだけ顔を赤くした。明日のお昼に山科を連れて実家に戻ると告げると、その場にいたらしい父と母に大きな声でそれを報告していたのが聞こえたのだ。「まあ」とか「ほお」とか、ともかくそんな風な声も遠くに聞こえる。特に母は、姉が初めて隼人を「恋人」として連れて来た時、彩乃がちょっとびっくりするほど歓迎していた。いつも隣にいた隼人ですらそんな調子で歓迎されたのだから、奥手な彩乃が連れてくる彼氏のことを、相当楽しみにしているわよ、とは美乃梨の言だ。

「明日、お昼は家で食べるなら一番得意料理にするって、言ってました」

「お母さんのか、得意料理ってなんだ」

「あー……多分、ちらし寿司です」

母は、何か祝い事やイベントごとがあって「得意料理にするわよ」と言って作るのがそれだ。特に祝いの品物が入っているわけではないが、酢飯の具合が他とは全く違って、確かに美味な逸品だった。

「楽しみだ……お邪魔ではなかったか?」

「とんでもないです。そんなことより、母がはしゃぎすぎてしまうかもしれません」

「歓迎されているのならば、それでいい」

いきなり家族に会ってもらうなんて、重くなったりしないだろうか。しかしそのように考えてしまう自分の方が重い気がした。親に恋人を紹介するなんて経験、もちろん初めてだ。

「機会があれば、俺の親にも会うか」

「え?」

「いやじゃないか?」

「そんな! もしお邪魔でないならお会いしたいです」

「ああ」

嫌なわけがない。そう言うと、山科が嬉しそうに笑う。いきなり家族に会わせてくれるなんて、重い……なんて、彩乃は少しも思わなかった。お呼ばれすることを想像すると、もちろん嫌われたくないという思いもあるし緊張もするだろうけれど、それよりもこの人のご両親ってどんな方なのだろうと言う、楽しい好奇心が勝る。

「お兄さんもいらっしゃいましたよね」

「ああ、そういえば璃子さんには会ったな」

山科の義理の姉だという璃子のことを思い出す。スマートな体型に華やかな美女だった。そういえば籍は入れていたが披露宴はまだと言っていたはずだ。きっと美しい花嫁になるに違いない。

花嫁

という単語が脳裏に浮かぶと同時に、唐突に彩乃は山科との未来を妄想してしまって真っ赤になった。雑誌や小説を読んでいると「付き合っている=結婚」とは、短絡的で重いという風に読み取れる内容のものも多くある。彩乃は結婚願望が強いというわけではなかったが、仲の良い両親を見ていたらやはりあのような家庭を築きたいと思うし、好きな人とそういう風になりたいと思う。

山科は、どう思っているのだろう。だが付き合ってまだ何年も経っているわけではないのに、そんなことを想像するのも早急すぎるだろうか。

「彩乃?」

目の前で優しく笑う山科。真面目で穏やかすぎるくらいの彼のことが、とても好きだ。長く彼の隣に寄り添いたいと彩乃は思う。

****

風呂は彩乃が先に入ることになった。許可を得てお風呂の道具をあれこれ使わせてもらう段になって、しまった……と彩乃は気がつく。

「シャンプー買うの忘れちゃった……」

山科はメンズ系のソープを使う派らしい。使って怒られはしないだろうけれど、もう少し女の子っぽい香りの方が喜ばれそうな気がする。だが持ってくるのを忘れてしまったのは彩乃だし、洗わないわけにもいかない。

洗ってみるとしっかりとした洗い心地で、地肌がスッとした。そして時々感じる山科の香りがする。そんなことに気がついた自分がひどく気恥ずかしくなって、彩乃はせっかく溜めてくれた湯船もそこそこにお風呂から上がってしまった。

ドライヤーで髪を乾かして眼鏡をかけると、さらに重要なことに気がついた。

「しかもスッピンだ……」

風呂に入ったのだから当然だ。日頃から顔が変わるほどの化粧をしているわけではないが、目元や頬が心もとない気がするし、そもそもスッピンを見せるのは初めてだ。それに……それに。

もう一度念入りに身体を洗いたい気がする。

洗っても洗っても洗い足りないような気も。

そもそも自分の身体に自信がないし……。

だが、身体に自信がないとか洗い足りないとか、そんなことを考えるなんて、まるでその先を期待しているみたいではないか。それに、今着ているものも、一番お気に入りのものを持ってきたが、もっと可愛いパジャマを買っておけばよかった。

