風をとらえた、さんのひめ

002.風と王女

アルフォール王国、という国がある。森林と草原を統べる古い国だが、元々はこの草原地帯に国を置いていたわけではないという。

最初にあったのは、善き馬の友、と言われる戦士の一族だった。馬は草原の多い大陸にとっては大きな力となる。それゆえに戦火に巻き込まれる事も多かった。他国からの侵略と戦を避け、連れて来た善き馬を育てるためによい土地を探していた彼らは、その流浪の道の先を金色の馬の姿をした神に導かれ、草原と森と川のあるこの地を見つけた。

しかし、この地には昔から先住の民達を苦しめてきた黒泥タールの魔が住み着いていて、新たにやってきたアルフォールの戦士達が、連れてきた馬と共にそれを退治した。感謝したこの地の民は、勇敢なアルフォールの戦士と馬達を迎え入れた。

この地に定住した戦士らは先住の民と交わり共に神に感謝を捧げ、最も美しい草原に連れて来た馬を解き放った。後にこの草原は聖苑ニールと呼ばれるようになり、今でも神の血筋に連なるという馬が多く生息している。

国の成り立ちは歴史となり伝説となった今も、アルフォールには王族の男子にのみ伝わる風習がある。それが、戦士の友となる馬の選出だ。

王族の男子は12歳になったら神馬を貰い受けるために、聖苑と呼ばれる聖域に馬を捕らえに行く。いや、捕らえるというのは語弊があるかもしれない。聖苑の馬は主を選ぶというから、捕らえられるのは人かもしれなかった。いずれにしろ、ここで出会った馬は一日千里を駆ける彼の相棒となり、人生を共にする。聖苑で生まれ育った馬は人ほどに長く生きる。馬が死ねば人はそれ以外の馬を求めず、人が死ねば馬は聖苑に帰るのだ。今代の王も王子達も、皆、自らの馬と聖苑で出会っている。

オルディナは、そのアルフォール王国の第三王女さんのひめとして生まれた。

夫婦仲の良い王と王妃、そして多くの兄弟姉妹の末娘として育てられた。少し歳の離れた末生まれであることも手伝って皆から可愛がられていたが、兄や姉達が既に王族として振る舞っていた分、まだ幼いオルディナは1人で過ごす事も多かった。そんなオルディナが一番懐いていたのが、第三王子のウィスリールだ。第三王子という気ままな身分ということもあり、よくオルディナを連れて遊んでくれた。

12歳のウィスリールが聖苑の馬を連れて帰ったときオルディナは6歳で、上の兄達の凱旋が見られなかった分、とても強い憧れを抱いたものだ。12歳ながらも堂々と大人ほども大きな馬と並んで歩くウィスリールは、オルディナの瞳にはとても眩しく映った。

しかし奇しくも、オルディナがその時のウィスリールと同じ12歳になった時、王家は悲劇に見舞われた。

その日、家族で狩りに出掛けるということになった。女性陣は狩りの宮で男の帰りを待ち、男衆は自らの馬に乗って獲物を追い立てる。その時のウィスリールがとても素敵で、……そしてオルディナはアルフォールの娘らしく、馬がとても大好きだったので、ウィスリールの愛馬のファングがとても格好よく見えた。

森の奥の綺麗な緑の向こうに、ちらちらと見える影はきっとファングだ。そう思って、胸を踊らせながら見つめていると、そのファングの上に誰も乗っていないように見えた。兄のウィスリールが乗っていない、それが気になってオルディナは、つい森へと足を踏み入れる。

男達のために食事やお茶の用意をしていた女達は、そんなオルディナの小さな行動に気が付かなかった。

「ウィスリール、ウィス兄さま」

「ディナ!」

兄の姿はすぐに見つかった。先ほどの姿は見間違いだったようで、ウィスリールはちゃんとファングに乗っていた。オルディナを見つけるとすぐに下りて駆け寄ってくる。「勝手なことをしてはいけないだろう」と厳しく怒られたが、しょんぼりと謝るオルディナをウィスリールはすぐに許してくれた。抱き上げて、ファングの背中に乗せてくれる。

