海を渡れ!

「お正月に帰って来る、なんて嘘ばっかり」

凪子なぎこはつまらなさそうに唇を尖らせると、港というにはあまりにも小さすぎる波止場をとぼとぼと歩きながらため息をついた。

絵島凪子えしまなぎこが住んでいるのは日の本の国、海に囲まれたこの国の、少し南にある小さな島だ。父親の仕事の拠点が海外に移ることをきっかけに、中学1年の12月という実に中途半端な時期にこの離島に引っ越してきた。母親は凪子が小さな頃に離婚してしまっていて、いない。

本当は転校なんてしたくなかった。ずっと男手ひとつで育てられていた凪子は、これまでだって家事はほとんどこなしてきた。父の帰りが遅くなるのも珍しくは無かったから一人でだって大丈夫だと言ったのだが、父は頑として首を縦には振らず、島に住まう祖父母に凪子を預けたのだ。

祖父母は気を使ってか凪子にはとても優しい。作ってくれるご飯は田舎の味で、文句を言った事はなかった。しかし、時々ハンバーガーとかコンビニのから揚げなどが食べたくなる。

引っ越して2ヶ月ほど経ったが、いまだ凪子は田舎の暮らしに馴染めなかった。なんとなく「街の子」を見るような遠慮がちな雰囲気があって、凪子自身にも「ここは田舎だから」という気持ちがどこかにあった。ずっと父親と2人暮らしだったということも影響してか、凪子は中学1年生にしては少し大人びている。そんな性格も、今の暮らしに馴染めない一因になっていた。

クラスの子たちもちろん仲良くしてくれる。仲間外れにされる事もなかったし、都会と比べて解放的な学校生活が楽しくないわけではない。だが、ほんの僅かな距離感も感じるのだ。その微妙な距離感の正体を凪子は掴めず、また、掴めたからといって恐らくはどうすることも出来ずにいる。

そんな環境は、凪子にとって随分と堪えていたようだ。

父親は「お正月には帰るよ」と約束していたのに結局仕事の都合で帰る事が出来ず、ベイ国からのお土産を送ってきただけだ。「帰れなくてごめん、そっちに行けるようになったらすぐに戻るから」なんていう…そんなメッセージだけ。

お土産はキレイな色のマフラーと、凪子が好きなクマのキャラクターのキーホルダーだ。キーホルダーはベイ国だけで販売している限定品で、凪子が欲しがっていたのを覚えていたのだろう。凪子はマフラーを首に巻いて、キーホルダーを手の中で転がしながら、中学校から少しばかり遠回りをして帰るところだった。

父親が島出身の割に、凪子は泳ぐことができない。ただ、海という景色は好きだった。

だから凪子はいつも遠回りをして帰宅するのだ。祖父母は寒いから早く帰っておいでと心配するけれど、今はマフラーがあるからそれほど寒くは無い。

クマのリボンについているきらきらした赤い石を光に透かして見ながら、凪子はため息を吐く。自分はもっとしっかりしていると思っていたし、そう振舞ってきたつもりなのに、「父親が帰って来ない」っていうだけでこんなに胸がもやもやしてしまう。今まで「今日は早く帰るから」と言ってそれが守られなかった事は多くあり、そのどれも仕方が無いと分かっていたから、こうした父親の守られない約束を「嘘だ」と思った事なんてなかったはずだったのに。

「つまんない」

口に出して、そう言ってみる。

つまらない。

そんな風に思うことがただの我侭だと本当は分かっているのに、でもそう思う気持ちは止められなくて、そう思ってしまう罪悪感がひどくて、胸のつかえが全然取れないのだ。

「つまんない」

もう一度口に出して言うと、ぽーんとキーホルダーを弾いた。リズムを崩して宙に飛んだそれは、思いがけない軌跡を描いて凪子の視線を外れる。

「あ、やばい」

そう思った時には遅かった。キーホルダーはコンクリートの縁を越えて海へと投げ出される。

「やだ、待って!」

慌てて波止場の縁に寄ったが、凪子の視線の先に既にキーホルダーは無かった。代わりに、ザッッバァァァーン!! …という、小さなキーホルダーが落ちたにしては派手な水音が響き、信じられないものが視界に飛び込んでくる。

