おそろしのまものと見習い少女

山を二つこえ、谷を二つこえた大きな大きな平らな場所に、大きな大きな国がございます。その国はたくさんのかしこい魔法使いたちが国を治める、魔法使いの国でした。

魔法使いの国にはたくさんの魔法使いが住んでおります。そうして、たくさんの魔法をべんきょうしておりました。

魔法使いの国では、たくさんの魔法使いがたくさんべんきょうして、たくさん魔法をはつめいして、それはそれはたくさんの魔法がうまれました。

風をおこす魔法。
花をさかせる魔法。
けがをなおす魔法。
畑をゆたかにする魔法。
かまどに火をおこす魔法。

たくさんの人をたくさんしあわせにするために、たくさんの魔法がうみだされました。しかし、あまりにたくさんたくさんうまれたために、なかにはおそろしい魔法もたくさんたくさんうまれました。火でだれかをやけどさせたり、大きな石をたくさんふらせたり、世にもおそろしいばけものを作ったりする魔法です。魔法使いの国では、わるい魔法もよい魔法も、すべていっしょくたになって生み出されておりました。

そうした魔法使いの国に、一冊の本がございます。

この本は、「おそろしの本」と呼ばれております。この本には、昔、むかし、とても力のつよい魔法使いがとてもおそろしい魔法をかけたのだそうです。どんなにおそろしいかともうしますと、ひとたびこの本をひらきますと、お城ほどもおおきな石がいくつもいくつも落ちてきて、おまけにその石は真っ赤に燃えているものですから、たくさんの家が燃えてしまうのだそうです。

さいわいなことにこの本はまだひらかれたことがありません。なにしろひらけば真っ赤に燃えた石が落ちてくるのですから、おそろしくてだれもひらくことができなかったのです。

おそろしの本は、だれにもひらかれないように太いくさりでぐるぐるまきにされて、魔法使いの国のまんなかの、ふかいふかい地面の下、決してひらかぬ扉の向こうで、ながいことだれにもひらかれることがありませんでした。

****

とてもとても長いときがたちました。何人ものえらい魔法使いがたくさん魔法を生み出して、いまだに魔法使いの国はりっぱです。

そんな魔法使いの国に、一人の魔法使いがおりました。魔法使いはとてもたくさんべんきょうしましたので、魔法使いの国でいちばんえらい魔法使いになりました。

いちばんえらい魔法使いは、自分に知らぬことは何もないだろうという気持ちになっておりました。しかし一つだけ、知らないことがありました。なんでしょう?

それは、魔法使いの国のまんなかの、ふかいふかい地面の下、決してひらかぬ扉の向こうで、ながいことだれにもひらかれることなく、くさりでぐるぐるまきにされているおそろしの本のことです。

この本には、おそろしの魔法がかけられていると聞いております。これは魔法使いの国の魔法使いならば誰もがしっていることです。ひらくと真っ赤に燃える大きな石が落ちてきて、家もみんな燃えてしまう、だから絶対にひらけてはならない。そんな風におしえられているのです。

しかし、えらい魔法使いはうまい方法を思いつきました。

真っ赤に燃える大きな石がおちてきてもけっしてこわれることのない部屋のなかでそれをひらけばいいのです。

えらい魔法使いはずいぶん長い時間をかけて、おそろしの本が置いてある部屋を、じょうぶなかべでおおいました。竜の吐く炎でもこわれず、巨人の落とす岩にもくずれないかべです。

そうして、さあ本をひらこうというところで気がつきました。

自分がひらいたら、自分が危険な目にあってしまうではありませんか。これはいけません。

しかしえらい魔法使いはまたうまい方法を思いつきました。

真っ赤に燃える大きな石がおちてきて、しんでしまっても惜しくないものにそれをひらかせればよいのです。

魔法使いはおそろしの本をひらくのにふさわしい、おそろしいまものをつくりました。よるのようなまっくろな毛皮に、ぎょろりとした大きな目。口のなかにはおそろしい牙がならび、おまけにたくさんの魔法のちからをもっていました。

