愛は罪深く

「そ……そうだ、これだ!! うわああああ、ひかりちゃん!」

「えっ、何? ラミくん」

放課後、恋人のラミの家に遊びに来ていた石見いわみひかりが、おやつに出されたトマトスライスをいただいていると、突然の大きな声に瞳を丸くした。トマトスライスのもう半分をかじるのを止めてラミの方を見ると、綺麗な顔を驚愕に染めてひかりを見つめている。

「そっ、その! そのトマト全部食べないで! もらってもいい!?」

「えっと、今かじりかけなんだけど」

「うん」

ひかりは首を傾げながら、半分に齧ったトマトの輪切りをフォークに刺し直し、隣に座っているラミの口許に差し出した。ラミが顔をパヤパヤと輝かせて口をあーんしたので、かじりかけトマトをそこに押し込む。

あーんの様相にひかりは一人顔を赤くしていたのだが、ラミはそれよりも口に入ったトマトの美味具合に感動したようだ。

「ぅんっま……」

「そ、そんなに……?」

「うん、すごく……」

両手で顔を覆って肩を震わせているラミを、ひかりはいろんな意味で心配そうに見つめる。ラミュエル・レイヴン……という隣のクラスの留学生と時々話すようになって、その綺麗な外見からは想像もつかないくらい普通に愉快な高校生であることに好感を覚えて、……さらに言えばちょっとした子犬のように付き纏われて、付き合い始めたのは半年前だ。

付き合い始めの頃は、一緒にいるのは楽しいけれど、これが恋なのかと問われるとひかりにはまだ分からなかった。だけど今は少し違う。ちょっと現実離れした綺麗で怖い顔のくせに、笑うとすごくかわいくて心がほんわか温かくなる。それなのに胸は緊張とは少し違う具合にドキドキして、距離が近くなるのを心地よく感じるのだ。

「えっと、もう一枚食べる?」

「いいよ、ひかりちゃん食べて」

そんなにおいしいならもう一枚……と思ってフォークに刺したが、ラミはにっこりと笑って首を振った。金髪に色素の薄い瞳の綺麗なラミの笑顔はそれだけですごい破壊力だ。ひかりは頬を染めて思わず視線を外し、刺してしまったトマトスライスをむしゃりと半分かじった。

「ひかりちゃん!」

「えっ」

「やっぱり半分ちょうだい!!」

「か、かじりかけだけど」

「いいよ、大丈夫。大丈夫だよ、それで!」

何が大丈夫なのか分からないが、かなり前のめりに迫ってくるので、ひかりは先ほどと同じようにあーんするラミの口の中にトマトスライスを放り込む。今度はにっこり笑ったままラミはフォークを咥えた。フォークが抜けない。

「やっべ……フォークも……」

「ラミくん?」

ラミはフォークを咥えたまま遠い目をし始めた。

****

ひかりと恋人になって半年。ラミはこれまでとは比較にならないほど、充実した日々を送っている。恋人がいる……というのは、こんなにも素晴らしい日々なのか。あれほど毎日空腹で苛立っていたのに、ほんの少し……ひかりの使ったストローとかお箸とかスプーンとかをぺろっとするだけで、これまで灰色だった食卓が鮮やかな色になるのだ。

そう。ラミはこの半年で多くの発見をした。

ひかりからメールが来ると、リアルに「ひょあっほう」という声をあげてしまう。
ひかりと手をつないでとくとくとした温もりを感じるだけで、心がいっぱいになる。
ひかりの焦げ茶の瞳を覗き込むだけで、胸が一杯になる。

そして、ひかりの使ったストローでトマトジュースを飲み、ひかりの使ったお箸でレタスをつまむと、これまで以上に身体に力が満ちあふれるのだ。

吸血鬼一族のラミュエル・レイヴンには分かる。

ひかりの体内に巡る全てを、ラミは欲している。それをわずかにでも体内に取り入れて満ちる力は、これまでとは全く異なった。それは食べ物を摂取し腹を満たす……というだけではない。何か全く別の、吸血鬼の本能を慰めるものなのだ。

