風が緩やかに流れ、アルフォールの城にかかる濃い朝霧を吹き流した。
赤茶けた城壁と群青の屋根のコントラストが朝もやの中から姿を現す。城の尖塔を見上げると、白い霧の隙間に晴れやかな青い空が覗き、今日の天気を予感させた。
あまり背を高くする事無く、横に広く建てられた城の裏手には、濃い緑の森が広がっている。城の尖塔から見下ろせば、その森と城との間に小さな宮があるのが分かるだろう。元は森へ狩りに行くため時に使っていた狩猟用の宮だったものだ。深い森と城壁に守られるように、あるいは、城から隔絶されているかのようなその宮にも、朝の日差しが降り立った。
その小さな宮に、朝から何やら声が響いている。
「オルディナ様、オルディナ様?」
パタパタとさほど広くない廊下を歩く音が、そこかしこへと移動していく。森の手前にあるささやかな庭に続く大きな窓がバーン!と開け放たれ、黒いワンピースに白いエプロンを身に着けた少女が顔を覗かせた。
「オルディナ様、それにスレン、どこですか」
「これこれミーニア、朝から何を騒いでおるのか」
「フレク様」
ミーニア、と呼ばれた少女の後ろから、ダークブラウンのフロックコートに片眼鏡の老紳士が姿を現す。少女は老紳士を振り向くと、表情の分かりにくい顔でため息を吐いた。
「……朝からオルディナ様が見当たりません」
「おや、またか」
ふうむ……と老紳士は顎を撫でて、開け放たれた掃き出し窓から庭を見渡す。くるりと視線を一周すればすぐにも見渡す事ができる広さの庭で、奥に森が続いている。森の一部は水場のあるところまでならば、宮の一部として馬で駆けることが出来た。
「また、スレンフィディナに乗って行かれたのですね」
「鞍も乗せずに行かれたようだから、すぐにお戻りになるだろう」
老紳士の言葉に、少女は眉間に皺を寄せ、はあ……とため息を吐いた。
「こんな時にスレンはどこに行ったのかしら」
老紳士は苦笑して、庭に視線を巡らせた。霧の奥に晴天の兆しが見える朝をことさら気に入っている主人がどこに出掛けているか、主人に仕える少女も老紳士もおおよそ知っている。
彼らの主人は、アルフォール王国の第三王女オルディナ・アルフォールという。
****
「スレンフィディナ、ここで待っていて」
朝の清々しい空気と、むせ返るような樹々の香りが満ちている水場に、オルディナは愛馬のスレンフィディナに乗ってやって来ていた。小さな宮の一部になっている森を、金色の毛並みを持つ愛馬に乗って駆け、水場の水の冷たさを楽しむのが、オルディナの朝の日課だ。
19歳にもなったのだから淑女らしくすべき……と本来ならば言われるであろう年頃だったが、宮で少ない側近と共に暮らしているオルディナには届いて来ない。自覚はあるけれど、馬は乗っていなければ身体がなまってしまうし、こんな宮に閉じ込められているというのに、王女としての仕事だけは持ち込まれるのだから昼間は忙しいのだ。朝と夜、様々な憂いから解放されたこの時間に、スレンフィディナと共に過ごすのがオルディナにとっての癒しだった。
オルディナは馬から下りると、無造作に束ねていた黒い髪を解いた。少々お行儀悪く長靴を脱ぎ、赤と黒を基調にした乗馬服の上着を脱ぎ、上衣も脱いだ。躊躇う事無く乗馬用の下服も足から抜いて、脱いだ服をスレンフィディナの背中に掛けると、薄い下着姿になる。
開放的な格好に、「あー、涼しい!」と楽しげに伸びをして、下着までぽいぽいと脱ぎ捨ててこちらは岸辺に畳んで置き、身を飾るものは首から提げた金色のペンダントだけ……という格好になり、水場にそっと足を浸す。
水場は浅く、少し奥に行くと、湧き水がちょうどオルディナの背よりも高い位置から小さな滝のようになって落ちている。オルディナはそこの水を手に掬っては肩に滑らせ、背中に垂らしている黒い髪をひとまとめにして前に持ってくると水を含ませた。