魔法使いはそのまものに、「おまえはあの本をひらくのだ」そう言って部屋のなかにとじこめました。

「よいか、部屋のなかにはいったらかぎをしめて、くさりをちぎり、本をひらくのだぞ」

魔法使いにうみだされたまものは、いうことをきくほかありませんでしたから、しっかりとうなずいて部屋の中にはいってかぎをしめました。

しかしいつまでたっても扉はあかず、ふたたび長いながいじかんがたちました。

****

魔法使いの国に、一人の見習いの女の子がおりました。

見習いの女の子は魔法使いの国のまんなかにある図書館で、魔法のべんきょうをしながらはたらいております。女の子にはお父さんもお母さんもおりませんが、さいわいなことに魔法の力がありましたので、魔法使いになることにしたのです。お金はありませんでしたが、魔法の力があれば魔法使いのべんきょうをすることできますからね。

「やあ、今日もげんきだな!」

「おはよう、門番さん! 今日もおつかれさま!」

裏口をまもる門番のお兄さんに元気よくあいさつをして図書館に行きました。今日も元気にしごとをしておりますと、いつものように先輩の魔法使いから仕事をいいつけられます。

「今日は、地下のそうじをしてきなさい」

「地下のそうじ?」

「そうだ。ふかいふかい地面のしたの、あかずのとびらの廊下のそうじだ」

見習いの女の子は目を丸くしました。

魔法使いの国には、このようなうわさがありました。この国のまんなかの、ふかいふかい地面の下、決してひらかぬ扉の向こうに、おそろしの本をまもる、おそろしのまものがいるのだそうです。そのまものはよるのようなまっくろな毛皮に、ぎょろりとした大きな目。口のなかにはおそろしい牙がならび、おまけにたくさんの魔法のちからをもっていて、ひとたび扉をひらくと、おそろしの本をつかって真っ赤に燃える大きな石をおとし、この国をほろぼすのだといわれていました。

いいつけられた場所は、ちょうどその扉のことなのです。

だれもがおそろしく近寄るのをいやがるばしょで、だれもそんな場所をそうじしたことがありません。先輩はいじわるをして、見習いの女の子にわざとそうじをさせたのでした。どうしてかというと、先日はじめて、見習いの女の子が魔法をおしえてもらったからでした。見習いの子が魔法をおしてもらうのは、うんと時間がかかります。それなのに、女の子はとてもはやく魔法を教えてもらったのです。それが先輩にはにくらしかったのでしょうね。

でも女の子は先輩のいうことをちゃんと聞いて、ふかいふかい地面のした、決してひらかぬ扉の前に、そうじ道具を持ってやってきました。

「おそろしのまものがいるなんて、ただのうわさだわ!」

女の子はそうやって自分に言い聞かせました。だって、そのおそろしのまものがいるといううわさはもうずいぶんと昔のことですし、もしほんとうにいるのならとっくのむかしに出てきて、お城をこわしているに違いありません。でもまだお城はこわれておりませんので、きっとまものなんていないのです。

しかし、くらいくらい扉の前は、たったそれだけでおそろしく、女の子はおもわず足がすくみます。女の子はまだ1つしか魔法を教えてもらっておりませんでしたので、あかりの魔法はつかえません。

ほうきをぎゅっと握りしめて立ちすくんでおりますと、何かの音がきこえました。

しくしくしく
しくしくしく

女の子はびっくりして、ほうきを取り落としてしまいます。その音がきこえたのか、「しくしくしく」が止まりました。そうして、驚いたことに、その声は女の子に話しかけてきたのです。

だれかいるのか?

扉の向こうからきこえる低くおそろしい声に、女の子はごくりとつばを飲み込みました。女の子が何も言えないでおりますと、ふたたび「しくしくしく」と聞こえ始めます。

しくしくしく

やっぱりだれもいないんだ

しくしくしく
しくしくしく

その声は、まるで泣いているようにきこえました。しくしくしく、あまりにもかなしくて、女の子はそうっと扉にちかづきます。コンコンコンと扉をたたいてみますと、しくしくしく、が止まりました。

「あの、泣いて、いるの?」

目から水がとまらないんだ

「それは、泣いているのよ」

なぜ水が出るんだろう

「あなたは、とってもかなしそう」

女の子はおそろしい気持ちをすっかり忘れて、扉の向こうのかなしい声にはなしかけました。かなしい声はきっと泣いているのです。こんなにくらくて深いところにいるのだから、こわくて泣いてしまうのもしかたがありません。あんまりかなしそうで、かわいそうになって、女の子はそっとやさしく、言いました。

