ルー・ルディアル王国王城の謁見の間。玉座に座す若い女王の前に、二人の男女が並んでいる。
「それで、シェライ伯爵令嬢と結婚をなさりたい、と?」
「……申し訳、ございません」
「何を謝ることがあるの? 別に貴方は私と婚姻の約束をしていたわけではないわ。今日だって、王である私に結婚の許可を得に来ただけ。そうでしょう?」
美しい笑みを浮かべる女王アレクシスに、クレイナー公爵子息は深く頭を下げる。その隣にはシェライ伯爵令嬢が、わずかに怯えたような、困惑したような表情で淑女の礼らしきものを取っていた。しかし全く形のなっていないその様子に、年嵩の宰相ウルドラ伯がエヘンエヘンと咳払いすると、慌てたようにクレイナー公爵子息が、頭を下げさせる。
不承不承という雰囲気で頭を下げたシェライ伯爵令嬢の態度に、アレクシスの傍に立つ侍従長、ディロス侯シャルロークが鼻白む。何か言いかけた彼を視線で制して、アレクシスははらりと扇を広げ、口元を隠した。
咳払いをしたウルドラと侮蔑の視線を向けるシャルローク、二人の要人を睨みつけるシェライ伯爵令嬢の態度にアレクシスは苦笑する。
「このこと、公爵や伯爵はご存知なの?」
「……シェライさんは関係ありません! これは私とウィルの問題で」
「おい、メイコ! 陛下の御前だぞ!」
咎められてシェライ伯爵令嬢が黙り込む。不服そうだが、それ以上の文句は止めたようだ。
小さく笑って、アレクシスは瞳を伏せた。公爵子息の陰からこちらを伺う瞳は、困惑の中にも勝ち誇ったような色がきらめいている。女王から男を奪ったことに勝利を覚えているのだろうか。
まあいい。アレクシスは目の前の茶番を早く終わらせるべく、扇を閉じた。
「お似合いのお二人と思うわ。どうぞ、お幸せに」
「は、……ありがとうございます……」
「分かってくれてよかったね! ウィル!」
伯爵令嬢が無邪気に恋人に抱きついて、再び公爵子息を慌てさせている。その様子をちらりと視界の端に納めてから、アレクシスは玉座を立った。
その手をごく自然にシャルロークが取ってエスコートをする。さらに二人の後を追うように宰相のウルドラが退室の準備を始めた。
シャルロークの顔とウルドラの様子を、チラチラ見ながら伯爵令嬢が馬鹿にしたように笑う。
笑う意味がアレクシスには分かったが、さすがにムッとして足を止めると、アレクシスの身体を隠すようにシャルロークが背後に立った。
そうして、顔だけ二人に向ける。
「ウィルハム・クレイナー殿。貴殿は今日を持って、陛下の王配候補ではなくなり、ただの『公爵の次男』となるが、その意味を承知するようにな」
冷たいその声に『公爵の次男』はハッとしたような表情を見せ、慌てて姿勢を低くする。
そう。公爵子息はアレクシスの王配候補の筆頭だったのだ。しかしシェライ伯爵の養女、メイコ・ヤマシタと恋に落ちてしまい、王配候補から外された。
これまでは女王の王配候補として優遇されていた地位、そして社交的な立場。これからはそれを全て失い、ただの公爵家の次男に戻るということだ。さらに、おそらくだが、自身の「公爵家」からの援助は受けられまい。今後はメイコという荷物を背負った上で、自分の実力だけで宮廷を渡り歩いていかなければならない。
伯爵令嬢の方はシャルロークの言っていることの意味がよく分からなかったようで、「あなたの言うことなんて知らないんだからね!」みたいな顔になっていた。
彼女は貴族社会に慣れていない様子だから仕方があるまい。それに恐らく、純粋にこちらのことを「悪役」だと思っているはずだ。いずれにしろ、今後、あの公爵子息が出世しなくとも、それはアレクシスの責任ではない。もし彼女の愛が本物なら、公爵子息がどこかに左遷されてもついていくだろう。
