菜緒の使っている洗濯機から奇怪な音がし始めたのはつい最近である。
買った当初から少し異変を感じていたのは間違いないのだ。洗濯機を回す度に、ゴゴゴゴゴゴグモモモモモグゴゴゴゴという音が響いていたし、なぜか左右に揺れに揺れる。まずは入れたものが悪いのだろうかと疑ったが、大概が普通の服や普通の下着とかばかりで、それもあまり考えられない。ならば本体が悪いのだろうが、そこには目を瞑らざるを得なかった。なぜなら、引っ越しを機に思い切って家電製品を入れ替えたばかりなのだ。つまり新品である。そして今、菜緒の財布の中身はからっきしだった。
最初は近所迷惑かな、と遠慮もしていた。しかし会社から帰宅して家事をしながら洗濯機を回そうとすれば、大概19時や20時頃になってしまう。一人暮らし向けのマンションで周囲の生活時間帯も似たようなものだから、音の発生は大目に見てもらう事にした。よって、洗濯機は買い替えていない。
その日は仕事を定時に上がる事が出来たので、帰宅した後、レトルトのハンバーグを温めながら洗濯機のスイッチを入れた。洗濯機がゴゴゴゴゴゴ……という、それほど音量ではないものの何か人をそわそわとさせる、深い響きの音を発し始めたが、もうだいぶ慣れていた菜緒はさほど気にせずご飯を食べることにする。
洗濯機の音をBGMに食事をしていると、しばらくして、グゴッ……と、喉のつまったような音を最後に部屋が静かになった。
「あれ?」
ご飯を口に運ぶ箸を止めて、洗濯機のある方に視線を向ける。時間からいうとまだ洗っている途中のはずだ。いつもより洗濯が早く終わったとか? だが、それなら排水が始まるはずなのに、その音も聞こえない。
たかが洗濯機であるのに、なぜか薄暗い雰囲気だ。洗濯機は洗面所のすぐ隣のスペースに置かれていて、居住空間である部屋からは、廊下を通してとはいえ、よく見える位置にある。目を離す事が出来ずに洗濯機を見守っていると、突如、グモッグモッ……と、これまでとはまた別種の奇怪な音がし始めた。今までの不気味な無機質な音ではなく、どこか有機的な響きを持つ生きた音。まるで地獄から何かが這い上がってくるかのような……。
やがてそのグモグモ音も鳴り止むと、ガコ、と普通の音がして、洗濯機の蓋が開いた。
「……え」
ベシャリと水音が響き、洗濯槽から青緑色に染まった手が伸びて縁を掴んだ。洗濯の途中で蓋を開けたからだろう、ピッピッピと一時停止を知らせる音がしている。
だがそのような音を気に留めぬ風に、バシャアアアア……! と洗濯機の中から青緑色の生き物が姿を現した。
シュウシュウと機械のプレス音のようなエフェクトをきかせながら、どうやらその生き物は人の形をしているらしい。洗濯機から現れた青緑色の人間がものを言う。
『我輩を呼び出したるは誰ぞ……』
菜緒はぽとりと持っていた箸を取り落とす。
頭にブラ引っ掛けて何言ってんだこいつと思った。
****
正確に言うと頭の角にブラの紐が掛かっていた。
『貴様が我輩を喚んだのか……?』
「……」
何かしらぶつぶつ言っている青緑色の人がブラを角に引っ掛けたままこちらを見る。だが、突然洗濯機の中から現れた人に「きさまがわがはいをよんだのか?」と問われて「はい」もしくは「いいえ」と答える事の出来る人間がいるだろうか。いや、いない。
何も答えない菜緒に焦れたのか、青緑色の人がうっすらと半眼になった。よく見ると頭だけからではなく、肩や膝からも角のような尖った棒が生えている。上半身は逞しく、青緑色の服を着ているわけではなく裸のようだった。
身体のあちこちに泡をしたたらせ、濡れた長い髪をべたりと身体に張り付けたまま、青緑色の人と菜緒の沈黙の攻防が続く。しかし、先に動いたのは青緑色の人の方だった。
『我輩は奈落の王にして地獄の番人アバドンである。それを知っての召喚か』
「……」
知らねーよ。
目の前の事象に恐怖するには現実味が無さ過ぎた。ゆえに、よっこらしょ、と奈落の王が洗濯機から出てきた時は、フローリングの床が泡と水まみれになって迷惑だな、としか思えなかった。
