棚を拭く布

ああ、ああ

おれは、どうしてこんなところで
しぬこともできないで
うらみをもっていきているのか

どうせすてるものならば
すてちまってくれれば、いっそのこと
こんなみにくいおれさまに
こうしてならずにすんだものを

ちりあくたをのみこんで
しごとをするのはほんもうだが
おれのからだはもうくちて
もはやちりすらのみこめぬ
ちりにまみれてなすすべなく
それだけならばいざしらず
すてられることすらゆるされぬ

すてられればいっそのこと
こんなおれにもならなかった

すてられることすらゆるされず
ただただうらみがつもるだけ

うらみつらみもつらくなり
ひとおもいにやってくれ
おねがいだからそうしてくれ

そうしてくれればいっそのこと

つくもかみなどならなかった

****

『それ』は長く打ち捨てられ、忘れ去られた一枚の布だった。遠い遠い昔、家の子が繕って直しては着ていた着物が、とうとう繕いきれぬほどぼろぼろになって、ようやくお役御免になるかと思ったら、何枚か重ね合わせて刺し子に縫い、台やら机やらを拭くためにあつらえたものだ。

作られたのはいつだったか。それに命が宿ってしまうほどの、長い長い昔のこと。

そう。

『それ』はたくさん使われた。使って使って、少し破れて、それでも使って、少し破れて、誰かが洗濯をし、どこかに干し、乾かしきらぬうちに室内に入れられてもう一度干され、必要になった時には新しいものがあつらえられて、そのまま忘れられてしまったのだった。

部屋の出入りは全くないわけではなかった。

その家はとても古い家で、古い道具もまた、大切にするような家柄だった。茶碗や茶釜、水指に茶杓、お茶道具はもちろんのこと、箪笥に屏風、臼や杵、長い間使われては仕舞われて、仕舞われては使われて、年を重ねたそれらには、古来からのお約束通り命が宿り心が宿った。この家がまた、庭に社などを構えているような古い家だった、というのも要因としてあるのだろう。それらは、古来より付喪神と呼ばれる妖になり、この家に穏やかな幸をもたらした。

しかし、『それ』だけは違った。

本来ならば捨てられて終わり、命など宿らぬはずだったのだ。それなのに、綻び、汚れを吸ったまま、捨てられることすら忘れられて置いておかれた。使われて磨かれて宿るはずだった心と命が、ほころびたまま忘れられた恨みが募って宿ってしまったのだ。

嘆くだけの日々だった。他の仲間どもは、使われては丁寧に仕舞われて、夜中になれば何があったとどんちゃん騒ぎ。だが、『それ』……いや、『彼』だけは、汚れに塗れた髪と身体をけだるげに壁に預け、灰色に埃を被った小さな竜だけを供に、くだらぬ風に騒ぐそれらを眺めていた。

そんなある日、久しぶりにカラカラカラと、部屋の扉が開いた。

何者かが部屋に入り、きょろきょろと足を彷徨わせている。入ってきたのは人間のようだ。そこらの付喪神がキャアキャアと人間の足元にまとわりついているが、それにはどうやら気付いていないようだ。人間は何かを探しているのだろう。この部屋にやってくる人間は、大概何かを探していて、その探し物は自分ではない。

そのはずなのに人間は、まっすぐにやってきて彼を手に取った。

「あ、あった」

埃に汚れた己の身体を掴む。

「わあ、古いなあ……」

ギャア!と小さな竜が威嚇の鳴き声をあげるが、人間に届いたのかどうか。人間は小さく首を傾げただけで、別段気に留めていないようだ。こちらに意識を向けない人間に自分達の姿は見えないし、見える力もないのだろう。顔はよく見えないが、声からして若い娘のようだった。

むすめ、おれにてをふれるな

言ったが、娘はそれを手にしたまま部屋を出て行った。キャアキャアと騒ぐ他の付喪神達の騒ぎがだんだんと遠ざかり、彼はどこかに連れて行かれる。

どれ位ぶりだろうか、しばらくすると、澄み切った水の中に己の身体が飛び込んだ。何故だか娘の呆れた声を聞きながら、何度も何度も透明な水の中を彼は泳いだ。水の中をたゆっていると、温かく柔らかな手が彼を撫ぜる。髪を撫でられているうちに、蓄積された汚れと共に何かがゆらりとはげ落ちていく。隣を見ると、心地好さそうに目を閉じた彼の供も泳いでいた。