「仕方のないお姫様め。すぐに宮に戻っ……」

言いかけて、ウィスリールの表情が凍り付く。ファングが鋭く嘶き、森の樹々がざわざわと不安げに揺れ始めた。

「兄さま?」

「ディナ、ファングの手綱を絶対に離すな」

オルディナもウィスリールの表情と周囲のただ事ではない雰囲気を感じ取って、身体を小さく震わせる。

瞬間、ザア……と森が鳴いた。

ベチャリ、ペチャリ、と音がして、森の奥から真っ黒な塊がこちらにやってくるのが見える。兄が剣を抜く音が聞こえて、急にオルディナの身体ががくんと揺れた。

「ファング、ディナを乗せて宮まで駆けろ!」

ファングが吠えるように嘶いて、ウィスリールを置いてオルディナを乗せて駆け出した。宮にはすぐに着いた。……いや、正確に言うと、宮に着く前にオルディナは自分から手綱を離して転がり落ちた。ファングならばウィスリールを守れる、自分が乗っていてはいけない、そう思って。

そこから先はほとんど覚えていない。ただ、ファングにウィスリールのところに行ってと泣き叫んでいた事と、逃げる瞬間に見た、黒い泥を頭から被った馬のような……いや、馬と呼ぶにはあまりにも禍々しいドロドロとした影……そして、ウィスリールの声だけが脳裏にこびりついて離れなかった。

気が付いたら、全て終わっていた。

すべて、おわっていたのだ。

最終的に化け物は倒されたそうだ。何人かの兵士と、そして兄王子や王自身も少なからず手傷を負ったが、ウィスリールの捨て身の活躍によって、からくも人間達が勝利した。……しかし、オルディナの大好きなあの人と馬は帰って来なかった。

オルディナの次の記憶は、黒い布に包まったウィスリールとファング「だったもの」を見たときから、動き始める。

ファングから落馬したときの衝撃はかなりのものだったはずで、12歳の小さな身体はあちこち擦り剝いていて打ち身だらけだった。それでも骨折などの大事に至らなかったのは、きっとファングのおかげなのだろう。

もの言わぬウィスリールとファングを見た12歳のオルディナは、全てを忘れて泣いて震えるには大人過ぎ、喪に服して城で静かに過ごすには幼な過ぎた。

喪に服している城の皆がオルディナを一切責めなかったが、それすらもオルディナには納得いかなかった。ウィスリールが死んだのは自分のせいなのに。自分が森に出掛けなかったら誰も死ななかったかもしれないのに。ウィスリールからファングを奪わなかったらウィスリールは助かったかもしれないのに。みんな、みんな、オルディナのせいなのに。

なんて自分は弱いのだろう。またあの黒い化け物が襲ってきたらどうすればいいのだろう。他の人を守るには、誰も死なせないためには、……自分が強かったらウィスリールとファングは死ななかったのだろうか。

12歳になった王族の男子は、聖苑にて自分の馬を捕まえるのだという。

……オルディナは、王族の、12歳だ。

****

幼い責任感と、しかし大半は何かから逃げるように、オルディナは1人で森へと入っていった。あの黒い化物が出た狩場の森は怖かったが、朝方ならばきっと大丈夫だと自分を叱咤する。震える足をようよう進めて森を進んだら、その向こうには王家に伝わる聖苑があるはずだ。そこでオルディナの馬を見つけよう。そうして、悪い者から皆を守ろう。

思えば、12歳の足でそれほど簡単に森を抜けられるはずもなかったが、オルディナはどのようにしてか聖苑に辿り着いた。

突然晴れる視界、まるで水のように揺れるのは美しい翡翠色の柔らかな草だ。それは何処までも広く、地平の向こうまで続いている。草の細波さざなみに浸かりながら、何頭もの立派な馬が駆けるのが遠くに見え、オルディナはここが聖苑であることを確信した。

しかし、オルディナは城に居る馬達ならば平気で撫でたり触れたりすることが出来るが、野生の馬をどのように捕まえればよいのかは知らない。

しかたなく数頭の馬が草を食んでいるところにそっと近付いてみる。

いつもならば……城の馬達ならば撫でてとオルディナに近寄って来るのに、彼らは戸惑ったように距離を置いた。試しに他の馬にも近付いてみたがどれも同じで、気が付けば何頭もの大きな馬達が、遠巻きにオルディナを見つめている。

「どうして?」

涙がこぼれそうになり、オルディナはぐっと歯を食いしばった。

どうして馬達はオルディナの所に来てくれないのだろう。オルディナが王子ではないからだろうか。それとも、馬達はオルディナを嫌いなのだろうか。大事なファングを死なせてしまったから。