だが、ずっとここにいるわけにもいかない。彩乃は持ってきたバスタオル(これもお気に入りのモコモコしたものだ)を頭からかぶって、そっと山科の待つ部屋に戻った。

山科もTシャツとハーフパンツにラフなパーカーという格好に着替えていた。普段は部屋でくつろぐ時も上着を脱ぐ程度なので、くつろいだ格好の山科を見るのは初めてだ。胸板や腕の体格がはっきりと見えて、スーツを着ている時とはまた別の、男らしいラインに胸がどきりとした。

「あの、シャンプーとか、借りてしまいました」

「ああ」

「お風呂ありがとうございます」

山科が頷いて手を伸ばす。隣に座るようにとの合図に、並んでちょこんとソファに座った。かぶったバスタオルの中に、山科が指先を入れて、髪の一房に触れる。

「ちゃんと乾かしていないな?」

「急いで出てきてしまったから」

「ゆっくりしていてもよかったのに」

小さく笑って、山科が彩乃の瞼の横に口付ける。唇はすぐに離れたが、距離はすぐには離れない。しばらくの間、互いの息遣いを感じるほどの距離に顔を寄せた。……お互いに薄着だからか、甘い雰囲気はすぐに境界線を超えそうな危うさがある。しかしそれを越える前に山科が慌てたように離れた。

「俺も入ってくる」

「はい、あの、お茶淹れてもいいですか? デカフェのやつ」

「頼む。あと身体を冷やすなよ」

照れを隠すように彩乃が言うと、山科が頷いて、着ていたパーカーを脱いで彩乃の肩にかけた。立ち上がる時に彩乃の頭をバスタオルごとくしゃくしゃと撫でて、浴室へと出て行った。

それを見送った彩乃は、お茶を淹れようとソファを立ち、肩にかけてもらったパーカーに袖を通してみる。

「大きい」

体格のいい山科もかなりゆったりと着ていたものだから当たり前だろう。ただ服を着ているだけなのに、恋人の着ている服をちょっと借りる、というのは、想像以上に彼の気配を近くに感じる気がした。

ケトルに水を入れて火にかける。茶葉を出して、ポットとマグカップを二つ……一つは、山科が買ってきて置いてくれているものだ……用意していると、あっという間に山科が出てきた。

「早い」

「シャワーを浴びただけだから」

自分が入った時間の半分もかかっていないのではないだろうか。タオルで髪をガシガシ拭きながら入ってきた山科に、驚いたように目を丸くしていると、髪を拭いている手を止めて、山科もまた、目を丸くした。

「かおるさん?」

「ああ」

彩乃が首をかしげると、山科がタオルを首にかけてキッチンに入ってくる。そのまま、ぎゅ……と後ろから抱きしめられた。風呂上がりの湿度の高い温度と、いつもより近い肌の感触に、身体を摺り寄せたくなる。少し前まで羞恥の方が優っていたのに、今はこの温度が恋しい。その気持ちのままに少しだけ身じろぎをすると、山科が力を込める。実際には抱きしめる強さが変わったわけではないが、彩乃の寄り添いたいとい気持ちに沿うように、体勢を少し変えたり、唇でどこかに触れたりしてくれる。

「俺のパーカーなのに、彩乃が着ると……可愛いな」

「え?」

「男物を彼女が着る話は、実際どうなんだろうと思っていたが……彩乃が着ると、確かに可愛い」

「あの、お湯、お湯湧きますよ」

「知ってる」

言いながら、山科の鼻が彩乃の髪に触れた。

……と、何かに気がついたようにすぐに顔を離し、すぐに再び顔を近づける。山科はしばらくそうしてから、困ったように笑った。

「シャンプー……そうか、買っていなかったな。すまん」

香りを嗅いだのだろう。山科が何を言っているのか分かって、気恥ずかしくなって、彩乃は首を振る。

「あ、私も持ってきたらよかった」

「男物を使わせてしまった」

「頭、スッとしました」

「ああ、暑くなってきたら、いつもあれを使ってるんだ……同じ匂いがする」

話していると、お湯がいよいよ沸騰した気配がする。山科を背中に背負ったまま、茶葉をポットに淹れてお湯を注ぐ。温かい湯気を感じていると、それと入れ替わるように山科の体温が離れた。

