女王陛下、十八歳の夜

002.女王陛下の(十八歳)最後の夜

誕生日は明日……という日だったが、いつもと同じように執務を終え、いつもと同じようにシャルロークに送られながらアレクシスは寝室へと戻った。

ゲームの設定によると女王は十八歳で死ぬ。

その十八歳の年が、今日で終わろうとしている。時計を見たらあと二時間。あと二時間の間に死ぬことはないだろう。もうこの世界線は完全にアレクシスの知っているものと違っている。世界の歪みは無く、何の憂いもない。そうは思うが、不安も消えない。

メイコという日本人がこの異世界に紛れ込み、伯爵の養女となって一年間。あっという間だった気がする。アレクシスがメイコと二人きりで面会する機会は結局与えられなかったから、彼女がこの世界を知っているかどうかは知らないが、それでも彼女が悪意の有無は別として、王配候補を籠絡する様子を見聞きし、確かに彼女がゲームのヒロインなのだろうと確信はしていた。

その騒ぎに乗じて周囲の者たちが暗躍し、ようやく十八歳が終わる。死ぬかもしれないと思っていた十八歳の、一年だった。

「頑張ったね、ってお祝いしてほしいなあ」

フカフカのお気に入りのソファにだらしなく身体を預け、ぽつりとアレクシスは呟いた。十八歳で死ぬかもしれないと思うと、恋愛だってできなかった。もっとも女王だから自由な恋愛なんてできないし。まあ、そんな女王の王配候補になるなんてヒーローたちもかわいそうだ。結局選ばれたのはゲームと同じで一人だったけど、メイコと恋愛してもらって、かえってよかったのかもしれない。

あと二時間が無事にすぎたら、明日からはゲームの時間軸にはとらわれないように、自分の人生をしっかり生きよう。

そんなことを考えながら一人ソファを転げ回っていると、ノックの音がした。

「誰?」

「陛下、私です。シャルロークです」

「どうしたの?」

「入室の許可を?」

「……いいけど」

寝室はそれほど広くはない。アレクシスがソファから返事をすると届く距離だ。入室の許可を出すと、いつもの黒っぽい長衣ローブではなく、白いシャツにトラウザーズというラフな平服で現れた。ラフな格好でも悪役ヒゲは健在で、ラフな格好だけにほっそりした細身が目立つ。灯りを落とした寝室で見ると亡霊のようだ。

もちろんアレクシスはシャルロークの亡霊風の佇まいにも慣れているので今更なんとも思わないが。

「どうしたの? 何か伝え忘れてたことでもあった?」

「……いいえ。今宵は陛下の十八歳最後の夜ですので、お話相手が必要かと思い、訪ねてまいりました」

視線だけで座っても? と問うたので、アレクシスはだらしない姿勢を正してソファに座り直す。いつもアレクシスがそのように姿勢を整えると、シャルロークは一人掛け用のソファに座るのに、今日はなぜか隣に割り込んだ。

茶器が置いてあるのを見て、シャルロークがそれをカップに入れる。一口飲んで、それをアレクシスに渡した。先ほどまで飲んでいたのだから毒見なんて必要ないのに、シャルロークは必ずそうする。

アレクシスが紅茶に砂糖をポトリと落とすと、シャルロークが嫌そうな顔をした。寝る前に砂糖を使うと虫歯になりますよ、という顔ではない。この世界では紅茶に砂糖を入れる文化がないのだ。例えるなら、日本茶に砂糖を入れるくらい、びっくりされるし嫌がられる。

ガシガシかき混ぜていると、シャルロークは嫌そうな顔をしたままカップを奪い取り、一口飲んでアレクシスにもう一度渡した。砂糖を入れた紅茶を飲むのがそんなに嫌なら、二回も毒見しなければいいのに。そう思いながら、アレクシスはほんのり甘い紅茶を飲む。

一口飲んだだけでカップを置くと、アレクシスはぽつりと言った。

「ねえ、シャルローク」

「はい、陛下」

「私は死なないのかしら」

そのように問うと、シャルロークが冷たい半眼でアレクシスを見つめた。不遜な表情はとても主君に向ける視線とは思えないが、シャルロークは人を見るときは大体こんな感じだ。

シャルロークはアレクシスを見つめたまま、あからさまに「はあ」とため息を吐いた。

「陛下の死にたがりは治っていたと思っていたのですが」

「死にたがってなんかないわよ」

「そうですか。いつもいつも、自分は十八歳で死ぬかもしれないとか、いつ死んでもおかしくないとか言っていたではありませんか」

「最近は言ってなかったでしょう」

「そうですね。陛下は十九におなりですから」

シャルロークの言う通りだ。アレクシスは女王になったばかりの頃、自分の秘密を抱えているのが怖くて、心細くて、シャルロークにだけ、自分が知っていることを打ち明けていた。

