里見渚は今年で26歳になる。若くして都会を離れ、田舎に引っ込んで一人暮らしをしているという変り種だ。さほど北の方の地ではないのに、山間だというだけで雪が降り積もるような別荘地の、さほど大きくない平屋に暮らしている。
田舎が好きとか自然が好きとかアウトドア万歳…というわけではない。ただ、人と接する事の少ない、世間から隔離されたような田舎の静けさが好ましいと思った時、ちょうど仕事の関係で海外に長期出張することになった叔父が、別荘を貸してくれたのだ。住んでくれるだけでもありがたいと、破格の家賃で住まわせてもらっている。
この地に引っ越してくるまで、渚はIT関係の会社に勤めていた。どちらかというと研究寄りの職で、都会的なオフィスと洗練されたワークスタイルがウリの職場だった。
それが今では、バスは3時間に1本。一番近いショッピングセンターまで車で1時間。隣の家まで徒歩15分という田舎の別荘に暮らしている。当然コンビニなどは無く、最寄の商店は夕方に閉まった。
最初は不便かもしれない、などと思ったが、それが意外と不便ではない。庭の世話をしなければならないが、それ以外は都会のマンションと変わらない設備を備えてあるし、独身女がひとり引きこもって暮すにはもったいない程だ。
一番不安だったのは買い物だったが、最近ではインターネットショッピングで何でも買うことができる。消費するものは定期購入を使い、生鮮食料品も配達してくれる。流行りの化粧品も洋服もクリック1つで届くし、仕事に使う資料だってなんでも揃った。
仕事も今まで通りこなしている。コミュニケーションのほとんどがテレビ会議やメッセンジャーツールになっただけで、書類のやり取りに支障は無い。もともと海外の技術者も交えてプロジェクトを進めて行く事が多かったから、こうした環境を整えるのも難しい事ではなかった。
ジリリリ
可愛げのない機械音は、家の玄関にもとから付いてあった呼び鈴だ。仕事に集中していた渚は思わず眉根を寄せる。今の暮らしに何の不満も無かったが、この点だけが気に食わない。都会のマンションのように宅配ボックスなどが無いから荷物を持ってきたら当然コールされるし、かといってこうした田舎の特徴なのか、指定した宅配時間はほとんど守られない。夜間になればなおさらだ。昼間でも人がいるから、寄ったときに出て来いというわけだろう。
ジリリリ
無視したわけではないが、メールの返信に気を取られていて動作が遅れた。いつもなら少し遅れると宅配員は焦れて荷物を置いていってしまうのだが、今日はしつこい。渚は「もう…」とぽつりとつぶやき、デスクから立ち上がった。
「はい?」
玄関の戸を開くと、いつもとは随分景色が違った。いつもは小柄で初老の宅配員がやってくるのに、今日の人は随分と大柄なようだ。渚も背は低い方ではないのに視線の先はふっくらと厚い胸板で、それを上へ上へ上げていくとがっちりと張った肩がある。ふっくら肉厚の上半身が窮屈そうにつなぎの作業服に押し込められていて、大きく開けた胸元からは襟巻きでもしているのかと思うほど太い喉が覗き…それらは全て白い羽毛で覆われていた。
その羽毛に覆われた喉から顔にかけての骨格は少し前に伸び、ちょうど渚の頭のてっぺんを少し超えた位置に、先が鉤のようになった猛禽類独特の形状をしたくちばしがあった。
「え…」
どこから見ても鷲。それも立派なハクトウワシだ。ハクトウワシの獣人…いや鳥人というべきか。
ここ最近、獣人らの活躍や社会進出は目覚ましい。人間にはない身体能力や感覚を生かして、様々な分野で活躍しているのだ。もちろん日の本の国にもいろんな獣人が居た。普段は人間とほぼ変わらない姿ながら自在に獣に変身できる者、身体の一部が獣化している者、どこから見ても獣の姿なのに人の言葉を解するものなど、さまざまだ。
渚の馴染みのクライアントには兎の紳士(片方だけ掛けた老眼鏡がイカしている)もいるし、マンションに住んでいた頃には、小さなダックスフントがスクーターに乗ろうとして、突然青年の姿になった様子を見かけた事がある。それに会社の女の子達は決まってケンタウロスのメッセンジャーを使っていた。 「お荷物お預かりに参りましたお嬢様」…などと言いながら、キラキラした笑顔を向けるのは、どうやらサービスらしい。
