スレンフィディナの所で眠ってしまって、目が覚めると寝室に戻っていた……なんてことは今までも何度もあった。しかしそれはもう少し小さい子供だった頃で、最近はそもそもスレンフィディナの所で眠るなんてことは無かったのだ。
気をつけていたつもりだったのに、今朝は随分と寝坊した上に目が覚めると自室の寝台だった。確かにスレンフィディナの所には行った。きちんと覚えている。けれど少しスレンフィディナを撫でたら帰って来ようと思っていたのに、帰ってきた記憶がない。……誰がオルディナを運んだのか……きっとスレンだろう。
「やっちゃった……」
太陽の様子から見ると今はきっと昼前だ。随分寝過ごしてしまった。
しばらくの間、あー……と頭を抱えていたが、やがてもそもそと起き上がる。ミーニアは呼ばずに1人で顔を洗っていると、ガチャリと扉が開いた。
「ディナ! おはよう」
「おはよ……って、ちょっと、スレン!!」
いまだ着替えておらず、寝間着1枚のままだったオルディナは、慌てて衝立の向こうに隠れた。
「ディナ、ディーナ、どうしたの?」
空気を読まないスレンが、とことことオルディナの側に歩み寄る。その気配にオルディナはますます慌てた。寝間着は肩紐とそこから下がった頼りない薄布だけで、身体の曲線が丸分かりだ。最近お尻や太ももが気になるオルディナは、さすがにそれをスレンに見られたくなかった。
「ディナ、起きるの遅いよ。もうお昼ご飯の時間」
「分かってる、着替えてすぐ行くから」
「着替え、手伝おうか」
「いらない、いらない!! 先に行ってて!」
「……分かった」
むむん、と、かなり不満げな声になって、近付く気配が止まる。言い過ぎたかしらとなんとなく気になって、オルディナはぴょこんと衝立から顔を出してみた。
するとまるでオルディナが顔を覗かせることを先読みしていたかのように、スレンがこちらを向いてにこにこ笑っていた。かあ……と頬が熱くなる。
「ちょっと遅いけど、おはよ、ディナ」
「お、はよう。スレン」
「絶対に覗かないって約束するから、ここで待ってるよ」
「でも」
「早く、ご飯冷めるから」
護衛のスレンは物腰が柔らかくて、オルディナにはとても優しい。そしてオルディナに甘えたがりの青年だ。
スレンと初めて会ったのはオルディナが12歳の時だった。出会った時は少し不安げにしていて年下かしらと思っていたが、どうやらオルディナと同い年らしい。
宮で共に成長した2人だったが、知らぬ間にスレンはもうすっかり大人の男になってしまった。あんなに可愛いかった声はずいぶん低くなり、触れ合う身体は驚くほど硬く引き締まっている。スレンはオルディナとは比較にならないほど剣も弓も強くなった。今ではフレクに代わって、オルディナに剣の稽古をつけるのはスレンの役割になっている。もっとも最近では「ワタシが守るから、オルディナは剣を持ってはダメ」と言われて、剣の稽古をつけてくれない。変わらないのは、ニンジンが嫌い……というところだけだろうか。スレンはなぜかニンジンが大嫌いで、すり下ろしても甘く煮ても、オルディナが食べない限り絶対に食べない。
最初は可愛い幼馴染みだと思っていた。けれど、眠ってしまったオルディナを運んでいるのがスレンだということを知ってから、スレンの視線や声が変に気になるようになった。一度気になり始めると、気になる気持ちは少しずつ膨れ上がり、幼馴染みと一緒にいるのが心地よくて楽しい気持ちと、男の人に触れてドキドキと心が躍ってしまう気持ちと、スレンのことをもっと知りたいという心細い気持ちがせめぎあって、時々切なくなる……のは、どうしてなのだろうか。
「ディナ、もう出来た?」
「出来たわ。お待たせ」
女らしい柔らかい曲線のブラウスとスカートを身に着け、男が着るような上着を羽織ってオルディナが出てくると、スレンが眩しい光を見たようにやんわりと瞳を細くして手を伸ばした。差し出された手にオルディナは一瞬迷ったが、そっと自分の手を置いて指先を握る。
スレンがオルディナの格好を褒める前に、コンコン……とノックの音が響いて、扉が小さく開いた。
「ひーめ?」
ちょうど12、3歳くらいの巻き毛の男の子が、ひょこりと部屋の中を覗き込んだ。オルディナはハッとして思わず手を引っ込める。
「……ゲーリ」
スレンが振り向いて、子供に向ける顔とは思えないほどに不機嫌な顔で睨みつける。その顔を見て少年がぎょっとした。ふんわり巻き毛が逆立ったように見える。