自分は十八歳の時に、世界の歪みが原因で死ぬかもしれない……と。

しかし、当時すでに世界の歪みを正していたアレクシスの言動は、口にするたびにシャルロークに「貴女は阿呆ですか」と一蹴された。それはもう、人を小馬鹿にしたとしか思えない悪役笑いで一蹴された。

「それに陛下の予言は当たった試しがない」

シャルロークが身体を起こしながら囁くと、低く絡みつくような声がアレクシスの耳をくすぐる。悪役ヒゲを見ていたら愉快なのに、声だけを聞いたらそわそわしてしまうので、アレクシスは傍に置いてあるクッションを抱きしめた。言い返せなくて、拗ねてみせる。

アレクシスは割と決死の思いで、ゲームの世界の設定をシャルロークに確認していたことがある。ウルドラには息子がいるんじゃないかとか、雇った傭兵が違法薬物を持っているのではないかとか、シャルローク、悪巧みはダメよ、とか。

だが、どれもこれもアレクシスの勘違いで、実際にはウルドラの子供は超美人の三姉妹だったり、優しい傭兵が紅茶にお砂糖を入れたがる女王のために自分の故郷から砂糖の塊(角砂糖のようなもの)を取り寄せて、こっそりシャルロークに融通しているだけだったり、シャルロークがそれを受け取っただけだったり。

勘違いで自分の周囲の人たちを誤解するのは本当に申し訳なくて、予言はすぐにやめてしまった。

あれは本当に若気の至りだと思って反省しているのに、シャルロークが一つ一つ指折り数えて嫌味ったらしく披露し始めたので、抱きしめているクッションを投げつけた。

「もう! あれは本当に悪かったって思ってるんだからいいでしょ!」

クッションはボフンとシャルロークにぶつかって、思い出話をやめさせた。

だがシャルロークはまだ言い足りないらしく、冷静にクッションを退かせながら不敵に瞳を細める。いつも鋭い瞳が、なお一層鋭さを増す。口元は薄ら笑いを浮かべていて、こういう表情には覚えがあった。

ん? 何か怒ってる?

アレクシスが首をひねっていると、シャルロークが自身の悪役ヒゲにつつうと触れた。

「それに、先日陛下は私に言いましたね」

「え?」

いつもは陰気で薄昏い表情の奥に、わずかにギラついたものを感じて、少しだけ背中が冷える。

「あのメイコに、私が懸想をしているのではないか、などと」

「あ」

ニヤァ……とシャルロークの唇が笑みを象り、その動きに沿うように悪役ヒゲが動いた。

****

だってしょうがないではないか。

もしこの世界がゲームと同じであるならば、シャルロークは、女王となったヒロインの前に一番最後に出てくるラスボスだったのだ。次代の女王として成長するヒロインを散々邪魔した挙句、いざヒロインが女王になったら途端に掌を返し、王配を排除して自分がその座に就こうと企む。「お前は美しい」と、そう言って。

アレクシスの王配候補たちは、ゲームの世界ではなくても、皆、メイコに恋をした。

「だ、だって、だって、メイコはあの、すごくかわいいし? 黒髪も綺麗だし……」

それならばシャルロークは? ゲームの中でメイコの王配になろうとしたシャルロークは、この世界ではメイコを美しいと思い、その夫になりたいと思ったのだろうか。

「平凡な顔で、行儀もなっていない。挙句、行儀のなっていない自分をむしろ至高だと思って直そうとしない。そんな女のなにがいいのか。そもそも物珍らしさだけで、私が女を望むとお思いですか?」

「それは……」

「私が陛下を裏切ると、そうお思いですか」

「そんなことは思ってない!」

それだけは断言できる。

だって、いつもシャルロークはアレクシスの味方だった。いつもアレクシスのそばにいて、アレクシスが何をしても怒らなくて、未熟な部分を助けてくれて、わがままな部分をたしなめてくれた。今更、メイコのことを美しいと言い出せば、それがアレクシスに対するひどい裏切りだと彼は知っている。

それを分かっていて、確認したくなってしまうのだ。

「でも」

「陛下」

「うわっ……!」

突然、耳元でシャルロークの声が響いた。吐息に湿度を感じるほど近い距離で囁かれ、びくりと肩を揺らしてしまう。ヒゲの気配があまりに近くて振り向けない。顔を動かすとシャルロークの唇に頬が触れてしまいそうだからだ。微動だにできずに身体を強張らせていると、さらに身体が近づいてきた気配がする。

