山を二つこえ、谷を二つこえた大きな大きな平らな場所に、大きな大きな国がございます。その国はたくさんのかしこい魔法使いたちが国を治める、魔法使いの国でした。
魔法使いの国にはたくさんの魔法使いが住んでおります。その中に、魔法をちっとも使うことのできない魔法使いがひとり、おりました。
さて、その魔法使いがなぜ魔法を使えないのかともうしますと、どうしても、どもってしまいまして、呪文をきちんととなえることができないからです。
そのことで魔法使いはいつもひどく落ち込んでは、家にかえって奥さんになぐさめられるのでした。
「だんなさま。他のだれになんといわれても、わたしはあなたのことがとても好きです」
奥さんはほんのすこしだけ、魔法の力をもっておりましたから、そのように言いますと、魔法使いの心をじわりとあたたかくするのでした。それで魔法使いは明日もがんばろうと心にきめるのです。
ですが、ある日のこと、奥さんがお料理をしていてゆびを包丁できってしまい、小さなきずを負ってしまいました。
魔法使いはあわててけがを治す呪文を唱えました。けれど奥さんのきずは治りません。どうしても、どもって呪文をきちんととなえることができなかったからです。魔法使いは自分のことをずいぶんとなさけなく思いました。自分はたしかに魔法使いであるはずなのに、奥さんのけがの一つも治してあげられないのです。
落ち込んでおりますと、奥さんがやさしくわらって魔法使いの手をにぎってくれました。
「そんなに落ち込まないで。こんなのいつものことですし、わたしはそんな風におもってくれるあなたが好きなのだから」
そうは言いましても、やはり魔法使いとしてはなさけないものです。
そこで魔法使いは自分のとくいな魔法……つまり、それは呪文をとなえるのではなく、呪文を書きとめることによって魔法の力となるようなものを発明することにしました。
うんと勉強しました。うんと研究しました。長いことねっしんにがんばって、来る日も来る日も、寝る間をおしんで勉強して、魔法使いはとうとう一冊の本をつくったのです。
その本は、とても不思議な本でした。
本に向かって話した言葉をすいこんで、次にひらいたときにその言葉を話すのです。それはまるでこだまのようで、魔法使いはこの本を「こだまの本」と名付けました。
ためしに魔法使いは仲間の魔法使いにたのんで、本にむかって一番かんたんな、けがを治す魔法をとなえてもらいました。
その呪文の声はこだまの本にすいこまれて、まわりの誰にもきこえません。自分の声がすいこまれてしまった仲間の魔法使いはたいそうおどろいておりましたが、自分はたいそう満足して、本をぱたんと閉じました。「ありがとう」そう言って、本をもって奥さんのまっている家に戻りました。
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それから何日かたちまして、お料理をしている奥さんが、「あつい」と小さな声をあげました。魔法使いがあわててそばにいってみますと、奥さんはゆびを冷たい水でひやしております。聞けばあついお鍋にさわってしまって、ゆびをやけどしてしまったそうです。
それはちいさなちいさなやけどでしたが、魔法使いはよしきたととくいになって、こだまの本を持ってきました。
「見ていろよ」
魔法使いが奥さんのゆびに向けて本を開きます。するとどうでしょう。魔法使いの声ではない別の声が呪文をとなえ、奥さんのゆびのやけどをすっかり治してしまったのです。
「まあ、すごいわあなた」
奥さんのゆびのやけどを治して、魔法使いはすっかり満足でした。これで奥さんがもしけがをしても、それを治してあげられる。そのように思いました。
それから魔法使いは、一番よわいけがを治す呪文を仲間の魔法使いに唱えてもらっては本にすいこみました。それを大事にとっておいて、奥さんや自分がけがをしたときに、本をひらいて治しました。
ですが、それに目をつけた魔法使いがおりました。いつも呪文を本にむかって唱えていた、あの仲間の魔法使いです。
「どうも、あれはすごい本みたいだぞ」
どうやらあの本は、唱えた声をすいこんで、次にひらいたときにそれをとなえるもののようです。これがほんものならば、あいてがどんなに強くおそろしい魔法を唱えてきても、それを全部すいこんで、ぎゃくに相手に返せるではありませんか。どうにかしてあの本をうばってやろうと、そのように考えました。
ある日のこと。
こだまの本を作った魔法使いの家に一通のてがみがとどきました。そこにはこのように書かれております。
なんじ、発明してはならない魔法を発明した罪にしょす。
竜の炎と、その炎につつまれた巨大な岩をうみだし、それを落とすのと同じ魔法である。
このような危険な魔法を所持することは、魔法使いの国にはんぎゃくすることにほかならない。
所持している魔法の本、研究の成果、すべての呪文のメモにいたるまでを没収し、魔法使いの国から追放することにより、なんじの罪をゆるすものとする。
期限は明日まで。
つまり、魔法使いは明日にでもこの国からさらねばならないということでした。
魔法使いはおどろきました。一体じぶんがいつ、そのようなおそろしい魔法を発明したというのでしょう。自分はけがの一つを治す魔法すら唱えることができないのに。発明したものといえば、たったひとつ、こだまの本だけです。
しかし、はっと思い至りました。ようやく思いつきました。