「すわ! 不法投棄!」

そこにはクマのキーホルダーを片手に、万歳をした人間がいた。

小さな凪子の顔より2周りくらい大きい顔は、その周りをぐるりと毛(多分、半分は髪で半分は髭)で覆われており、その毛もじゃ部分は海から出てきたのにも関わらず一滴も濡れていない。マッチ棒でも乗りそうな濃い眉に、分厚い唇。ダイバースーツを着込んだがっちりもっちりした肉付きの上半身は、中年の脂肪と付き過ぎた筋肉がミックスされている。

端的に言うと、ごつむさいおっさんだった。

沈黙。

波止場、海、腰を抜かしかけた女子中学生、海から出てきたおっさん。

海と地上の間には、どうしようもなくいたたまれない空気が降りた。

****

「なあるほど、嬢ちゃん、あの絵島の娘さんかあ」

「おじさん、お父さんと知り合いなの?」

「同級生さ。おいさんも嬢ちゃんの親父さんも、この島の中学生だったからな」

「ふうん」

「…で、嬢ちゃんは親父さんが約束やぶったから拗ねてると」

「別に拗ねてないもん」

砂浜が見下ろせる防波堤に中学生の少女と上半身ダイバースーツの中年が座っている。少女は凪子で、足をぶらぶらとさせながら拗ねたように頬を膨らませていた。その隣の中年男は足をぶらぶらさせる代わりに、尾ひれを揺らしている。つまり、下半身が魚だった。

上半身が中年男、下半身が魚…人魚というべきか。

ちがう…と凪子は思う。

なんとなく「人魚」っていうより、「魚人」というほうがしっくりくる。もっともそれを中年人魚に指摘すると、「ええっ、おいさんあれだぜ、ほら、あの、なんとかってーとこにあるだろ、人魚の姫さんの像が。あれとおんなじ種族だぜ?」などと言いながら、情緒ねーなーと拗ねられた。

ちなみに「人魚の姫さんの像」…とは、人魚の女性が王子様に恋をして、最後には海の泡になってしまうというお話をもとに作られているのだが、本当は全然違うお話だそうだ。人魚族の姫は溺れていたイケメン王子を助けるのは助けたが特に姫の趣味に合った顔でも無く、王子はその後たまたま通りがかった娘さんを命の恩人だと間違えて結婚したらしい。めでたしめでたし。人魚の姫も別段そのことについてどうとも思わず、よかったね、で終了。人魚の姫はその後、姫好みのごつい系海賊と恋に落ちて、波乱万丈冒険の海へと繰り出して行くのである。海の嵐の中も進む事の出来る船の魔法をたずさえて、七つの海をまたにかけ…

「なにそれ、全然違う話じゃん」

「海賊の活躍を腹立たしく思った王子様らが、話を捻じ曲げたんだよ」

「へえええ…そうなんだ」

「それによう、別に魔女の魔法なんて無くても、海水さえあればおいさんら、足生やせるしな」

ほれ…と言って、中年人魚が尾ひれをばたつかせてみせると、尾ひれは2本の足に変化した。指の間には水かきがあり、くるぶしにはヒレのようなものが付いているが、確かに地上でもしっかりと歩くことができそうだ。中年人魚の名誉のために付け加えておくと、下半身もちゃんとダイバースーツを着用していた。

キーホルダーを落とした時に登場した中年人魚と凪子は、「不法投棄よくないぞ!」と怒られたのをきっかけに、話すようになった。下校時に回り道をして波止場に行ってみると、停泊させている小さな船に荷物を積み下ろししている中年人魚に出くわすのだ。この中年人魚は凪子の父親と同級生で、この島と日の本の国の本島をつなぐ宅配屋さんらしい。ちなみに42歳妻子持ちだそうだ。