「しゃ、シャルローク……? あの」

「私が、あんな女を望むと、なぜお思いなのか」

「シャルローク、ちょっと?」

「常に陛下のお側にいて、常に陛下のことを考えている私が」

「あ、あの、しゃ、シャルローク、ちょっと!」

「陛下」

「わああ」

ちゅう、とリップ音がして、アレクシスの耳たぶがシャルロークの唇に食まれた。後ずさるアレクシスを追い詰めるようにいつの間にかシャルロークが身体を近づけ、両手で囲い込んでいる。いつもは悪役面でかき消えていたストイックな眼に、今は確かに情欲の炎が灯っていた。

どうした急に。

今まで四六時中確かに一緒にいた。けれどいつも「性欲なんてありません」みたいな澄まし顔をしていたくせに。

お風呂上がりのアレクシスや、着替えをしているアレクシスを見ても眉ひとつ動かさなかったシャルロークがなぜ?

「待って、ちょ、待って待って、待ったマッタ!」

「もう十分待ちましたでしょう、陛下」

「いやいやいやいや、シャルローク! 貴方すっごく悪い顔になってる!すごく悪巧みしてる顔になってる!」

「別段表情を変えているわけではありませんが、確かに悪いことは考えていますね」

シャルロークの身体を押し退けようとしている手をシャルロークはがしりとつかみ、その指先を口元に持っていく。シャルロークの身体は細いはずなのにその力はとても強かった。アレクシスは掴まれた腕を振り払うことができないまま、シャルロークの唇に指が吸い込まれていくのを呆然と見つめる。

指先が咥えられ、見せつけるように舌でペロリと舐められた。指先、手のひら、指と指の間に舌が這った時、ゾクゾクと背中が震え、思わず「ん」と小さな声を上げる。

眉間に力が入ったアレクシスの表情をじっくり見ながら、シャルロークは指の一本一本を丁寧に舐めていく。シャルロークの唇がアレクシスの小指を軽く甘噛みして、ようやくアレクシスは我に返った。

「シ、シャルローク!!」

「はい、陛下」

「な、んのつもり……でっ」

シャルロークは答えるつもりがあるのかないのか、アレクシスの言葉を聞きながら、ソファの上で身体を重ね合わせた。いつの間にか手は絡ませあうように繋がれていて、シャルロークの青灰色の髪がアレクシスの頬をくすぐっている。

「……あっ」

首筋をぬるりとしたものが這った。シャルロークの舌だと思った時には遅く、抵抗の言葉を口にする前に、甘い吐息が溢れてしまう。ちゅ、ちゅ、とわざとらしい音を響かせながら、時々、歯も立てられて、その度にくすぐったいような、もっと別の感覚のような、背中から腰にかけて甘やかな刺激が走っていく。

いつの間にかナイトドレスの中にシャルロークの手が入ってきて、太ももを撫で回している。

「シャルロー、ク、あの、お、お願い、やめ」

「やめませんよ」

「どうして……?」

「私がメイコに懸想をしているなどという貴女の誤解を解くためです。……私が、どれほど陛下をお慕いしているか、どれほど陛下を愛しているか。分かっていただかなくてはなりませんからね」

「愛して……は、はあ!? ま、待ってよ、待って! ……っや、あっ」

小さなソファの上で、背の高いシャルロークの身体が絡みつく。手のひらが足と足の間をなぞっていて、下着を少しずらそうとしていたが、アレクシスの「待って」の声に、それ以上は先に進まず指が止まった。

「はい、陛下」

「あの、あの。どうして……? 今まで、そんな、そんな風に」

「今まで、陛下への夜伽を我慢していた理由ですか?」

「よっ、よとぎって!」

「陛下は十九になるまで王配は持たないとおっしゃっていたでしょう」

「言ってたけど!」

「今宵、陛下の十八は終わります。ようやく王配を持ち、婚姻する気になった、そう解釈しておりますが」

「いや、でも、それは」

確かにシャルロークの言う通り、アレクシスは十九になるまで結婚はしないと言っていた。本来ならもっと前に婚姻をすることは可能だったが、首を縦には振らなかったのだ。理由はもちろん、十八歳で女王は死ぬ、というゲーム内の設定を考慮してのことだった。王配候補たちを一人に絞らなかったのもそれが理由だ。いくら政略でも十八歳で死んでしまう妻を持つのは、かわいそうではないか。

もちろんアレクシスは死にたかったわけではない。十九歳になったら王配候補を一人に絞って婚姻するつもりだった。だが、メイコが王配候補とバタバタしていたせいでそれどころではなくなってしまい、正直に言うと、忘れていた。