このこだまの本で、竜の炎と、その炎につつまれた巨大な岩をうみだし、それを落とすのと同じ魔法をすいこめば、次に本をひらくときは、同じことが起こるのです。魔法使いは奥さんと顔を見合わせました。奥さんも同じことを思いついたのでした。
この本はとりあげられてしまうでしょう。たしかにきけんな本に違いありません。魔法使いは奥さんに言いました。
「どうやらわたしはこの国をさらねばならないようだ」
「だんなさま」
「たよりない、もう魔法使いではないわたしだが、一緒にきてくれるだろうか」
もごもごとそのようにいう魔法使いに、奥さんはいつもよりもやさしく、心を込めて言いました。
「もちろんです。どうかどこにいっても、おそばにいさせてください」
それで魔法使いはきめました。何も言わずにこだまの本も、その本を発明したときのメモも、何もかもを置いてこの国を去るのです。たった一人、大好きな奥さんがいれば、魔法使いは大丈夫だと思いました。
その夜、出発のじゅんびをしている魔法使いにだまって、奥さんはこっそり魔法使いの部屋に入りました。こだまの本を手に取って、大切なものにふれるようにそうっときれいな布で拭きます。
それから机の上に置いてあったペンを取り、近くにあった白い紙に、とてもていねいなもじで何かを書きました。
そしてゆっくりと、まずは裏表紙をひらいて先ほど何かを書いた白い紙をはさみました。そのあときちんと本をひらいて、そこに書かれてあるもじをよみました。魔法使いは呪文を唱えるのは上手ではありませんが、それはそれはきれいで心のこもった文字を書くのです。こだまの本には、じぶんがどうしてこの本を作ったのかが書かれてありました。たった一人の大事なひとの小さなけがを治すことのできない自分がなさけなくて、そうしてこの本をつくったのだと、とても正直に書かれてありました。
奥さんはそれを読んで、ほう……とあたたかいため息を吐きました。こんな正直でまっすぐな魔法使いがだいすきでした。ですから、まるでいつも魔法使いの頬にキスをするように、ページに顔をちかづけて、なにごとかをささやきました。その声はどこにもだれにも聞かれずに、本のなかにすいこまれます。
奥さんはこだまの本をパタンと閉じると、魔法使いの机の上に元どおりに置いておきました。
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翌日、いつだったかこだまの本にけがを治す呪文をとなえた魔法使いが先頭にたって、こだまの本をつくった魔法使いのもとにやってきました。魔法使いはあっけなく家をあけわたし、しずかに国から立ち去って、こだまの本もあっさりと見つかりました。こんなにすごい効果をもっているのに、ちいさなやけどやけがを治すことにしか使わない魔法使いを、バカなやつだと思いました。
この本をつかえばいちばんえらい魔法使いになることだって、できるかもしれないのに。
そう思って、こだまの本を手に取りました。
すると裏表紙のあたりに、一枚の紙がはさんであったのです。
ふしぎに思って、おそるおそる紙をひきぬいてみます。そこにはとてもしっかりとしたていねいなもじで、まよいなくこのようなことが書かれておりました。
トロメアの竜とのたたかい。
竜の炎と、その炎につつまれた巨大な岩をうみだされ、それをおとす呪文をとなえられるも、ふういん。
驚いてこだまの本を落としそうになりましたが、あわててつかみなおしました。しかしなにやらとてもおそろしいものを抱えているようで、ふるえてしまいます。
なんということでしょうか。
この本にはほんとうに、竜の炎と、その炎につつまれた巨大な岩をおとす呪文がすいこまれているのです。ということは、これを次にひらいたときには、竜の炎につつまれた巨大な岩がおちてくるに違いありません。
書かれてあるもじはとてもていねいにしっかりとかかれていて、書いてあることがうそだとはとうてい思えませんでしたし、もしうそだったとしても、それをたしかめる方法は本をひらくか、本をつくった魔法使いにたしかめるしかありません。しかし魔法使いはもう国を出て行ってしまって、どこに行ったかはわからないのです。
もうだれにもこの本をひらくことはできませんでした。
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さて、魔法使いの国から追い出された魔法使いと奥さんは一体どうなったのでしょうか。
魔法使いは魔法使いをやめて、ただの旦那さんになりました。奥さんと二人でたくさん歩いて、谷を二つこえ、山を二つこえたところにある、魔法使いの国ではない小さな国の小さな町にたどりつき、そこで暮らすことにしました。小さな町でしたが、ふしぎなものたちがたくさん住んでいるゆたかな町です。
旦那さんは呪文はへたでしたが、字を書くことは得意でしたので、町の子供たちに読み書きを教えるせんせいになりました。せんせいはゆっくりとしたしゃべりかたのやさしいせんせいで、たちまち町の人気のせんせいになりました。そうして、そのうちに奥さんとのあいだに二人のこどもにめぐまれて、魔法使いであったころよりも幸せで、ゆったりと暮らしております。
旦那さんの奥さんは、毎日旦那さんの手をにぎってこのように言ってくれました。
「私はどんなあなたでも大好き。でも今のあなたが、きっといちばん好きですわ」
奥さんがやけどをしたり小さなけがをしたときは、旦那さんがやさしく薬を塗りました。仲良くそんな風にくらしながら、奥さんが言ってくれるその言葉に、旦那さんはずっといつまでも、幸せな気持ちになるのでした。