神よ、罪深い私をお許しください。

作中に出てくる、牧師・教会などの言葉は世界観独自の解釈によるもので、特定の宗教に関係するものではありません。


「先生!!せんせいいいいい!!」

閉めた扉の向こうから、ドタバタと廊下を走る音が聞こえる。その足音は古く頼りない廊下をみしみしと揺らし、安物の壁はやすやすと通した。

バーンと扉が開き、声の主が飛び込んでくる。柔らかそうな亜麻色の髪と色味の強い蒼い瞳が印象的な青年だ。

「先生! ぼく、僕は!! 僕はもうダメかもしれません!!」

「ああ?」

ポロ……と部屋の主……先生と呼ばれた年嵩の男の咥えタバコが口から落ちた。先生は鷹揚にデスクに足を投げ出し、かなりお行儀の悪い格好で何やら雑誌を読んでいたのだが、読んでいたページに灰が落ち、ウワアアアアア!!と慌てて姿勢を直す。

「ってか、お前バカ! ? 急にお前が入ってきて話しかけるからタバコの灰が俺の大事なジェシカちゃんの上に落ちただろうが!!」

「先生がタバコを口から離すからでしょう」

「お前、そう言う台詞だけは冷静だよねー」

チ、と舌打ちして、先生はタバコを灰皿に押し付けた。既にいっぱいになっている灰皿に、さらにもう一本の吸い殻が追加される。読んでいた雑誌のページをパンパンと払いながら顎で部屋のソファを指し、座るように促した。

「で、何だよ。可愛い顔を真っ赤にしてよう」

「か、かかか、可愛いって言わないでください! これでも僕は男、おと……うわああああ!!」

「えー……俺まだ何にも言ってないんですけど……」

先生の眼前で、青年は急に顔を赤らめて両手で覆って俯いた。青年の切羽詰まった雰囲気とは真逆で、先生はくあああと欠伸をする。そうして剃ってないという意味で無精にしている髭をざりざりと撫でた。

****

青年は、この街で除霊師という生業に就いている男の助手だ。男……先生と呼ばれている男は、神に祈る牧師であり助手もまた牧師の資格を持っている。

教会の整備も任されている助手は、いつものようにウィンス通りにある花屋を訪ね、教会に飾る花を求めにきていた。

「牧師さま、今日も教会に飾るお花を買いにきてくだいましたの?」

「あ、は、はい」

そして端的に言うと、彼は今、花屋の娘さんに夢中になっていた。

愛らしい花屋の娘さん。クルミのような色の瞳に琥珀色の髪。少しだけそばかすが目立つ白い肌に細い肩、それでいてふくよかな胸。……いやいや、胸はいい。関係無い。

教会に飾るという名目で買いに来ているが、もちろん目的は花屋の娘さんだ。神をダシに花を買う罪深い自分をお許しください、おお……。しかし、お花はきちんと祭壇に飾ってあるから大丈夫ですよね。

「今日はどのお花にしますか?」

「あ、えっと、貴女の好きな花で……」

「ふふっ、牧師さまったらいつもそう」

「あ、あ、……あの、花のことは、僕にはよく分からないから」

「今日はリンドウと、小さなお花で作りますね」

花のことはちっとも分からない助手のいつものやり取りだ。このやり取りのおかげで、彼女の好きな花を毎日神の御前に飾ることが出来ると彼は信じていた。素晴らしいではないか。

娘さんは色とりどりの花を数本まとめて、紙に包んでくれた。

その花を受け取りお金を渡すまでが、助手の癒し時間タイムである。

「あ、これ、お金です」

「月払いでいいって言ってますのに……でも、ありがとうございます、お釣り、ちょっと待ってくださいね」

そしていつも買っているものなので月払いでかまわないと言われているのだが、助手はいつも都度払っている。なぜなら……

「はい、お釣りです」

「あ、はい、あっ」

「あ、落としちゃう」

きゅ、と花屋の娘さんの指先が助手の手を包み込まれた。瞬間、カア……と身体の中心が熱くなる。

しかも触れた指先がびくりと震えてしまい、お釣りが落ちそうになってしまった。その様子を何か別の方向に勘違いしたのだろう、助手がお釣りを握りしめた瞬間、花屋の娘が慌てたように手をパっと離した。申し訳なさそうな表情で、胸の前で両手を組む。