幸いなことにスレンの恐ろしい形相はオルディナには見えなかったようだ。
****
ゲーリというのは、1年ほど前から宮にやってくるようになった少年である。白と薄い茶色が斑に混じった髪はくるくると巻いていて、肩を少し過ぎるくらいまで伸ばして1つにまとめている。馬屋の世話をするためにフレクが連れてきたらしい少年で、時々やってきては馬屋の綿花を入れ替えてくれるのだ。スレンフィディナのブラッシングや、鞍や鐙の手入れはオルディナが行っているが、それ以外はオルディナの居ないときにゲーリがすっかり整えてくれる。
そして、時々オルディナ達と一緒にお昼を食べたりおやつを食べたりする。今日も綿花の入れ替えをしてくれていたのだろう。馬屋の綿花は、いつも太陽の香りがする。
昼食を食べ終わったあと、窓際で刺繍をするオルディナを、スレンが頬杖をついて見つめていた。主人の側で遠慮なくミーニアが掃除をしているが、オルディナは気にする様子も無い。ミーニアは埃っぽいところが苦手ですぐにくしゃみや蕁麻疹を発症するから、掃除には人一倍気を使っているのだ。ゲーリがいれば手伝わされて、宮は毎日綺麗に整えられている。
ミーニアを手伝っていたゲーリは一休みして、スレンをやや冷ややかな眼で見遣り、こっそりと囁いた。
「……変なことをやっていないでしょうね、坊ちゃん」
「お前が邪魔をしたから、していない。それから坊ちゃんというのをヤメロよ」
ゲーリの言葉にムッとしたスレンが、たった今までの機嫌の良い顔をしかめた。
「邪魔をしたから、ではありませんよ」
スレンはゲーリに視線を向けず、真剣な顔でオルディナを見つめている。オルディナを見つめているとどうしても笑みが浮かんでしまうスレンを、ゲーリは小さな声で嗜めた。
「今のあなたの匂いを付けるのは危険すぎます」
「知ってる」
国王への贈り物だという刺繍を懸命に作っているオルディナの横顔は真剣で、とても愛らしい。草原を風のように駆けるオルディナの顔もきっと美しいだろう。残念なことに、スレンは見た事が無いので分からないが。
綺麗で、可愛いオルディナ。
12歳の時にオルディナに出会ってからというもの、スレンは彼女に視線も気持ちも奪われたままだ。いつも見ている。
オルディナの沐浴の様子ならばいつでも思い出し、反芻することが出来た。
そう。昨日もオルディナは水浴びをしていた。
惜しげも無く服を脱ぎ、次々と愛馬の背中に掛ける度に、肌が露になっていく。そしてとうとう全てを晒した白くぷるりとした肌に、透明な水滴が伝って落ちていく様子。オルディナは少し体重を気にする程度に、健康的で豊かな肉付きをしているのだ。肩から二の腕にかけてのふっくらとした曲線、大きすぎず小さすぎないふくよかな2つの丸み、剣や馬をたしなんでいるからか豊かに張った腰回り。……そして、そこから伸びた太ももが一際好い。ある程度筋肉が付いた弾力もいいが、腰に上がるにつれて柔らかくなっていく様子もとてもいい。長く豊かな黒髪は濡れて二の腕や背中にぺたりと張り付いていて、乱れた様子を見せている。オルディナは懸命にそれを梳いていて、恐らくスレンの視線には気が付いていないだろう。
ぼんやりと……ではなく、かなりはっきりと脳内にオルディナの姿を思い浮かべ、主に太ももに挟まれた時の感触について考察していると、ゲーリが少年にしては妙に年嵩じみた言葉でくどくどと続けている。
「城の馬も周囲の動物も、ただでさえ姫についた匂いに怯えている」
「知ってる」
「姫が欲しいなら坊ちゃんの力を安定させてから」
「知ってる。うるさいウサギめ」
「……なんですと?」
言った途端、ゲーリの可愛い少年の頭からぴょこんとウサギのような長い耳が飛び出した。睨みつけるスレンの頭からも、金色のすべすべとした菱形の角を丸くしたような……馬の耳が飛び出す。
「私に向かって、うるさい、ウサギ、ですと?」
「うるさいウサギだろう、ワタシがずっとオルディナのことを想って、我慢しているのを知ってるくせに……」
「ぼ、坊ちゃん……」
しょんぼりと声と耳を落としたスレンにゲーリも釣られて長い耳をしょんぼりと垂らす。その姿に、スレンはすぐに表情を改めて、ふんっ……と鼻息を鳴らした。
「だから少しは遠慮しろよ」
「……な、坊ちゃ」
「……スレン! ゲーリ!」
刺繍から顔を上げたオルディナが、スレンとゲーリの方をぱっと振り向いた。その瞬間、2人の頭からそれぞれの耳がひょいと消える。険悪な雰囲気を一瞬で消して、スレンは何事も無かったようにニコニコと笑った。