「なーんだ、ただの宅配員なんじゃん」

「ただのってなんだ、ただのって。宅配だって立派な仕事だぞ」

「だって、それならライオンとか、ユニコーンとかのがかっこいいのに」

「ありゃあ、やめとけ。嬢ちゃんには」

「何が?」

中年人魚は顎の毛もじゃをもっさりと撫でながら、宙を見た。ライオンの稼業なんてどっから聞いたんだとか、ユニコーンは喜びそうだが嗜好がな…などとぶつぶつ言っている。

中年人魚とちょくちょく顔を併せるようになって、そんな他愛も無い話をするうちに、凪子は父親がお正月を一緒に過ごせなかった不満と、中学校に馴染めない不安を、なんとなく口にするようになった。大人に対して凪子がこうした不満を打ち明けるのは珍しいことだったが、中年人魚が凪子を子供扱いすることもなく、かといってそんな我侭を言うななどと面倒くさがる事もなくただ話を聞いてくれるので、それだけで凪子は気持ちが軽くなった。

「ただの宅配員…なんて言うなら、このメール便届けるのどうしようかなー」

ある日、中年人魚がそんなことを言いながら小さなボール紙の袋をひらひらさせた。送り主は凪子の父親で、宛名は凪子だ。凪子はぱっと顔を輝かせると、手を合わせてお願いのポーズをした。

「お願い、おじさん、おじさま! お届けありがとうございます!」

「よし、よし」

そう言って、中年人魚はくしゃくしゃと凪子の頭を撫でた。わくわくとした様子で凪子がその封筒を開けると、可愛いメッセージカードと一粒のチョコレートが入っていた。凪子はチョコレートを口に入れると、メッセージカードを読む。書かれている内容を見て、くすりと笑ってしまった。

「なんだ?」

「2月16日には帰ってくるって」

「はあん、バレンタインの翌々日か。よかったじゃねえか」

だからチョコレートを1粒。きっと父親からの催促だろう。1月ももうすぐ終わり、バレンタインまであと2週間ほどだ。

****

「なあ、ナギ、なーぎこ、凪子さーん」

下校途中、海に下りていく道すがら、凪子は男子生徒に呼びとめられた。

「なあなあ、お前2月14日どうするんだ? 誰かに渡すのか?」

「江国くんには関係無くない?」

江国雅人えくにまさとは、凪子をやたらと構う男子生徒だ。凪子と余り変わらない背の高さと、いかにもスポーツマンといった陽に焼けた男らしい顔に太い眉。黙っていれば硬派に見えそうだが、そこは中学1年生の男子生徒特有の軽薄さで、せっかくの男らしさも台無しの男子である。凪子が転校してきたときから、凪子のことを馴れ馴れしく「ナギ」と呼び、出席番号の近いからといつも日直が被るという流れで、凪子に声を掛けるようになった。

時折、宿題を見せろだの、掃除を一緒にやってくれだの、理不尽なことを押し付けたりもするが、この男子生徒が凪子に対してやたらと声を掛けるから、凪子はクラスで孤立しないという側面もあった。クラスで何かしら企画ごとをやるにしても、すぐさま雅人が声を掛ける。それをきっかけに凪子も女子生徒の輪の中に混じることが出来るのだ。

もうすぐ2月14日。離島の中学1年生といえど、目下の話題はバレンタインのチョコレート。クラスの女子生徒も何をどこで仕入れるか…という話題で持ちきりで、凪子も自分がよく使う通販サイトを教えっこしたりしていた。男子生徒はそんな女子生徒を小バカにしながらも遠巻きにちらちらと眺めている。