しかし、鳥人は初めて見た。
いや、もしかしたらいるのかも知れないが、一部獣化…の鳥人は初めてだ。渚がまじまじと宅配員を見上げていると、くわ…っ! とくちばしが開いた。
食べられる…! と思って思わず肩を竦めると、ふわりと風を感じた。どうやら片方の腕が持ち上がったようだ。
「判子を」
甲高い声を想像していたのに、喉に絡みつくような低い声だ。なんだこの犯罪的にいい声は…と思いながら、持ち上げられたものを見下ろすと、綺麗で大きな黒褐色の羽のついた腕…手羽…? いや違う、恐らく翼だ…の先に、どのような仕組みになっているのか送り状が1枚留まっていた。ツナギは鷲仕様なのか、肩回りが大きく作られていて肩から下は剥き出しになっている。そこから手羽…ではない、翼が見えていた。
「あ…」
渚は我に返るとあわてて玄関脇に置いてある戸棚から印鑑を取り出し、渡された送り状にぎゅっと押しつける。ひらひらとインクを乾かしながら渡すと、もう片方の翼が持ち上がって荷物を渡してくれた。いつも使っている気に入りのシャンプーとトリートメントセットだ。受け取る時に、ふんわりと羽が触れた。思っていたよりもずっとずっと滑らかだ。
「これで」
「あ、の、ありがとうございました」
渚が顔を上げると、鷲の瞳と目が合った。厳しい瞼の下にまん丸の薄い金色が光っていて、同じく丸くて黒い瞳孔がきょろりと渚を見たのだった。
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この辺りの担当なのか、それから度々、鷲の宅配便が来るようになった。送り状を詳しく見てみると、ブルー・ブルー宅配便というらしい。インターネットで調べてみると、辺鄙な場所…山奥とか、離島とか、そういう場所も街中と変わらない格安の価格で集配してくれる宅配会社のようだ。
「あの、最近こちらの担当になったんですか?」
鷲の人の名前は、高木という。高木がいつも来てくれるようになってから、それまで来てくれていた人は来なくなったことが気になり、ふと話し掛けたそんな言葉が、渚から積極的に掛けた最初の言葉だった。高木が、くる…と首を動かす。鳥特有の動きで首をひねり、金色のまん丸が渚を見下ろした。やはり食べられそうな迫力で、くわ…とくちばしが動く。でも、もう渚は身体を竦ませない。
「この地域の集配が、うちの会社に委託されるようになった」
高木はいつも必要以上の事は話さなかった。おまけに、最近は客相手の渚にも敬語ではなく、ぶっきらぼうな言葉使いだ。でも別に不自然ではなく、特に不愉快には思わなかった。その時も、相変わらず低いしっとりとした声で、要点を答える。なんとなく言葉を交わせた事がうれしくて、渚はそうですか…と苦笑しながら頷いた。
「こんな辺鄙なところまで、大変ですよね」
「…」
辺鄙なところに住んでいるくせに、次々と通販で買い物をしては便利な生活を謳歌している渚としては少しばかり後ろめたい思いだ。都会らしい暮らしをしたいならば都会にいればいいのに。そう思っていると、少しの沈黙の後、頭のてっぺんの方から低い声が降ってきた。
「別に、大変じゃない」
「え?」
「俺は山間を飛ぶのが得意だからな。得意な者が得意なところを担当してるだけだ」
「それなら…」
「なんだ」
「ずっとこの辺りの担当なんですか?」
思わずそう聞いてしまって、すぐにしまった…と思った。だが、高木は別にどうということもなく、くるりと渚に背中を向けた。
「こんな辺鄙なところに配達できるのは、俺しかいないからな」
背中を向けたままぽつりとそう言って、すぐに庭に出た。たった…と駆けて地面を蹴る。靴は履いてない。すこし捲り上げたつなぎの裾からふわふわとした黒褐色の羽毛が覗いていて、その先に付いている鋭い鉤爪が宙に浮いた。バサッ…! と羽ばたきの音がして、あっという間に高木は…鷲の鳥人は空の青に浮かんで遠ざかって行った。