「扉をあけることができる?」

扉のむこうにはおそろしの本とおそろしのまものがいるといううわさです。でも、こんなにかなしそうな声のおそろしいまものがいるはずがありません。この扉はおそろしのまものがいる扉とはちがうものか、それか、おそろしのまものなど本当にただのうわさだったのでしょう。

その声はこんなふうに答えました。

かぎが、こちらからしまっている

「あけられないの?」

あけろと言われていないんだ

「それなら、私が言うわ。あけてみて」

女の子がそういうと小さくかちゃりと音がして、扉がキイとあきました。

****

まものを生み出したニンゲンは、たしかこのようにいっておりました。

まものの役割は、部屋にはいって扉のかぎをしめること。
まものの役割は、部屋においてある本のくさりをちぎってひらくこと。

たったそれだけです。
たったそれだけを言われて、まものは部屋にとじこめられました。

まものは言われたとおり、部屋にはいって扉のかぎをしめました。そして部屋の中をさがしました。すると確かに、へやのまんなかに、ごつごつとした手ざわりのりっぱな本が一冊、ふといくさりにぐるぐる巻きにされてありました。

まものはそれをまっくろの毛皮でおおわれた手にとりました。

しかし、この本はいつひらけばよいのでしょう? まものをつくったニンゲンが、本をあけろというのでしょうか? まものは本をもったまま、部屋の中でずいぶんながいことまちました。

来る日も来る日もまちました。

部屋には日がさしませんし、もう何もきこえません。ときどきコトコト音がしますが、本をひらけばよいのかと聞くと、みな悲鳴をあげてどこかに行ってしまうのです。

しかたなし、まものはずっとまちました。本をあけろと言われるのをまちました。来る日も来る日もまちましたが、とうとうその日はきませんでした。

あんまりまちくたびれたものですから、まものはがまんできなくなって、ぶちんとくさりをちぎり、そっと本をひらけてみました。

すると、まものの聞いたことがない、とてもとても、やさしい声がきこえてきたのです。それはこのような声でした。
『だんなさま、だれにどんなことをいわれても、わたしはあなたのことが、とてもすきです』
なんてきれいな声なのでしょう。なんてやさしい声なのでしょう。その声をきいたとき、まものはとてもおどろきました。心の中がほんわりとやわらかくなって、そしてなぜか、切なく、いたくなったのです。

なぜならその声は、けっしてまもののための声ではなかったからです。このやさしい声はだれかに呼びかけております。「あなたのことが、とてもすきです」……と。しかし、この声は、けっしてまものには呼びかけておりません。

まものは初めてしりました。今、この部屋のなかで、まものはひとりぼっちだったのです。今までそんな風におもったことはなかったのに、急にそれに気がつきました。まものにこんな風な声で話かけてくれる人はどこにもおりません。そのことがとてもかなしくて、本をだいじにかかえたまま、ひとりぼっちでさびしいとまものはシクシク泣きました。

しくしくしく
しくしくしく

どれだけ時間がたったでしょう。まものがしくしく泣いていると、コンコンコンと扉から音がしました。

****

女の子が扉をあけると、部屋のなかはまっくらでした。

「まっくらで、見えないわ。あかりはないの?」

「あかりをつけるとすがたが見えてしまうだろう」

「見えてしまってもだいじょうぶよ」

「だめだ、だっておれはおそろしいまものだから」

「マモノさんというの? ねえ、あんなにかなしい声で泣くひとが、こわいはずなんてないわ」

まものはニンゲンにうみだされたとき、おまえはおそろしいまものだと言われました。でも別のニンゲン……どうやら扉をあけたのは、小さなニンゲンのようです……は、おそろしくなんてないというのです。それなら自分はおそろしくないのかと思って、まものは魔法の力であかりをつけました。

まものの目の前には、赤金色の髪に古ぼけた魔法使いの服を着た小さなニンゲンが立っていました。じぶんをつくったニンゲンよりは、ずいぶんと小さくて、ずいぶんと細いニンゲンです。