「どうせ渡すやついないんだろ? チョコ買うなら俺にも分けて」

「うるさいなあ」

面倒そうにあしらうと、凪子はしっしと手で雅人を追い払った。だがそんな凪子にもめげずに、雅人は凪子を追いかける。

「誰かに渡すのかよ」

しつこい雅人に凪子はムっとして、立ち止まった。ようやく立ち止まってくれた凪子に、雅人はニッ…と人懐こい笑みを向ける。

誰かに渡すか…と言われると、答えは「イエス」だ。凪子はガトーショコラを作るつもりだ。本島に住んでいた時にいつも使っていた製菓材料の通販サイトは、凪子が住んでいる離島にも本島と変わらない料金体系で配達してくれるようになった。「ブルー・ブルー宅配便」というその業者は、例の中年人魚が勤める業者らしい。山奥にも離島にも、本島と変わらない金額とスピードで運んでくれるという人外宅配便のおかげで、バレンタインにも間に合いそうだった。

ただ、凪子が渡す相手…というのは父親だ。父親からの無言の催促に、凪子が答えないわけが無い。2月16日に一度戻ってくる…という話に合わせて、用意する予定なのだ。

しかし、そんな話を雅人にすればバカにされるに決まっている。

「どうせ、あれだろ? 親父さんにとか、じーちゃんにとか、そんなんだろ」

「な…ち、違うわよ!」

図星だったのだが思わず「違う」と言ってしまい、その言葉に雅人が真顔になる。

「え?」

「そりゃ…お父さんにもあげるけど、他にも、いるもの」

「誰だよ」

雅人は、凪子がたじろぐほどに怒ったような低い声を出した。しかし凪子もついつい言葉を重ねてしまう。

「別に、誰でもいいでしょ。江国君には関係ない」

「あっそ、もういい」

「何よ、他の人にもらえばいいじゃない」

ふん…と唸って、雅人がもと来た道を戻り始めた。なんでそんなに怒っているのか訳が分からず、もやもやしたものが残る。いらないならくれなんて言わなければいいのに、そもそも、あんなに嫌な言い方をして最後に怒ってしまうのなら、なぜ凪子にたかろうとするのか。

「変なの」

凪子は顔をしかめて、すぐに雅人に背を向けてしまった。当然、「ナギのが欲しかったのに」という雅人のつぶやきなどは、波の音に掻き消されて凪子の耳には届かなかったのである。

****

気を取り直していつもの波止場に行くと、中年人魚がやはりいつものように荷の積み下ろしをしていた。今日は船の着かない日なので、中年人魚が運んだ本島からの配達が多かったようだ。

「おう、あんた宛の荷物、届いてるぜ」

「ほんとう?」

「ああ、ほら。食料品、天地無用」

中年人魚はたくさんの配達物の中から凪子宛の荷物をそっと取り出して、渡してくれた。

「ありがとう!」

「おう、おいさんの仕事だからな」

「素敵な仕事ね」

凪子の言葉に中年人魚が、照れくさそうにがははと笑う。

「なんだ、前はただの宅配員って言ってたくせに」

「あれは、最初だけ」

最初こそ、こんな人魚がどんなすごい仕事をしているのかと思ったら宅配員なんて…と思ったが、人魚の宅配便は船の辿り着き難い入り江の向こう側にも荷物を届けてくれるし、1日1便しかない船便と比べて急ぎの便は本島からすぐに届けてくれる。最初は人魚が海を渡って宅配便…などと言うから、中年人魚が泳いで荷物を運んでいるのかと思ったらどうやら、普通に船で運んでいるらしい。ただ、人魚には不思議な力があって、海がひどく時化しけていても、人間の船長には真似できないスピードで船を飛ばし操ることができるのだそうだ。

だから、こうした離島にいながら、本島と変わらない早さで大切なものが届く、立派な仕事だと素直に思った。

「これ、チョコレートの材料なんだ」

「親父さんに作るのかい?」

「うん!」

「いいなあ」

どこか満足そうに、中年人魚が髭をなでた。そういえば…と凪子は思う。この中年人魚にも、奥さんと子供がいるという。スマートでカッコイイ凪子の父親とは全然違うけれど、こんなおじさんがお父さんでも楽しそうだなと思ったりした。

