神の、妻問い

R15、獣人につき注意。
漢字の人名の読み方は、正確なピンインではありません。


鈴の音を鳴らしながら、馬に乗せられた女が通りを過ぎていく。布を被った女の顔はよく見えないが、白い衣装は花嫁衣装だろうか。

しかし花嫁の行列というには伴もおらず、旦那となるべき男も居ない。衣装は美しいが花嫁の衣装にしては淑やか過ぎ、まるで巫女かなにかのようだ。

「神の妻問いが始まったか」

「ありがたや、ありがたや」

「おそろしや、おそろしや」

往来を行く人々は足を留め、通り過ぎる女に手を擦り合わせて頭を下げた。……側近くで見れば、それは女というよりも少女といったほうが近い年頃であるのが分かるだろう。布の影からちらりと見える細い顎と手指はあまりにか弱い。

あれは神の妻問いに捧げられる王族の娘だ。

10年に一度、月が赤く燃える夜に捧げられる神の妻となる娘は、王族の血を引く処女おとめでなければならぬという。神の種をいただいた王族の娘が生んだ子は、やがて王家の礎になる。

今代、神の妻問いに丁度重なるよい王族の娘は居らず、この妻問いは破談になるかと思われていた。しかし血を重ねに重ねた王家にありがちなことではあるが、この国の王族の歴史もまた傾きかけていたご時世だ。そうしたくすぶった世であったからこそ、今代の妻問いは国民から期待もされており、娘になりそうな者を必死で探したようだ。

「どこぞの女に王様が生ませた子がいたんだとよ」

好色な王に連なる子は20人もいるが、運の悪いことに処女なる娘は1人も居ないと思われていた。しかしどこかに落とし胤が1粒くらいはあるだろうと、探しに探して連れてきた娘であるらしい。

「神の、妻問い?」

旅人らしき男が足を留め、神に捧げられるという花嫁の往く様を見上げた。

「妻問いなんてもんじゃねえよ、ありゃあ」

独り言を拾ったのか、足元から声が聞こえた。旅人が視線を下ろすと、襤褸ぼろを纏った年寄りが壊れた護符をこすって毒付いている。

「またじいさんの戯れ言が始まった」

「いつものことさ、相手にすんな」

そばにいた見物人が口々に言って離れたが、旅人は1人残り、ぶつぶつと何事かをつぶやいている年寄りのもとにしゃがみこんだ。

「じいさん、あれが妻問いじゃなきゃあ、なんだって?」

旅人は懐の貨幣を数枚、年寄りに握らせる。

****

衝立の向こうからは物音ひとつせず、鈴玉リンユーは身体を震わせた。儀式用の白い深衣の袷を引き寄せ、肩から落ちかけた裳を掛け直す。

鈴玉がこの神合かみあいの宮に閉じ込められて10日が経った。神事が本当であれば、今宵、鈴玉の許に神が降臨し、鈴玉に妻問いを行うはずだ。しかし、それを見たことのある者はいない。一体何が起こるのか誰も知らず、だからこそ、鈴玉は己の心許なさを感じずにはいられなかった。

鈴玉は5歳になるまではこの王都で母親に育てられた。父は居らず、しかしさほど貧しい暮らしではなかった気がする。何せ幼い頃であったから、どこで暮らしていたかまでは覚えていなかったが、あれは今思えば王城の片隅であったかもわからない。

5歳の折に母と二人でそこを出て、母の実家があるという静かな村に移り住んだ。そんな静かな生活が鈴玉の全てだ。何不自由の無い生活から、小さな娘でも働かねばならぬような生活になったが、何分5歳のだったからそれはそれで別段嫌なものではなかった。優しい祖母と母と、そして厳しい祖父との生活は楽しくて、日々の生活に必要な全てを鈴玉はそこで教わった。

しかしそうした生活も先日終わりを告げた。鈴玉が17歳になった日、王城からの使いという人間がやってきて、鈴玉は王の娘だというのである。そんなはずはないと鈴玉は笑ったが、母は笑わなかった。