「ご、ごめんなさい。私の手、ちょっと荒れてて」

「えっ、いえっ、全然そんなことは!むしろ、……あっ、いえ、なんでもないですすみません……」

ほわわん。

……と音がした。気がした。

お釣りを貰えば指先が触れるワンチャンがあるではないか。だから毎回お金を払っているのである。

確かに花屋の娘さんの指先は少しカサついていたけれど、それすらも愛おしく尊い。花屋は水仕事が多く、植物を扱うこともあってすぐに手が荒れてしまうのだと言っていた。そうだ、誕生日にハンドクリームをプレゼントしたら喜ばれるのではないだろうか。

それはとてもよい考えのように思えて、助手は、にへ……と笑った。その笑顔を見た花屋の娘さんが、はにかんだように頬を染めたことに助手は気が付かないまま、頭を下げる。

「じゃあ、あの、また来ます」

「はい。よろしくお願いしますね」

ほんわかした気持ちと、跳ね上がる鼓動、そして小さな秋色の花束を胸に抱えて、助手は花屋を出る。少し歩いたところで振り返ると、娘さんが店先まで出てきて手を振ってくれた。それに向かってもう一度手を振る。

ゴン!ガン!ガラゴロ!!

「わあああ!」

手を振りながら歩いていると道ばたのダストボックスにぶつかった。あやうく倒しそうになるのを慌てて支えながらもう一度振り向くと、娘さんがくすくす笑っている。

ああ、やっぱり可愛いなあ。桃色の潤んだ唇、長い睫毛、小動物のように大きな瞳、……そして柔かそうなあの、あの、ちょっと大きな……お胸……いや、違う、それは違う! いや違わない! 大きい! いや違う! そうじゃない! あ、だから、違わない!! いや違う!

……おお、神よ、今、自分はなんという罪深いことを考えてしまったのでしょうか。

助手は男の事情という煩悩を抱え、己の職場である教会へと走った。

****

「なるほど、で、花屋の娘さんか」

「なんで分かるんですか!? 僕、花屋とも言ってないんですけど!?」

「どうせいつものあれだろ? 僕ぅ、花屋の娘さんのおっぱいの大きさを想像してしまって罪深さに耐えきれないから懺悔室の鍵貸してださーいとかいうやつだろ」

「おっぱ……!」

おっぱいとは言ってません、胸とも一言も言ってません、そう言おうとして言えなかった助手は、ちょっぴりモノマネの入った先生の言葉に顔を真っ赤にして頭を振った。

そこに先生はニヤニヤ笑いと共に追い討ちをかける。

「あの娘さんEカップだな」

「……な……!」

「気になってたんだろ?」

「な、んで分かるんですか!?」

「え?お前が花屋の娘さんの胸の大きさが気になってるって?」

「ちが、ちがいます! 気になってないです、胸のお、おおお、おおおお……」

胸の大きさ、と言おうとして言えなかった助手は頭をゴンゴンとテーブルに打ち付け始めた。これはかなり重症だ。

ちなみに先生は敬虔な聖職者というわけではない。自宅兼事務所でFカップ美乳のジェシカちゃんの裸が掲載されている雑誌を見るのが日課のだらしない中年だ。短く刈った頭髪は灰色で、顔には年齢相応の皺を刻んでいる。しかし榛色の瞳だけは、いつも楽しいものを見つけようときょろきょろしている少年のようだった。

