久々に水戸と城谷、彩乃と山科の四人で飲みに来た夜、二人は結婚することを報告した。
もぐもぐと特製ポテサラを頬張っていた城谷と水戸は、たいして驚きのない顔を一度見合わせ、ポテトサラダを飲み込んで、もう一度顔を見合わせた。
水戸がふふんと笑って、城谷が難しい顔をして顎を撫でる。
「もうちょっと早いと思ってたんだけどなー」
「うーん、もう少し怖気付くかと思ったんだけどな」
「おい、聞こえてるぞ」
どうやら水戸と城谷は、彩乃と山科の二人がいつ結婚を決意するかという予測を立てて楽しんでいたらしい。彩乃は少し頬を染め、山科はムッとしてビールを飲み干す。
城谷も水戸も、もちろん二人の結婚に反対する理由もなく、むしろ祝福しかない。城谷は山科の女関係が、いたく真面目なのを知っているし、だからこそ、その真面目さを好ましく思ってくれる女性がいるのは喜ばしい。
水戸も同様に思っているようで、特に彩乃に対しては経理課の後輩としてよくしているようだ。人の恋路をほのぼのと見守るのはなかなかに楽しい酒の肴で、さてはあの二人結婚が近いのではないかと最近はもっぱらその話ばかりしていたのだ。
水戸は、山科が互いの部屋の行き来に耐え切れなくなって早々に結婚を申し込むと予想。城谷は、奥手そうな彩乃に気遣ってもたつくのではないかと予想していた。
そうして結果は半々だった。どうやら山科は水戸が考えるよりも分別があり、彩乃は城谷が考えるよりも柔軟で包容力がありそうだ。
「指輪は買ったのか? プロポーズと言えば指輪だろう。してないみたいだけど」
茶化し半分、そんな風に城谷が問うと山科は見るからに顔をしかめてみせた。どうやら余計なことを言ってしまったらしい。
山科が何かを言う前に彩乃が言葉を引き取る。
「あの、一緒に選びに行きました」
「あ、そうなんだ。いいのあった?」
「はい。でも出来るのに時間がかかるみたいで」
もちろん城谷は彩乃には優しい。婚約指輪なんてもの城谷は買ったことが無いが、確かにメモリアルリングなのだから、時間はかかるだろう。つまりプロポーズをしてから指輪を買いに行ったということか。なるほど、堅実だ。
「それなら指輪が出来たときにもう一度ロマンチックなプロポーズをしてもらうといいね」
何の気なしに言った途端、ものすごい形相で山科に睨まれた。予想外の反応に思わずジョッキを持ち上げた動きを止めてしまう。
その山科のわかりやすい表情に水戸が吹き出した。
「ねえちょっと、山科。さては今、城谷が余計なこと言ったんでしょ」
「……ああ」
彩乃は「ロマンチックなプロポーズ」という言葉を消化する前に空気が不穏なものになってしまったので、水戸の言っていることの意味がよく分からずきょとんとしている。機嫌が悪そうな山科の顔と、首をかしげる城谷、そして愉快そうに笑っている水戸を交互に見つめていた。
どうやら城谷は余計なことを言ってしまったらしい。
「何だよ。プロポーズに指輪はつきものだから言っただけじゃないか」
「それが余計な一言なのよ」
「心外だな。ゆきちゃんだって、ロマンチックなプロポーズしてもらいたいだろ?」
城谷がそう問うと、山科が機嫌の悪い表情を消した。そうして、やや心配そうにそっと彩乃の顔を覗き込む。話が自分に振られるとは思っていなかったのか、マッシュポテトのチーズ焼きに目を奪われていた彩乃が、眼鏡の奥の瞳を丸くした。
そうしてようやく話している内容の意味を消化して、頬がほんのりと染まる。
「私は……」
受け止めた言葉をなんとか返そうと頑張っているらしく、少し考えて、恥ずかしそうに小さく笑った。
「どんな風に言われても嬉しいです」
ゴンっ! ……と城谷の隣に座っている水戸が、テーブルに頭を打ち付けた。気持ちは分かる。山科は、今まで悪かった機嫌を消して、彩乃をじっと見つめている。
ひどい緩まった顔をしているな。山科。
そう思ったが、さすがに口には出さず、城谷はジョッキを持ち上げた。
「まあいいか。何が余計なことだったのか、後でちゃんと教えろよ、山科」
「教えない」
「乾杯しよう」
山科のふてくされたような声を聞くのも珍しい。楽しく笑いながらジョッキを持ち上げると、水戸もまた、同じように持ち上げる。彩乃がはにかんだようにグラスを持つと、山科も渋々、持ち上げた。
「何に乾杯する?」
首をかしげる水戸に、当然だろうと笑う。