鈴玉の母は王城で働いていたことがあり、当時の王の目に留まったことがあったそうだ。素朴で淑やかな愛らしさが、華美な女ばかりを見てきた王には新鮮だったのだろう。一度二度の戯れで王はすぐに飽きてしまったが、腹に宿った子はどうしようもない。王城の隅に部屋と使用人を与えられて住んでいたが、肩身の狭さに耐え兼ねて、母は帰郷を望んだのだ。王の子を産んだことは忘れ、王の血脈を名乗らぬことを約束し、母は鈴玉を連れて故郷に帰ることを許された。今思えば、この時鈴玉が殺されたりしなかったのは、娘であったことと神の妻問いの儀式があったからかもしれない。

そう。神の妻問い。今代の儀式に王の娘が足りぬのだという。この娘が選ばれたのは僥倖であろう、喜べ、そう言われて鈴玉は連れて行かれた。

無論、母も祖父も祖母も拒んだのだ。王の娘を産んだことは忘れろという誓いのままに、これは王の娘ではないと言い張った。しかしそのような論が通じるはずもなく、行かねば家族が殺されると脅されて鈴玉は自ら名乗り出た。

神の妻問いに問われて子を生んだ女はこれまでに何人もいる。そうした子らは神官の長となったり、王の妻になったりするのだそうだ。神の血脈と王の血脈とを混じり合わせてこの国は成り立ってきた。神の子を産んだ娘は一生の安泰を約束され、神の妻として神合の宮に住み、何不自由なく暮らせる。

ただ、もう親には会うことはないだろうし、故郷に戻ることもあるまい。

嫌だと言っても選択肢など無い。王が決めたことに従わねば、家族が殺されるだけで鈴玉が連れて行かれる事実に代わりは無い。だから鈴玉はここに来ることに迷いはなかった。

コトン

小さな音に顔を上げる。

ふと、窓辺を見ると、先ほどまでは無かった萩の枝が置かれていた。

鈴玉がその品物を手に取ると、綺麗な鈴の音が鳴る。萩の枝の先に、紫色の組紐と鈴が結わえ付けられていた。

萩の枝は神のしるし。今宵、鈴玉の許に夫が来る。

****

萩の枝が置かれた夜から3日間、神は夫として鈴玉のもとに現れるのだという。姿を見られるのを厭うため、月明かりを塞ぎ灯りを落として待たねばならない。鈴玉は部屋の窓を塞いで灯りを消すと、そっと床に入って掛け布を被った。

心臓がドキドキと波打つ。恐怖なのか何なのか表現できぬ感情に襲われて、鈴玉は目頭が熱くなった。神の妻問いとは何なのか、妻問いされたらどうなるのか、一体、鈴玉は、これから何をされるのか。訳も分からず鈴玉は震えた。

どれくらいの時間が経ったろう。ガタリと戸の開く音がして、ひたひたと足音が近づいた。

神の妻問いが始まったのだ。

足音の主は鈴玉の側にしゃがみこむと、どうやら顔を近付けた。ふんふんと温かな呼気が届いて、神の吐息も人と同じなのかと不思議に思う。

不意に、頬の下をザラリとした感触が這った。

思わず手をやると濡れている。

「泣くな」

低い声が聞こえた。

妻問いに来る神は喋らぬと聞いていたが、随分と優しい声だった。その声で初めて鈴玉は自分が泣いていたことを知り、今度は怖れと緊張で瞳が乾いてしまう。

掛け布が取り払われて、ずしりと重い身体が重なる。

手が伸びて、鈴玉の服を一枚一枚、剥ぎ取り始めた。

鈴玉の衣はするすると肌を滑り落ちていく。着せられた衣はほんの少し触れただけでも分かるほど柔らかく繊細な心地で、冷たくとろりとしたそれは、衣擦れの心地の余韻を残して取り払われた。

夜の闇に自分の身体も相手の身体も見えないが、何も身に着けていない鈴玉の柔らかくまろやかな曲線に、何者かの手が触れ始める。

驚いたことに、その手は人の手ではなかった。

腕はもこもことした毛皮に覆われていて、手のひらはふっくらとした肉厚の皮膚だ。肌に触れる逞しい身体も、温かな毛皮に覆われているようだった。

神が妻問うという神事のまま、彼は人ならざるものなのだろうか。この国には獣の血に連なる者もいるが、あるいはそうした種と神がつながるのかもしれない。

人ではないその手と舌と身体は、労わるように優しく鈴玉に触れていく。これが妻問いというものなのか、身体に走る感触は例えることのできぬもので、上がりそうになる声を我慢するだけで精一杯だった。