では何故牧師を名乗っているのかというと、除霊師という商売上それが一番都合がよくて「それっぽい」からだという。

助手はというと、幼い頃、彼の除霊に命を助けられた。その時に見た戦う姿と頼もしい後ろ姿が忘れられず、牧師の学校に通い資格を取ったのだ。そうして、再び除霊師として先生が街にやってきたとき、頼み込んで弟子入りした。

……のはいいが、弟子入りして気が付いたのは、先生が普段は牧師とは名ばかりのだらしない中年(二回目)だということだ。先生の背中を目指して牧師の道を選んだというのに夢打ち砕かれ、一度は弟子入りを「やっぱり止めます」と断ろうとしたのだが、先生の生活力の無さ具合を放っておけず、食事や掃除の世話をしているうちに月日が経過してしまったのである。

最初は教会の管理ばかりで除霊師の仕事はまったく見せてくれなかったのだが、紆余曲折を経て、今は除霊の仕事を手伝うことが出来るまでになっている。

「素直におっぱいって言えばいいのに」

「そんな! 神に仕える身であるのに、そんな品性のない言葉なんて」

「おいおい……。おっぱいって言葉に品性がないだって? 神聖なる女性のお胸のことだろう」

「そ、そういうわけじゃ……」

「神の御前で素直に認めればいいんだぜ? おお、神よ。私も男ですから性欲ぐらいありますって」

「やめて!やめてください!うわあああ……!!」

先生にからかわれた助手は、懺悔室の鍵を握り締めると半泣き、いや全泣きで扉を開ける。

「もう!もういいです!僕は……あっ」

途端、ぼよん、とした幸せな柔らかさに頬が包み込まれた。

わあ、あったかくてやわらかい。

そんな風に一瞬の幸せに満たされたのもつかの間、背後から先生の悲痛な叫び声が聞こえた。

「ワアアアアア!! お前!! お前!!!お前なに俺のハニィのお胸に顔突っ込んでんの!? そこ俺の場所!俺の場所だろ!?」

「えっ、あ、えっ?」

言われてようやく状況を認識する。その時助手は、目の前のFカップに両頬を包まれていた。薄手のぴったりニットを着たFカップに両頬を包まれていた。ちなみにFカップかどうか挟まれただけで分かるわけではない。普段から後ろで騒いでいる先生がFカップだと自慢しているからだ。

「誰があんたの胸だって?」

「えっ、違うの? お前のお胸は夫のものだろう?」

「ああ、そういえばあんた私の夫だったわね」

「そ、そんな殺生な!!」

つまりFカップの正体は先生の奥方であり、先生の仕事の相棒パートナーでもある。そして先生の自慢によるとジェシカちゃんと同じFカップであった。長い黒髪に真っ赤な口紅ルージュ、切れ長の瞳も黒水晶の様が鋭く煌めいている。

奥方は胸に挟まれた助手の後頭部を撫で撫でいいこいいこしながら、夫である先生をじろりと睨んだ。いわく「またお前助手をいじめただろう」……と。奥方は助手がお気に入りであった。特に助手の作ったホワイトソースかけポテトオムレツがことさらお気に入りであった。それゆえ、先生が助手を虐めるのは許せないのだ。

ちなみに先生は奥方が大好きで、奥方は助手のポテトオムレツが大好きである。永遠の三角関係だった。

「奥さん!ちょっと!そいつから!その似非えせ性欲無いマンから胸をはず、ちょ、お前! その胸は俺の……」

「胸の所有権を争う前に仕事よ。ウィンス通りの角、気配感じなかったの?」

「気配は感じたけどその前に、おい……おい。……お」

死んでる……。

****

死んでいる場合ではなく、助手はすぐに自我を取り戻した。自我を取り戻した瞬間Fカップのお胸に挟まれているのに気が付き再び死に、再び我に返り再び死に、再び我に返ったところで先生から首根っこを掴まれ、引っ張りだされて救出された。