「ねえ、おじさんにも奥さんいるんでしょう?」

「おう、とびっきりの美人さんだぜ」

「きっとチョコレートくれるんじゃない?」

「はっはあ、楽しみだなあそりゃ」

少し赤くなりながら、中年人魚は言う通り楽しそうだ。この中年人魚の家には、子供がいて、とびっきり美人さんのお母さんがいて、中年人魚というお父さんがいるのか…と思うと、少しだけうらやましい。

「いいなあ」

思わずそう言ってしまうと、中年人魚は急に真面目な顔になって凪子の頭をいつもするようにくしゃくしゃとなでた。

「絵島はそんなにいい親父じゃねえか?」

「そんなことない! …でも、あんまり家にいないし…」

母親もいないから、小さい時から「家族がそろう」というお決まりの風景が凪子には無かった。けれど、目の前の中年人魚を見ていると、なぜかそんな憧れともいえる風景が浮かぶ。そんな気持ちをどう言い表せばいいのかが分からなくて、凪子は黙った。

そうだ…と凪子はいいことを思いついた。

****

2月14日。凪子は、ガトーショコラを2つ作った。1つは16日までに置いておいて父親にあげるつもりだ、もう1つは…。

荷物の上げ下ろしが終わった中年人魚が、自分の持ち船の縁に座って尾ひれをばたつかせて休憩していると、学校帰りの凪子が小さな箱を差し出した。

「はい、これ。おじさんにガトーショコラ」

「おう、おいさんにもらえるの?」

「うん。家族と一緒に食べて。小さいけどホールで焼いたから」

「へえ、手作りかよ。すごいなあ。嫁も息子も喜ぶぞ」

「おじさんの子供って、息子さんなんだ。甘い物だいじょうぶ?」

「だいじょうぶだいじょうぶ、なにせ嬢ちゃんが焼いてくれたもんだろ? どんなのでも大丈夫さ」

「よかった」

「女の子から手作りチョコもらったって、自慢してやろう」

へっへと笑いながら、中年人魚がひょいと尾ひれを揺らした。途端に尾ひれが2本の足になる。甲板に下りて、凪子に近付くと箱を受け取った。

「今日は嬢ちゃんからいいもん渡してもらったなあ」

いつも誰かに渡すばっかりだったけどよう、…と言いながら、頭の毛もじゃをがりがりと掻いている。照れくさそうだけど、嬉しそうだった。

「そういやあ、親父さんは? 明後日に帰って来れそうなのかい?」

「特に何の連絡もないから、帰って来ると思うんだけどな…」

そう言って、凪子は遠くの海を仰いだ。つられたように中年人魚も視線を向ける。父親の分のガトーショコラには生クリームを添えよう。一緒に買っておいた紅茶を淹れたら、喜ぶかな。

****

1日1便しかない船は、父親を乗せていなかった。

『ごめん、16日には帰れなかった』

夕方にメールが入った時、凪子は生クリームを泡立てているところだった。携帯を見た凪子は泡だて器を途中で放り出すと、端末をベッドに投げた。そのままベッドに突っ伏して、並べてあるぬいぐるみの頭をぽかんと殴ってぎゅう…と抱きつく。

「もう、また嘘ばっかり!」

帰って来れないなら最初から言わなければいいのに、期待だけさせてやっぱりだめでした…なんて、いつもそうだ。

「せっかく作ったのに…」

しばらくの間寝台の上でむくれていたが、やがてのろのろと身体を起こして台所に戻り、テーブルの上に置いておいたガトーショコラの箱をうらめしげに見た。祖父母も一緒に食べようと楽しみにしていたのに、帰ってこないだなんて。

「いらない、こんなの…」

凪子はガトーショコラの箱を持って外に飛び出した。家の裏から少し回れば、すぐに波止場に着く。今日は土曜日だからか、波止場には誰もいない。凪子は手に持った箱を持ち上げて、海に狙いを定める。