鈴玉が声を我慢しようとすればするほど、手は執拗に身体を蹂躙していく。

どれくらいの時間が経過したか、突然動きの雰囲気が忙しなくなり、身体の最も深い部分に彼が重なる。途端に鈴玉は身を割かれるほどの痛みを味わった。下半身を食べられたのかと思うほどの痛みだったが、鈴玉はかろうじて声を我慢した。

痛みは永遠に続くかと思われた。痛い、止めてともいえず、これが神に妻問われることなのだと正しく理解する。痛いのに容赦なく揺さぶられ、硬い熱がまとわりつくようなものに変わって、ようやく事が終わった。

重なっていた部分が離れ、ふんわりと抱き寄せられた。

妻問いが終わったらすぐにいなくなってしまうだろうと勝手に考えていた鈴玉は、思いがけず優しく抱かれた心地にほうと息を吐く。胸元の毛皮に包まれて、恐れ多いと思いながらもほんの少し、擦り寄る。その小さな小さな動きを感じ取ったのか、擦り寄る鈴玉の頭を大きな手が壊れ物に触れるようにそっと撫でた。

先ほどまであんなに痛い思いをして、いまだ身体の奥はじくじくと疼くのに、この腕と毛皮の身体に包まれているとなぜかうとうとと眠くなってくる。神の前だ、寝てしまうなんてとんでもないと思ったのに、睡魔は抗い難く穏やかに鈴玉を襲った。

とうとう鈴玉の意識は暗転し、目覚めた時には朝だった。

身体を起こし、朝の光に周囲を確かめてみると、床のものも着ている服も、全て新しいものに取り替えられているようだった。枕元を見ると、昨日の萩の枝に別の色の紐が結わえられている。

神が妻問いにきて、帰ったという証拠だ。

鈴玉は萩の枝を手に取った。チリンとちいさな音が鳴る。

****

妻問いの儀式の間、神の妻となる娘は誰にも会うことはない。神以外に顔と身体を見られぬようにし、肉も魚も食べず身を清らかにして、昼は供え物の刺繍をしながら待つのである。

その日の夜にもまた、萩の枝が置かれて何者かがやってきた。

1日目と同じように鈴玉に触れてくる手に、1日目より深い感触と同じ痛みを味わって、1日目よりも心地のよい眠りに誘われる。

そうして迎えた最後の夜。3本目の萩の枝が届いた夜、とうとう鈴玉は痛みを感じなかった。正確にいうと、痛みよりももっと大きな別の何かに襲われた。痛みに叫ぶ声ではなく、込み上げてくる甘い囀りを我慢するために、触れる身体に手を回す。彼の背中も毛皮に覆われていて、逞しい身体は極まったように鈴玉を抱き締め返してくれた。その息もまた荒く、神も疲れることがあるのだろうかと不思議に思う。そうして、もうこの人には……人……というにはあまりに恐れ多いけれど、この腕にはもう会えないのかと思うと、鈴玉は急に心細くなってしまった。

鈴玉は妻問いを受けた。3日続けられたそれに、鈴玉は神の種を貰ったはずだ。これから鈴玉はここで1人、神の子を産み、育てるというのだろうか。子を産めば1人ではないのだろうけれど、若い鈴玉にそのような実感が沸くはずもない。

寂しさに涙がこぼれそうになり、鈴玉はそれを我慢するために、すん……と鼻をすすった。

その音を聞いたのか、やわやわと撫でていた手が止まり、鈴玉の頬が挟まれて持ち上げられた。ざらりとした舌に舐められる。その舌は鈴玉の唇を舐め、耳元を舐め、再びぎゅっと抱き締められた。

1日目も2日目も1度きりだった行為が、何故かその夜は2度、3度と行われる。

離れたくなくてずっと抱き締めていたのだが、結局疲れ果てた身体は眠ってしまい、起きた時には枕元に滋養のある白い餅が置かれていた。

……妻問いが終わったことの証だった。

****

妻問いが終われば、一体何をするのだろう。その説明を鈴玉は受けておらず、結局誰も来ないまま夜がやってきた。仕方なく床に身を横たえて休んだが、身体は疲れているはずなのに目が冴えてしまって眠れない。この3日間、痛い思いもしたはずなのに、心に残っているのはあたたかな毛皮の心地と手の感触、そして最初に囁かれた「泣くな」という優しい声だった。しかしもう、あの手に触れることはないのだろう。