我慢して、我慢して、だがとうとうポロリと涙がこぼれた。

一度溢れてしまった涙は止まらずに、拭いても拭いても溢れてくる。傷だらけの身体はつらくて、多くの馬達によそよそしく遠巻きに囲まれた心は寂しかった。

突然、グルル、と、頬に温かな息を感じてオルディナは顔を上げる。

すぐ近くで、オルディナの小さな顔を大きな一頭の馬が覗き込んでいた。その馬はオルディナの頬に鼻面をくっつけて、ポロポロこぼれている涙を受け止めてくれていた。生きている温もりに触れた途端オルディナは我慢できなくなって、その馬の顔に抱き付く。そうして、ウィスリールが亡くなってから初めて、わんわんと声を上げて泣いたのだ。

****

その馬は他のどの馬よりも大きくて逞しく、しかもオルディナが見たことの無い美しい金色の毛並みをしていた。触れると信じられないほど滑らかで、たてがみや尻尾の長い毛足も真っ直ぐで艶やかだ。長い睫毛の下の賢そうな瞳は静かにオルディナを見つめていて、オルディナにはこの馬が自分のもとに来てくれたのだとはっきり分かった。

馬はオルディナの泣き声が鼻声になるまでずっと身体をくっつけてくれていて、ようやく涙が乾いた頃、ぶしゅんとくしゃみをした。

その小さな音に我に返って、オルディナは思わずくすくすと笑う。やはり兄が亡くなってから、初めて笑った。オルディナは、かしゅかしゅと馬の鼻を指先で撫でて、その金色の毛並みをうっとりと眺める。

「……わたしといっしょに、来てくれる?」

馬は、是と答えるようにヒヒンと嘶いて、ぐいぐいとオルディナの小さな身体を押した。

「あはは! やめて、やめて、くすぐったいわ、……あ」

そういえば、呼ぶべき名前が無い事に気が付く。ただ「馬」と呼ぶのはこの美しい生き物には似合わないし、父も……そして兄達も、自らの聖苑の馬に自ら名前をつけていた。

オルディナは王族の血筋にのみ現れるという銀色に煌めく瞳で、愛馬の長い顔を両手で挟んでじっと見つめた。綺麗なアーモンド形の瞳もまた、何かを待ち望むようにオルディナを見つめている。

やがて何かを決めたように、オルディナは馬の鼻筋にちゅ、と口付けた。

「わたしが、オルディナ、ディナだから……あなたは、スレンフィディナ。私と同じ名前よ!」

きっとスーレンのように早く走るから、スレンフィディナ。そう言うと、愛馬スレンフィディナは嬉しげにオルディナの首筋に自分の頭を摺り寄せた。そのままグイグイとオルディナの身体を持ち上げて、ぽーんとたてがみの上に乗せる。

きゃあ、とオルディナが叫んだ次の瞬間には、もう背の上に乗っていて、聖苑の中を駆け始めた。

金色の馬が黒い髪の少女を乗せて、翠色の草原を駆けていく。太陽はもはや高い位置に昇っていて、風の匂いがオルディナの身体を通り過ぎた。

まるでスレンフィディナとオルディナが1つの身体になったように、1人と1頭は聖苑ニールを駆け抜けた。そのまま他の馬達を置いて聖苑を抜け、森へと入っていく。怖かった森もスレンフィディナと一緒であれば、爽やかな緑の香りすら漂うようだ。素晴らしい力を得た気がした。何も怖くない気がした。これできっと皆を守れるのだと、きっと皆喜んでくれると、そう信じて疑わなかった。

****

しかし、スレンフィディナを連れて帰ってきたオルディナを待っていたのは、困惑したような王と兄達だった。何処に行っていたのかと問われて、浮き立った心がしゅんと萎む。

「……ディナ、オルディナ……この馬は」

「スレンフィディナっていうの、あの、わたしが聖苑で」

「オルディナ……お前は……」

「お父様?」

喜んでもらえるかと思ったのに、父はまるで恐ろしいものを見るようにスレンフィディナを見つめていた。王太子が城内へ走り神官を連れてくる。もう1人の王子は全ての兵士達に馬を連れて退去を命じ、周囲にはたちまちオルディナと王家の者達だけになった。