この水場で水浴びをするのがオルディナは好きだった。朝、こうして一日の一番初めの水を使うのも好きだったし、護衛に剣を習った後、ここまで駆けて来て汗を流すのも好きだった。もちろん暖かい時期にしか出来ないが、硬く冷たい水に触れていると、心の奥までもすっきりと綺麗に流してくれる気がする。
19歳らしい豊かな肢体を惜しげも無く晒して水場で濡らしていると、不意に視線を感じてオルディナは振り向く。そこには、愛馬のスレンフィディナが時々、カツカツ……と蹄を鳴らしながら、周囲を警戒するように立っていた。
護衛よろしく姿勢を正している愛馬にオルディナが小さく笑って瞳を細めると、応えるように「ブルル」と息を吐く。
「もう終わるわ」
くすくすと笑ってオルディナが髪の毛を絞りながら岸辺に戻ると、スレンフィディナが木に掛けていた大きな拭き布を鼻面に引っ掛けて、トコトコと側にやってきた。「ありがとう」と言って拭き布を取り上げると身体に巻いて水気を拭き、下着を身に着ける。
すんすんとオルディナの首筋に温かな息が掛かる。
「もう、くすぐったいわスレンフィディナ!」
甘える愛馬の横顔をぽんぽんと撫でて、背中に掛けていた乗馬服を身に着ける。太ももとお尻を押し込める時に、「もうちょっと痩せたい」と言うと、ふんっ……とスレンフィディナが鼻を鳴らして首を振った。
「軽い方が貴方も楽でしょう、スレンフィディナ」
拗ねた風に唇を尖らせてみせると、ぐいぐいと鼻面を押し付けてくる。オルディナは笑いながらスレンフィディナの長い首を擦ってやって、残っていた長靴を履いた。
「さあ戻りましょうか。きっとミーニアとフレクが探しているわね。スレンは、……スレンフィディナがいると自分がいなくてもいいって拗ねるから大変」
スレンフィディナが首をぐっと下に下げる。オルディナがそこに手を付いて身体を乗せると、首を持ち上げてオルディナの身体がスレンフィディナの背中へと移動した。
「いい子ね」
オルディナがスレンフィディナのたてがみを丁寧に梳いてやると、楽しげにヒヒンと嘶き、トットット……と早足で森の中を進み始めた。
****
「オルディナ様」
「……ミーニア」
宮の庭に戻ってきたオルディナがスレンフィディナを放していると、淡々とした表情の侍女がやってきた。オルディナが12歳の頃から仲良くしているミーニアは、以前オルディナの幼少期に仕えていた侍女の妹で、彼女が結婚と同時に宮仕えを止めてしまうことになり、入れ替わりにオルディナの侍女になってくれた。侍女になってまだ2年ほどだが、それ以上の付き合いがある気心の知れた少女である。オルディナよりも3つも年下なのに、何かと淑女らしからぬところのあるオルディナよりも、俄然、女らしい。
そのミーニアが、少し垂れ目がちな琥珀色の瞳を厳しく細めた。
オルディナは誤摩化すように肩を竦める。
「……また朝駆けに出掛けていたのですか?」
「ん? うん、まあね」
ミーニアの怒ったような様子を見て、逃げるようにスレンフィディナが庭の向こうの馬屋のある方へと消えて行き、1人になってしまったオルディナはやれやれとミーニアに向き合う。
「朝の水浴びならばお部屋でも出来ますでしょう」
「そうだけど」
「今日はレイク様が来る日ですわ」
「知ってるけど」
「ということは、ことさら丁寧に身支度の準備を整えなければならない日です」
「ミーニア……」
レイク……というのは、オルディナの家庭教師である。オルディナが18歳で家庭教師から卒業した後は、第三王女付きの執務官として、オルディナの執務と王城の橋渡しをする役割を担っていた。だが、教えてもらう内容が一般教養から執務になっただけで、12歳の頃からずっとレイクはオルディナにとって美人な家庭教師だ。レイクはお洒落と流行と恋路にうるさくて、オルディナの髪が少しでも跳ねていようものなら、すぐに美容のための講義が始まる。レイクのことは大好きだが、あのレッスンは少々うんざり気味だ。
さて、忠義なミーニアに髪と服を改めるように注意され、自室へと上がろうとしたオルディナを、爽やかな声が呼び止めた。