ウィルハム・クレイナーとメイコ・ヤマシタ・シェライが婚姻することにより、アレクシスの身辺は静かになるはずだ。
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「陛下、よろしかったのですか?」
「何が?」
「ウィルハム・クレイナー公爵子息とメイコ・ヤマシタ・シェライ伯爵令嬢のことでございます」
アレクシスが執務室に戻ると、宰相のウルドラが眉をへの字にし、困ったような顔をして汗を拭いた。ウルドラは背が低くて顔が丸く、最近ちょっぴり……いやかなりお腹が出てきていることを気にしている四十八歳だ。ちなみに三十を過ぎた頃から頭髪が後退し、今ではなけなしの毛髪をサイドから逆サイドに撫でつけて、バーコードのようになっていた。そういう髪型にするから逆にハゲが目立つんじゃないの?と言ったら、しくしく泣かれたので、今は何も言っていない。
「構わないわ。これで落ち着きのなかったメイコも落ち着くでしょう」
「それはそうですが……せっかく、ここまで選定してきた王配候補でしたのになあ」
はーあ、と溜息を吐きながら、宰相が肩を落とした。アレクシスが小さい頃から年頃の少年を引き合わせ、競わせ、親しくさせながら、大切に王配候補を絞ってきた。しかしその王配候補が今回の件で一人もいなくなってしまったのだ。心労を慮ると申し訳ないことばかりである。
一方肩を落とす宰相とは反対に、クク……とシャルロークが笑う。ひょろりと背の高いシャルロークは、顔色の悪い顔に鋭い瞳と薄ら笑いを貼り付けて、楽しそうに肩を揺らしていた。
その口元にはちょっと長いタイプのカイゼル髭を生やしていて、薄昏い笑顔をさらに薄昏いものにしている。どこからどう見ても性格の悪そうな腹黒タイプの悪役で、アレクシスはシャルロークの髭を「悪役ヒゲ」と呼んでいた。
何がおかしいと睨むウルドラに、シャルロークはテーブルに置いてあった書類を手渡す
「よいではありませんか。陛下の王配候補は三人とも、あのメイコとやらの手管に落ちて不甲斐なさを露呈した。家柄だけで選定すればあのザマです。陛下の夫にふさわしくないということですよ」
「それはそうだが」
「それに、あわよくば陛下の懐に入ろうとしていた者どもを早々に潰すことができましたし」
「ふーむ」
ウルドラは懐から老眼鏡を出して、シャルロークの差し出したリストを確認している。だが、宰相ともなれば分かっているはずだ。ここ最近メイコという黒い髪、黒い瞳の異界の少女がアレクシスの王配候補を誘惑し、宮廷を騒がせてきたことを。そしてメイコは、それらの中から王配候補筆頭の公爵家の次男を最終的なお相手に選んだ。
もちろん、彼らは王配候補というだけで正式な婚約者でもなければ夫でもない。恋愛したからといって法に触れるわけではない。しかしこの件は宮廷の要人たちのご機嫌をかなり損ねている。王配候補としてストイックにあらねばならないのに堕落し、アレクシスに「候補に逃げられた女王」というレッテルを貼った。
アレクシス自身は何とも思っていないが、女王のお膝元でのスキャンダルはそれだけで彼らの評判を落としている。
もっとも、彼らの失墜をシャルロークは利用して、うるさかった宮廷の貴族たちを一掃した。王配候補たちを支持しようと悪巧みを企てていた貴族たちは必死になりすぎてボロを出し、軒並みシャルロークや宰相らによって潰されたのだ。
宮廷がすっきりした、とシャルロークは機嫌がいい。
もちろんウルドラも、まあ仕方ありませんなあと納得したようだ。
ちょっぴり頭の気になる宰相と、悪役ヒゲの侯爵。悪巧みしか似合いそうにない二人の会話に、やれやれと肩をすくめながら、アレクシスは紅茶にポトリと砂糖の塊を落とした。