「お父様、勝手に聖苑に行ってごめんなさい、でも……」

「オルディナ……ディナ、こちらへ……」

ひそひそと神官長と何かを話していた王は、オルディナの手を引こうとして止められた。

スレンフィディナである。

スレンフィディナが威嚇するように、オルディナの前に立ちはだかったのだ。王はすぐにオルディナの手を離し、渋面を作って首を振る。

ようやくオルディナも皆の様子がおかしいことに気が付いた。父や兄達だけではなかった。まだ昼間だというのに、馬の気配が全く無い。普段なら城の周囲は立派な馬達が兵士達に世話をしてもらったり、騎馬の訓練に出掛けたりする兵士達でいっぱいなのに、それらが全くいないのだ。

「お父様……?」

「ディナ、……おいで、スレンフィディナ、も、一緒に、こちらにくるんだ」

「うん。……いこう、スレンフィディナ」

オルディナが手を伸ばすと、張り詰めたスレンフィディナの雰囲気が一気に解ける。オルディナはスレンフィディナと共に、狩りに使った宮へと連れて行かれた。スレンフィディナはオルディナと引き離そうとするとブルルと鳴いて空気が強張るため、庭から居間へと入り、テラスへ続く窓を開放する。

そこでオルディナは父王から言い聞かされた。

スレンフィディナが緊張して怖がっているから、しばらくここで一緒に過ごしなさい……と。確かにスレンフィディナは緊張しているようだったし、連れてきたばかりで引き離されるよりはいいかもしれない。それにスレンフィディナにはなぜか普通の馬小屋は似合わないような気がした。分かったと素直に頷いて、オルディナは城に帰る父を見送った。

城に帰る父は、オルディナの手をそっと握った。

「オルディナ、勇敢なわたしの可愛いむすめ」

「お父様、わたしね」

「分かっている、ディナ。……しかし、許しておくれ」

「え……?」

父は自身の首に掛かっている馬の意匠のペンダントを外して、そっとオルディナの首に掛けてくれた。狩りに行く前の日、オルディナが「お父様の首飾り、綺麗でうらやましいな」と言ったばかりの品だ。

アルフォールの男子は聖苑で愛馬を得た時、近親者から馬を用いた身に着ける小物を贈られる習わしがある。王のペンダントは王の父……つまりオルディナの祖父に当たる人が贈ったものだと聞いた。

ただならぬ雰囲気に怯えていたオルディナだったが、聖苑で馬を得たのは決して間違った事ではない、オルディナは確かに王の……アルフォールの娘なのだと、そう言ってもらえた気がした。

しかし、父はオルディナに背中を向けて行ってしまい、小さな宮の扉は閉ざされた。

……それからずっと、オルディナはこの宮で暮らしている。

****

あっという間にオルディナの身の回りは整えられた。家令という人が来て、家庭教師の人が来た。家令はフレクというおじいさんで片眼鏡のとても優しい人だ。家庭教師のレイクもまた、少し変わった女の人のような男の人。……時々男の人の格好をするときは、この人も片眼鏡だった。オルディナの侍女は変わらず侍女を続けてくれて、その妹のミーニアが来て……しかし、オルディナは次々と変わる環境に向き合う事が出来なかった。

寝台で眠る事が出来ず、オルディナはいつもスレンフィディナにくっついて眠った。フレクが用意してくれた綿花の寝台に、スレンフィディナと一緒に潜り込む。侍女もフレクも何も言わなかったし、当然、父や母、兄や姉達に咎められる事もない。笑うことも泣くことも出来ず、楽しみはスレンフィディナと一緒にいることだけだったが、宮の小さな庭ではスレンフィディナと駆けることも出来なかった。

あるとき、宮をそっと抜け出したことがあった。スレンフィディナは大きくて目立つから、オルディナ1人で王城へ出向いたのだ。

オルディナが宮から出てきたのかと思い、城の見知った使用人達が礼を取って道を空けてくれる。普段と変わらぬ王城と、自分が城の皆に忘れられていない事に安堵したオルディナだったが、思いもかけない事が起こった。王や王子のための馬屋の側を通ったとき、聖苑の馬達が急に暴れ始めたのだ。

まるで何かにおびえるように、馬がオルディナから離れようと後ずさりを始める。兵士達が引いていた他の馬も踵を返そうとし、入ってきた騎馬達は言う事を聞かずに壁際に寄って足を震わせ始め、中庭は騒然とした。