「ディナ!!」
振り向くと、庭に置いてある彫像に青年が腰掛けていた。金色の髪に綺麗な翠色の瞳の青年は、ぴょんと彫像から飛び降りて、満面の笑みで庭を駆けてくる。白い護衛の制服に橙色の腰帯、腰には同じく白い鞘に橙色の文様が美しい剣を下げていて、着崩した上着からはひらりとドレスシャツが覗き、だらしなさと品の良さが見事に同居した背の高い青年だ。
「スレン、どこに……」
「スレン。 どこに行っていたのですか、またオルディナ様が森に出掛けられていたではありませんか」
オルディナの声を遮って、ミーニアが冷たい眼でスレンを睨んだ。スレンは大袈裟にしまった……という表情を浮かべて両手をあげ、苦笑するオルディナとミーニアの顔を見比べる。
「えっと、スレンフィディナが一緒にいたって。だから、ワタシがいなくても……」
「……スレン……」
じろ……と、垂れ目のミーニアが睨むとかなりの凄みが利いている。オルディナは困った風に頭を掻いているスレンのはみ出したドレスシャツに手を伸ばし、襟元を調えてやった。
スレンは家令フレクの息子で、12歳の頃にオルディナの元に連れて来られた。小さな頃は遊び相手や剣の相手として、大きくなってからはオルディナの護衛として側にいる。オルディナと一緒に剣を習ったはずなのに、その腕はどのような武器を扱わせても一流の男だ。しかしどことなく世間知らずの気配と、おっとりとした雰囲気も漂わせていた。
スレンはオルディナにとっては護ってくれる護衛であり、小さい頃から一緒に育った幼馴染みでもあった。透き通った優しい声に、いつも不思議な発音で、自分の事を「ワタシ」という。
「スレン、もうすぐレイクが来るわよ。部屋に居ないと怒られてしまうわ」
「分かってる、ディナ。ディナを守るのはワタシの役目だ」
言って、スレンは丁寧な仕草でオルディナの手を取って、ちゅ、と指先に口付ける。その仕草に、オルディナが困ったように微笑んだ。
****
「姫、こちらの書類に印が欲しいそうよ。あとはこれ、王女殿下のお言葉が欲しいのですって」
オルディナがいつも仕事をしている書斎に、随分と背の高い……恐らくスレンくらいあるのではないだろうか……際どいドレスを着た華やかな人物が訪ねていた。くすんだ茶色の巻き毛の髪に白い髪が幾束か混じっているが、それは年齢によるものではないだろうことが見た目から知れる。姿は年齢不詳だが脂の乗った極上の美人で、老齢にはとても見えない。
オルディナの家庭教師……執務官のレイクである。化粧はしていないのにくっきりとした目鼻立ち、鋭く凛々しい瞳は黒い硝子のように煌めいている。肩がむき出しになったドレスのスリットからは網目模様の長靴下がちら見えし、首には猫がするようなリボン、騎士達が普段に被るような帽子を被り、何故か腰には剣の代わりに鞭が提げられている。不思議な格好ではあるがレイクによく似合っていて、どこからどう見ても女にしか見えなかった。ただし、完璧な女の所作と女の言葉を使っているが、実は男である。声も男である。レイクは、オルディナの家庭教師をする時は、何故か女の格好をしてやってくるのだ。曰く、女の子のお洒落は女の子が教えなきゃ。
……それは余談ではあるが、いずれにしても、そうしたいつものレイクの格好にオルディナも何も言わない。
目の前に置かれた書類に、ため息を吐くだけだ。
「……他の人がすればいいのに」
「仕事だから仕方が無いでしょう」
「分かっているわ」
宮に引きこもり社交にも赴かない王女が出来るのは、自分に与えられている荘園の管理や、オルディナ名義で寄付や運営を行っている孤児院や学園に祝電を送る事くらいである。それでも刺繍や音楽の練習ばかりよりはよほどいい。
どのみち、自分は宮を出る事は出来ない。そんな自分が役に立てることが少しでもあるならば、例えそれが形式的なものであろうとも、仕事は仕事だ。
それでも多少の愚痴は言いたくなるというものだ。