それが何度か続いた後、温かい湯の中に浸けられて、太陽の下に吊るされた。久しぶりに見る太陽のもと、彼は自分を連れ出した人間の姿をはっきりと目にする。

娘は人形のように真っ直ぐな黒い髪に、生き生きとした黒い瞳をしていた。肌の色は白く、潤んでふっくらとした唇は桃色だ。

何より、声と手が愛らしい。

「わあ、綺麗ね」

おれが?

こんなに汚れに塗れた、誰からも見捨てられた、捨てることすら忘れ去られた、このおれが?

「丁寧に作ってある。これ、直せるかなあ」

娘はそう言ってひとしきり彼を撫でた後、誰かに呼ばれて行ってしまう。いかないでくれよ、そう言おうと思って口を閉ざす。あんなきれいなむすめのとなりに、おれがならんでよいはずがない。

一体何が起こったのか。綺麗な娘を見せていい思いをさせた後、一思いに捨てようという魂胆だろうか。だが、あれほど捨ててくれと思っていたのに、あの娘をもう一度見ぬ限りは捨ててくれるなと願ってしまう。

風に揺れ、泳ぐお供の身体が真っ白くきらきらと光っている。

しろうねり?

キュ

久々に呼ぶ供の名に、キュンキュンと機嫌のいい声が返ってくる。供の美しい身体に目を見張り、彼もまた自分の姿を見るためにふらふらと近くの池のほとりへと歩いて行った。

****

吉田瑠璃は母方の祖母の住んでいる屋敷が嫌いではなかった。父も母も大きいだけで古い屋敷だと言って嫌っていたが、瑠璃はいろいろな古い道具がたくさん置いてある少し埃臭いこの家を気に入っている。

高校進学の予定をこちらに決めたとき、瑠璃は祖母の家に下宿させてもらうことにした。その一環として、夏休みもこちらで過ごすことにしたのだ。父と母はいい顔をしなかったが押し切った。共働きだし、瑠璃は自慢ではないが夏期講習などに通わなくても進学は出来る成績だったから、夏休みはのんびり、祖母の家で勉強するつもりだった。

祖母はおだやかだが厳しい人で、自分の部屋の掃除と洗濯は当然のように瑠璃の仕事だ。引っ越してきた次の日から自分の寝泊りする部屋の掃除をすることになって、瑠璃は気合をいれた。

「おばあちゃん、雑巾どっかにある?」

「たしか物置に何枚かあったと思うけど」

「わかった、探してみる!」

瑠璃が一番大好きな部屋が、この屋敷の物置だ。そこかしこに古いものが置いてあって、ちょっと不気味で面白い。昔の本のようなものを開くのは古文書のようで興味深かったし、小さなお道具はまるで命が宿っていそうなほどだ。古いけれど丁寧に使ってあって、そういうところも好きだった。

そうっと物置を開けると、埃くさい風がそよりと吹く。いつもそうなのだがこの部屋はどこからか風が吹いていて、窓は開いていないのに不思議だ。

懐かしいけどいつも新鮮な気持ちになる部屋だ。大好きだったが用も無いのに入ると怒られるので、時々何かの用事でやってくると気持ちが浮き立つ。

「あ、あった、これかな」

そうして、瑠璃は壁際に置いてあった小さな棚に、ちょこんとひっかかっていた雑巾を手に取った。からからに乾いていて随分古いなとは思ったが、他にそれらしいものは見つからない。

「わ、きれいな縫い目。これ刺し子ってやつかな」

雑巾そのものは随分古くて汚かったが、それを縫い合わせている模様はとても丁寧で不思議だった。台所に掛けているのれんも、たしかこんな柄だったはずだ。だが、残念なことに布が破れて糸が解れ、模様が途中で途切れてしまっている。