荷物を渡してくれる時はこじんまりとたたまれていた翼が、信じられないくらい大きく立派に広がった様子は渚の印象に深く残る。
今まで自分の仕事を邪魔するだけだと思っていた呼び鈴が、少し楽しみになった。
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ある時、高木が宅配の荷物の他に立派な栗かぼちゃを2つも持ってきた。
「…どうしたんですか、これ?」
「近所の婆さんが、あんたに、だと」
「え、どうして?」
引っ越してきてから人付き合いなんてしたことなかったし、むしろ避けていた風もある。その近所のお婆さん…という人も、引越ししてきたときに挨拶したくらいで、それほど顔を合わせてもいない。どうして声を掛けてきたのだろう。
首を捻っていると高木が玄関に入ってきて、床の上にごとりとかぼちゃを置いた。
「ここで、いいか?」
「けど、あの、困る」
「なにが」
「だって、もらう義理なんてないもの、何もしてないし」
「別に義理じゃないだろう」
「じゃあ。なんでくれるの」
「余ったからじゃないか?」
「余ったからって…」
多分農家なのだろうから、畑で育てている作物はみんな売り物のはずだ。その売り物が余るとか、お金も払ってないのに分けるとか…そういった感覚がよく分からない。困る、困る…とうろうろしていると、ふう…とため息が聞こえた。
「ちゃんと食べてんだろか…って心配なんだと」
「ええ?」
そうは言っても宅配便はクールもあったし、車を使って食料品を大量に買い込んでも、冷凍しておけばしばらく持つ。
「いいから受け取っとけ」
高木は相変わらずぼそりと言うと、呆気に取られた渚を残して羽音を響かせた。気がつけばもう、地面に高木の姿は無かった。
「困った…」
そもそも一人暮らしにかぼちゃを丸ごと2個もなんて…どうやって消費すればいいのか分からない。
****
結局、渚はかぼちゃの煮物、それに甘さ控えめのプリンを作った。余りはペーストにしたり、いろいろな形に切って冷凍しておく。しばらくはかぼちゃには困らないだろう。
ブルー・ブルー宅配便のサイトで頼んだ品物の配送状況を見てみると、今日辺り荷物が届きそうだ。渚は大きめの籠に、かぼちゃの煮物を入れた容器と小さな瓶に作ったプリンを4つ入れて、蓋を閉めた。もう1つ、今度は小さめの籠に一人分くらいの煮物とプリンを入れて蓋を閉める。
「多く作り過ぎたからよ、これは」
言いながらもなぜか緊張して部屋をうろうろしていると、ジリリリ…といつもの呼び鈴が鳴った。
飛ぶように玄関に出て行って扉を開けると、いつもの大きくて肉厚な身体が入り口を塞いでいた。高木だ。
「判子を」
「はい」
いつものやり取りを交わして印鑑を押した送り状を返すと、渚は意を決したように高木を呼びとめた。
「あの」
「ん?」
「配達を、お願いしたいんですけど」
そう言うと、高木のまん丸の金色がひとつ瞬きをした。ゆっくりと首を傾げて、どうやら渚の言葉を待っているようだ。その様子にあと押しされて、渚はばたばたと台所へ向かい、小さい籠と大きい籠を持ってきた。
「これ…かぼちゃをくれたお隣の家に、届けてください」
「……」
く…と首が動き、じ…と差し出された籠を見ている。やがて呆れたように言った。
「自分で届けりゃいいだろう」
「でも、あ、あなた配達員でしょう、お金はちゃんと払います」
自分で届けるなんて、そんなこと出来るわけがないではないか。人を避けてここにいるのに、わざわざ人に会いに行くなど…それも見ず知らずの他人におすそ分けを届けに行くなど、今の渚にとっては相当敷居の高い行為だ。
渚が都会のワークスタイルを捨てて田舎に引っ越してきたのは、会社での人付き合いに限界を感じたからだ。もともと人付き合いが得意な方ではなく、面と向かって誰かと話したりするのが苦手な性質だった。だが社会人になればそういうわけにもいかず、渚なりに人と接してきたつもりだった。