切なくて再び瞳に涙が浮かぶ。

今宵は誰もいないのだから、思う存分泣いてもよいだろうか。我慢していたが、くつくつと喉から嗚咽がこぼれ、とうとうほろりと頬に涙が伝った。

その時だ。

「何を泣いているんだい? かわいそうにね」

鷹揚な声と共に、部屋に灯りが灯される。急に現実に引き戻されたような気持ちになって鈴玉が身体を起こすと、そこには見たことのないような美しい男の人と、この神合の宮に入る前に挨拶をした神官の長が立っていた。

「……神官さま……?」

男の人の名は分からない。簡素な衣の鈴玉や質素な服を纏った神官長に比べると、驚くほど豪奢な服を着ていて目を見張った。その煌びやかさは神合の宮にふさわしいとは思えない。

呼ばれた神官は神妙な……というよりも苦々しい面持ちで鈴玉に頭を下げ、男はおっとりとした物言いとは正反対の尊大な態度で鈴玉の側にやってきた。

「さて、3度の夜を迎えたが、お前の許に神は来たか?」

「……え?」

神は来たかと問われたが、鈴玉は咄嗟の答えに詰まってしまった。神が来る儀式ではなかったのだろうか。神が来るのは当たり前なはずなのに、何故神は来たかと問われるのだろう。

確かに来られましたと答えようとして、その答えを男の話が遮った。

「神など来ていないのに神は来たと虚言を吐く女もいるのでな。これよりお前が神の妻になったのかどうか、この私が確かめる」

男の美しい顔がニヤリと歪み、手に持っていた灯りを神官長に渡した。混乱する鈴玉の身体を、男が乱暴に押し倒す。

「悪く思うなよ。……神が降臨していれば生まれてくる子は神の子であろうから、何もお前に不具合はない」

「確かめるって……なに、を」

「分からぬか? 分からぬということは、やはり神は来ていないということか」

男が鈴玉の衣に手を掛け、首筋に顔を近付ける。神官長に助けを請うような瞳を向けたが、彼は哀れな者を見るような視線で鈴玉を一瞥し、俯いただけだった。

気色の悪い感触に、鈴玉が震える手に力を込めた。男の身体を押し返し、やめて、たすけてと声を上げる。しかし相手は男だ。あっというまに腕を掴まれ床にきつく押し付けられる。

男の顔が近付いて、鈴玉は目をぎゅっと閉じて顔を背けた。

その、時だ。

「てめえ、俺の嫁に何してやがる」

随分と枯れた低い声が聞こえた。鈍い音と共に身体から重みが消え、そろそろと目を開くと天井が見える。……いや、見えたと思ったら、それは真っ白な虎の顔になった。真っ白な虎の顔が、鈴玉を覗き込んでいるのだ。

薄い青い色の瞳と目が合うと、ふ、と口許が笑んだような気がした。虎の顔が笑ったらどんな風になるか鈴玉は見た事も無いのに、何故か笑ったのだと分かる。

それは真っ白な虎の獣人だった。虎の獣人は珍しいが、それよりももっと珍しいに違いない。そもそも虎の獣人など鈴玉は初めて見る。

「ようやく鈴玉を見つけたら、きなくせえ場所に連れて行かれてるじゃねえか。悪いがこれは10年も前から俺のもんなんだ。てめえみたいなガキにはくれてやれん」

「な……んだと、貴様……!!」

横を見ると先ほどまで鈴玉の上に乗っていた男が、部屋の隅に飛ばされている。別の方向を見ると神官長が膝を付き、手にした護符をこすり合わせてまるで神に祈りを捧げているように見えた。

男の怒りを獣人はまるで意に介していないようで、突然の出来事に呆然としている鈴玉の身体を逞しい腕に抱き上げた。その腕の毛皮の心地、抱き寄せられた胸の温かさには覚えがある。この人は、3日の間、鈴玉に妻問いをしたその人に違いない。獣人は鈴玉を両腕に乗せて持ち上げ、ぼふ、と腹に虎の顔を埋めてきた。ふんふんとどうやら匂いを嗅いでいるようで、熱い吐息が薄布ごしの腹に届く。