「布をあわせて、少し糸を解いて……縫い目を追いかけたら元に戻るかな」

新しく作り直せば早いかもしれないが、布を張り替えながら作るのも素敵だとなんとなく思う。それにこのまま捨ててしまうのももったいないし、刺し子をするのは楽しそうだ。

瑠璃は埃っぽい風にまとわりつかれながら、ぼろぼろになった雑巾を手にして物置部屋を後にした。祖母に見せると、もっと綺麗なのがあったろうにと笑われたが、それではないと怒られはしなかった。布を新しく張り合わせて刺し子をしてみたいと申し出ると、瑠璃が小さい頃に作った襦袢の余り布と、藍染めの糸を分けてくれる。祖母のこういうところが瑠璃は大好きだ。

何度も綺麗に洗って埃を落とし、最後に漂白をしたらまるで新品のように白くなった。漂白したからといって、普通こんなにも綺麗になるものだろうか。少し疑問に思ったが、綺麗になったら刺し子の模様も生き生きとして見えて、嬉しくなって外に干す。

今日はよい天気で、きっとすぐに乾くだろう。乾いたら新しい布を宛てがって、刺し子で縫ったらどんな風になるだろう。楽しみで鼻歌も混じりそうな気分だ。

時間も夕方になった頃、干してあった雑巾を取りに行くと、池のほとりに見知らぬ男が立っていた。人見知りなところがある瑠璃は、警戒して足を止める。

「……誰?」

男はこざっぱりとした着物を着ていて、随分と背が高い。そして肩に小さなふわふわした、鯉のぼりのようなものをぶら下げていた。男は瑠璃の声に、驚いたように振り向く。

「お、おま、おま、おまえ」

「あ、あの、誰ですか」

「あの……」

男は顔をなぜか真っ赤にして、しどろもどろになっている。肩にぶら下げた鯉のぼりが、風もないのにふわりと舞い上がった。

****

「るり、るり、くすぐったい、うふっ、うふはははあはは、ひぃぃ」

瑠璃の部屋で大の男がごろごろと転げ回っている。その隣で瑠璃は大きなクッションにもたれて、手元で何かを縫っていた。時々、瑠璃の手元を白くて長くてふわふわとしたものが覗きこんでは、キュキュと鳴いている。白くて長いものの顔は、龍にも狐にも鳥にも似ていて、柔らかな身体はすべすべとした手触りだ。

「ちょっとま、そこ、だめっ、うひい、あはは、うは」

「ちょっときんちゃん、静かにしてよ。白うねりちゃんも、針が刺さると危ないから」

キューゥ

白い生き物を適当にあしらいながら、瑠璃が縫っているのは先日物置から見つけ出した雑巾だ。綺麗に漂白したもので、刺し子の糸を途中まで抜いて留め、破れたところを綺麗に切り取って布をあてて軽く縫いあわせてから、丁寧に刺し子の刺繍を施す。

男は瑠璃が布を寄せたり、揉んだりする度に床を転がり回って、それがおさまってはじっと瑠璃を見つめて髪に手を触れようとしている。

男の名前は謹蔵きんぞうという。

瑠璃がちょうど干していた雑巾を回収しようと外に出て行った時、池のほとりに立っていた男だ。その男の側にいる白くてふわふわした生き物は白うねり。こちらはキュウキュウと鳴いている。

瑠璃が持っている雑巾が、パタパタと動く。

「こら! きんちゃん、動かないで」

「う、はい、はい、……いひっ、ひひっ、うひひ」

注意されると同時にパタパタと動いてた雑巾がおとなしくなり、謹蔵もまた肩をすくめておとなしく縮こまったが、瑠璃がちくちくと手を動かし始めると、また転がりながら笑い始めた。

謹蔵は、自称雑巾の付喪神である。そう言われて最初は大層驚いたが、謹蔵が姿を消してみせ、その後雑巾をうねうねと生き物のように動かし、喋ったのを見せられると信用せざるをえなかった。

何でも物置のすみに放っておかれた恨みが募ってうっかり付喪神になってしまったそうなのだが、危うく禍つ神になってしまいそうだったところを瑠璃に拾われ、和つ神になったのだそうだ。人の姿をしているが完全に人間というわけではなく、白うねりと違って瑠璃には触れられない。雑巾に姿を変えて動き回ることは出来る。