「オルディナ、刺繍はできたの?」
「うーん、あともう少しね。今日はおしまい! ミーニア、少し外に行ってきてもいい?」
棚の細かい部分を熱心に拭いていたミーニアがオルディナに視線を向け、ふう……と無表情で額を拭った。
「少しくらいならかまいませんよ。お帰りになる頃までに、冷たいお飲物を用意しておきます」
「ありがとう! ゲーリ、スレンフィディナを連れてきて。ほんの少しだから鞍は要らないわ。フレクにも言っておいてね」
ゲーリは立ち上がってスレンにちらりと冷たい視線を向けると、オルディナにはにっこりと輝くような笑顔を向けて「分かった!」と元気よく部屋を飛び出した。準備をしてくるわね!……と自室に向かうオルディナを見送って、スレンも立ち上がる。
「周りを見回ってくる」
ミーニアには、そのように言って部屋を出た。
まっすぐに廊下を進み、馬屋……正確には宮の一部を解放し、大きな扉を開けた部屋……へと赴く。スレンは宮側からの出入り口になっている扉を開き、広い空間へと身体を滑り込ませた。
ちらりと視線を向けると、先に部屋に入ったはずの少年ゲーリの姿はなぜか無く、代わりに家令のフレクが一礼していた。白髪が混じって斑に見える茶色の髪からは、先ほどゲーリの頭から生えていたのとそっくり同じの、長いウサギの耳が生えている。
「姫が待ってますよ、坊ちゃん」
「分かってる、坊ちゃんというのはよせ、フュレクゲーリ」
ウサギ耳を揺らすフレクに言い返しながら部屋の奥へと進むと、途中でふわりと綿花が舞い上がり、長身の青年の身体が消えた。そうして一瞬の後に、金色に輝くしなやかな馬の体躯が現れる。
「それでは、メーア・ヴェンターナ」
「その名前は大嫌いだ。ワタシの名前は、スレン! スレンフィディナだ!」
つん……とむくれたような声はスレンのものだったが、姿はオルディナの愛馬スレンフィディナのものだ。そしてメーア・ヴェンターナという名は、かつてアルフォール王国を導いた金色馬の神と同じ名であるが、それを聞いている者は誰もいない。
スレン……スレンフィディナの真の名前は、メーア・ヴェンターナという。
彼は、彼に仕える従神のフュレクゲーリと共に、護衛あるいは愛馬として、常にオルディナの側にいる。
****
水場の手前に美しく開けた場所があって、そこもまたオルディナの気に入りの場所だ。鞍を乗せるとスレンフィディナがとても嫌がるので、遠乗りでない限りは鞍は乗せない。とはいえ遠乗りの機会などほとんどないから、滅多に鞍は乗せないのだが。
鐙も鞍も着けない馬に乗るのはコツがいる。落ちないようにぎゅっと太ももで馬の背中を挟む必要があるが、そうしてスレンフィディナに乗るのもお手の物だ。身体が小さい頃は難しくて落ちそうになっていたが、今ではもうすっかり慣れた。
もうすぐ国誕祭がある。アルフォールの祖先である戦士達が黒泥の魔を倒し、この地に王国を築いたと言われる日だ。魔を倒すために傷ついた英雄達と馬の魂を癒し、感謝を捧げ、国の興りを祝う。オルディナが12歳の時に第三王子を殺した魔物もその魔の残滓であるといわれていて、第三王子のウィスリールと愛馬ファングも、祈りを捧げられる英雄の1人として名を連ねていた。だからオルディナも本当は参加して、ウィスリールの魂に祈りを捧げたかった。だが、この祭にオルディナが参加できた事は無い。
その日は諸国から多くの来賓がやってくるという。オルディナは聖苑から帰ってきた後、全ての馬から嫌われるようになってしまった。そのため、諸国の馬達を暴れさせるわけにもいかず、宮で静かに過ごすつもりだ。
ぼんやりと考え事をしていたオルディナは、ふしゅ、というスレンフィディナの吐息に我に返った。ひょいとその背中から下りると、苔むした樹を背もたれにして柔らかな草の上に座り、森の空気を胸に吸う。
この森はウィスリールとファングが死んだ森だ。
しかし普通ならば恐怖しか残らないだろうこの森のことを美しいと思えるのは、側にスレンフィディナがいるからだろうか。悲しみや寂しさは思い出すが、恐怖はもう思い出さない。
何をするでもなく、ただ森に差し込む光と小さく咲く花を楽しんでいると、スレンフィディナが甘えるように顔を寄せた。
「スレンフィディナ?」