「まあ」

ニンゲンは、まものをみて、おどろいたように目を丸くしました。まものはニンゲンをおどかしてしまったのかと思って、大きなからだを小さくします。

しかし、そのニンゲンの口元は、すぐにやさしい笑顔にかわりました。そうしてこのように言ったのです。

「なんてきれいなくろい毛皮!つやつやでふかふかでゆめみたい!」

「きれいなけがわ?」

「それにとってもきれいで大きな目をしているのね!」

一目見て、女の子には、まものはとてもきれいな生き物にみえました。なにしろ、とてもふわふわとしたきれいなつやのまっくろの毛皮に、大きな瞳は銀色なのです。頭の上にはピンと三角の耳がふたつあって、それがぴくぴく動いております。まものはとてもおおきくてスマートで、話すたびにひらく口元からはとても強そうな牙が見えるのでした。

女の子とはまるでちがう見た目ですが、とてもとても強そうで、とてもとてもきれいでした。

「ねえ、すこしその毛皮にさわってみてもいい?」

女の子が近づいてきて、まものにそんな風に聞きました。まものは何が何だかよくわかりませんでしたが、ゆっくりと頷きます。女の子はうれしそうにやってきて、そうっとまもののうでに触れました。

「わあ。ふわふわしているね」

そんな風にいわれたのははじめてで、まものはなんと答えたらよいのかよくわかりませんでした。そこでまものも片方のうでをもちあげて、女の子のまねをするように、赤金色の髪に触れました。

「おまえも、ふわふわしている」

「ありがとう」

まものの手には女の子の髪の毛は、とてもふわふわでうつくしいもののように感じました。いつだったか、本をひらいたときに聞いたやさしい声を聞いた時のように、それをきれいだと思いました。

「マモノさんは、ここで何をしているの?」

女の子はすっかり怖くなくなって、まものの隣にすわりました。

そこでまものは話しました。自分がなんのためにここにいて、何をするために生まれたのか。がまんできなくなってとうとう本をひらいてしまったことや、本の中からやさしい声が聞こえてきて、とてもさびしくなって目から水が出てきたこと。

女の子はとても驚いて、まものにぎゅっと抱きつきました。

「ずっとひとりぼっちだったのね。かわいそうに……」

そういって、まものの背中をやさしく撫でてくれました。

まものはとても驚いて、動くことができません。だって動いたら女の子がびっくりしてしまうではありませんか。でも女の子はやわらかくてあたたかくて、ぎゅっとされていると心地がよいのでした。

「マモノさん、本を見せて!」

しばらくそうしていると、女の子が言いました。本からはもうやさしい声はしませんが、危ないものではないと思いましたので、まものは女の子に本をひらいて見せてあげました。

女の子はまもののともした魔法のあかりをたよりに、本をめくってみました。そうすると、この本が一体何のためにつくられたのか、どのようにつくられたのか、どのようにつかうのかがとてもていねいに書かれてありました。女の子も見習いとはいえ魔法使いですから、それをたいへんきょうみぶかく読んで、そうして自分もためしてみようと思いました。

「ねえマモノさん、これはとってもすてきな本よ!」

「そうなのか? おれにはどういうものかわからない」

「ちょっとまってね、いまためしてみるわ」

女の子が本をひらいて、ページに向かって口をパクパクとさせました。女の子は何かをお話したようですが、その声はまったく聞こえませんでした。まるで声が本にすいこまれたようです。まものは女の子はいったい何をしたのだろうと思って、じっと見つめておりますと、女の子がぱたんと本を閉じました。

女の子が本をまものにわたしていいました。

「そしてね、これを……」

「なにをしているんだ!!」

そうして、女の子がまものに本のつかいかたをおしえようとしたその時です。急におおきなこえが聞こえて、あいた扉のところにこわい顔をした魔法使いが、たくさん立ってこちらを見ておりました。

「あ!魔法使いさま、これは……」

女の子があわてた風にたちあがりました。女の子はまものが持っていたすてきな本のことを魔法使いにほうこくしなければと思ったのです。そして、いっしょにいるまもののことも紹介しようと思いました。

しかし。

「おそろしのまものだ!!おそろしの本をもっているぞ!!」

魔法使いがつぎつぎにゆびさして、いっせいに杖をふりあげました。魔法使いたちの杖からは真っ赤な炎がとびだして、ボン!!と大きな音がして、女の子とまものにぶつかりました。

「きゃああ!!」

女の子がばったりと倒れます。まものはおどろいて女の子におおいかぶさりました。魔法の炎がつぎつぎと、まものの体にふりそそぎます。でもまものはつよいまものです。魔法使いの炎でしんだりはしません。けれど女の子はきっと死んでしまう。なぜかそれがおそろしくて、まものは女の子をかばいました。