白うねりというのは謹蔵の眷属で、お供なのだそうだ。雑巾が纏う気というか、なんだかそういうものが生き物の形を為していて、手を触れられるのは、実際に触れているのではなく空気の流れを感じるのと同義だそうで。謹蔵には触れなくて白うねりには触れるね、と言って遊んでいると、必死の形相でそんなことを言っていた。

肝心の謹蔵は、というと、目つきが鋭く瑠璃は最初怖かった。けれど、目つきが鋭いだけで、実際のところは怖いというよりも、懐いた犬みたいな感じだ。いつも白うねりと一緒に瑠璃の膝を争っている。

今は当初の予定通り、雑巾に新しい布をあてがって刺し子の縫い取りをしているところだ。どうやらくすぐったいらしく、針を動かす度にくふくふと笑って転がっている。

キュ、と白うねりが鳴いた。

「ほら、できた!」

「うわあ、るり、お前うまいな! すごいぞ!!」

綺麗な刺し子は難しいから、すごく大きな菱形をいくつか並べただけの図柄だ。少し歪んでしまったが、新しい布に藍染めの縫い目は可愛らしく満足のいく出来映えだ。

「るり、お前はすごいよ! どうしてこんなことが出来るんだ、魔法か!?」

「もう、大げさだわ、きんちゃん」

言いながら、盛大に褒められるのは悪い気分ではない。照れたように笑っていると、急に謹蔵が真顔になって再び瑠璃の横髪に手を伸ばそうとした。だが、謹蔵の手は瑠璃の髪には触れられない。すうっとそれは通り過ぎ、代わりに白うねりがほわほわと瑠璃の頬を撫でていった。

「白うねりちゃんも褒めてくれる?」

キュ

白うねりが鳴いて、口許と髭をぴくぴくと可愛く揺らす。指先で鼻先を撫でてやったら、嬉しそうに小さな目をさらに小さくする。

「……るりぃ」

背の高い身体をいじけるように縮めて、謹蔵が鋭い目を涙目にして瑠璃を見ている。瑠璃は苦笑して、先ほど丁寧に仕上げた刺し子の雑巾を撫でてあげた。

****

「お前、るりに触り過ぎ」

キュー

謹蔵は瑠璃の部屋で留守番をしながら、まとわりつく白うねりをしっしと追いやっては、再びまとわりつく鼻先を撫でてやった。白うねりは謹蔵に追いやられてもすぐに懐いて、服にしがみついて風にそよぐ真似をしている。

瑠璃は今、図書館とやらに勉強をしに出かけている。一緒に行くことは出来ないものかと期待していたが、さすがにそれは無理だった。それはそうだ。勉強道具の中に雑巾を入れていく人間など、聞いたことも無い。

でも本当は一緒にいたくて仕方が無い。こうしている間にも、瑠璃の勉強するテーブルが汚れてしまったらどうするのだ。瑠璃の掴む手すりが汚れていたらどうするのだ。誰が拭くのだ。心配で心配でたまらない。

そうだ。謹蔵はただの雑巾だ。布切れだ。自分の本性がそれだから、布の状態でなければ瑠璃の手を感じられない。瑠璃の手が謹蔵を洗って、絞って、撫でてくれるのは好きだったが、出来ることなら自分の指先で瑠璃の髪を揺らしてみたかった。白うねりには出来るのに、自分が出来ないのは納得がいかない。

「はあ……るり、そろそろ帰って来ないかな」

謹蔵は人間の身体を消して雑巾を動かした。四角い布が立ち上がり、近寄ってきた白うねりの背中にひょいと乗る。布の端で白うねりの身体に掴まって、身体を縦にして扉の隙間を出て行く。瑠璃がいない間、謹蔵は時々こうして家の中を探検していた。基本的には瑠璃の部屋を掃除して、帰ってきた瑠璃に褒められて、手洗いしてもらうのが好きなのだが、どうしても待ちきれない時は玄関まで迎えに出てみたりしているのだ。見つかったら怒られるのだけれど。

瑠璃は祖母と2人で暮らしていて、こうして動き回っても祖母に見つかったことは無い。もちろん見つかりそうになっても、そっと棚に佇んでおけば、雑巾がそこにあるとしか思われないだろう。