きっかけは出向先で受けたモラルハラスメントだ。いわれの無い嫌味や皮肉は、それ単品ならば笑って誤魔化されるようなものだったが、積み重なると暴力になる。訴えればその程度と笑われ、今後の取り引きにも影響を及ぼす。
それでも渚の上司は再三訴えてくれてのだが、そんなつもりではなかったと先方に苦笑されれば、こちらが悪いように捉えられた。上司の手を煩わせているという罪悪感に、なぐさめてくれる同僚ももしかしたら自分を迷惑に思っているかもしれないという被害妄想が加わり、とうとう電車やコンビニなどの人ゴミも怖くなった。それで、在宅ワークに仕事を切り替えさせて欲しいと上司に頼んだのだ。
田舎の別荘でゆったりと過ごせば、気分も変わるかと思ってのことだった。
ここは売れない別荘地だったので、地元の人も必要以上には干渉してこない。田舎特有のコミュニティに参加する必要もないから気楽なものだと思っていた。けれども、季節外れの別荘地に女が一人暮らしなど始めれば目立つに違いない。最寄…といっても歩いて15分ほどだが…民家の人を心配させてしまったらしかった。
それでもかぼちゃをもらってしまったし、仕方が無かった。腐らせるのももったいないし、返しに行くのが失礼だということくらい渚にも分かる。だから考えた末、このかぼちゃで料理をしておすそ分けをすることにしたのだ。煮物は珍しくもないだろうから、お菓子も一緒に作ってみた。
それに。
「そ、れで、こっちはその、あなたに」
「…」
高木は届けるとも届けないとも言っていないが、渚は続けた。
「多く作り過ぎてしまったから、だから、その…」
つまり、小さい方の籠は高木のためのものだったのだが、よく考えればただの宅配員にカボチャ料理をおすそ分けだなんてやり過ぎだろうか。
口ごもっていると、ため息が聞こえた。迷惑だったのだろうか。渚がやっぱり下げようと手を伸ばすと、大きな籠を高木は受け取った。
「隣の婆さんの所でいいんだな?」
「あ、はい」
高木は大きい籠を持ったまま身を翻そうとした。その様子に小さい籠は受けとって貰えないかと残念に思って俯くと、高木がボソリと言う。
「後でまた寄る」
「え?」
「そっちは俺のだろう」
渚が返事をする前に高木の背中が見えた。声を掛けるより早く高木の両手(翼)が大きく広がりバサッと羽音が聞こえる。
見送る渚の頬が赤くなった。
****
10分ほどで高木は戻ってきた。お婆さんは大層よろこんで、家族で一緒に食べると言ってくれたそうだ。
「これ…あの」
「ああ」
高木は渡された小さな方の籠を受け取ると、羽でそれを覆うようにした。何をしているのだろうと思わず覗き込むと、高木もまた籠の蓋を開けて覗き込むところだった。思わぬ距離に顔が近付く。喉もとの大きな羽の下にふかふかした細かな羽毛が揺れているのが分かる。見上げると、自分をじっと見下ろしている金色の瞳があった。彫りの深い瞼の下の金色は、確かに猛禽類のそれなのに…全然怖くない。透明でとてもきれいだ。
ぽかんと見蕩れていると、すうっと離れてそっぽを向いてしまった。
「もらっていく」
「あの。寄るの面倒だったでしょう。一緒に持っていってくれてもよかったのに」
小さな籠を渡しながら渚がいうと、そっぽを向いたまま高木が答える。
「別に、面倒じゃない。まとめて運ぶと崩れるかもしれないだろ」
荷物は肩に掛けるか鉤爪で掴んで運ぶそうだ。荷物が多い時は大きめの宅配箱でまとめている様子だけど、何せ飛んで運ぶものだから、壊れ物には気を使うらしい。だから1個1個運んだのだ…と。それだけちゃんと扱ってくれてるんだ…と思って、渚はほんのり嬉しくなった。
「またな」
「あ、配達のお金」
「受け取れるか馬鹿」
そう言って、心なしかそっと地面を蹴って高木は飛び去った。
「受け取れるか馬鹿、だって」
猛禽類の表情なんて分からないけれど、すこしだけ照れているのかな? そんな風に思うと楽しくなるのだった。
