恋は突然に

「はあ……」

大きな窓ガラスから差し込まれた光は、庭の木々がちょうど良く量を調整し、朝食の席を爽やかに演出している。広い食卓に用意された朝食は熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、主人の口に合うための絶妙なタイミングで供されていて、朝食の気安さに見合う内容だ。

だが、そんな朝食を目の前にしても、食指が伸びるどころか溜め息ばかり吐くのは、まさにその朝食を供されているその人……ラミュエル・レイヴンだった。

「腹が減ったな……」

腹が減ったのであれば、目の前の朝食に手をつければいいようなものだが、それもせず、ラミュエル……ラミは硝子のコップを手に取って、中に入っている真っ赤な液体に少しだけ口をつけて、はあ……と溜め息を吐き、もう一度口をつけて、こくんと一口飲んだ。

「お腹がすいたのなら何か食べればいいのに、ラミ」

「食欲が無いんだ」

「それなら腹が減っているというのとは矛盾だろう」

「トマトジュースか、レタスくらいしか食べられない」

「あっそ」

目の前でむしゃむしゃとカリカリベーコンを頬張る大学生の兄を恨めしげに見ながら、ラミはレタスをもそもそと口に入れた。しかしレタスとトマトジュースだけでは、腹の足しになどならない。ラミは育ち盛りの高校1年生であった。

「もういい、学校に行ってくる」

「おお、いってこいいってこい」

ガタンと席を立ったラミは傍らに控えていた使用人からカバンを受け取る。兄は、もぎゅもぎゅとトーストを食べながらラミの後ろ姿に手を振った。

バタンと閉まった扉を見ながら、ラミの兄はトマトジュースをごくりと飲んだ。本物には劣るが、この赤い色は気分を盛り上げ、人間と同じ食べ物を栄養素として取り込む事ができる。昔とは異なり、現代に適応した一族の新たな食事方法の一つである。

しかし、もっとも効率よく、そして大いなる力を得る事ができるのは人間の血液。……もしくはそれに準ずる体液を摂取することだ。

すなわち、レイヴン家とは、現代に生きる吸血鬼の一族なのであった。

****

太陽がまぶしい。

空腹感に苛まれながらもなんとか午前中の授業を終え、ラミは教室を抜け出した。昼休みの教室は弁当臭がきつく、そんな中でつきまとってくる女子共が本当にうっとうしい。ラミは美しい金髪に光の加減によっては赤にも見える、薄い茶色の瞳をしていて、この学校のどの生徒よりも美しい男子生徒だった。

誰もこない中庭にひっそりと植わっているガーベラの花のそばにしゃがみこんで、ラミは今日何度目かの……いや数えきれないほどの溜め息の一つを吐き出した。

腹が減った。

ならば食事をすればいいのだが、ラミは一族としては致命的な偏食家だ。

吸血鬼のレイヴン一族。彼らの主となる食事は、すなわち人間の血液、もしくはそれに準ずる体液である。しかしもちろん、現代において人間の血だけで生きていくのは困難だった。吸血鬼には栄華の歴史もあるが、同時に恐怖の対象であったという歴史も存在する。端的にいうと、人間に混じって何食わぬ顔で生きていくには、人間の血液ばかりちゅうちゅうしていたのではダメなのである。

もちろん、血を供する人間もいる。レイヴン家は、そうした人間を伴侶にしたり、あるいは従者にして、ごくたまに……力が必要な時にそれを摂取して生きている。ラミの父もそのような人間の1人である。だが、ラミは人間をそのように「餌」扱いをするのがたまらなく嫌だった。

ラミが10歳のときだ。

初めて吸血行為を行うように供されたのが、当時ラミに仕えていた侍女の1人だった。だがどうしてもその首筋に牙を立てることができなかったのだが、兄達に押さえつけられて、侍女の切った指先を無理矢理舐めさせられた。

クソマズかった。

あんな生々しいなんともいえぬ生暖かいものを食べて生きねばならぬ自分を呪い、一族を呪った。初恋のような想いを抱いていた侍女の指先を切らせたのも苦しかったし、その侍女の血が不味かったのもショックだった。

それ以来、ラミは人の血液はおろか、通常の動物性タンパク質すら受け付けられなくなったのである。一家でたった1人、ラミはベジタリアンの吸血鬼だ。

それ以後、ラミは植物性タンパク質と、それを栄養素として摂取するためのトマトジュースだけで生きてきた。それでもなんとかここまで生きて来れたから、これからだって大丈夫だろう。あんな不味いものを口にしなくてすむのなら、多少の物足りなさは致し方が無い。そう思っている。

しかし、腹は減る。

成長すればするほど新陳代謝が活発になり、高校生にもなると空腹感はなお一層増す。ガーベラですら、おいしそうに見えてくる。

ラミはふらふらとガーベラに手を伸ばし、ぷつんとそれを手折った。

「ちょっと何してるの!」

「わっ!!」

急に怒鳴られ、ラミは驚いてガーベラをぽとりと取り落とした。声のした方を見上げると、いつのまにやってきていたのか、驚くほど近くに女子生徒が立っている。

「……あれ、あなた……となりのクラスの、レイぶンくん?」

「……」

もしかして、また自分に付き纏っている女子なのだろうか。そう思ってラミは警戒しようとしたが、何故か出来なかった。睫毛の長い力強い瞳と真っ直ぐな黒い髪に、瞳が釘付けになって動けない。

「これ、私が大事に育ててる花なの、折ったりして、どういうことなの」

「あ……」

言われて我に返ったラミは、取り落としたガーベラを拾い上げて立ち上がった。女子生徒の言う通りだ。……ああ、なんてことをしてしまったんだろう。花壇に咲いている花を勝手に折ってしまった罪悪感に急に襲われて、ラミはしょんぼりと肩を落とす。