空のマグカップを二つ持って、ソファの方へ足を向ける。

「向こうで淹れよう」

デカフェの茶葉はサクランボの香りのものだ。爽やかさの中に甘い風味が香る湯気を感じながら、彩乃もそれについていく。

そういえば今日は、家に帰らなくていいんだ。

時計の針が示すのは、いつもは山科の部屋にいないはずの時間。いつもとは異なる距離感。親密だが、どこか胸のそわそわとするような緊張感が二人の間に、ある。

お茶を注ぎ、マグカップを通してお湯の温度で手を温めながらテレビをつけると、いつもは一緒に見ないはずの時間帯の深夜のバラエティ番組が映った。

お茶に口をつけると、苦味や渋みの少ない穏やかな味が口に広がる。お互いの家を夜に訪ねた時、紅茶やコーヒーを飲むと眠れなくなってしまうから……と、買い物に行った時に、それぞれ違う味のデカフェティーの茶葉を買って、それぞれの部屋に置いてあるのだ。山科の部屋には彩乃が選んだサクランボを、彩乃の部屋には山科の選んだダージリン。山科の部屋に夜遊びに来た時、これを飲むのが定番になった。

「いい香り」

「そうだな」

安心して飲める紅茶は少し熱くて、お風呂から上がってようやく冷えた身体をもう一度温めてくれる。その熱さを静かに堪能していると、山科がポツリと言った。

「……そろそろ、休むか」

「あ……はい」

穏やかな物言いなのに、どきりと心臓が跳ね上がる。

その言葉に深い意味などないはずなのに、バカみたいに色々な意味を考えてしまった。だが、山科は彩乃の慌ただしい心の中とは正反対に冷静で、いつもの真面目な雰囲気でまだ半分も飲んでいないマグカップを置いて、立ち上がった。

「歯を磨いてくる」

「わ、私も」

「ん……」

彩乃も慌てて立ち上がる。新しく買った歯ブラシを取ってきて山科の隣に並ぶと、黙って歯磨き粉のチューブを向けてくれる。

しばらくの間、二人でシャコシャコと歯を磨く。先に口の中の泡を吐き出して、コップを借りると口をゆすいだ。そして、気になったことを、聞いてみる。

「あの」

「ああ」

「お茶、美味しくなかったです?」

「……ん?」

「飲みかけで、終わってしまったから」

歯ブラシを止めて、驚いたような顔で山科が彩乃を見下ろしている。しばらく呆然とそのままだったが、やがて気を取り直したように……というか慌てて泡を吐き出して、コップで口をゆすぐと、違うと首を振った。

「違う……お茶はいつもと同じで。美味しかった」

「よかった、あの、眠かったんですか?」

「眠かったというか……まあ、そうだな……」

もう一度山科はきちんと口をゆすいで、彩乃の頭を撫でた。そうして続きは言わず、先に洗面所から出て行く。

彩乃は山科の背中と、鏡とを交互に見比べて、山科が寝室へ行ったのだということに気がついた。ゆっくりと口をゆすぎ直して、コップを洗い、歯ブラシも洗って入れ物に立てかける。山科が置いた歯ブラシもそこには並んでいて、二人が今「一緒にいる」ことを、何度目か、強く意識した。

洗面所から出て行くと、寝室の扉が開いていて、電気が点いていた。山科がそこから顔を覗かせて、彩乃を手招きする。

「おいで」

「お邪魔、します」

「悪い、ベッド少し狭いが」

「あの、一緒に寝ても、大丈夫です?」

「一緒に寝る以外、考えてない」

山科もわずかに緊張していたのかもしれないが、声から力が抜けて、やんわりと笑った。彩乃の肩を引き寄せて寝室に入れると、入れ替わりに今までいた部屋の電気を消す。

ベッドの上には今日買った枕も一緒に並べられていて、促されるように寝かされた。

彩乃が横になると、山科の身体が隣に滑り込んできて腰が引き寄せられた。サイドテーブルに置いてあるらしいスイッチに山科が手を伸ばすと、電気が全て消える。

「電気全部消しても、大丈夫だったか?」

「はい、私、いつも全部消しているから」

「俺もだ」

額にかかった髪の毛に唇が押し付けられて、もう一度体制を整えるように抱き寄せられた。愛しむような、愛情のこもった吐息がかかる。

「……おやすみ」

「おやすみ、なさい」

何か言いたげに少しだけ間を置いて、だが「それ」以上はなく「それ」だけを言って、寝室と寝台の上には沈黙が降りた。

これで、終わりだろうか。

危うい、しかし心地よい緊張感の向こうにあったものが、期待感とともにストンとどこかに消えた感じがした。

期待……、一体何に……?