奈落の王アバドンはいよいよ洗濯機から完全に姿を現し、菜緒が座っている食卓までフローリングの床を水浸しにしながら歩いてくる。
『我輩を喚んだ貴様は誰ぞ、小娘』
「……」
ぽた、と泡がテーブルの上に落ちた。青緑色のアバドンはこちらを見下ろしている。頭に生えている二本の角の一方に、菜緒の白いブラが掛かっていて、王の顔を飾る厳かな飾りのようだ。そして泡まみれでもなお美しい艶やかな青みがかった黒髪のその頭上には、白いパンツを乗せていた。
洗った洗濯物の記憶からたぐると、それは恐らく菜緒の一番お気に入りの白い上下だ。しかしこのお気に入りは型くずれしないよう、洗濯ネットにいれておいたはずだ。こいつはわざわざそれを洗濯ネットから取り出したのか。
つまり目の前の青緑色のアバドンは、菜緒の下着を洗濯ネットから取り出して被っているのだった。
「何被ってるんですか?」
これが、菜緒とアバドンの最初の会話である。
奈落の王は答えた。
『これは被っているのではない。我輩が召喚される途中、この界と闇の界との境界で何やら白き網に閉じ込められ、迷っていたので出してやった。我輩の眷属になるといって聞かぬでな』
だからといって何故頭に被っているのだろう。
『被っているのではない。纏っている』
どうだ……といわんばかりにアバドンは腕を組み、口許をニヤリと歪めて菜緒を見下ろす。いまだ菜緒は沈黙を守ったままアバドンを見上げている。心の中は荒れ狂う洗濯槽の中のように様々な思惑が巡っていたが、それを口にするだけの精神的な余裕はなかった。なぜなら目の前の奈落の王は全裸だったからだ。
全身が青緑色であるがゆえか、全裸であるときの男子の特徴は目立って主張しているわけではない。だからといってそのようなものを年頃の女子の前にぶら下げてよいものだろうか。いやよくない。
『わざわざこの我輩がやってきてやったのだ。名を答えよ。我輩を喚びし小娘』
「知らんわ、地獄に帰れ!」
ようやく近くにあったリモコンを投げつけるとカコン……と角に当たり、アバドンは不機嫌な顔になる。リモコンは床に落ちて電池が飛び出した。
『用も無いのに我輩を喚ぶでない小娘』
アバドンは激昂するでもなく、颯爽と身を翻し洗濯機の中へと帰って行った。
これが、菜緒と奈落の王アバドンとの出会いである。
****
界とは菜緒の住む地球を含んだ空間のことだけを指す訳ではない。世界とは無数にあり、その中心には純然たる力のみで構築された六界という界が存在する。全ての世界を構築する六種の力、それらを司る六界への境界を開く方法が無い訳ではない。六界に住まう魔を召喚する術は、その世界が持つ魔法の歴史の中で、ある時は深く研究され、ある時は偶然の産物とされているのだ。
召喚術とは通常、円陣を描き、開くべき界と同種の魔力を注ぎ、魔の好む詩や言葉を発音するか魔の好むものを捧げ、その言葉と魔力に惹かれた者が、もしくは強制力に引かれた者が術者の前に現れることによって成立する。それ以後の契約は術者と魔の取引次第だ。
この召喚術が、菜緒の部屋の洗濯機と闇の界をつなげてしまったらしい。すなわち、洗濯槽の円、その直径、水に溶かした特殊な闇物質の調合の割合により発生した魔力、その魔力の回転数により闇の界との境界が開いたのだ。
そのとき発生する音が術語となって、ある偉大な魔の許に届く。
それが奈落の王にして地獄の番人、アバドンであった。
グゴゴゴゴゴゴゴゴ……ゴゴゴ……ゴゴ……
洗濯機を回し始めて数分、グゴゴゴゴゴゴゴゴ……という音が急に静まり、ゴモッ、ゴッ……という音とともに完全に沈黙する。直後、シュウシュウとプレス音が聞こえ、洗濯機の蓋が開き、白い煙と共に青緑色の手の甲が洗濯槽の縁に掛かったのが見えた。
「我輩はアバドン。我輩を喚んだのはお前か小娘」
「はいはい分かったからアバドン、ちょっと退いて」
アバドンは言われておとなしく洗濯機から出てくると、脇に退いた。腕を組み、随分と高い位置からいつものように菜緒を見下ろす。
「3日も洗濯をさぼるとは何事か。ナオ」
菜緒は一度洗濯槽の中を見て、アバドンの頭を見て、そこに掛かっているものをパンツとブラをむしり取った。今日は水色である。