もし……もしも、ひかりを吸血したら……どうなってしまうのだろう。

いやいやいやいや。それはダメだ。

ラミはひかりを吸血する自分を想像して首を振る。もしそんなことをして、ひかりが痛がったらどうする。ひかりの身体に傷をつけてしまうなんて、そんな恐ろしい事出来るはずが無い。ひかりはレイヴン家に血を供するだけの人間とは違う。「餌」なんかじゃない。ラミの恋人で、大好きで、嫌われたくない。

そう思う反面、ひかりが欲しいという欲望は日に日に膨れ上がる。かつて抱えていたものとは全く異なる空腹感を抑えるため、ラミはこれまで以上にひかりにくっつき、手をつないで……それで、それで、たまにぎゅってする。

でも、それだけではやっぱり足りない。

やっぱりひかりのストローとかお箸は必要だ。ただ、これがなかなかそう簡単には集められなかった。ひかりはとても律儀なので、飲んだジュースの後始末は自分でしたがるし、ラミの飲んだものまで捨ててくるね、などといって取り上げようとする。一度など、ファミレスでストローをこっそり入れ替え、ひかりの分を回収しているところを見られて、咄嗟に「あ、これ落ちちゃって」と嘘をつくと店員を呼ばれ、あまつさえひかりのストローが取り上げられたのだ。あの時はあまりの悲しみに、夜眠れなかった。

そうした試行錯誤の日々の中、ラミはかつてないほどの画期的な方法を編み出したのだ。

それが、家に招待しておやつにジュースを出す……という方法だった。これならば、その後、優雅にストローを回収する事が出来るし、おまけに部屋に2人きりになれる。

おやつに和菓子を申し付ければ楊枝が、コンビニのカップアイスを買えばスプーンが回収できる。ひかりの使ったスプーンでトマトゼリーを食べた時の幸福といったらなかった。幸せすぎて、1週間夢に見た。

ただ、やっぱり3日たつと味がしなくなるし、このストローがひかりの口の中に入っていたのだと思うと、どうすればいいのか分からなくなる。いっそストローを食べてしまおうと思ったが、ストローはプラスチックだったので食べられなかった。

そして、今日。

ひかりの口の中に入っているトマトを見て思いついてしまったのだ。ひかりの口の中に入ったものを食べれば、もっと効率がいいのではないか……と。

結果は想像以上だった。

ひかりにあーんしてもらうという恋人感もさることながら、ひかりの唇が触れたトマトの味わい。

トマトの味わい!!

「おいしい?」

……とひかりがラミを覗き込む。

「おいしい」

ラミが笑うと、ひかりも笑う。ひかりは、ラミが褒めたり恋人っぽいことをしたりすると、ちょっと拗ねたような顔でそっぽを向くクセがあるのだが、そのくせ、たまにこんな風に正面から無防備な笑顔を見せる事があって、そんなとき、ラミはストローを舐めてもいないのに、喉の奥がくすぐられているような感じになってしまうのだ。

かわいい。ひかり。

……口の中のトマトがさらに甘味を帯びた気がする。

「はあ……っ」

「ラミくん?」

ひかりの愛らしさと、トマトの美味しさに頭が軽く混乱する。心臓がドキドキし始めた。夜、悶々と眠れなくなったときみたいな感覚だ。

「ちょっと、ごめん……」

急激にやんごとなき男の事情を感じたラミは席を立ち、前屈みな姿勢を維持しながら部屋を出て行った。

****

「ふう……」

トイレにて、やんごとなき男の事情を始末してきたラミは、やんごとなき男の事情を始末した直後の空虚な落ち着きを取り戻した。危なかった。あれ以上ひかりと一緒にいたら、ひかりの喉元に噛み付いていたかもしれない。

落ち着きたい。

なんで自分はこんなにもダメな男なのか。ひかりは大事な恋人なのに、ひかりの食べかけのトマトを食べただけでこの有り様とは……。

吸血鬼というのは……レイヴン家というのは、なんという罪深い一族なのだろうか。大好きな大好きなひかり、そのひかりを「おいしい」と感じるだけでなく、その味わいが下半身に直結するなんて。