けれど、まものの毛皮のなかで女の子が声をふるわせました。

「にげて」

「にげて?」

「マモノさん、にげて、しんじゃう」

逃げなければ。しんでしまう。

女の子がしんでしまう。

そう思って、まものは女の子と本をぎゅっとお腹にかかえると、むくりと立ち上がりました。魔法使いがそれだけで怯えて、炎の魔法をとめてしまいます。まものは口を大きくひらいて息をすいこむと、ワアアア!!と大きな声をあげました。

「炎だ!!」

「炎を吐くぞ!! ばけものめ!」

大きくあいたまものの口から炎が吐き出され、魔法使いはあちこちにちりぢりになりました。そのすきに、まものは扉からとびだします。

「まて、ばけものめ!!」

しかし一人の魔法使いがおいかけて、まものの手元をねらって炎の魔法をぶつけました。そのいきおいで、まものは女の子を落としてしまいます。

あ、と思った時にはもうおそく、落とした女の子が他の魔法使いにらんぼうに引きずられてぶたれる姿がみえました。まものが足をとめて、ワアアア!!ともう一度大きな声をあげます。

「その子を、かえせ! その子を、はなせ!!」

「だまれ、ばけもの! その本を……」

女の子の髪をひっぱっている魔法使いが、まものに向かって声を張り上げました。しかし、それをかき消すように、女の子が叫びます。

「にげて!! にげて、にげて、マモノさん!! にげて!」

女の子にはわかりました。このまものはきっとおそろしのまものにちがいなく、魔法使いたちはおそろしのまものだけを殺して本をとりあげるつもりなのです。だけど女の子にはとてもそれが正しいことだとは思えませんでした。本をわたしたらきっとまものは殺されてしまう。やさしくてきれいで、そしてさびしがり屋のまものが殺されてしまう。

女の子の「にげて」の声に、弾かれたようにまものはにげました。それが正しいことかどうかはわかりませんでした。

上へ上へとにげるまものの後ろから、真っ赤に燃えた小さな石が、いくつもいくつも降り注ぎました。おまけにこんな声がきこえました。

「むすめを牢屋にいれてしまえ!!」

まものはどんどん、にげました。

****

上に上ににげて、にげたところにあった扉からとびだして、冷たくしめった空気と初めて踏む地面をかんじながら、まものはどんどん走りました。どんどん走っているとやがて森の中にはいり、ようやく追いかけてくる声がしなくなりました。

まものはとても強いまものです。ふといくさりをちぎれますし、炎を吐くことができます。きっとこの牙であの魔法使いたちにかみつけば、魔法使いたちはびっくりすることでしょう。でもそんなことはおそろしくて、まものにはできませんでした。あのとき一回だけ、思わず炎を吐いただけでもとてもおそろしかったのに。

でももっともっと、おそろしいことがありました。

まものの目の前で、女の子のきれいな髪がひっぱられ、大きな別の人間にぶたれていたのです。そちらの方がまものにとってはおそろしくて……

おそろしくて、たすけることができませんでした。

まものはおそろしの本をひらくためにつくられました。ですから、とてもつよいはずでした。しかし、いくつもいくつも炎を受けてまっくろな毛皮は焼けこげて、いくつもいくつも石のつぶてをうけたところはけがをしてしまいました。それに女の子は、まもののそばにいないのです。

たくさんのけがをして、いたくていたくてたまりません。つよいはずなのに、まものはいたくてうずくまりました。

しくしくしく
しくしくしく

まものはいたくていたくて、しくしくしくと、泣きました。女の子がひどい目にあわされていたことがかなしくて、身体ではないべつのところが、いたくていたくて、泣きました。

ひどく心ぼそくなって、お腹にかかえている本のことを思い出しました。何度ひらけても、もうあのやさしい声が聞こえてくるはずがありません。しかしまものはさびしくて、そっと本をひらいてみました。

すると、どうでしょう。

イェーラスウィート・イェーラスウィート
《けがをなおして・どうか、けがをなおして》

本からそのような声が聞こえてきたのです。

それはとてもやさしい声でした。それはあの女の子の声でした。やさしくてやさしくて、きれいでかわいくて、まものはこの声がとても好きでした。

本から聞こえてきたその声が、キラキラキラとこまかな光のつぶになって、まものにふりそそぎました。声に触れることなどできるはずがないのに、まるで女の子になでられたときのように心地がよくなりました。