「ああ、いい香りだ。リンユ。リンユ。お前の香り」

「あ、あの。あの……?」

獣人はひとしきりそうしてから、戸惑う鈴玉の身体を少し低くしてしっかりと抱き直す。ようやく体勢を立て直したらしい男に向き合った。

改めて、言い放つ。

「鈴玉は頂いていくぞ」

「……待て、貴様、王子の私に逆らったらどうなるか、分かっているのか?」

「知らねえよ。俺はこの国の臣民じゃねえからな」

「貴様、薄汚い獣め……全て狩ったと思っ……」

狩った、という言葉を吐いたと同時に、獣人が唸り声を上げた。同時に男が飛ばされる。抱いた鈴玉の小さな身体をピクリとも揺らすこと無く、足の動きだけで男……王子を蹴ったのだ。

ぐう、とうめき声を上げたが、さすがは王子か、今度は素早く立ち上がり腰に佩いた剣に手を掛ける。

しかし。

「……殿下! お下がりくだされ! 西方シーハンさま、いまのうちに……!私は、我らは……」

神官長が王子と獣人との間に立ちふさがった。まるで獣人を逃がそうとしているかのような態度に、西方と呼ばれた獣人がいぶかしげにぴくぴくと髭を動かした。

獣人がこの機を逃すつもりはないようだ。

「俺は西方という名ではないが、神官長よ、感謝する。……さて、王子とやら」

「……貴様、このままで済むと思うなよ」

ちらりと向けられた獣人の視線を受け止めて、王子は悔しげに顔を歪める。いくら王子とはいえ、神官の長には手を出せぬらしい。王子の言葉を獣人はせせら笑った。

「すむさ。……お前は鈴玉にもそれにまつわる者にも手は出せぬ。神の妻問いは終わったのだから、妻が消えるのは僥倖だろう」

獣人が今度は神官長に目を向けると、神官長は深く頷いた。これが答えだ。。王子を片腕で制したまま、深く、深く頭を下げる。

「鈴玉はいただいていく。神に連れ去られたとでも思っておけ」

鈴玉は二度と出られぬと思っていた神合の宮から、こうして外に連れ出された。

****

神合の宮の裏手にある森の奥まで逃げ込んで、ようやくひと心地つけそうだ。しかし鈴玉を地面に下ろすつもりはなかった。羽のように軽いから、その身体を抱いているのは全く苦ではない。

白い虎の獣の男は、名を瑞月リュエという。

この大陸に住まう古い獣族で、西白虎と呼ばれる一族の戦士だ。しかしその美しい毛皮と雄々しい姿は恐れられ、また珍重されて狩りの対象となった。血なまぐさい戦の果てに西白虎族は滅ぼされ、瑞月が生まれた頃には、一族の仲間はもう数少なくなってしまっていた。

少ない一族は生きる場所を求めて大陸を出た。ところが、瑞月はその直前に国の王族に捕らえられてしまう。奴隷として王城に連れて来られたのだが、その時、一人の娘のおかげでなんとか逃れることが出来た。

怪我を引き摺りながら逃げ込んだ宮で、もう逃げられまいと諦めかけたとき、琥珀色の髪の小さな小さな少女に見つかった。彼女は自分の身体に結わえていた帯を包帯代わりに瑞月に渡して、こっそりと出られる宮の破れた壁の穴を教えてくれたのだ。

王城にあったにしては古びた宮だった。その壁の穴も傷んで開いたという風で、外に出てみたいけれど母様に怒られるからダメなのよと、少女は言った。瑞月を逃げ出した奴隷だとは思わなかったのだろう。また遊びにくると約束して、瑞月はそこから逃げ延びた。

怪我が治ってからその壁の穴に出向いた時には、宮にはもう人の気配は無かった。

それから十年。瑞月は西白虎の正体を隠して大陸を旅し、未だ残っている滅びかけた獣族達に大陸を脱出する道を教えてきた。瑞月の活躍で多くの稀少種族が大陸を出て新しい土地に移り住み、いつしか瑞月は英雄のように慕われるようになったが、幾度誘われても大陸を出ずにいた。