股が痛い。

さっき、始末したばかりなのにまたひかりを思い出して下半身が痛い。

「ラミくん?」

「ひ、ひかりちゃん!!」

とぼとぼと廊下を歩いていると、ひょこりとひかりが姿を現した。ラミの姿を見るとほっとしたように小さく笑って、壁に少し寄り掛かっていたラミのところにすぐにやってきた。それから、すこし心配そうな顔になって、ラミの顔を覗き込む。

まるで初めてラミに会ったとき、心配そうな顔をしてトマトジュースを渡してくれた時のような顔。

笑ったり、心配そうな顔をしたり、拗ねてみせたり、ラミに見せてくれるひかりの顔。

かわいくて。

「大丈夫? 顔色悪いけど……ラミくん、なかなか帰って来ないから、ごめん、部屋出ちゃっ……」

かわいくて、ラミはひかりの身体をそっと抱き寄せて壁と自分の間に閉じ込めた。驚いたひかりの顔がラミの視界に映って、すぐに見えなくなる。唇が重なり、2人が目を閉じたのだ。

我慢できなかった。

ひかりの唇をそうっと舐めてみると今まで触ったどんなものより舌触りがよくて柔らかかった。そのまま強引に舌を差し込んでみると、ぬるりと濡れた何かに触れる。

その途端、ひかりとラミの身体がお互いびくりと大げさに震えて、離れた。

びっくりした。

びっくりした、びっくりした、びっくりした……なんて、なんて甘いんだろう。あまりの美味しさと粘液の心地よさに、驚いて一度唇を離してしまった。まじまじとひかりの顔を見る。ひかりはラミとは別の理由で身体をびくつかせたのだろう、少し驚いたような顔をしていて、そして、

あろうことか、すこし恥じらって、俯いたのだ。

その表情に吸い込まれるように、もう一度、ラミはひかりの唇に触れた。

何かが、ぷつりと切れた気がした。

****

「お腹空いたな」

「もう? さっきファミレスでお昼食べたでしょ?」

「そうだけど、まだ物足りないんだ」

「そうなの?」

手をつないで歩くラミは、白いドレスシャツに黒いベスト、細身のパンツを履いていて、なぜかその上に黒いマントを羽織っている。留学生のラミは制服がまだ無いのか、一族の正装だというその服で学校に通っていた。

ひかりの恋人は、ちょっと変わったところがたくさんある。ベジタリアンで、トマトジュースが一番好き。ひかりの食べているかじりかけの野菜サラダを横どりしたり、飲んでいるジュースを交換して欲しい……などと言ってくる。しかもその後、この世で一番おいしいものを食べた!みたいな顔をして喜ぶからちょっと引く。ただ、そういうお国柄だと言われると、そうなのかなあと納得せざるを得ない。

「何か飲む?」

「んー……今は、ひかりちゃんがいいかな」

「それって……」

キスするってこと?

そう思ったけれど、ひかりは顔を赤くして「今はダメ」とそっぽを向く。ラミがしょぼんとした空気が漂ってきたから、ひかりはつないだ手をちょっとだけぎゅっと握った。

ひかりはまだ、ラミが吸血鬼であるということを知らない。

ラミが吸血鬼であるが故に、愛する人を栄養として欲する罪深き一族であるということをまだ知らない。

それをひかりが知り、ラミの全てを心から受け入れるのは……まだもう少し先のことである。




「ひかりちゃん、あの、あの、……昨日は、ごめんね」

「う、ううん、気にして、な、気にしてないから」

「あの、」

「……うん?」

「また、キスしてもいい?」

「ダメ」

「えっ!?」

「もうちょっと……普通にしてほしい。あんな風なのは、まだ、ダメ」

「……が、我慢する」

でも、それなら……。

「……それなら、トマトジュース、口移しで飲ませてもらってもいい?」

断られた。