「ちょっといい加減私の下着を被って出てくるの止めてよ!!」
「被ってはおらぬ、これらが我輩に纏わり付いてくるのだ」
「それを被るって言うの!!」
菜緒は洗濯槽の中で空になったまま浮いている洗濯ネットを取り出し、水色の下着を突っ込んで再び洗濯槽に沈めた。蓋を閉めて、スタートボタンを押す。アバドンが現れる度にいちいち蓋が開くから、その度に洗濯機が一時停止してピーピーうるさいのだ。
「それからいい加減に床を濡らしながら出てくるのも止めて」
「入り口が水浸しなのが悪いのだろう。しかもなんだこの泡は。闇の魔力を伴っている」
「ただの洗剤よ!!」
「ふん。うるさい小娘が」
アバドンは獣のようにぶるぶると身体を振った。青緑色の悪魔の身体についた水滴と、量の多い長い黒髪が含んだ水がピピピッ……と菜緒の顔面に飛ぶ。下半身から明らかにぺちぺちと音が鳴ったのを聞き、イラっとした菜緒は傍らに置いていたバスタオルを投げつけた。
「ああもう、水飛ばさないで! 裸で出てくるのも止めて!」
「裸ではない。お前の言う下着を纏っていたが、お前が奪った」
「あれは纏っているって言わない、あと私は下半身を隠せと言っているのよ!」
「一度冷静になれ小娘」
「なんですって!?」
冷静で低い声のアバドンに苛立ながら、菜緒は頭を抱えて部屋に戻る。アバドンが魔力で床を綺麗にしたのをちらりと横目で見てから、ソファに座り込んだ。
「ナオ」
「何よ」
「3日ほど我輩を喚ばなかったであろう」
「忙しくて洗濯機回してなかったのよ」
そういうわけで、自称奈落の王アバドンは洗濯機を回す度に菜緒の部屋にやってくるようになった。ただ、強制的に喚ばれるのかと聞いてみたら、アバドンは闇の界でも何番目かに偉い悪魔だから、喚ばれても応じなければならないというわけではないらしい。つまり自発的に来ている。意味不明だ。
「喚ばれたような気にさせるお前が悪い。気持ち悪い」
「ちょっと変な言い方しないでよ、私アバドンなんて喚んでないし」
「なんと、喚んでいないのか……」
「ちょ……」
青緑色とはいえ、無駄に男らしく彫りの深い綺麗な顔 (をしている)が、こういう時に憂いを帯びた悲しげな表情になって深い溜め息を吐くと、菜緒も一瞬言葉に詰まってしまう。
言っておくが、菜緒は何度も「来るな」と言ったのだ。しかし、喚ばれたのが気になる、気持ち悪い、といって一切聞かない。玄関に来るのならば鍵を閉めるなどの対処もできるが、洗濯機の中から登場されれば防ぐ手だては洗濯しないという方法しか無い。そして、極普通の社会人二年目の女子が、洗濯をしない生活に耐えられるはずが無いのだ。
洗濯機を買い替えようかとも思った。しかし、引っ越したばかりで、しかも一人暮らしだからと奮発して家電製品を一新してしまった菜緒にそんな金銭的余裕は無い。
「ナオ、アイスコオヒイは無いのか」
「自分で入れれば」
「我輩はアイスコオヒイを入れるくらい出来るぞ」
そう言ってアバドンは冷蔵庫からアイス珈琲のペットボトルを取り出し、菜緒のマグカップとアバドン用のマグカップ(欲しいと駄々を捏ねるので100均で買ってきた)に注いで、得意げにテーブルを置いた。
それだけならばまだしも、アバドンは冷凍庫をチェックするのも忘れない。
「ナオ、これを我輩に献上せよ」
「なにを……って、それ! 私の! 私のガリガリ君!!」
「そんなに欲しいならば、半分やらんこともない」
「返せえええええええ!!」
洗濯する度に奈落の王を召喚してしまう日々である。
****
地獄という存在をありがたがっているのは人間共だけで、勝手にそれほどの奈落を作った人間共の魂については鬱陶しいことこの上ない、というのが闇の界の魔の意見の一致するところである。地獄とは悪魔や神が作ったものではないのだ。死んで自分を罰したい、罰した後に幸せな来世を迎えたい、あるいは恨みのある人間を死んだ後も罰したいと期待する人間共の願望で生まれた場所だ。