****
それからも時々、高木を通して隣のお婆さんと農作物のやり取りがあった。梨やブドウなどの果物は庭先で作っているそうで、これはお菓子にするにはぴったりだ。そのたびに「作りすぎた」と称して高木の分も小分けにすると、高木はちゃんと帰りに渚の家に寄ってくれて、それを持って帰ってくれる。次に配達に来たときには、「うまかった」という一言も添えて。
解禁猟の最後だからと川魚をもらった時も困ったけれど、甘露煮にした。それほど多くにはならなかったけれど、美味しく出来たのでやっぱりおすそ分けしようと思ったのだ。必要もないのにそんな風に思うようになった自分の心に驚きながら、なんとなく心が浮つく。宅配便の時間帯を確認してみると、高木がやって来てもいい時間だ。その時にお願いするつもりだった。
しかし。
「遅いな、高木さん」
そわそわと窓の外を見たり時々玄関の外に出てみたりして確認するが、空には鳥の影ひとつ無い。高木がやってくる気配も無かった。
「もしかしたら、遅くなるのかしら」
渚は首を傾げると、テーブルに置いた大小二つの籠を見下ろす。隣の家までは歩いて15分ほどだったはずだ。
ふと、思い出す。
――― 自分で届けりゃいいだろう。
そんな風に、呆れた声で言われたことがあった。
今日は自分で持っていきました…なんて言ったら、高木はどんな顔をするだろうか。でもそうすれば宅配便の手を患わせることは無くなるから、悪い考えではないように思える。…帰りに立ち寄ってくれる、という楽しみはなくなってしまうが。
「よし」
渚は大きい籠を持って玄関に出た。もちろん、隣の家まで15分歩いて甘露煮を届けるためだ。高木と入れ違いになったらどうしようか…と思ったが、その時は再配達を頼めばいいか…と気楽に考えて家を出た。
白樺の林がしばらく続いて、少し広い道に出る。その道を川沿いに歩いて行くと遠くに集落が見えるのだが、そこからわずかに離れたところに2,3軒の家が見える。そのうちの一つが、いつも収穫物をおすそ分けしてくれる1軒だ。
田舎の景色を楽しみながら誰ともすれ違うことなく歩くのは楽しかったが、人の住まう気配が近付くにつれて急に心が萎えしぼんできた。迷惑だと思われたらどうしようなどと考えてしまう。つくづく子供じみた自分にいやになりながらも引き下がることなど出来ず、渚は頭を都会で過ごした社会人モードに切り替えると、ビジネスライクな笑みを浮かべてみた。
広い庭は開け放たれている。
そうっと中を伺っていると、「あれまあ!」と声が聞こえた。びっくりして飛び上がり振り返ると、お婆さんがニコニコしながら立っていた。
「めずらしいお客さんがきたこと。里見さんだっけえ。そんなとこでどうしたん?」
少しなまりのある、おっとりとした愛らしい口調だ。その様子に渚は幾分気が楽になったものの、籠をお婆さんに押し付けるように差し出した。
「あの…これ…お魚ありがとうございました。甘露煮にしたので、よかったら…」
「まあまあ、いっつもありがとうねえ。余計に気をつかわせてしまったんかと思うてたのよ」
「そんなことないんです。助かりました。いろいろ料理できて、楽しいし」
「そうかい、そうかい。にしても、今日みたいな日によう来たね。お茶でも飲んでおいき」
「あ、それは」
お婆さんが渚を促して庭に入ったが、自分は動かずにぺこりとお辞儀をした。早く帰ったら、もしかしたら高木が来るのに間に合うかも知れない。
「私、帰ります。また、あの、また何か作ったらその、届けてもらいますから!」
お礼もそこそこに渚はもと来た道を早足に戻り始めた。「風が強くなりそうだから早くお帰りよ」…と、背中にお婆さんの声が聞こえる。渚は一度振り返ると、頷くようにもう一度ぺこりとお辞儀をした。
よかった、意外と普通に接する事が出来た。
こんな些細な事で浮かれてしまう位、自分は人と接する事が怖くなっていたのかと苦笑した。お婆さんと話した時は思ったよりもずっと平気だったし、これからもお話することが出来るかもしれない。そんな風に考えていると、ふと…思う。ならば高木と話しても何とも思わなかったのはどうしてだろう。
鷲だから? ただの宅配員だから?
腕は羽だし、顔は人間でないし。
だから?