何故か。

……瑞月は、一度だけ会った愛らしい少女のことを忘れることが出来なかったのだ。

会った時に瑞月はもう成人を過ぎたころで、少女は5歳足らずだったはずだ。焦がれるような思いを馬鹿なことよとあざ笑い、他の女に目を向けてもみた。しかしどうにも忘れることができない。貰った帯紐を擦り切れぬように大事に大事にしまって、時々取り出しては思い出すという夜が繰り返されてようやく悟る。瑞月はとうの昔に、自分の伴侶としてあれを見出してしまっていたのだと。

獣人には時々、つがいとも呼べる魂の伴侶を持つ者がいるのだという。よりによって一族の希薄となった瑞月に、人間の伴侶つがいが現れるとは思いもよらなかった。一族のことを考えるのであれば、大陸を出て仲間達のもとへ行き、そこにいる女と懇ろになるのが正しい道なのだろう。しかし、もう瑞月は見出してしまった。理解してしまった。あの鈴のように可愛らしい、鈴玉が自分の妻なのだと。

10年経ち、その噂を聞いたのは運がよかったとしか言えない。

神の妻問いに請われる娘が、かつて王城に住んでいた王の娘だという噂だ。その噂を重ね合わせると、丁度自分が逃げた時期に重なる。噂が耳に入ってきた縁も間違いない。自分が見出した娘に違いなかった。

かつて神官をやっていたという男に金を握らせ、妻問いの儀式の本意を知る。神の妻問いとは名ばかりの儀式で、本当は年頃の娘に王族の子を「神の子」として生ませる茶番なのだと知った。10年に一度、神の血を引く子を王族の血脈に乗せる。しかし本当は、王族に王族の子を生ませていたのだ。人々には神の血脈が混ざったと知らしめ、その実、王族の血が損なわれることがないという筋書きは、もう何度も行われてきた神を冒涜する愚かな儀式だった。

3度の妻問いと萩の枝、という形式が残っているように、この儀式は神がその名と姿を知られていたころから続いてきたものだ。しかしいつからか神の名と姿は忘れられ、ただ「神」という象徴と儀式だけが残り、王族が処女の娘に子を産ませるという、愚かな行為に成り下がってしまっていた。

それに捧げられるのが鈴玉だと聞いて、瑞月が黙っていられるはずがない。元神官の年寄りに姿を見せると、涙を流しながら神合の宮の全てを教えてくれた。どうやら自分の姿は、神官の名を持つ者には高位なものに映るらしい。

そうして、鈴玉を自分のものにした。

「俺は儀式に従って、3度の妻問いをしたぞ」

着替えをさせた自分の妻を膝の上に座らせて、瑞月はいまだ緊張の残る鈴玉の顔をざらりと舐めた。全てを話して聞かせ、自分と来るかと問うたのだ。

「なあ、リンユ。俺の嫁さんになってくれねえか」

何度も誘うと、その度に鈴玉の頬が染まる。賢い鈴玉は瑞月の話を理解し、じっと自分の身の上のことを考えているようだった。

やがて、ぽつりと瑞月の名前を呼ぶ。

「ル・エ、さま?」

「リュエ、だ」

「る、え」

どっちでもいい。鈴玉が言葉を紡げば、それはどんな響きでも愛らしい。呼ばれて瑞月はグルグルと喉を鳴らして、鈴玉の胸元に額を押し付ける。

小さな手が、恐る恐る瑞月の耳の毛皮を撫ぜた。

わたくしの、旦那さまが、ル・エさま……?」

「おう」

だんなさま。

その言葉の響きに、瑞月の髭がピンと張って、逆に耳がたらりと垂れる。

「私、旦那さまと、ル・エさまと一緒に行きとうございます」

顔を上げた瑞月に、鈴玉の艶やかな瞳が微笑みかける。明るいところでみると瑞々しい桃のような色をした唇を、瑞月はぺろりと味わった。




「しろいけがわ、とてもきれいね」

「……お前、名は」

「りんゆ」

「リンユ……?」

「おなまえはね、りんゆ、というの」

****

その昔、この国のいにしえの神は白い虎の形をしていた。神の姿が忘れられ、ただ「神」という言葉だけが残ったが、神に仕えた者達の記憶には、今でも時折白い雄々しい姿が見えるという。

久しく無かった神の妻問いが成された世があった。

王族にとってよき世であったかどうかは言い伝えには残っていないが、少なくとも人と獣人の世にはよき世であったそうだ。