そこには人間共の要望通り、罰するにふさわしい魂が降ってくるため混沌とした場所になってしまった。出来た奈落は容易には崩せず、たとえ崩したとしてもまた復活する。そのくせ放っておけば荒れてしまうため、闇の界では番人を置いていた。それがアバドンである。奈落の王、地獄の番人と呼ばれるアバドンは、配下の魔に適当に地獄を徘徊させながら、適当に結界を維持するのが役割だ。
そうしたアバドンを喚ぶ音が聞こえたのはいつだったか。強くは無いが意識の離せぬ力と言葉だ。いつもならば己を喚ぶ音など面倒くさいと叩き潰すアバドンが、召喚の力に答えたのは気まぐれだった。端的に言えばアバドンの気を惹いた。
闇の界と召喚の境界に彷徨う白い布、それがどうやらアバドンの気を惹いた一番の原因らしい。それを拾い上げると、角に絡まったのでそのままにしておいた。境界を開き、呼び出しに応えたのはその直後だ。
呼び出したのは何の力も無い小娘で、白い布の主であるらしい。菜緒と名乗る小娘は、か弱いくせにこの奈落の王アバドンと対等に話す事の出来る人間だった。気まぐれに側においてやるのも悪く無い。地獄の番もさして面白味のない仕事であるし、時折この小娘の召喚に応じるのはよい暇つぶしになるだろう。
「我輩を喚んだのは貴様か、小娘」
誰もいない。
「……」
アバドンは形の良い眉をぴくりと動かし、洗濯機からゆっくりと這い出た。菜緒がうるさいため、泡と床に落ちた水を払う。
「小娘、いないのか」
しかし返事の無い部屋は暗く、人の気配は無い。アバドンは、む……と顔をしかめた。背後ではなにやら、ピーピーピー……と音が鳴っているが、いつものことだ。無視して部屋を徘徊している間に音は消えた。
「我輩を喚んでおいて、居ないとは何事か、ナオ」
じろりと外の気配に魔力を向けると、いつもの時間よりも少し早いらしい。部屋をゆっくりと2周し、風呂を覗き、トイレを覗き、もう一度部屋を2周したがどこにも菜緒は見当たらない。
冷蔵庫を開けてみたが、やはり居ない。いつも飲んでいるペットボトルのアイス珈琲が入っているだけだ。それも2本も。アバドンは1本を取り出して蓋を開け、自分用のマグカップに注いで飲んだ。
「さほど美味くないな。なぜだ」
試しにもう1本の蓋も開けて一杯注いで飲んでみたが、これも同じ、常よりも味が薄く感じる。ほとんど水だ。
「つまらぬ。小娘はどこだ……」
シュウシュウ……と喉から魔力の高まる音が溢れる。
奈落の王アバドンはかつてないほど苛立った気持ちを覚えていた。
****
「アバドン、今日は来てないよね……」
残業を終えた菜緒がマンションまで辿り着いた時には、既に20時をまわっていた。今日はこれくらいの時間になるだろうと予測しておいたので、洗濯機にはタイマーをセットしておいたのである。召喚する術者、つまり菜緒(には召喚している気持ちはこれっぽっちも無いが)が居なければ、アバドンは召喚されないのではないかという考えもあった。
これでアバドンが出て来ないようになれば、ひとまず菜緒の洗濯機問題は解決されるはずだ。
「ほんと、毎日毎日、私のアイス珈琲飲んで、ガリガリ君食べて帰って行くとか止めて欲し……」
ぶつぶつ言いながらマンションのエントランスに足を踏み入れたところで、菜緒は動きを止めた。見知らぬ男がポストを覗き込み、手を突っ込んで漁っていたからだ。住人としては見覚えが無く、そして男が手を突っ込んでいたポストは菜緒の部屋番号のものだった。
「な。なにして……」
いったい何をしているのか。どう考えても変質的な行為に、ぞっとして声が枯れる。その気配に気が付いた男が振り向き、しかし菜緒は身体が竦んで動けなかった。ほんの少しの間沈黙した後、男が「くそっ」と舌打ちしてその場を逃げ出す。自然、男がこちらに向かってくる様子になって、逃げなければと脳が命令する。しかし、それでも足が動かない。
しかし、男と菜緒はすれ違わなかった。菜緒の眼前で悲鳴が聞こえ、男の身体が浮いたのだ。
「この男がどうした、ナオ」
男の首を掴んで持ち上げているのはアバドンだった。男は首を絞められ声を出せずにもがいている。
「あ……」