騒ぎを聞きつけてすぐに父と兄達がやってきたが、オルディナには分かった。

馬がオルディナに怯えている。これは自分がやったのだ。

オルディナが馬を怯えさせるから、……馬と共に生きるこの城に、自分は居てはいけないのだ。だから宮に閉じ込められたのだ。

心が、すう……と冷たく強張った。父の声が遠くに聞こえ、心は落ち着いているのに心臓の音だけが激しく鳴り響く。オルディナは12歳とは思えないほど冷静に父と兄に謝罪をして、ぎゅ……と一度抱き締められてから、自分の足で宮に戻った。出迎えてくれたフレクと侍女には「大丈夫、抜け出してごめんなさい」と笑ってから、いつものようにオルディナはスレンフィディナのところで眠る。

泣いてはいけない。そう思って、ぎゅっと顔に力を入れる。

原因が何かは分からなかった。いや、自分がスレンフィディナを連れて帰ったからだろうと、それだけは分かった。しかしスレンフィディナを連れて帰ってしまったのは自分で、そもそも聖苑に出掛けてしまったのも自分だ。スレンフィディナだって思い切り走りたかっただろうに、オルディナについてきたばっかりに、一緒にこんな宮に閉じ込められた。

ある日、庭でスレンフィディナの身体を櫛で梳いてやりながら、オルディナはぽつりとつぶやいた。

「スレンフィディナ、ごめんね」

スレンフィディナがひょいと長い首を傾げる。

「わたしと一緒に来なかったら、こんなところに閉じ込められなかったかもしれないの」

オルディナの言葉に耳をぷるんぷるんと揺らしながら、じっと見つめていた。

「……でも、でもね、それでも一緒にいてくれる?」

初めて言ってしまった我侭に、胸が苦しくなってとうとう我慢していた涙がこぼれる。それはどうしても譲れないオルディナの我侭だった。見上げるオルディナの濡れた銀色に、スレンフィディナがヒンヒンと小さく鳴く。その愛らしい声にオルディナは泣きながら笑った。

とっとっと、……とスレンフィディナが駆け始める。

「どうしたの、スレンフィディナ、追いかけっこ?」

オルディナが櫛を置いて追い掛けると、スレンフィディナが少し足を早めて森の奥へとがさりと消えた。

「もう、だめよ、スレンフィディナ! 森は行っちゃ……」

森に入る手前の大きな木の向こうに消えたスレンフィディナを捕まえようと、オルディナが木の横から「スレンフィーディナ!」と覗き込んだ。

「あれ……?」

しかし、スレンフィディナの金色の毛並みはそこには無く、代わりにちょうどオルディナと同じくらいの歳の少年が立っていた。

「……」

困惑したような、どこかもじもじとした表情で、少年はオルディナの方を伺っている。

「えっと、君は、だあれ?」

オルディナが問いかける。少年はオルディナの方をじっと見つめて、言葉を選ぶように口の中をもごもごと動かした。この年頃の男の子特有の、少し高い柔らかな声は困惑の色を滲ませている。

「……君、は」

「わたしは、オルディナよ」

「知ってる。ディナ」

「そう。君は?」

「ワタシ、は」

男の子なのに、ワタシ、なんて言うんだ。そう思ってオルディナが少し微笑んでみせると、少年もホッとしたように笑顔になった。真っ直ぐで柔らかそうな金色の髪に、翡翠のような色の瞳がとても綺麗な男の子だ。

「スレン」

「スレン?」

スレンが頷くと、オルディナが嬉しそうに笑った。オルディナは気付かなかったが、ウィスリールが死んでからスレンフィディナ以外に初めて見せる、心からの自然な笑顔だった。

「スレンフィディナと、同じね!」

「同じ?」

「うん」

ふ……と大人びた瞳で、スレンがオルディナの銀色の瞳を覗き込んだ。オルディナは、まるでスレンフィディナの毛並みに見とれたときのように、一瞬、少年の翡翠の瞳の色に見とれる。

「ディナ」

スレンが、今度は困惑した声では無く、すっと芯の通った……それでいて真綿で包んだような優しい声でオルディナの名前を呼ぶ。そうして、オルディナの頬に細い手を伸ばした。そうっと……壊れ物に触れるように、瞼の下に触れる。

涙はもう乾いていたが、そこに涙がこぼれていたことを知っているかのように。