「……ウィンス通り?」

仕事……つまり悪魔憑きの住民が現れた、ということだ。聞けばウィンス通りとは花屋のある通りである。助手は急に不安で胸が騒ぎ始めた。

「ぼく、ぼく、先に行ってきます!!」

「おい、待て!」

先生の制止の言葉を訊かずに助手は走り出した。確かウィンス通りの四つ目の角だと言っていた。花屋のある通りではあるが、花屋からは少し距離があるはずだ。だから大丈夫、きっと大丈夫だ。悪魔憑きが出没したらすぐにサイレンが鳴り住民に警戒が促される。花屋の娘さんも家から出ないはず。そう助手は自分に言い聞かせたが、胸騒ぎは収まらない。

魔の気配が強くなる。

ウィンス通りに入り四つ目の角を曲がった時、アパートメントの間の細い隙間にそれを最も強く感じた。見上げると、ちょうど4階の窓の側にペタリと人間が貼り付いている。……いや、人間というには醜悪な形相をした男が、ぎらついた瞳でこちらを見下ろしていた。

周囲を見渡す。

悪魔憑き出没のサイレンが鳴ったからだろう、周囲にほぼ人は居ない。すぐに壁に貼り付いた人間……つまり悪魔が憑いた人間に視線を戻す。それは元々の面影をすっかり消した青白い顔から長い舌を伸ばし、こちらを伺っていた。

「……!?」

しかしその時、ハッと息を呑む声が聞こえ、同時にガランと音がした。その気配に助手が視線を向けると、悪魔憑きとは全く別の理由で顔を青くした花屋の娘さんが居た。驚いてダストボックスを蹴ってしまったようだ。その音が気を引いたのか、悪魔憑きがぎろりと娘さんを睨みつける。

悪魔憑きに睨まれて、ひ、と花屋の娘さんの喉が恐怖の音をこぼした。

「……あ、悪魔……」

娘さんの震える声が聞こえる。悪魔憑きを見るのは初めてなのだろう。だが、あれは正確には「悪魔」が憑いているものではないことを助手は知っている。

あれは狂った人間の精神が己に取り憑いているのだ。世の中の悪魔憑きの全ては、悪魔という生き物が原因ではなく、人間の精神や魂が狂うことが原因だ。先生が言うには、悪魔と神は存在しているが対立していない。ああした人間の気狂いの症状が悪魔の仕業とされるのは、己の狂気を悪魔の性にして、神に救いを求めているだけなのだと。

それを聞いた時に助手は神の意義を否定されたように感じて憤ったが、今はそれがこの世界の理であることを知っている。だが神の教えを捨てるわけでは無かった。悪魔憑きが神に救いを求めて狂った人間の末路なら、その声を神に届けるのが自分の仕事だと、今はそう思っている。

三者の間に奇妙な緊張感が走ったのは一瞬。

グ……ギギ……

時間で言えば、娘さんが恐怖の声をあげたのとほぼ同時に、悪魔憑きがシャアアア!と声をあげて娘さんに向かって飛びかかった。しかし同時に助手も走り出した。走りながら、腰に吊るした武器を金具から外す。

「危ない……!!」

バアアン!!

助手が持った武器を横に払うと、ギャと悲鳴が聞こえて悪魔憑きが横に飛ぶ。使った得物は分厚い本……助手が師である先生から渡された武器は教典だった。鉄で縁取っているこの本は、助手自ら浄化し聖水で清めたものだ。ちなみにその装丁がドラゴンの鱗で出来ている……というのは先生が言っていたことだから本当かどうかは怪しい。

だがその造りは頑強で、戦闘でも(主に叩く用途)で壊れたことは今まで無い。

娘さんの側に追い付いた助手は、その身体を背中に庇い、教典を構えて悪魔憑きの男に向き合った。男は四つん這いの獣のような格好に体勢を立て直し、ウウウと唸り声を上げている。最初に4階から飛び降りたというのに足も手も折れていないのは、悪魔が憑いているからだろう。狂気が痛みから身体を解放し、一時的に屈強な肉体を作り出しているのだ。