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ルー・ルディアル王国の女王アレクシスが、自分に前世の記憶があることに気がついたのは十歳の頃だ。前世の記憶と言っても全てを覚えているわけではなく、自分がいるこの世界のあらましと、前に生きていた世界の文化を記憶している程度だ。
しかしそれでも、思い出した時の衝撃はかなりのもので、一週間寝込み、一週間無言になった。そしてまるで悟りを開いたかのように表情が消えた。十歳の幼女の突然の変貌に、周囲はかなり仰天し、歴史に記されるほどの出来事となっている。
思い出しただけならばそれほどの衝撃はなかっただろうし、表情を消すことはなかっただろう。問題は、アレクシスが思い出したこの世界のあらましだった。
この世界は、アレクシスが前世に生きていた頃に存在していた乙女ゲーム「聖女王の恋のお相手」の世界だったのだ。
「聖女王の恋のお相手」は、異世界から落ちてきた主人公が周囲の男たちと恋に落ちる乙女ゲームである。三人の男たちと世界の歪みの謎を解くというお話で、主人公は世界を救って、その功績からゲームの途中で女王になる。そしてエンディングでは三人のうち、好感度の高かった男と必ず結婚するのだ。
で、その世界でアレクシスはたった今、女王なのだが、彼女は先代の王と王妃の間に生まれた人間で、異世界から迷い込んだ主人公ではない。
この物語のプロローグは、先代の女王は十八歳の若さで亡くなってしまう。死因は世界の歪みが大きくなり、それを支え続けた肉体が壊れてしまったことによる。未だ女王を亡くした悲しみから立ち直れぬ王国の片隅に、ヒロインとなる主人公は迷い込む。そんなあらすじだ。
つまり、自分は「聖女王の恋のお相手」に出てくるプロローグの女王なのだ。ゲーム内では名前すら設定されていなかった、死んでしまった女王。何かの間違いかもしれないと思ったこともある。自分の代じゃないのかも……とも。しかし、国名、周囲の悪役の名前、世界観、そして何より、ヒーロー候補たちの名前の一致から間違いないと知る。
ということは、だ。アレクシスは十八歳になったら死ぬ……ということになる。それに気がついた十歳の少女は、常に死を覚悟した浮世離れした性格になった。
そんなアレクシスとて別に死にたいわけではなかった。どうすれば死なないのか、そもそも世界の歪みとは何なのか。ヒーロー候補たちはどのように育っているのか。名前の設定されている悪役たちはどう立ち回っているのか。それらをつぶさに観察するうちに、どうもこの世界線はゲームとは違うようだ……と気がついたのは十二歳の時。アレクシスは世界の歪みをあっさりと救った。
西方世界の魔法王(外見年齢四歳の幼女)が、迷子になって泣いていたところを救い出したことにより、世界の歪みが正されたのである。どうやら魔法王の悲しみが世界に歪みを生み出していたらしい。もっともその「歪み」が何なのかはアレクシスには分からなかったが、神官たちが声を揃えて「世界の歪みが正された」と言っていたので、その通りなのだろう。
先代王の娘であったアレクシスは、その功績によって十六歳の時に女王になった。ちなみに父と母は健在である。上級王という位を与えられて政界を退き、離宮で悠々自適の隠居生活を送っている。
そうして世界線はどんどんアレクシスに覚えのある設定から離れていき、女王になった時に彼女は悟った。
この世界はゲームの世界ではない。人が生き、懸命に生活している世界だ。自分はこの世界の一つの国の女王で、この国に暮らしている人たちの生活を守っている。
