ずっと夢見ていた。
この白い少女の名を呼び、愛を誓う事を。
姫は柔らかな白い髪と薄桃色の瞳の、愛らしい少女だった。けぶるようなその美しさは王と王妃のいずれにも似ず、疎まれた挙句に神のもとに輿入れすることが決まった。
夫となる神は闇に住まう夜の王。孤独故に凶暴で、誰にも心開かぬ神と聞く。決められた運命とはいえ、姫は嘆き悲しみ、輿入れの日が近付くにつれてその柔らかな瞳は曇っていった。
彼の姫の身の回りを守るものは黒騎士ただ一人。幼いころより常にそばにあり、幼いころより彼の姫を守ってきた。小さな頃より姫と遊び姫と学び、姫の心を守ってきた黒騎士が、姫に心預けるのも無理の無い事である。姫を思えば熱く燃える心を冷たい黒鎧の奥に隠し、言葉を発すれば姫への愛の言葉をこぼしそうになる黒騎士は常に無言だったが、このとき初めて姫の名を呼ぶ。姫を愛した黒騎士は、神に姫を奪われるくらいなら、いっそ自分が奪おうと、姫の手を取り城を逃れた。
黒騎士にとって主は王ではなく彼の姫のみ。
もし姫が黒騎士との愛を嫌がるのであれば、その時は……その時は、姫を守るただの盾になろうと思っていた。
黒騎士は彼の姫に永遠の愛を誓う。
この愛を受け取らなくても構わない。しかし、どうか、彼の姫よ、その心を守らせてはくれませぬか。
身を世話する使用人も、かしずく家臣も、誰もいない森の奥。雨すら届かぬ闇の向こうで、生きていくのは辛かろう。首を振られるのを覚悟に決めた誓いだった。
それなのに、姫は騎士の手を取った。
どうか、私を妻にして。ずっとずっとお慕いしておりました。
濡れた唇から溢れる答えに、思わず抱き寄せた細い肩に、闇の寒さに震える肌に、心の奥底に閉まっていた彼の姫への熱情が、たちまちのうちに黒騎士の心を支配する。
姫の前では無言を貫いていたその言葉は、姫への愛を囁く声に変わる。闇より昏い色をした満月の下、黒騎士は妻となった彼の姫の身体を暴き、組み伏せ、そして、
その細い首筋に噛み付いた。
****
ずっと夢見ていた。
姫は両親の誰にも似ずに王家に生まれ、生まれた時から疎まれた。確かに王の精を受けた王妃の腹から生まれたはずなのに、その容貌は王家の血筋のいずれも持たぬ容貌だったのだ。
こうした子の運命は、生まれ落ちた瞬間から決まっている。
姫は生まれた時から、闇に住まう夜の王のもとに輿入れする事が決まっていた。ゆえに、姫に仕えるものは最小限に抑えられ、決して男の手と目に触れられぬように育てられる。
しかし困った事があった。男の騎士しか居らぬ城で、護衛の役割を果たすものがいないのだ。いつ死んでもいい娘ではあったが、輿入れすると神に誓った以上、その日までかの身を損なってはならない。
それゆえ、一人の……いや、一頭の護衛が姫にあたえられた。
それが、漆黒の毛皮を持つ一頭の豹の子供だ。
黒豹と姫は共に育った。姫と同じものを食べさせ、勉強をしている時間も、刺繍をしている時間も、詩を読んでいる時間も共に居た。恐ろしい獣よと侍女や使用人には避けられていたが、姫はこの黒豹が大好きだった。言葉や道理など分かるはずも無いのに、勉強で分からぬことがあって図書室にいけば、まっさきに本を探し当てるし、刺繍の糸に迷えばぴったりのものを鼻先で示した。最初は姫が抱き上げられるほど小さかったのに、姫の身体を追い越すのは数年で、その大きさもまた姫のお気に入りだ。小さな少女などお腹の下にすっぽりと隠れるほど、その黒豹は大きく逞しく育った。黒豹は常に姫の側にあり、常に姫の身と心を守っていた。
しかし楽しい時はあっというまで、やがて姫の月が満ち、夜の王の許に輿入れする日がやってくる。