「おい、ナギっ」

呼ばれて思わず振り向くと、そこにいたのは息を切らせた江国雅人だった。凪子は箱を持った両手を掲げたまま、動きを止める。なんだってこんなところに雅人がいるのだろう。

「よかった、家に電話してもお前出てったっていうし、俺、お前の携帯しらねーし」

「何、何か用?」

「親父がよ、ナギをここに連れて来いって」

「親父?」

そろそろと持ち上げていた箱を下ろして、呆気に取られたように雅人を見遣る。そんな凪子の持っていた箱を指差して、雅人は息を整えながら聞く。

「なあ、それ、チョコレート?」

「そ、うだけど」

「捨てるんなら、俺にくれよ」

「なっ、イヤよ!」

「ちぇっ。…お前さあ、うちの親父に手作りでチョコレートケーキあげてたろ。めちゃくちゃ自慢されたんだぜ俺」

「…え?」

「親父にやるんなら、俺にもくれたっていいじゃねえか」

「ちょ、ちょっと待ってよ、江国君のお父さんって…」

「ああ? いっつも、ナギとしゃべってんだろ? 宅配屋の」

「あのひと、江国君のお父さんだったの!?」

「え、知らなかったのかよ」

そういえば、ずっと話していたのに名前も聞いたことが無かった。凪子はまじまじと雅人を見てみる。あの中年人魚の息子ということは、雅人も獣人なのだろうか。

「あ、もしかして尾びれがねえかとか思ってる?」

凪子はうん…と素直に頷いた。聞けば、雅人は人間の女性と中年人魚とのハーフで、尾ひれは持っていないらしい。ただ、中年人魚が尾ひれを2本足に変化させた時に見られたような水かきやヒレが、両足に付いているのだという。

「泳ぎは得意だぜ」

「そうなんだ」

父が帰って来れなくなったという怒りを忘れて、凪子は、はあ…とため息を吐いて座りこんだ。

「いいなあ、ああいうお父さん」

「はあ? あんなおっさん、どこがいいんだよ」

「お母さんも美人なんでしょ」

流石の雅人も凪子が何を言いたいのか分かり、口を閉ざした。気まずい沈黙が降りて、波の音だけが聞こえる。こうした類の沈黙を凪子はよく知っている。母親のいないことを気遣う、優しい困惑を現す沈黙だ。凪子はそんな沈黙を打ち消すように雅人を見上げた。

「ねえ、それで…江国君のお父さん、私に何か用だったの?」

「ん? 知らねえ。電話掛かってきて、仕事だって出てった。その時に言ったんだよ、この時間にナギをここに連れてこいって」

「何それ」

「俺が知るか」

2人どちらともなく海の向こうに視線を向けた。雅人が、「ん?」という顔をして、「おい、ナギ」…と凪子を立たせる。

「あれ、見てみろ」

「え?」

「親父の船だ」

海の向こうに豆粒ほどの小さな船の影が見える。じっと見ていると、それは早い勢いでこちらに向かってくるようだ。あっという間に近付いてきて、すぐに乗っている人が判別出来るまでになった。