そんなことを考えながら、早足をゆるめた。
****
「えっと…」
ここはどこだろう。
渚はあれから考えごとをしながら歩き、家の近くの白樺の林に入った。だが、いくら歩いても家に着かず、さすがに渚もおかしいと思い始める。
どうやら白樺の林に入る道を一本間違えてしまったようだ。しかも周りは同じに見える景色で、一体どちらが正しい方向なのかも分からない。携帯端末も忘れてきてしまい、地図も方角も確認できなかった。もときた道を引き返そうか。そう思って振り返ってみたが、前も後ろも同じ景色だし、どこにも建物は見えない。
おろおろしていると顔が陰り、渚は思わず空を見上げた。
「嘘でしょ」
先ほどまでの空が嘘のように厚く黒い雲が立ち込めている。遠くでゴロゴロと不吉な音までが聞こえ始めた。
雨が降りそうだ。
不意に、風が強くなりそうだからと言った隣のお婆さんの言葉を思い出す。もしかしたら高木が遅れたのは、この天候のせいだったのだろうか。それならば、今日は高木は来れないのかもしれない。
おすそ分けを届けるなんて、慣れないことをするからだ。
浮かれた気分はすっかり落ち込み、不安だけが胸を満たした。それでも歩き続ければどこかに出るだろうと自分を奮い立たせる。
その時、空を割いたような音が響き、びくりと身体を大きく震わせてしまった。
「やだっ!」
雷の音だ。心なしか秋の最後の名残のような生ぬるい風が吹き、都会っ子の渚にも分かるほど湿った香りがした。雨が降りそうだ。しかし駆けた方がいいのか、止まった方がいいのかも渚には分からない。
こんなところで迷うなんて恐ろしかったが、いい歳をした大人が迷子になって泣くのもみっともない。雨が降ろうが雷が落ちようがとにかく歩こうと気を取り直して足を前に運ぶ。
突然、背後で激しい葉擦れの音と大小の枝を折る音が聞こえた。
「キャ! な、なに、雷?落ちたの!?」
「誰が雷だ」
しっとりと低い声が聞こえて振り向いて、目を剥く。そこには、いつものツナギを着た大きなハクトウワシ…高木が居たのだ。
「高木さん…」
どうしてここにいるのか、という当たり前の質問は声にならず、自分の今の状態も忘れて呆気に取られてしまった。何か言葉をつなげる前に高木が近づいて来て、渚の頭を大きな羽でふんわりと覆った。
「行くぞ、すぐに嵐になる」
「へ、何処に?」
「あんたの家だろうが」
「連れていってくれ…きゃあ!」
有無を言わさず渚の身体が羽に包まれた。人間の身体で言えば抱きしめられているのだと気付いた時には、渚の身体に紐を通され背中でカチリと停められる。さらに渚の腕が高木の翼の中の指のような物に掴まれて、背中に回させられた。渚が高木を抱き占めているような格好にさせられる。
人より太っているという意味でなく、高木の厚い背中にはギリギリ手が届かず、ツナギの背中辺りに張ってあるらしいベルトの金具に渚の指が誘導された。
「ここが荷物掛けだ。出来るだけ手短かに済ませてやるが、羽を広げた一瞬はあんたに掛けた紐をくちばしでしか支えてやれない。しっかり掴まってろ」
「う、うええ?!」
「あんたくらい、落としゃしねえ」
羽を広げるだの落とすだの、渚にも何をされるのか何となく分かる程度の説明をすると、不安にこわばる身体を一度キュッと強く囲ってくれた。そして。
あ、と思った瞬間、渚の身体が苦しいほどに抱き締められて軽く浮いた。そうやって抱えたまま高木が駆け出したのだ。
「ぅひっ……!」
女らしからぬ唸り声を思わず挙げてしまったが、それ以降は声にならなかった。表面はつるつるで少し奥はふかふかの羽毛に包まれ、それとは全く相反する鋭いスピードで2人は加速していく。渚は振り落とされないように、高木にしがみついた。
恐る恐る、外に視線を向けてみる。
既に地面の線が宙に消える寸前で…驚く暇なんてなかった。
「浮くぞ。離すな」
そんな一言と同時に耳元を固いくちばしが掠めるように触れて、ぐ…と背中が引っ張られる。途端に身体が投げ出されたような感覚に襲われ、高木が羽を広げて飛んだのだと認識した。しがみつく腕をこれでもかときつくしたら、頬に感じるのは、高木の喉のふかふかだ。こんな時じゃなかったらもっと堪能できたのに、そんな風に思えたのは随分後になってからなのだが。