その日も、見つからないはずだった。

だが、どうした風の吹き回しか、こうして謹蔵が家の中をうろつくようになってから、家の中で悪戯する付喪神や家鳴り達をよく見かけるようになった。もともと庭に社のあるような、由緒の正しい家である。こうした小さな小さな妖達は珍しくない。

ちょうど食堂を覗き込んだとき、コトン、と何かが倒れた音がして、キャア!という小さな悲鳴が上がった。どうやら小さな妖怪が、牛乳の入ったコップを倒してしまったようだ。

普段ならば放っておくところなのだが、テーブルの上にちょこんと置かれた現代ものの台拭きが何故か目についた。この前、自分がいるのにも関わらず、瑠璃の部屋のテーブルを拭いた奴だ。

咄嗟に謹蔵はふよふよと倒れた牛乳の側に寄った。どうしてもたおるで出来た台拭きに負けたくなかった。

「瑠璃? 帰ってきたのかい?」

その途端、運が悪く瑠璃の祖母に見つかってしまい、ぺしゃりと吸いきれなかった牛乳の中に落ちてしまう。

しまった、吸いすぎた。木綿の自分に一杯分の牛乳は、あっというまにべしゃべしゃになって力が抜ける。たおる、とやらで作られた新参の台拭きならば、もっともっと吸ったのだろうか。

しかも初めて拭き取った獲物の得体の知れなさに、身体の力が入らない。見れば白うねりも弱々しく倒れていて今にも消えてしまいそうだ。

まさか自分にこんな弱点があったなんて。

気が付くと、謹蔵は洗濯機の中に入れられていた。

****

「ただいまー」

勉強を終えた瑠璃は、今日は早めに帰ってきた。雲行きが怪しくて雨が降りそうという理由もあったが、なぜかあまり楽しくなかったからだ。1人で過ごすのは嫌いでなかったのに、なぜだか最近、1人でいるのが物足りない。謹蔵と一緒にいるからだろうか。

謹蔵は男の人なのに、大人という感じがまるでしない。大きな弟が出来たようで、一緒に過ごすのは楽しかった。瑠璃のするどんなことも、一緒にやりたがって楽しんでくれるし、くだらないとバカにしたりからかったりしない。洗濯も掃除も、謹蔵と一緒にするのは楽しい。

この間、瑠璃の小さな頃に着ていた着物で浴衣用の鞄を作ったのだが、その端切れで雑巾の端に引っ掛け用の紐を作ってあげると言ったら、ちょっとびっくりするくらい喜ばれた。その時の謹蔵の顔を思い出して、瑠璃は小さく笑う。今日、それを縫い付けてあげよう。

「きんちゃん、帰ったよ」

横に開くタイプの戸をカラカラと開けて部屋を覗き込む。しかしいつもなら、白うねりと共に先を争って飛び出してくる謹蔵が、今日は何故かいなかった。

「あれ? きんちゃん、白うねりちゃん、いないの?」

小さく部屋の中に声を掛けたが、返事が無い。胸騒ぎがして部屋のあちこちを探したが、どこにもそれらしい雑巾は見つからなかった。部屋の隙間に入り込んでしまったとしても、白うねりなら出て来られるはずなのに。

その時、遠くでゴロゴロと雷の鳴る音が聞こえた。

「雨、降りそう」

言った途端、ふわりと雨の香りがする。どこかの窓が開いているのだろう、風が吹いてきて我に返る。

「瑠璃ー! 雨が降りそうだから、洗濯物を入れてきて」

「あ、はあい」

台所から祖母の声が聞こえる。先ほど夕食を作っていたから、手が離せないようだ。しかし、いつもこの時間には洗濯物を取り込んでいたはずだが、まだ何か外に残っているのだろうか。

出がけに声をかける。

「おばあちゃん、今日何か干してた?」

「テーブルの上に出しっ放しにしてた瑠璃の布巾、使っちゃったから洗濯したのよ。他のと一緒に」

「えっ!?」

他の台拭きや布巾などと一緒に、漂白して洗濯機で回してしまったらしい。それだけを外に干しているのだそうだ。

嫌な予感がした。

どうしてそれがテーブルの上に出しっぱなしになっていたのかは分からないが、瑠璃の布巾……ということは、それは多分謹蔵に違いない。

謹蔵のことはずっと瑠璃が手洗いしていたのだが、それが洗濯機で回されたなど……どうなるのだろう。白うねりちゃんは? 謹蔵は?