見知らぬ男……それも孤独ゆえに冷たく恐ろしい男の妻になるのは心細く、そして辛かった。
曇る姫の顔を、護衛の黒豹がそっと舐める。
ざらついた舌の心地に姫は体重をかけ、ぎゅっとその黒い毛皮に抱きついた。
ずっとずっと姫を守ってくれた黒い獣。皆は言葉の通じぬ獣だと言うけれど、そんな風に思えた事は一度も無かった。彼は他の誰よりも姫の事を知っていて、姫の助けになってくれる。
お前が人間になって、私の旦那さまになってくれればいいのに。
そう涙声で囁くと、グルル……と唸り声が聞こえて、そして
姫の名を呼んだ。
私と一緒にくれば、私の妻にしてやろう。姿はこのようだが、人と獣が愛し合うに足らぬものなどどこにもない。闇の奥よりなお昏い、誰の邪魔も入らぬ場所で、心静かに2人で暮らそう。お前を闇の王になどやりはしない。
愛しているのだよ、私の姫。
グルグルと黒豹の喉が動き、信じられぬことに姫に愛を誓うのだ。
黒豹は姫をその背に乗せ、自らが生まれた場所を目掛けて駆けた。誰もいない森の奥。雨すら届かぬ闇の向こうに、黒豹が住まう場所がある。
姫のずっと求めていたものがあった。姫の名を呼び、愛を囁き、寒い夜は姫の肌を温めてくれる豊かな身体。月すらも覆う闇の夜、重なる黒に身を委ねる。
交わりに損なうものなど何も無い。
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孤独な神はようやく見つけた。
自らと真逆の光の白を持つ女神。闇夜を照らす白いカンテラ。恐らくあれが伴侶というものなのだ。なぜあれが人間のもとに生まれてきたかは分からぬが、あれは自分のものなのだと微かな気配だけで神は気付いた。
あれは俺のものだ。
誰にもやらず、誰の目にも触れず、誰もその価値に気付いてはならぬものだ。
あれは神の妻だと宣告すれば、人間共は恐れ、両親すら姫の側から離れて行った。当然のことだ。ただの人間が姫に触れてよいはずが無い。
伴侶が生まれ出る時を待ち続けた神の時から数えれば、それが満ちることを待つなど一瞬だ。だがその一瞬すら待ちきれない。そして、神は何より愛というものを知りたかった。唯一の伴侶を愛したかった。しかし自分にあるのは長過ぎる孤独ゆえに育った凶暴な衝動ばかり。もし姫が己に怯えてしまったらどうすればいいのか。姫を押さえつけ、その心を殺してしまえば身体は容易く手に入るだろう。しかし、永久の時を伴侶として歩むのに、姫の心をどうして殺す事が出来るだろう。
愛を知らぬ神が愛を知るにはどうすればいい。
考えて考えて、神は自らの記憶を全て壊した。
連綿と続いてきた神としての記憶、神代の記憶を全て消し、神は小さな小さな姫の小さな友として姫を守り姫と共に育った。
月が満ちる。
消えた記憶の底にあった衝動そのままに、夜の王は姫を奪う。記憶はなくとも、姫が自分の妻である事を忘れる事などなかったから。
そうして今、姫は闇の王の伴侶として、愛とともに側にある。
黒い護衛と姫の見た夢が。
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闇の森に住まう神は、夜の王とも喚ばれ、黒い豹の姿をしているという。
姫がはたして神の妻になったのか、それとも黒騎士と共に穏やかに過ごしているのか、それとも黒豹の毛皮にくるまれて眠っているのか。それは誰も知らない。
ただ、時折森に逃げ込んだ恋人たちを、黒い豹とカンテラを持った白い髪の少女が導くことがあるという。
恋人たちに道を指し示すそれらのことを、果たして何と呼べばよいのか。