「お前は恐怖を覚えている。この男はお前に強い害意を向けていた。この男は敵か」
「え、と」
うめく男を腕一つで持ち上げたまま、アバドンが菜緒に視線を向ける。こうして広い場所で改めて見ると、アバドンはそこらを歩いている人間の男とは比にならぬ背の高さと逞しい身体だった。つまり、人間の男を腕一本で宙ぶらりんにできるほどの。……このままでは持ち上げられている男が死んでしまう。
「あ、アバドン、下ろして死んじゃう!」
「お前の敵に死を与えて何が悪い」
「敵じゃないから、お願い!!」
ようやくアバドンの手から男がどさりと落ちた。男はそのまま気を失ったようで、ぐう……と唸り声を上げて地面に倒れ込む。男が無事であることにほっとして、ようやく気が付く。アバドンは青緑色の姿で全裸のままだ。
「ちょ、ちょっとアバドン、その格好でここにいるの不味い」
「何がだ」
何がだ、ではない。そもそも青緑色の肌を持つ逞しい男前は人間に存在しないし、全裸で外をうろうろしている事自体が犯罪だし、防犯カメラに絶対映っているだろうし、男はまだいろいろ未遂であるにも関わらず気を失っている。
「あの男はお前に害意を持っていた」
「でもまだ何もやってなかったでしょう」
「お前の身に何かあってからでは遅かろう」
「そっ……」
こんな時であるにも関わらず、アバドンの言葉に菜緒が目を丸くしたが、すぐに気を取り直した。男はともかく、アバドンの姿を見られるのは非常に不味い。へたするとここに住めなくなるのだと説明すると、アバドンは仕方が無いと頷いた。
「お前がここに住まぬのは不都合だ。あの男の記憶と、ボーハンカメラとやらの記憶は消しておいてやろう」
言うなり、アバドンはパチンと指を鳴らした。瞬間、男がハッと目を覚まし、きょろきょろと周囲を見渡した。どうやらアバドンの姿も菜緒の姿も見えていないようで、ちくしょうと毒付いた後、すぐに逃走して見えなくなる。
「い、いまので、大丈夫……?」
「ああ。お前のことも我輩のことも忘れている」
その時、チン……とどこかでエレベーターが到着する音が聞こえた。見ると2階から誰かが降りてくる様子だ。見つかっては不味いと慌てて、今度は菜緒がアバドンの腕を掴むと、背中に逞しい腕が回された。
瞬きの間に、エレベーターホールではない場所に移動していたことが分かったが、アバドンの腕が存外きつく回されていて、顔を動かせない。
「ちょ、ちょと、あの、ここ、ど、どこ……」
「案ずるな。お前の部屋だ。誰かに見られたらまずいとのお前の意向を汲んで、我輩が連れてきてやったのだ」
「あ、ありがと」
「うむ」
言われて視線だけを動かすと、確かに菜緒の部屋のようだった。それが分かって、こわばっていた肩の力が抜ける。ついでに緊張していた気持ちが一気に解けた。特に何もされてないとはいえ、見知らぬ男にポストを漁られていたことを思い出して、一気に恐ろしさがこみ上げる。思わずぎゅ、とアバドンにすり寄ってしまう。大きな手が菜緒の髪を撫で、背中にまわされていた腕に力が込められたように思えた。
……が、
「小娘」
いつもの偉そうな声が聞こえて我に返る。
あわてて胸から顔を離して見上げれば、青緑色の悪魔が勝ち誇ったような顔で菜緒を見下ろしていた。
「なぜ我輩を喚んでおきながら、部屋にいない」
「え?」
「我輩に無断でどこに行っていた」
「ってか、私喚んでないし! なんで仕事に行くのにアバドンの許可がいるのよ! そんなことより何か着てってばもうううう!!」
思わず抱きつきそうになってしまった自分を叱咤激励し、目の前の青緑色の腕から逃れる。例え助けられたとはいえ、なぜこんな洗濯機から現れた薄気味悪い上から目線の全裸男に抱きついたのか、一瞬前の自分を本当に殴りたい。
アバドンから少し距離を取って、改めて部屋を見渡す。
テーブルの上にはアイス珈琲のペットボトルが2本、どちらも飲みかけの状態で置かれている。そういえば……と思い出して、アバドンが出てきたであろう洗濯機のところへ行く。
「……アバドン……」
当然のように洗濯機の蓋が開いていて、覗き込むと、洗剤の香りがする水の中に未洗いの洗濯物が静かに沈んでいる。