「ごめん……」

「レイぶンくん?」

「これ……」

しかし一度折ってしまった花をどうすればいいのか分からず、恐る恐る女子生徒に差し出すと、女子生徒は困ったようにそれを受け取って、花の香りを嗅ぐように唇に近付ける。しばらくそうしていたが、ラミの顔を見て驚いたような表情になった。

「大丈夫? 顔色悪いわよ」

首を傾げると、先ほどまで強気だった女子生徒の瞳が急に心配そうにこちらを見つめている。印象の強い瞳を綺麗に彩る眉がやや八の字に下がり、赤みの強い唇が何か言いたげな形になっている。

赤い唇は艶やかに濡れていて、熟れた果実のようで……。

「きみは……」

「これ、あげるわ」

「え?」

「飲みなよ、元気でるから。それから、これも……」

言いながら、女子生徒はラミに紙パックと手折ったガーベラを押し付けた。ラミがそれをおずおずと受け取ると、「ほんと大丈夫? 調子悪いならちゃんと保健室に行きなね」……とだけ言って、ラミに背中を向けた。

手元を見ると、紙パックに入った飲みかけのトマトジュースとガーベラだ。

「待って!」

呼び止めると、女子生徒が振り向く。

「あの、名前……僕、ラミ、ラミ、でいいから。レイヴン、って。言い難いだろ……その」

言うと、女子生徒が大きく笑った。

「隣のクラスの石見いわみひかりよ、またね、ラミくん。ここにいることは、内緒にしとくから、少し休んだら?」

じゃあね、……と、ひかりが小さく手を振って、ぱたぱたと去って行く。

後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送りながら、ラミは何気なくトマトジュースのストローを口に含んだ。

「……!!」

その瞬間の衝撃を、ラミは一生忘れない事になる。それはまさに、ラミが初めて味わったこの世で最も甘美な蜜であり、ラミが今日この日から一生大切に愛でる事になる愛の香りそのものだった。

そのストローで味わったトマトジュースの甘やかさとは。

だが、その時はまだ訳が分からず、ただただ、この空腹を満たす甘露の一滴を無我夢中でむさぼった。しかし悲しい事に、甘露の味わいも一瞬で終わる。ずぞぞぞぞぞ……と最後の雫を吸い上げたことを示す無情な音が鳴り響き、吸っても吸ってももう甘露は喉に届かなかった。

「なんだこれは……」

なんなんだこれは。

一体何が原因なのか。その時のラミには訳が分からず、午後の授業をさぼった。ストローを口に咥えたまま自宅へと戻り、使用人にトマトジュースを用意させる。

ラミは紙パックからストローを取り出し、用意させたトマトジュースに入れて思い切り吸った。

「!!」

紙パックほどの衝撃ではないものの、やはり甘美であった。……というよりも、このストローを咥えている間ずっと甘美であった。一体どういうことだろう。

「おっ、どうしたラミ、顔色いいな」

「兄さん……僕……」

ちょうど大学から帰ってきた兄が、トマトジュースを啜っているラミに声をかけた。どうやらラミは今、非常に顔色がよく、つやつやぷりぷりとしているらしい。

大発見だ。

あのひかりという女子生徒は魔法使いか何かなのだろうか。このストローは魔法なのだろうか。

ラミは魔法のストローを使ってトマトジュースを飲み、その日おいしく野菜サラダをいただいた。これがあれば、飢えから解放されるかもしれない。なんという大発見。なんという美味。

嬉々としてストローを使うラミを、やや冷めた目で兄が見つめていた。

****

結果的に言うと、ストローは3日で味がしなくなった。

だが、ラミは大事にそのストローをパッケージングして宝箱にしまった。

さらに別の話も付随する。その女子生徒と初めて話した日の夜、あれほど腹は満たされたのにも関わらず、ラミはなぜか猛烈に興奮して眠れなかった。目を閉じるとストローではなく石見ひかりの顔が浮かび、目を開けると「大丈夫?」という鈴の鳴るような声が聞こえる気がした。そして、明け方近くになってようやく眠れて、起きたらパンツががびがびになっていた。

さて。

……これが、ラミに降り掛かった「恋」というものであることに気が付いたのは、それから1週間後。

ラミの空腹が次に満たされたのは、その時、石見ひかりが飲んでいた野菜ジュースを分けっこしてもらったときである。ラミはその場で石見ひかりに告白したが断られ、さらに1ヶ月つきまとってようやくOKをもらうことが出来た。3本目のストローはそこで得る。

学校帰り、片方の手をつないで、もう片方の手にトマトジュースを持って一緒に帰るのが楽しくてしかたがない。

「ラミくんって、トマトジュース好きだね」

「ひかりちゃんの事の方が好きだよ」

「……そういうのはいいよ」

「一緒に飲む?」

「別々に飲む」

言われてラミはしょんぼりと肩を落とす。ラミの恋人になったひかりは少し冷たいが、そう言ってはにかむ横顔がラミは大好きだ。

トマトジュースを一緒に飲んでくれたら、多分すごく効率よくお腹が満たされると思うんだけど……。けれど、ラミの正体を知らないひかりにそれを言い出す事はいまだ出来ずに、ラミはこっそりストローだけを持って帰る。そんなラミのことを知ったらひかりはきっと嫌がるだろう。

ひかりの血を吸えばこの飢えはきっと満たされる。

……でも、どうやってひかりをもらえばいいのか、まだ未熟なラミには分からず、ひかりと一緒にご飯を食べて、ひかりと一緒にジュースを飲むのが精一杯だ。

ラミがひかりから栄養をもらい、愛情を得るのに、効率のいい方法を思いつくのはこの半年後。

ひかりがラミの正体を知るのは、それからまだまだ先の事である。