とにかく、そんな体験はほんの一瞬だった。意外な程ふわりと地面に降り立ち、再び渚の身体は羽に囲まれる。
「着いたぞ」
「ふへ?」
どうやら飛んだのではなく、滑空しただけのようだ。とんでもない間抜けな声を出して、もそもそと羽から抜け出してみると、そこは家の裏だった。家の裏は低いけれど崖になっていて、見上げると白樺の林の端が見える。あそこから高木は飛び降りたらしい。はあ…と安堵して、思わず地面にへたり込む。
「お、おい、大丈夫か」
その途端、今までずっと冷静な声しか聞かせてくれてなかった高木が慌てた声色になってしゃがみ込み、渚を覗き込んだ。
高木の足元がよく見える。渚を抱えて滑走した足。鋭い鉤爪が覗く黒褐色の羽毛がこんもりと膨れていて、いつも綺麗なそれは泥だらけだ。それを見て、渚は急に申し訳なくなった。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
「別に」
ふん…と鼻を鳴らすように息をして、高木の首のふかふかがくるりと回る。そうやって視線を逸らしたまま、高木が答える。
「別に、怒ってない。怪我は無いか」
「大丈夫、です。少しびっくりして」
「ああ、無理もないな」
慰めるようにポムと羽が頭に置かれる。2人の間に落ちた空気感が心地よいもので、しかしそれを打ち消すように、渚の鼻の頭にぽ…と一滴、雨が落ちた。
「あ、雨…!」
ハクトウワシと人間の女は顔を見合わせると、あわてて玄関に回って扉を開け、家の中に飛び込んだ。間一髪のタイミングで、バケツをひっくり返した様な勢いの雨が降り始める。
「うわあ…ひどい」
「秋の嵐に雨が混じったな」
だから、今日は配達が遅れると会社から電話を入れたのだが、留守だったのでおかしいと思っていたらしい。さらに隣の家に電話したところ、さっき渚が来たのだとお婆さんが教えてくれたのだという。再び家に電話してみたが出ず、おかしいと思った高木が渚の家に向かっていると、ありえない方角へとうろうろしている渚を見つけたのだ。
「今にも嵐が来そうなのに、どこをうろちょろしてるんだと思ったぞ」
「…ごめんなさい。迷子になるなんて…。来た道が分からなくて…」
「謝らなくてもいい。山道は分かり難いから、気をつけろ」
「はい」
渚がしょんぼりしていると、高木は腕を組むように両の翼を自身の胸のところで重ねた。
「婆さんのところに、魚の甘露煮を運んだんだろ」
「はい。慣れないことはするもんじゃないですね」
「礼を言っていた。わざわざありがとう、だとよ」
それを聞いて俯いていた顔を上げると、思ったよりも近いところに鷲の瞳があった。吸い込まれそうなそれを見ていると、向こうも渚を覗いている。しばらくの間そうしていて、やがて渚はお礼を言っていない事に気がついた。
「あ!」
「どうした」
「ありがとうございます!」
「ん?」
「私を、家まで運んでくれて」
慌てた様子の渚に反して、落ち着いた高木が、「別に…」と言いながらパサパサと顔の横で翼を振る。
「だが、俺も人を宅配したのは始めてだな」
「す、すみません! お金払わないと…」
渚は半ば本気で言ったのだが、それを聞いた高木が一瞬沈黙し、やがて信じられないことに少し笑みを含んだ声で言った。
「受け取れるか馬鹿」
言ってすぐさま、いつものようにそっぽを向いた。玄関に打ち付ける雨が激しくなってきたようで、その音だけが聞こえる。この雨では高木も飛べないのではないか、渚は思い切って先手を打つ。
「あの、よかったら雨が止むまで、お茶でもどうですか?」
鷲の頭がゆっくりと渚の方向へ向く。相変わらずの動きで、ちょい…と首を傾げ、息の混じったような低い声でぼそぼそと問う。
「甘露煮もあるのか」
「はい、ありますよ」
「俺の分だろ」
その言葉に渚は目を丸くして、やがて顔をほころばせて頷いた。やっぱりぶっきらぼうで、少しだけ照れているように聞こえる。けれども今度はそっぽを向かず、ざあざあと雨が降る音が聞こえる中、金色の瞳が真っ直ぐ渚を見ていた。
顔は羽毛に覆われていて表情なんて分からないけれど、渚には彼が小さく笑ったような気がした。