「大変! きんちゃん……!」

慌てて外に飛び出した途端、バケツをひっくり返したような雨が降り始めた。瑠璃は傘を差すのも忘れて、物干のところに駆け出す。サンダルの足元を水浸しにしながら物干のところにいくと、水浸しになった情けない姿の謹蔵が佇んでいた。

「きんちゃん!」

「るりぃ」

謹蔵が手を伸ばして瑠璃に抱きついた。すり抜けるかと思った手はすりぬけず、瑠璃の身体がすっぽりと包まれる。突然のことに驚いて瑠璃が固まると、ひっくひっくと謹蔵が瑠璃の頭の上で鼻をすする。

「るり、おれ、ごめん。見つかっちゃって、洗濯機に」

「あ。あの、きんちゃん」

「牛乳、力出なくて……逃げられなくて」

「う、うん。うん、分かったから、きんちゃん、濡れるから、家に入ろ?」

「うん……」

背の高い謹蔵を肩に乗せたまま、瑠璃は小物用のハンガーを竿から取り外した。いくつかの布巾が吊るされていて、中の1枚は謹蔵だ。

瑠璃は謹蔵の手を引いて、慌てて家の中に逃げ込んだ。

「瑠璃!」

「あ、お、おばあちゃん……!」

玄関に戻ってきたところを、祖母に見つかる。土砂降りの中出て行った瑠璃を心配して、祖母がタオルを片手に待っていてくれたのだ。

「あ、あの! この、これは……」

「瑠璃、全く傘もささずにこの子は!」

「え、えっと、おばあちゃん?」

見知らぬ男……謹蔵を連れているのだから、何か言われるかと思ったが、祖母には瑠璃しか見えていないようだった。振り向くと謹蔵の姿はなく、小物用のハンガーに吊るされた瑠璃の雑巾があるだけだ。

先ほど謹蔵にぎゅっとされたのは何だったのだろう。

祖母がふわりとバスタオルを掛けてくれる。わしゃわしゃと頭を撫でられながら、瑠璃は懸命に先ほど確かに握った謹蔵の手の感触を思い出していた。

****

結局のところ部屋に戻って雑巾を広げると、しょんぼりとしおれた謹蔵が再び姿を現した。白うねりもしおしおにしなびていて、ぐったりと伸びている。

「きんちゃん?」

そっと謹蔵に手を伸ばしてみる。しかし、今度は先ほどのように触れることは出来なかった。伸ばした手に白うねりが頭を擦り寄せると確かに触れることは出来るのに、謹蔵の身体は通り抜けてしまう。その様子に、謹蔵が寂しく笑った。

「ごめんな、るり、おまえ、雨にぬれて……」

「ううん。大丈夫だよ。それよりきんちゃんは大丈夫?」

「ん、おれはあれくらいなら大丈夫」

「乾いたら、着物の紐付けたげるね」

「ん」

乾いたら……と言っていたが、乾かすにはどこかに吊るしたり掛けたりしなければならない。だが、しょんぼりしている謹蔵と白うねりを、今そんな風にする気持ちにはなれなかった。しばらくの間、謹蔵……濡れてしまったから固めに絞った雑巾を、瑠璃は膝の上に乗せる。

ころんと謹蔵が瑠璃の膝の上に頭を乗せた。

いつもは膝の上を取り合う白うねりは今日は遠慮して、膝枕をしてもらっている謹蔵の肩の上にひらりと掴まる。

そっと撫でてみると心地良さげに目を閉じたけれど、謹蔵はどんな風に瑠璃の手を感じているのだろうか。

見えているのに触れられないというのは、なんとなく切なくて、瑠璃も小さく溜め息を吐いた。

****

瑠璃がすやすやと眠っている窓辺に、一枚の雑巾が吊るされている。着物の端切れのような赤と黄色のカラフルな紐が輪になって付いていて、ちょうどそこに洗濯バサミをとめればいいあんばいに吊るされるという寸法だ。