悪魔憑きの憑依力レベルはさほど強くは無いようだ。

……しかし、自分は娘さんを守りながら戦わねばならない。戦闘に慣れていない助手の手で、果たして倒すことが出来るだろうか……、と計算したすぐ後、その計算が間違いだったと気が付く。

ウ、ウ、ウ……

悪魔憑きが唸り声と共に、こちらに飛びかかるタイミングを計っている。助手は片方の手で娘さんを背中に庇い、もう片方の手で持つ教典に力を込めた。じりじりとした緊張感が流れ、先に動き出したのは……

「……きゃっ……!!」

キエエエエ!! と喉を鳴らした悪魔憑きが地面から手足を離す。娘さんが助手の背中に縋り、助手もまた教典を振りかぶった。

……が。

「ハーイ、終了、っと」

悪魔憑きの身体は2人のところに届くこと無く、プギャ!!と醜い悲鳴をあげてあっけなく地面に撃沈した。後ろから追い付いた先生が、足を思い切り振り上げ、かかとを悪魔憑きの男の頭に落としたのだ。普通の人間ならばあの踵でやられれば死にそうなものだが、一応先生の靴の踵は浄化と除霊の呪いによって、悪魔憑きの人間の肉体を破壊してしまうことはない。それでもあの衝撃は、後で正気に戻ると医者にかからねばならぬ程のものであるには違いない。

先生の本日の武器は革長靴レザーブーツのようだ。悪魔憑きの男を一撃で仕留めると、倒れた身体の後ろから「よっ」と片手をあげた。

「ぃよう、お前さんら、デートならもっと安全なところでやれよ」

「……せ、先生」

先生は常にこうだ。よほどの敵でない限り……例えば、一般市民程度がなってしまった悪魔憑きなど蹴りの一発で黙らせる。助手は先生が苦戦しているところを見たことが無い。お調子者で生活力が無く神の教えなど糞食らえで牧師としては偽物でも、除霊師としては本物で、超一流なのが先生なのだ。

「あ、あの……」

助手がほっと肩から力を抜くと、背中のあたたかなものがおずおずと声をあげた。花屋の娘さんだ。助手は花屋の娘さんが無事そうなことに一番安堵する。

「あ、もうだいじょ」

そうして背中の娘さんを振り向こうとして、気が付いた。

先ほどからずっと背中に柔らかくて、それでいて弾力のあるものが触れていた事に気が付いてしまった。

****

おやつに焼いたチョコレートパウンドケーキをほうばりながら、助手は虚ろな瞳で壁を眺めていた。先生は同じくチョコレートパウンドケーキを頬張りながら、ジェシカちゃんの今日のおっぱいコーナーを読んでいる。

しかし、助手の何度目かの辛気臭い溜め息を聞いて、仕方なくジェシカちゃんの掲載されている雑誌を閉じた。

「なんだよさっきからヘエハア溜め息ついて。興奮し過ぎの変質者か」

「違いますよ」

先生からのお上品なお言葉にも反応することなく冷静に返しながら、助手は再び溜め息を吐いた。先生もこりゃダメだと思ったのか、新しいタバコを咥えると火をつける。

あの日、娘さんはちょうど花の配達に出掛けた帰り道だったそうだ。道々サイレンが鳴ってしまい、どこかの建物に避難しようかと思いはしたが、家まではすぐ近くだから大丈夫だろうと油断してしまった、とのことだった。

それからしばらく経った今日のことだ。花屋に行くと、娘さんはいつになく頬を染めて愛らしい様子で助手を出迎えてくれた。

「あの。あの……先日はありがとうございました」

「いえ……無事で何よりでした」

「これ、お礼です」

「えっ?」

娘さんの慎ましやかな声に胸が高鳴る。そして胸が高鳴ると同時に下半身も高鳴った。視線を一瞬胸に向けてしまい、背中にあたったときの、あの柔らかさを思い出したのだ。先生のお言葉も思い出す。Eカップだな。Eカップだな。Eカップだな。Eカップだな……。