「もうここはシンプルに。山科とゆきちゃんのこれからの幸せに」
大きく乾杯の声とともにグラスをがっちりと合わせて、城谷も水戸も、心から同僚二人の幸福を祝福した。
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祝宴ムードだったにもかかわらず、城谷たちは山科と彩乃を早く帰してくれた。その代わり、彩乃を連れて店を出た後、城谷からラインが入る。
『で、なんで不機嫌になったの?』
軽く操作して一言だけ返すと、すぐに既読が付いて後追いのメッセージは入らなかった。今頃、二軒目で水戸と二人、この内容をいい酒のネタにしているに違いない。だが、それはそれで別段構わないと思う。悪いことをしているわけではないからだ。
山科は携帯端末を自分のカバンに放り込んで、彩乃の隣に座った。
「城谷さん、なんて?」
端末に触れるときに彩乃に「城谷からだ」と一言断っておいたからだろう。気遣うように首を傾げた彩乃の腰を引き寄せて、寄り添う体重を楽しむ。
「なんで不機嫌になったのか、だそうだ」
「不機嫌?」
「さっきの店で」
なるほど、と小さく言って彩乃が笑った。ほんのりと笑う彩乃の、ふっくらと柔らかそうな唇が欲しくて思わず指を伸ばす。だが、笑う表情も消したくなくて、唇に触れる代わりに耳元をくすぐった。
「なんで不機嫌になったんですか?」
くすぐったげに肩をすくめて山科を見上げる。
ちらりと後続のゴンドラを見て誰も乗っていないのを確認すると、山科は彩乃の顔を引き寄せて唇を重ね合わせた。
二人が乗っているのは、駅近くにあるあの観覧車だ。
山科はもともと彩乃をここに連れ出すつもりでいた。城谷と水戸に食事に誘われたのは本当は誤算だったのだ。彩乃が行きたいと言ったので断りきれなかった。もちろん、祝福してくれているのを分かっているので無碍にはできない。先ほども、飲んでいる時は散々茶化してきたが、今日は早めに切り上げると言った時は、二人とも「それがいいよ」と言ってあっさりと帰してくれたのには感謝している。
身を寄せている彩乃からの「なぜ不機嫌になったのか」という問いには答えず、山科は鞄の中から小さな白い紙袋を取り出し、彩乃の膝の上に置いた。
その紙袋の正体に彩乃はすぐに分かって顔を輝かせる。
「これ……!」
「ホテルに泊まった日があっただろう? 実はあの日、店から出来たと連絡を受けてた」
「一人で取りに行ったんですか?」
「ああ」
「言ってくれたら一緒に行ったのに」
「内緒にしておいて、こうして渡したかった」
開けてもいいかと視線で問うので山科が頷くと、そっと、大事な宝物を水の中から掬い出すように、紙袋の中から小さな箱を取り出す。不思議な手触りの美しい箱も真っ白で、かけられているリボンを彩乃の指がしゅるりと引くと、なんの引っかかりもなくそれは解けた。
彩乃の手の中に収められたケースの蓋を、山科の大きな手がそうっと開く。二人で一緒に選んだ指輪がそこには合って、彩乃が、わあ……と小さな歓声を上げた。
「着けてみてくれ」
指輪を大事にケースから外し、彩乃の左手を取る。一度彩乃の顔を見下ろしてみると、指輪を見つめていると思っていた彩乃は、懸命にこちらを見ていた。
その視線に答えるように、山科が額に口付けて、小さく囁く。
「俺と結婚してほしい」
唇を離すと、潤んだ瞳がこちらを見ていた。黒い瞳がじっとこちらを見つめたまま、目を離すことなく泣きそうな微笑みを浮かべる。
「はい。私も、薫さんと結婚したいです」
その答えを聞いて、ホッとした山科が彩乃の左手を撫でる。そこには山科がいつの間にか指輪を嵌めていて、その感触に気がついた彩乃が、パッと顔を輝かせて、また山科を見る。
「眼鏡を外してもいいか」
彩乃が少し驚いたような顔をしたが、そこに拒絶の反応が無いのを見て取ると、山科は答えを聞かずにそっとそれを外した。もう外し慣れていて、どこを持てば眼鏡が傷まないかも知っている。
もう片方の手で指輪をしている彩乃の左手を絡めとり、顔を寄せると、引き寄せられるように二人の唇が重ね合った。
いつもなら、少し強引に彩乃の頭を抱えて深く口付けているのに、今はその支えがない。代わりに彩乃の手がおずおずと山科の首に回り、ぎゅっと身体を押し付けてきた。
誘われるように唾液を絡め、口腔内で何度も二人の舌を触れ合わせる。