「……孤児院や学園だって、行ってみなければどんな言葉をかければいいか、なんて分からないわ」
「……ひーめ」
「分かってる」
レイクが嗜めるように、……そして気遣うようにオルディナを見た。オルディナもわざとおどけたように肩をすくめて、孤児や学園の生徒達の感謝の手紙に目を通す。
第三王女のオルディナは12歳でこの宮で暮らし始めてから、兄弟姉妹達、父母である王や王妃に直接会ったことはない。仕方の無い事だと分かっていても、12歳になるときまでは仲の良い家族だったのだ。今だって、折に触れて手紙を送ってきてくれるし、贈り物もくれる。……けれど、そう、仲が良かった事があるだけに、ほんの少し寂しい。
しかし、オルディナは自分は恵まれているのだと知っている。周囲には信頼のできる家臣達が居り、例えば朝、宮を抜け出して森の水場に出掛けても、大目に見てもらえるのだから。
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お茶の時間までに書類仕事を終わらせ、オルディナは一息ついた。兄弟達や国王夫妻に比べれば、この時間に仕事が終わってしまうのだから楽なものだろう。それでもずっとにらめっこしていた文字から解放されて、肩の荷が降りる。
「ディナ。ディーナ、おつかれさま。お茶にしよう」
「スレン」
レイクがいる時は執務室から追い出されていたスレンは、居間に戻ってきたオルディナを見て、ぱっと笑った。その楽しげな笑みを見て、オルディナも心がほっと安らぐ。常にオルディナの側にいるスレンだが、自分が必要ではないとき……たとえば、執務官のレイクや家令のフレクが側にいる時や、オルディナが馬と森に出掛ける時は彼女の邪魔をしないように離れていた。スレンが言うには、レイクやフレクは自分と同じ位武器が使える戦士であり、スレンフィディナもまたオルディナを充分に守る事の出来る力を持っているからだそうだ。そうした時、スレンは宮の周囲の見回りを勤めている。
そのかわり、オルディナと同室で護衛をしている時は、独占とばかりにオルディナの側を離れない。護衛としては少々度が過ぎるほどだが、幼馴染みであるという気安さも手伝って、それを諌める者は誰もいない。
「スレン、真面目に仕事をしてください」
「してる。……ディナの護衛がワタシの仕事だから、ディナの側にいる」
やや冷たい表情でスレンを一瞥したミーニアだったが、呆れたように溜め息を吐いた。注意を促すもこの程度であるから、強制力も何も無い。
くつろいでいると、家令のフレクがいくつか手紙を持ってやってきた。フレクはオルディナが12歳で宮で暮らし始めた時から、家令としてオルディナに仕えてくれている。くすんだ茶色と白髪が混ざった巻き髪を長く伸ばし、首の辺りで1つにまとめた穏やかな老紳士のフレクは、少し素っ頓狂な発言もあるが、非常に博識で、スレンの父親だというだけあって腕も確かだ。もっとも、スレンと血が繋がっているにしては、似たところが全くない。
「申し訳ありません、姫。これ、スレン、あまり姫に近寄っ」
「フレクはうるさい」
「……」
にっこりと苦笑して息子を嗜める家令のフレクを、スレンがぎりっ……と睨んだ。その一瞥に穏やかそうな老紳士の片眼鏡の下の黒瞳がぴくりと引き攣るが、オルディナやミーニアがその表情の変化に気が付く前に、にこにこと元の老紳士の笑顔に戻る。
つまり、誰が諌めてもスレンはオルディナの側にいる、という我侭を通すのだ。オルディナもまた、この環境が心地よくて甘んじてしまっている。
スレンの髪に小さな葉っぱが付いているのを見て、オルディナが手を伸ばした。
「スレン、どこを見廻りしてたの。髪に葉っぱが付いているわ。森?」
「森」
うん、と頷いて、取ってと言わんばかりに顔を近付ける。オルディナの指が触れると楽しげに笑って、更に顔を近付けようとしたが、ゴフンと咳払いしたフレクによってそれ以上の接近は止められた。