船に乗っていたのは、

「凪子!」

「お父さん!?」

スーツケースを手に、大きく手を振るのは凪子の父親だ。隣には船を操っている中年人魚…雅人の父もいる。大きく笑いながら、雅人の父も片方の手を挙げた。

船はすぐに接岸され、トントン…と甲板を踏む音を響かせながら凪子の父が下りてくる。

「おとう、さん…」

「ごめんな、お正月に帰ってやれなくて」

「どして? 今日も帰ってこれなくなるって」

「うん。仕事がどうしても片付かなくて、船に乗り遅れてしまってね…だから」

帰れないってメールしたんだけど…と続けた。

そのとき思い出したそうだ。凪子が、「お父さんの同級生だっていう人魚の宅配員と仲良くなった」というメール、それを聞いて、すぐに江国のことだと分かったらしい。

「電話が掛かって来てよう。娘のところに急ぎで宅配してくれってよ」

中年人魚の言葉に「その通りなんだ」…と頷いて、凪子の父は照れ臭そうに笑って凪子の頭を撫でてくれた。

「人魚のおじさんが、お父さんを宅配してくれることになったよって、途中でメールしたんだけど、気づかなかった?」

「携帯置いてきちゃったから…」

怒ってベッドに携帯を投げてきてしまったのだ。凪子は顔を赤くしながら俯いていると、足元に置いていたケーキの箱を雅人が拾い上げた。

「おい、ナギ、これ」

「あ」

先ほどまで海に捨てようとしていたケーキの箱を雅人から受け取る。2人の様子を見つめて首を傾げている父親に、凪子はそれを手渡した。

「これ…チョコレートケーキ、お父さんの好きな、ガトーショコラ」

「凪子が作ってくれた?」

「うん」

「そうか、一緒に食べよう。楽しみだな」

「生クリームも、あるから」

「紅茶も?」

「あるよ!」

頷いて、また凪子の頭をなでてくれる。

ちら…と人魚の宅配員を見てみると、ニヤリと笑いながら雅人の背中をバンバンと叩いていた。雅人は痛そうに顔をしかめながらも、凪子に唇の形だけで「よかったじゃねえか」と言ってくれた。こうして並んでいると、中年人魚の男くさい顔と雅人の男らしい顔は似ている気がする。

けれど、やっぱり自分の父親の方がカッコイイし素敵だな、と凪子は思う。

****

「ナーギ、おい、ナギっ」

「江国君、おはよう」

「っはよ。…なあなあ、結局、親父さんとケーキ食べたんだろ?」

「食べたわよ、そのために作ったんだもん」

「ちぇっ。俺だけ食ってねーし」

「食べなかったの? おじさんにあげたぶん」

「食べた。けど、ちげーんだよ!」

月曜の朝、学校に行く途中に雅人に呼びとめられた。自然、一緒に並んで学校への道を歩く。ここ最近、雅人は凪子に対して怒ってばかりのような気がして、凪子は首を傾げた。雅人は凪子のガトーショコラを食べたらしいのに、「俺だけ食ってない」…と怒られても困ってしまう。

凪子の父親は、2週間ほどの長い休暇をもらえたようだ。休暇といっても、自宅でもできる仕事を持ち帰ってきただけのことだが、しばらくの間一緒に過ごすことが出来るのは、凪子にとっても嬉しい知らせだった。

「美味しくなかった?」

「ちがっ…そうじゃねーよ!」

「もう、食べたんならいいじゃない」

「くそっ、もういい」

変なの。

ただ、雅人は「もういい」と言いながらも、凪子の歩くスピードに合わせて歩いている。少し高台にある中学校へのゆるやかな坂道の途中、凪子はふと足を止めた。

「あれ、江国君のお父さんの船?」

「おう、そうみてーだな」

小さな船が本島へ走って行くのが見える。雅人の父親…人魚のおじさんは、いつも本島と離島を、荷物を受け渡すことでつないでいるのだ。

凪子がしばらくその船を目で追っていると、雅人が「なんだよ、親父のことばっかり」…と小さな声でぶつぶつと言って、やがて焦れたように「おい、ナギ!」と呼ぶ。

「学校遅れるぞ」

「うん」

凪子は素直に頷くと、先に歩こうとする雅人を追いかけた。

それから。

男勝りで母ちゃん気質な雅人の母親に凪子がお菓子の作り方を教えたり、半年ほど経って凪子の父親が離島の情報インフラ化を進めるために本格的に離島に移り住む事になったり、泳げない凪子に雅人が泳ぎを教えようと躍起になったり、クリスマスはケーキを焼いてくれと凪子に訴えたりするようになるのだが。

それはまた、別の話。