口づけだけなのに、まるでもっと深いところに触れあっているような、身体をつなげて交じり合わせているような錯覚に陥る。山科の片方の手は彩乃の手を握り、もう片方の手は取り上げた眼鏡を持っているからそんなはずはないのに、彩乃の柔らかみはいつも山科の敏感な部分をくすぐっていく。
は、と湿った吐息がこぼれたが、どちらからのものだったのかは分からない。
長い時間をかけたような気がしたが、ほんのわずかの時間だったはずだ。ようやく観覧車が一番上に来た。そこで一度唇を離し、それが触れ合うか触れ合わないかのところでささやいた。
「ここで指輪を渡しながら、結婚を申し込みたかった」
「え?」
「さっきの。不機嫌になった理由だ。……ちゃんと考えていたのに、城谷に全部言われたから」
先ほど城谷に送ったメッセージ。「なんで不機嫌になったの?」という返信に、山科はこのように返した。
『お前が言ったことをこれからしようと思っていたからだ』
あまりに子供っぽい理由に、彩乃が堪えきれないように肩を震わせて笑い始めた。山科も苦笑して、だが彩乃の笑いを閉じ込めるようにもう一度唇を重ね合わせる。
今度は観覧車が着いてしまうまでのタイムリミットを考えながら慎重に、だが思う存分味わいたくて大胆に。
眼下には星と形容するには華やか過ぎる繁華街のネオンがきらめいていたが、ただただ自分たちだけを視界に入れて、恋人の薬指に小さく光る煌きだけを二人の間に閉じ込めて、短い口づけの時間を味わった。
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正式な結婚の挨拶のために、彩乃は山科と一緒に実家に戻ってきていた。正式な挨拶と言っても、あらかじめ結婚の件については彩乃の両親に伝えてある。堅苦しいことは抜きにしようと言われていて、多分今日も彩乃の母が腕をふるって美味しい料理を作っているはずだ。ちらし寿司は前に作ったから今日は別のにするわと電話で言っていたことを思い出した。
「薫さんのご両親にも会いたいって」
「そうだな。親父とお袋も同じことを言っていた。相談してみるか」
「はい!」
言いながら、車を降りて玄関へと向かう。
ふと、隣の家に視線を移してみる。そういえば、いつも実家に戻ってきた時、必ずこうやって玄関に入る前に隣の家の玄関を確認していた気がする。誰もいないことを確認して、そそくさと家に入る。あの一瞬が、とても嫌いだった。
「彩乃?」
その時。
隣家の玄関が、ガチャリと開く音がした。
山科と彩乃が視線を向けると、そこにはあれほど会いたくないと思っていた彰がいて、驚いたような顔で立ち尽くしている。
そうして次の瞬間、彩乃は信じられないものを見た。
彰が、二人に向かって深々と頭を下げたのだ。
驚きに固まった彩乃の隣で、山科は真顔で彰を見つめている。彰は顔を上げると、もう一度黙礼をして、車に乗って家を出て行った。
いつもと全然雰囲気が違っていた。どこか軽薄で気だるそうな様子は無くなっていて、意地悪で大嫌いで存在を無視せざるを得なかった幼馴染では無く、すれ違っても悪い印象は持たない「普通の」隣人に見えた。
いつか、彩乃の中であの幼馴染を大嫌いだと思う気持ちは消えるかもしれない。
幼馴染の中でも、彩乃という幼馴染を憎む気持ちは終わるかもしれない。
結局彼が何を考えていたのか、彩乃には分からなかったし、これからも分からないままだろう。理解しようとも思えないし、されたことを許そうとも思わない。けれど、いつか……普通の隣人として、すれ違ったら挨拶くらいはできるようになるかもしれない。
幸せを祈るまでの気持ちにはならないが、不幸になれとは思わない。不思議なくらい、彩乃は凪いだ気持ちで彰を見送った。
こんな風に思うことが出来た理由は、一つしかない。
「薫さん」
「ん?」
今は山科が隣にいてくれるから。
彩乃は山科に恋をして、愛して、ずっと一緒にいることができる。どうして男の人が苦手だなんて思っていたのだろう。ぎゅ、っと山科の腕に甘えると、大きな手でゆっくりと頭を撫でてくれた。
その大好きな手の温もりを、彩乃が見上げる。
「これからも一緒にいてください」
「当たり前だ。俺も彩乃と一緒にいたい」
山科が優しい理由は、彩乃だからだと言った。彩乃が男の人なのに怖くないのも、きっと山科だからだ。お互いがお互いの理由であることに幸せを感じながら、二人は玄関へと入っていった。