そのすぐ側に、1人の背の高い男が座っていて、眠っている瑠璃を愛おしそうに見つめていた。鋭くきつい瞳は、瑠璃を見る時だけ優しくおとなしくなるのだ。

禍つ神になりかけていた自分を救った瑠璃。かわいくてしかたがない。大好きでしかたがない。その気持ちをもっと伝えたいのに、触れられないのがもどかしい。

白うねりが羨ましかった。風とはいえ、瑠璃の髪を揺らすことのできる白うねり。自分も雑巾に姿を閉じ込めて動いたら、もちろん瑠璃に触れることはできる。けれど、所詮は雑巾ではないか。髪を揺らすなら白うねりのような美しい風か、……それか、人間の指の方がいいだろう。

あのとき、雨の中、瑠璃が助けにきてくれたとき、確かに謹蔵は瑠璃の身体を抱きとめた。温かかった。細くて頼りなかった。自分の方がきっと頼りないのに、あの一瞬、人になった謹蔵が抱き締めた瑠璃は小さくて驚いたのだ。

雨に濡れて、風邪を引かせてしまったらどうしよう。

瑠璃、いっぱい守りたいのに。自分では役不足だろうか。たかが雑巾の自分では。

おそるおそる手を伸ばして、頬に指を触れてみる。

温かな体温と、人肌に近付いた特有の圧力を感じたが、だがまだ触れることは出来ない。

いつか、触れることは出来るのだろうか……。

「るり、だいすきなのにな」
キュ、キュゥ

ひらひらと白うねりが瑠璃の髪を揺らしている。謹蔵は瑠璃の寝台にもたれかかるように目を閉じて、白うねりが2人の間に丸まった。

****

キュッキュー!

白うねりが棚と棚の隙間から、するりと出てきて自慢げに瑠璃の元に飛んできた。口には何か紙を咥えていて、じゃじゃーん!と瑠璃にそれを見せる。

そこには小さい頃の落書きが描かれていて、瑠璃は顔を真っ赤にした。

「わああああ!」

瑠璃は白うねりから紙をバ!と奪って、大きな音をたてて机にしまった。その様子に、棚をもぞもぞと拭いていた謹蔵が姿を現す。

「なんだよ、るり。いまの」

「なんでもない!」

謹蔵は、自分の本体(雑巾)をある程度自由に動かすことが出来るし、人間の姿を現すこともできるのだ。本体のまま棚を転がって瑠璃の役に立つのを楽しみにしている。

だが、家具の隙間に入り込むのはさすがに出来ない。それは白うねりの仕事だ。白うねりは自由自在に飛ぶことも出来るから、棚の高いところの埃も吸い込めるし、先ほどのように隙間から何かを見つけては瑠璃の元に運ぶことも出来る。この間は、小さい頃の縁日で買ってもらったという玩具の指輪が見つかって、瑠璃を大層喜ばせていた。ものすごく悔しい。

「ちぇ。おい、白うねり、調子にのるなよな!」

キュー?

白うねりが悪気の無い顔で首を傾げる。それをギリギリと睨んでみたものの、白うねりはさして気にも留めずに再び家具の隙間に飛んで行った。

「ちょっと休憩する?」

「する」

掃除をたくさんして瑠璃の役には立ちたいが、瑠璃と一緒にするなら休憩も悪くないものだ。謹蔵は動くのを止めた。

瑠璃が謹蔵を手に取って部屋を出て、洗面所に行って綺麗に洗ってくれる。

たくさん吸った塵を落として丁寧に拭い、絞って伸ばして、瑠璃の部屋に設えた謹蔵専用のハンガーに吊るしてもらった。

窓から差し込む太陽の光は爽やかで、たくさん浴びるとそれだけ身体も綺麗になる気がする。

「るり」

「ん?」

白うねりの身体から、たふたふと埃を払っていた瑠璃が振り向く。今日も瑠璃はとても可愛い。

「るりがなおしてくれ、おれはうれしい」

そしていつか、瑠璃に触れられることが出来たら。





キュッキュー!!

「ん?なんだよ、白うねり。物置まで連れてきて」

キュ!

「ん、なんだこれ……ちょっとおい、家鳴りども退けって、ん?」

キュッキュゥ

「……『人と精霊のくらしのしおり』……?」

白うねりがそよそよと風を起こし、しおりのページがぱらりとめくれた。