「でも、だからって、なんで今更」

「今更?」

「だって、今まで王配候補にシャルロークの名前なんて上がってなかったのに」

「ああ」

そんなことか。

シャルロークは小さく笑んで、アレクシスの前髪を払って額に唇を寄せた。

「王配候補などになれば、これまで通り侍従長を勤めることはできなかったでしょう」

「え?」

シャルロークとて侯爵位を持っている。なおかつアレクシスに近しい人間だ。王配候補に名が上がらなかったわけではない。しかしシャルロークが王配候補になるのならば、侍従長を辞めろという声があった。

シャルロークはアレクシスが女王として立位して以来、侍従長として常にアレクシスの側にいる。休暇を取るときもアレクシスの休暇と合わせ、アレクシスの話し相手として側にいる。女王の秘書的な仕事も、守護の仕事も、毒見、熱いスープをフーフーする役、庭の散策のエスコート、夜会のドレスの相談まで、アレクシスに関するあらゆる職務を全てこなしているのだ。もちろんアレクシスが望んだわけではない。全てシャルロークが勝手に行っていることである。

そんな男が王配候補になれば、筆頭になるに決まっている。王配と王配の後ろ盾を望む貴族たちの不満を抑えるためにも、ある程度政治を見越した候補の選定が必要だった。

つまり、侍従長を辞めるか王配候補に名乗りをあげるか、選ばねばならなかったのだ。

「私は陛下をお守りするために、常に陛下を視界に入れておかねばなりません。陛下の侍従と、王配候補。選ぶまでもないでしょう」

「常に視界にって、気持ち悪いこと言わないでよ」

「本当のことでしょう」

ぎょっとして言い返せないアレクシスを愛おしげに撫でている。シャルロークはこんな顔をする男だっただろうか。いつも何か腹に一物あるような顔でニヤリと笑っているくせに。こんな時だけ、そんな顔をされると。

ちょっとだけ胸がそわそわしてしまう……。

「陛下は十九におなりになった。誰かを選ばねばならぬ時になったら、他に王配候補がいようとも、私を選んでもらおうと思っておりました」

「……なにそれ、自信家」

「陛下はよくご存知でしょう。私が、陛下の御心を常に把握していることを。……さて」

話は終わりだと言わんばかりに、シャルロークは身体を離した。

「シャルローク?」

先ほどまで抵抗しようとしていたのに、いざ彼の身体が離れたらちょっとだ寂しい気持ちになってしまう。どうしたのかと首をかしげると、ソファの傍に立ったシャルロークは、横たわるアレクシスの身体の下に腕を差し入れ、ぐっと持ち上げた。

「チョォーーーっと、えええええ!?」

「陛下、先ほどからお声の行儀が悪いですよ」

「だって、ワアアアアア」

あのひょろっとした身体のどこにこんな力があるのだろう。シャルロークは軽々とアレクシスの身体を抱き上げると、ボフっと寝台の上に下ろした。シャルロークも足下から寝台の上に乗ってきて、アレクシスの履物を脱がし、ナイトドレスの裾を捲り、楽しそうに下着に手をかけている。

「シャルローク、ちょっと何して」

「夜伽に服など邪魔でしょう」

「やっぱり、よとっ、よとぎっ!?よとぎなのっ!?」

「陛下」

往生際の悪いアレクシスに、シャルロークが動きを止め、まっすぐ見つめて口を開いた。

「私ではなりませんか、陛下」

「……え」

「陛下の隣に並ぶのが、私ではなりませんか」

いつもの不遜な笑みはなりを潜め、真剣に問われて思わず口を閉ざす。とっさに否定はできなかった。

アレクシスが女王になってから常に……、いや、世界の歪みを正した出来事があったあたりから、気がつけばシャルロークはアレクシスの隣にいた気がする。いつも「十八歳になったら死ぬかもしれない」なんていう、不安定な戯言を言うアレクシスの話を辛抱強く聞いてくれて、聞いては否定してくれていた。

いつも上から目線だし、悪役顔で人を馬鹿にしてる感じの物言いだし、悪役ヒゲすっごく似合ってるし、ニヤァって笑うし、ヒョロヒョロだし、顔色悪いし……

あれ、いいとこないな。

でも、……でも、もしこれからずっと女王を務めるとして、いろいろ大変だと思うけど、もし、その大変な仕事の隣に誰かいてもらうとしたら。

「う……」

そんなの、シャルロークしか、いないじゃない。

そんなことは分かっていたが、言葉にするのは悔しいので沈黙で応答した。こういうとき、アレクシスの沈黙をシャルロークは決して間違えない。是の沈黙は是と、否の沈黙は否と受け止める。

アレクシスの手をシャルロークの手が包み込み、寝台の上に二人折り重なる。

衣擦れの音がして、唇がゆっくりと触れ合った。