スレンは明らかにムッとしていたが、オルディナの意識がフレクの持っている手紙の束に移ったので、しゅんとおとなしくなった。
オルディナは背を正して手紙を受け取ると、宛名を確認する。使われている封筒も、封蝋も王家のものだ。
封を切って便箋を取り出し、内容を確認する。
「オルディナ様……?」
小さく溜息を吐いたオルディナに、ミーニアが遠慮がちに声を掛ける。オルディナは、なんでもないの、と首を振った。
「今度の国誕祭、私は出なくてもいいって、いつもの内容よ」
「そんな……」
「他国の方々もたくさん来られて、その方達が連れてきている騎馬が暴れたら困るのでしょう……仕方が無いわね」
「オルディナ様」
12歳でこの宮に暮らすようになって、このようなことは何度もあった。オルディナは慣れた諦めと、慣れない寂しさを心に閉じ込めて、いつものようにニッコリと微笑む。
そうして笑ったオルディナの頬を、不意に大きな手が包み込んだ。
「ディナは、悪くない」
「スレン」
いつもスレンが浮かべている天真爛漫な笑顔ではなく、真剣で真っ直ぐな眼差しが、オルディナを見つめている。
「ディナは、悪くない。……オルディナ」
オルディナの悲しみはスレンの悲しみ、とでも言うような切ない声だった。オルディナの長い髪をスレンの指が掬いながら、頬を撫でる。護衛が王女に触れていても、今はミーニアもフレクも何も言わなかった。
オルディナはその言葉に是も否も応えず、触れていた手をそっとスレンの膝の上に戻す。やはり笑顔はそのままで、ただ頷いた。
「大丈夫。陛下にはハンカチを刺繍してプレゼントしましょう。きっといつものように喜んでくれるわ。意匠はスレンフィディナにしようかな」
「スレンフィディナは王様には似合わない」
「まあ、スレンったら。……それじゃあ、陛下の愛馬にしましょうか。イャルクは薄墨毛ね。フレク、陛下にお返事を書くから用意を。ミーニア、早速刺繍に取りかかりましょう。後で糸と布を選ぶから持ってきて」
主人の命に、何か言いたげだったが……結局何も言う事の出来なかったフレクとミーニアが丁寧に一礼した。オルディナはいつものようにすっと背筋を伸ばして、少し冷めてしまった紅茶に口を付ける。こちょりとくすぐる指先に気が付いて、オルディナが隣に視線を向けると、スレンがじっとこちらを見ていた。
「スレン?」
「……ディナ」
「もう、大丈夫だったら!」
「知ってる。でもワタシの仕事は」
「私を守ること、でしょう。大丈夫。ここから抜け出したりしない。……森の水場には、行くかもしれないけど」
「行く時は、スレンフィディナと一緒に」
「あの子しかいないわ」
「……」
オルディナの答えにスレンが沈黙する。これ以上言う事は何も無い、……と、オルディナが心を閉ざすように瞳を伏せた。
スレンの指先がオルディナの瞳の下をそっと拭った。
涙こそ出ていなかったけれど、まるでそこに涙がこぼれたかのように。
****
こういう夜は、皆を心配させないように早い時間に床に入るが、大概眠る事は出来ない。眠ったら怖い夢を見てしまいそうになるからだ。暗闇の……月と星の灯りだけが頼りの孤独な寝室では、眼を開けていても脳裏には思い出したくない映像がはっきりと蘇る。
12歳の時に起こった出来事、その時に亡くなった大好きな人、大好きな馬。非力な自分が悔しくて悲しくて城を飛び出して。……そして、城の皆に、オルディナは拒絶された。
いや、今の自分であれば、あれが拒絶ではなかったのだろうと理解できる。きっと城と、そしてオルディナを守るための処置だったのだ。しかし12歳のオルディナがその時に味わった孤独は、成長した今でも時々胸を抉る。あれからオルディナは城の外を出歩く事を禁じられた。……兄弟・姉妹達、王も王妃も、手紙はくれても会いにきてはくれない。オルディナに接すると、オルディナの呪いが移ってしまうから。
寝台に潜ると、オルディナはぎゅ……と目を閉じて、胸元のペンダントを握りしめた。
『ディナ、ディナはいい子だけど、甘えん坊さんだね』