そして、まものの焦げていた毛皮がすっかりきれいになり、けがをしていたところが治ったのです。これはけがを治す魔法にちがいありません。

まものにはどうしてこんな風になったのかはわかりませんが、女の子の声を聞いて、さびしい心をふるい立たせました。女の子はまものを3回もたすけてくれました。けがを治してくれましたし、魔法使いからにげてと言ってくれましたし、……そして、そして、しくしくしくと泣いているまものに、おそろしのまものに、「きれいね」と言ってくれたのです。

それならば、こんどはまものが女の子をたすけるばんでした。

ワアアアアア!!!とまものは大きな声をひとつあげて、にげてきた道を走りはじめました。

****

門番の今日のみはりばしょは、図書館の裏の地下ふかいばしょにつづく、ろうやの扉でした。でもこんなに気が進まない役目はありません。それに今日はひときわ気が進みませんでした。なぜかというと、毎日あいさつをしてくれているかわいい女の子が、牢屋につかまったと聞いたからです。

女の子がつかまったのは、おそろしの本とおそろしのまものを逃してしまったからだそうです。しかしそれがほんとうならば、逃してしまった魔法使いたちだってわるいではありませんか。それなのに、どうして女の子だけがつかまるのでしょう。それにあの女の子がいい子であることは門番も知っております。もしそれが本当だとしても、わるいきもちでやったはずがありません。

自分がわるいことをやったわけではありませんが、門番は急になにやら魔法使いの国がおそろしくなって、ぶるりとからだをふるわせました。ふるさとが恋しくなって、一人ぽつりとつぶやきます。

「いなかに、かえろうかなあ」

そう言ったとたん、がさごそと近くのしげみがうごきました。門番はびっくりして飛び上がり、こしの剣をぬきました。

「だ、だ、だれだ!?」

「あ、あの、あの子はどこだ」

思わずおびえてしまいましたが、門番に話しかける声はなんとなく頼りがありません。それに「あの子」と言っているのはもしかして、門番が心配している女の子ではないのでしょうか。

「それは、おそろしの本とおそろしのまものをにがした、あの子のことか」

「そ……その子のことだ」

これでまちがいがありません。なにものかが聞いているのは女の子のことなのでしょう。

「女の子をどうするつもりだ」

「たすけないと」

「たすける……?」

「おれを、おれのことを、きれいだっていって、助けてくれたんだ、だから」

助けたいんだ。そう、なにものかは言いました。それで門番は、このなにものかがまものなのだと思いました。よく聞くと声も低く、自分たちとはちがいます。目をよくよくこらしてみると、夜のまっくらやみの向こうに、さらにまっくらな何かがいるようにも思いました。

おそろしの本のおそろしのまものだとすると、このまものはとてもつよいに違いありません。

そして、そのようにつよいまものであるならば、女の子のことも助けてあげられるかもしれません。

だから門番は決めました。

「女の子がいる場所を教えてやろう」

「え?」

「一度しかいわないからよく聞くんだぞ」

そういって、門番は声の聞こえてきたほうにそっと近づきました。門番にとってそれはとてもわるいことですし、まもののことだってまだこわい。でもこれで女の子が助けられるなら、すこしでも助けられるかのうせいがあるのなら、なけなしの勇気を一生のうち、たった1回ここで使ったっていいような気がしました。

扉をあけてまっすぐいって、右にまがって下に降りる。どんどんおりて、一番下にきたら人間がひとりいる。その人間をなぐって気絶させたら、そのむこうに女の子のいる檻がある、まものならば簡単に檻はこわせるだろう。

まものにおぼえたか?と問うと、まものはおぼえた、と答えました。

「だけど、扉をあけたらおまえが魔法使いにつかまるのではないか。女の子は、おれをにがしてつかまった」

まものにそのように言われて、門番はびっくりしました。まさかまものに心配されるとは思わなかったからです。ああ、やっぱりこのまものはとうていわるいやつじゃない。女の子をきっとたすけることができるだろう。そう思って、剣をぽいっと捨てました。