菜緒はタイマー予約を諦めた。
****
ポストを漁っていた男については、そういう男が居た、ということだけを管理会社に伝えておいた。防犯カメラの映像を調べられ、確かに郵便物を漁っている男が居たらしく、厳重警戒をするように住民へと通達された。ただ、アバドンの言った通り、男の記憶と防犯カメラの記録からは、青緑色の悪魔の姿は消えていたようだ。
そうして今でも、アバドンは洗濯機を回す度に、奇怪な音と共に菜緒のもとにやってくる。
「我輩を喚んだのはお前か小娘」
「だから喚んでないって、あと私のパンツ被らないでって言ってるし、床を水浸しにしないでって言っ……」
洗濯槽から出てきたアバドンが、ブルブルペチペチ……と身体を震わせ、大量の水滴が菜緒に掛かった。今日は一際水量が多い。ついでに今日はブラもパンツも飛んできて、菜緒の顔に引っかかる。
速やかに自分の顔から下着を取り除いて、見ると、アバドンが先ほど出てきたばかりの洗濯槽に顔を突っ込んでいる。いっそこのまま戻ってくれないだろうか。
「アバドン……水は拭いてって……何してるの?」
「お前が服を着ろと言ったから、ニホンの男が身に着けるという下着を持ってきたのだ」
「下着?」
「うむ、これだ」
洗濯槽に顔を突っ込んでいたアバドンが、ずるりと何かを取り出した。
「……」
「しかし身に着け方が分からぬ。小娘、お前が我輩に着けるがいい。栄誉と思え」
「……自分で、着けろ……っ!!」
菜緒はふんどしを手に胸を張っているアバドンに向かって、バスタオルを投げつけた。
****
「ちょっとーーー!! アバドン!! なんでこんなところに私のパンツ乗せてるのよ……!」
「お前が常にやっているように棒に掛けておいてやったのだ。小娘、我輩に感謝せよ」
室内用の物干竿にただ引っかかっていた下着を一枚一枚下ろしている菜緒の前に、今日もアバドンがふんぞり返っている。
タイマー予約は散々な結果になったため、残業が重なってなかなか洗濯の時間が取れない時は何日かおきに洗濯機を回すようにしたのだが、そうすると今度は毎日洗濯機を動かせ、予約とやらをすれば喚べるのであろう動かせ、と文句を言うようになった。洗濯が途中で止まるのは困るのだと説明すれば、返ってきた答えは「ならば我輩が動かし方を教わってやってもいい」というもので、菜緒は洗濯機の再スタートの方法をアバドンに教える羽目になった。(ふたを閉めてボタンを押すだけである)
言う事を聞かねば、次に来た時に居座って、なかなか帰ってくれないのである。
そして、初めてのお留守番の日。
帰宅したら、全ての洗濯物が物干竿の上に、ただ、乗せられていた。
「あのね、干し方は決まってるのよ! ただ物干に乗せればいいってものじゃないの」
「チッ……気難しい小娘が。一体何が悪いというのか」
「舌打ちした! いま舌打ちした!!……あああああ、もう、何もしなくていいから座ってて!」
「アイスコオヒイを飲んでいいか」
「勝手に飲みなさいよ!!」
泣く泣く生乾きの洗濯物を広げながら一着ずつハンガーにかけていると、アバドンが菜緒のパンツを手にとってまじまじと眺め始めた。
「ちょっと何見てるのよ、返して、アバドン!」
「これは履いて股を隠すものであるな小娘」
「そうよ、ってか、履くなあああああ!」
「履くものだとお前が言ったのだろうが」
腰のあたりに位置合わせをしようとしたアバドンの手から、菜緒は下着を奪い取る。アバドンは一気に不機嫌になって脅すように声を低くした。だが、眷属共を震え上がらせる低い声も菜緒には効かない。
「こっちを履きなさいよ、こっちを……!」
菜緒はアバドンにそこらの量販店で買ってきたトランクスを叩き付けた。
こうして奈落の王にして地獄の番人アバドンと菜緒の洗濯機を巡る生活が始まったのだが、アバドンが人間に化けて菜緒の買い物についてくるようになったり、黒いスーツ姿が到底カタギには見えないため怪しい人間が出入りしていると噂されたり、結果そのおかげでマンションの治安がよくなったりするのだが、それはまた別の話である。