それまでどこか「自分はどうせ十八歳で死ぬ」と考えて、俗世から離れたような言動や生き方をしていたが、そのように悟ってからは、周囲の力を借りながらなんとか女王として国を治めてきたつもりだ。
女王を務めるのは大変な時もあったが、自分についてきてくれる人たちは有能で、そして女王に優しい人たちばかりでよく助けてくれた。その筆頭が宰相ウルドラと、侍従長シャルロークだ。
宰相はいわゆる頭髪がバーコードのようになっているぽっちゃりとした冴えないおじさんだったが、父の代から国をよく知るベテランの文官の長だった人で、アレクシスが女王になる直前に、父の命により宰相となった。内政の全てを知り、どこをどう調整すれば物事が円滑に動くか、まるで魔法のように見抜くことができる。ちなみにバーコード頭髪という単語は前世の記憶の中にあった。
そしてシャルローク。青灰色の髪に青白い顔、銀色の鋭い瞳、痩せすぎかと思うほどにほっそりした長身で、常に腹の奥に何かを企んでいるような仄暗い笑みを浮かべている。そして悪役ヒゲを生やしていた。世の中のカイゼル髭の人に謝りたい。でもカイゼル髭って悪役みたいだよね。ゆえにアレクシスは彼を心の中で悪役ヒゲと呼んでいる。
悪役ヒゲのシャルロークは、侍従長としてアレクシスの側に控えている。朝の起床の知らせから着替えの用意、朝食の同席、執務の補助、昼食の同席、執務の補助、お茶の同席、謁見の時間は側に控え、執務の補助、そして夕食の同席。寝室の前でおやすみなさいの挨拶まで。侍従長ってこういうことする人のことだっけ? 侯爵として自分の領地を治めなくていいの?とアレクシスは常々思っているが、侯爵領については弟に継がせるつもりのようだ。
ちなみに他にも悪そうな外見の貴族、意地悪そうな侍女、悪徳そうな商人、ガラの悪い傭兵、そんな人たちがアレクシスの周囲にはいるのだが、総じて皆、
才能のある、立派な人物だ。
ここがゲームとは世界線が異なる大きな部分なのだが、これらの人々は皆、ゲームの中では「悪役」だった。主人公に意地悪なアドバイスをする貴族、意地悪をする侍女、主人公を騙す商人に、主人公に無体を働かそうとするゴロツキ。宰相は主人公が女王になるのを邪魔をする役割だったし、シャルロークなんぞは最終的に主人公の王配を狙うラスボスだ。
しかしそれらはすべて、反転している。悪役など、そんな片鱗は一切ない人たちばかりだった。彼らの言い分は皆正しく、職務に忠実で、ただ外見が日本人の感覚でいうとちょっと悪役に見えるだけで、あとは有能でアレクシスに優しい人たちばかりだった。彼らのアドバイスは皆的を得ていたし、侍女たちはアレクシスに敬意をもって接してくれる。商人たちは国の利になる商売の提案に積極的で、傭兵たちは皆屈強で人がいい。
そんな世界線、そんな人たちに囲まれて、アレクシスは「いつか死ぬかもしれない」と考えるクセは治らなかったが、「どうせ死ぬ」とは思わなくなった。この人たちのために、今できる女王の仕事を精一杯努めよう。
そう思いながら生きていたアレクシスが十八になった時、異世界から一人の日本人が迷い込んできたのである。
その日本人はメイコ・ヤマシタ。
この世界には時折異世界から人間が迷い込んでくることがある。ただし、異世界人に対しては帰還させる魔法も存在しているので、異世界人が迷い込んできた時はその意思を確認し、帰還させることも可能だ。
しかし彼女はなぜか元の世界に戻ることを拒み、シェライ伯爵の養女となった。そして一年をかけてアレクシスの宮廷でアレクシスの王配候補らと仲良くなって、その筆頭と結婚したのだ。
アレクシスの十八歳が、もうすぐ終わろうとしていた。