「いいか、おれはとつぜんあらわれたまものにたまげてにげることにする」

「にげる?」

「そうだ、それからもう、ここには帰らないから心配すんな。おれは田舎にもどってよめさんでも見つけるから」

「よめさん?」

「ああ。ほらいけよ」

門番が、そうっと音をたてずに扉のかぎをあけると、まものがぬっと出てきました。夜のやみにまぎれてよくわかりませんが、とてもおおきくて、……そして、ちっともこわくありませんでした。こんなにおおきくてつよそうなのだから、きっと女の子をたすけてくれるだろう、そうおもって門番は安心するだけでした。

「ごめんな、いっしょにたすけてやりたいが、おれは門番くらいしかできないろくでなしだから」

「ろくでなしじゃない。ふつうのニンゲンは扉をあけないとおもう」

扉をくぐるまえ、まものがふりかえって門番にそのように言いました。なぜだか門番は照れくさくなって、首をふります。

「……だれかくるまえにいけよ。ぜったいにたすけろよ」

「わかった」

まものはひとこと言ってうなずいて、扉の向こうにきえました。

門番はまものがまっすぐはしって右にまがるところまで見送って、扉をそっとしめました。かぎはあけたまま、剣をすてたまま、門番の服をぬいですてると、夜道をはしってにげました。

****

まものは門番に教えてもらったとおりまっすぐいって、右にまがって下に降りました。どんどんおりて、一番下にきますと、門番に教えてもらったとおり、人間がひとりおりました。その人間をなぐって気絶させろと言われましたが、さてその人間はこっくりこっくりねむっておりました。まものは少しまよって、なぐることをせずに、そっとその横を通りぬけました。

そうしてさらに向こうにいきますと、教えてもらったとおり、女の子のはいった檻がありました。まものが檻をのぞきますと、ぼろぼろになった女の子がぐったりと倒れております。まものはびっくりして、ワアアア!!と叫び、檻をつかんでひらきました。

檻はあっという間にぐにゃりとまがりました。女の子に手をのばしてそのからだをすくいあげ、まものはしっかりと胸にだきました。

「だれだ、おまえは……!!」

さきほど眠っていたみはりの人間が目をさましたのでしょう。長いやりをこちらに向けてたっておりました。でもまものはもうこわくありません。けがをしている女の子のほうが、こわくていたくてつらいにきまっております。この女の子をたすけるためならば、なんだってできると思いました。

「この子をたすけてなにがわるい!」

そう叫んで、まものは片方の手で人間の持っているやりをつかんで取り上げました。バン!!と地面にたたきつけるとそれは簡単におれてしまいます。

「けがをしたちいさなニンゲンをたすけてなにがわるい!!」

そう叫んで、まものは片方の手で人間の胸をどんと押しました。やりを取り上げられてしまった人間は、そのままよろよろと後ろに倒れて頭をうって寝てしまいました。

まものは女の子をかかえて、こんどはやってきた道をもどりました。さきほどの叫び声がどこかに聞こえていたのかもわかりません。静かだったまわりはなんだか急にざわざわとしはじめ、まものの心もそわそわしました。しかしまものはしっております。あのときまものがにげ込んだ森のなか。あそこまでにげればきっと人間は追ってきません。

戻ってきた扉にはかぎがかかっていませんでした。門番があけたままにしていてくれたのでしょう。しかし扉をあけて地面を走ると、うしろからたくさんの声が聞こえます。

「おそろしのまものだ!!」

「見習いもろともころしてしまえ!!」

なんとおそろしい。

おそろしのまものと、見習い……きっとまものがかかえている女の子……を殺せと叫ぶ魔法使い、いったいどちらがおそろしいのか。まものが、ワアアアアアア!!と大きな声をあげて、魔法使いたちの足元に炎を吐きました。

ボオオ!!と地面の草が燃えはじめ、魔法使いはそれいじょう進めなくなります。

そのすきに、まものは女の子をかかえて走り始めました。湿った草を踏みしめて、乾いた地面をけって、どんどん走って、走って走って、ようやく森の中にたどりつきました。

****

追いかけてくる人間の声がしなくなって、まものはそっと腕の中の女の子を見てみました。

女の子のきれいな髪はまものの毛皮がこげていたのとおなじようにちりちりにこげてしまっていました。白くて柔らかい肌はあちこちが真っ赤で、そうでなければ青くなっておりました。ぐったりと目をとじていて、まものがいくら呼びかけてもちっとも口をきいてくれません。