「A、B、C、D、E……」

「あの?」

「あっ、すみません! そんな、お礼なんて……」

「先生と、先生の奥様に……これ」

「え……?」

渡されたものは美しい出来映えの花束だった。助手はおずおずとそれを受け取る。

だが、素直に喜ぶことが出来なかった。単純な理由だ。これが「助手へ」ではなく「先生と奥方へ」といわれたからだろう。当たり前のことだった。あの場を救ったのは先生で、助手ではない。あの悪魔憑きを除霊したのは先生であって、助手ではないのだ。礼を言われるのは先生であるべきで、それは助手にも分かっている。嫉妬もへったくれもない些細なことだ。……些細なことであるはずなのに。

助手はしょんぼりと花束を受け取った。花束はそれほどの重さではないはずなのに、胸に何か重い石を抱えたような気分になる。

「ありがとう、ございます」

あまりの切なさに助手は娘さんの顔をそれ以上見ることが出来ず、花屋に背中を向けた。「あの、牧師様?」という声が聞こえた気がするが、助手の早足にそれはすぐに遠ざかってしまう。

娘さんが無事だったこと、悪魔憑きが除霊されたことを何より祝福するべきはずなのに、助手は先日とは真逆の深刻な気持ちで懺悔室の扉の鍵を借りたのだった。

そして無心でチョコレートパウンドケーキを焼いた。

「はあ……」

しかも。しかもである。こんなに深刻な気分なのに、時々娘さんのお胸の柔らかさを思い出してしまう。自分の下半身直結の細胞が憎らしかったし、つまらぬことに嫉妬してしまう未熟さも憎らしかったし、すぐに胸のことを考えてしまうバカ丸出しの自分も憎らしかった。

助手が重い溜め息を吐いたと同時に、バタン、と扉が開く。

「ねえ、このチョコレートパウンドケーキもうないの?」

扉が開けたのは先生の奥方だった。部屋に入ってきた奥方に先生がパアアと顔を輝かせ、「俺のをアーンしてやるよ!」と言ったがそれはさらりと無視し、ソファに座り込む助手を見下ろした。

「ねえ、先日助けた花屋の娘さんが、あんたに、ってこれ持ってきたんだけど、あんたの焼いたケーキとか出してあげたらよろこぶんじゃないの?」

「えっ?」

「今日来られたんですけど急いでお帰りになられて、お渡しすることが出来ませんでした、だってさ」

顔をあげた助手の手に、鎖につながれた小さな護符と……それから綺麗なハンカチが渡される。護符は悪魔憑きに襲われた時、助手が娘さんに渡したもので、ハンカチは……もしかしたら、自惚れでなければ、贈り物だろうか。白地に綺麗な紫色のリンドウが刺繍されてあった。

「よければ名前を教えてほしいんですけど、ってさ。あんた名乗ってないの? バカじゃない?」

「娘さんは、まだ……いらっしゃるのですか?」

「あんたが凹むかと思って、応接間に待たせて……」

飛び上がるように立ち上がった助手が奥方の答えを聞かずに走り去る。奥方が肩をすくめてソファに座り込むと、先生がくっくっと肩を揺らして笑い始めた。

「はー、初々しいねえ。あー、俺にもあんな頃あったなあ……」

先生の言葉に奥方が半眼になってちらりと視線を向ける。

「あんたは最初からそんなんだったろ」

「えっ、ひど!奥さんそれひどくない!?」

ガタ、と席を立った先生を再び無視して、奥方は助手の食べかけのチョコレートパウンドケーキにフォークを刺してぱくりと口に放り込む。

甘くて苦いチョコレートパウンドケーキの味は、一体誰の気分を表しているのやら。

奥方は訪ねてきた花屋の娘さんの白い肌が薔薇色に染まった様子を思い出して、小さく笑った。