頭を撫でてくれる優しい手と、すんすんと頬を寄せる栗鹿毛の馬。
「ウィスリール兄さん、ファング……」
大好きだった兄の名前と、その愛馬の名前をそっと口にして、く……と歯を食いしばる。思い出すと泣いてしまうが、この年齢で思い出して泣くなんて……と、王女としての矜持がそれを止める。誰も見ていないのだから泣きじゃくればいい。けれど、オルディナにはいつからかそれも出来なくなっていた。
コトン、と音がした。
身体を起こすとテラスへ続く窓辺に、月明かりに静かに光る金の毛並みが映っている。
「スレンフィディナ……」
夜風にゆらゆらと揺れるたてがみが見えて、オルディナは自分の心が急にほんわりと慰められていくのが分かった。オルディナは寝台から出ると、履物を履いてひたひたと床を進み、静かに窓を開いた。
ぶるる、と息を吐いて、愛馬が天鵞絨のような毛並みをオルディナの胸元に押し付けた。オルディナもその顔を、ぎゅっと抱き締めて、しばらく暖かい吐息を楽しむ。
「スレンフィディナ、ダメでしょう。ちゃんと部屋に戻りなさい」
しばらくしてから身体を離し、戻るようにと嗜めたが、スレンフィディナは不満そうにオルディナの頬に自分の横面を摺り寄せるだけだ。しかたなくオルディナは寝間着のまま外に出て、スレンフィディナを導くように共に歩き始める。
そうすると機嫌良く、トコトコとスレンフィディナが歩き始めた。オルディナと一緒ならば、部屋のすぐ側にある宮を開いて作った馬屋にすぐに入った。馬屋といっても、藁などは敷き詰めていない。その代わりたくさんの綿花が敷き詰められていて、部屋の壁も宮の一部だけあって人間のそれとほぼ変わりがなかった。
スレンフィディナの部屋に入ると、大きな馬の身体が通れるだけの扉……門を閉める。しかし、高い位置に付けてある窓から月の明かりが差し込んで、スレンフィディナの毛並みが分かるほどの明るさだ。スレンフィディナはオルディナの寝間着の裾を咥えると、そのままゆっくりと四肢を曲げて綿花の中に座った。
「こら、スレンフィディナ」
ぐう……と不満げなうなり声を上げて、スレンフィディナは長い首でオルディナの腰をぐいぐいと自分の方に引き寄せ始めた。オルディナは小さく笑って、すとんとスレンフィディナの大きなお腹の横に腰掛ける。満足げにスレンフィディナは頭を下げた。
「スレンフィディナ」
オルディナが、スレンフィディナの金色の毛並みのお腹に体重を掛ける。
「宮から出たいなんて贅沢は言わないし、私はみんなから守られているし、我侭を言ってはいけないと分かってはいるの」
また、く……と歯を食いしばった。いつからだろう。こうして顔に力を入れていれば、涙が我慢できる事に気が付いたのは。すぐに涙の出そうになってしまう、感情の起伏の激しい自分が嫌だった。泣いて何も出来ない自分が嫌になるが、未だに自分には何も出来ていない。
「スレンフィディナ、あなたが大好きよ。あなたがいなければ、私きっとダメになっていたわ」
くうくう、と聞こえるスレンフィディナの呼吸と、大きく揺れる鼓動にオルディナは目を閉じる。
「みんなのことも、好きなの。フレクも、レイクも、ミーニアも……それから、スレン……スレンのことも。……でも、どうすればいいのか分からない。何も出来ていなくて……」
さらさらとスレンフィディナの脇腹を撫でる。
「あなたも、スレンフィディナ。みんな側にいてくれるのに、……私は」
オルディナの声がゆっくりになっていき、やがて聞こえなくなった。代わりに規則正しい健やかな寝息へと変わる。そして、ようやく、閉じたオルディナの瞳から一筋涙がこぼれた。
同時に綿花のいくつかが、ふわりと舞い上がる。
「ディナ」
舞い上がった綿花が元の通り静まると、そこにいるのは馬と王女ではなくなっていた。
……黒い髪の王女を広い胸板に抱きとめて、愛おしげにその頬を撫でている金色の髪の護衛。
スレンは眠るオルディナの頬に零れ落ちた涙を零さぬよう、そっとその瞼に唇を寄せた。