胸がきつくせまくなった心地がして、とてもおそろしくなって、まものは女の子の心臓のあるぶぶんに耳を押し当ててみました。

とく、とく、と弱々しい、かよわい音がひびいております。

「ああ。まだ生きている、生きている。しなないで」

しなないで、生きていて。おねがいだから、ひとりにしないで。

そうおねがいしながら、ずっとずっと心臓の音を聞いておりました。しかし、まものにはなすすべもなく、女の子の心臓の音はだんだんと、小さくよわくなっていきました。

そしてとうとう、とく、とく、と響いた音の、次の音が聞こえなくなりました。

まものは、ワアアアアアア!!と叫んで、あわてて本をひらきます。しかしもう、その本からは女の子の声はしませんでした。

「しなないで! しなないで!!」

そう叫んで、まものはハッと思い出しました。あの本から聞こえてきた、女の子の声を思い出しました。

まものはちいさな女の子のからだをかかえて、できる限りのやさしい声で、できる限りのこころを込めて、どうか女の子が治りますようにとねがいをこめて、このように言いました。

イェーラスウィート・イェーラスウィート
《けがをなおして・どうか、けがをなおして》

そのことばは、実は女の子が一番最初に教えてもらった魔法のことばでした。けれどそれと知らず、まものはその言葉を口にしました。本から聞こえたその言葉は、あの時たしかに、まもののために唱えられたように思えましたし、その言葉がまもののけがを治したのです。それならば、まものがおなじ言葉を女の子のために唱えれば、同じようにけがが治るかもしれません。

イェーラスウィート・イェーラスウィート

まものがなんども唱えると、まものの声がキラキラと光のように色づいて、女の子のからだを包みました。光のつぶは女の子のこげた髪や真っ赤になったり青くなったりした肌にふりそそぎ、それをきれいに治しました。

女の子の心臓のあるあたりにもう一度耳をちかづけてみますと、とくとくとく、と、心臓の音が聞こえます。

そうしてとうとう、女の子の声も聞こえました。

「マモノさん?」

心臓のおとを聞いていたまものの頭を、ちいさな手がそうっとやさしく、なでました。

まものが顔をあげますと、女の子がかわいく笑っております。まものはとてもうれしくなって、おもわずぎゅうと抱きしめました。

「マモノさん、マモノさん、あなたがたすけてくれたのね」

そういって、女の子の小さな手がこんどはまものの背中をなでております。

「ちがう、ちがう、おまえがおれをたすけたんだ」

まものはそう言い返して、まねして女の子の背中をなでました。まものの大きなてのひらに、女の子の背中はとても小さいものでした。けれど、ちっともちいさいとは思いませんでした。

「おれはおそろしのまものなのに、おまえがたすけてくれたんだ」

もう一度そのように言うと、女の子がうふふとわらって、まもののくろい毛皮にくるまりました。

「わたしのマモノさん、だれがどんなふうにいっても、わたしはマモノさんのことがとっても好きだわ」

それはいつだったか、本から聞こえただれかの声が、まものではないだれかに言ったことばと似たふうな言葉でした。まものがどうしても欲しいと思っていたけれど、だれもそれをくれなくて、さびしくてかなしくて泣いた言葉でした。でもこんどは女の子が、まものにそれをくれたのです。

うれしくてうれしくて、まものはしくしくしくと泣きました。

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それから、まものと女の子がどうしたのかともうしますと、谷をふたつこえて、山をふたつこえた場所にある、魔法使いの国ではない別の国の言いつたえに、このようなお話がのこっております。

その国には、灰色の毛皮におおわれたものや、馬と人間がつながったようなもの、大きなくまや後ろ足で立つ大きな虎、大きなヘビに頭だけのネコなど、たくさんの風変わりな生き物が暮らしている国でした。その国にいつからか、一冊の本を持ったくろい毛皮のうつくしいけものと、そのけものにまもられた小さな小さな人間の女の子が加わりました。本は国の王様に献上されましたが、王様は「これはいいものをもらった」といって、お祭りの日にたきぎにくべて燃やしてしまわれたそうです。

その年のお祭りはたいへんに盛り上がって、人間の女の子も美しいけものも、みんなで仲良く暮らしたそうですよ。