よしよしと鼻や首を撫でてやると、オルディナの撫でてくれる手を求めて頬を摺り寄せる。こんなに大きくて立派な馬なのに、オルディナが12歳の頃からずっと甘えん坊だ。くすぐったいと抗議の声を上げながらも、オルディナもスレンフィディナの体温を楽しんだ。生き物の体温は、どうしてこんなに心地が良いのだろう。
1人と1頭がじゃれあっていると、ひょこりと草が揺れた。
「あら?」
オルディナがスレンフィディナをなだめるように押し退けた。不満そうにブルル……とスレンフィディナが足を向けると、その視線に驚いたように毛玉のような何かが飛び出す。視線に毛玉を捉えたスレンフィディナは追い立てるように、ヒヒンと嘶いた。
「まあ、ダメよ、スレンフィディナ」
笑いながらオルディナは立ち上がり、逃げ回る小さな毛玉をそっと捕まえて抱き上げた。オルディナの腕の中でびくりと身体を強張らせておとなしくなったのは、薄い茶色と白い斑模様のウサギだ。
「迷子かしら?」
ふかふかの毛玉を堪能するようにオルディナがウサギの毛皮を撫でると、急にスレンフィディナがゆらりと前足を持ち上げ、勢い良くダーン!と地面に振り下ろした。
「どうしたのスレンフィディナ、捕まえちゃだめよ、今日は狩りじゃないのだから」
狩りなら捕まえるのかとも思われるオルディナの言葉に、今度はウサギの毛皮がぶわわわわと逆立った。後ろ足で思い切りオルディナの腕を蹴って逃れ、地面に降り立って慌てたようにスレンフィディナの後ろ足の周りをぐるぐる回り始める。
キュキュキュ、と鳴いたウサギの声に、スレンフィディナがふーんと鼻息を荒くした。その時の会話はオルディナには聞こえていなかったが、もし神の言葉を理解できるものがいたら、次のように聞こえただろう。
『今日が狩りじゃなくてよかったな、フュレクゲーリ』
『うるさいですよ、坊ちゃん!』
『邪魔をするなといったのに、何の用だよ』
『……王からの使者が。諸国からの来賓が、到着しはじめたようです』
『わかった。それから坊ちゃんと言うな』
幸いなことにオルディナには神の言葉が理解できなかったので、あら、仲がいいわね……と笑っただけだ。
メーア・ヴェンターナの従神フュレクゲーリ……。その本性は白と薄茶色の斑のウサギである。
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アルフォール王国の王城にある貴賓を迎える応接の間で、王と、とある青年が向き合って座っていた。王の側には妻である王妃と息子である王太子が控えている。
青年は隣国フレイスリクの王子で、名をティワルズという。フレイスリクの王の名代としてアルフォールの国誕祭に祝辞を述べにやってきた。だが彼の目的は別にあり、この日はその目的について話を進めるため、秘密裏にアルフォール国王との会見を望んだのだ。しかし用意したいくつかの取引材料を前にしても、アルフォール国王は首を縦には振らなかった。
「……悪い話ではない、と思いましたが」
「喜ばしい申し出とは思うが、なにぶんオルディナは世間知らずの末姫なものでな」
「何か私に至らぬところでも、おありでしょうか」
「特に何も。……いずれの国からの申し出であったとしても、オルディナは他国へは嫁がせることはしないと決めている」
「……そうですか。アルフォールの秘たる第三王女殿下、せめてお目通りだけでも叶いませんか?」
「作法も知らぬ王女ゆえに、許されよ」
ティワルズは整った顔を曇らせて、「そうですか」とため息を吐いた。彼の望みとはアルフォール王国の第三王女オルディナとの婚姻だったのだが、すげなく断られる事となった。
いくつかの渉外と当たり障りの無い会話をして出て行くティワルズ王子を見送りながら、アルフォール国王は溜め息を吐いた。
もちろん、悪い話ではない。隣国とは友好な関係を築いているし、聖苑の馬ほどではないがお互いの良馬を交換するなどといった交流も盛んだ。過去にはアルフォールから輿入れした王女もいるし、隣国から迎えた妃もあった。国の行事で何度か顔を合わせた事のあるティワルズ王子も決して不誠実な男ではなく、オルディナが普通の王女であれば考えたかもしれない。
しかしオルディナを他国へ嫁がせる事は出来ない。宮から出してやれるかどうかも、分からない。
陽気で優しい性格だった息子のウィスリールと、強く勇敢だった彼の愛馬ファングを亡くして7年が経った。しかし亡くしたものは彼らだけではない。その直後、聖苑に出向いたオルディナが金色に輝く美しい馬を連れ帰った時、王は末娘のオルディナをも失う事になったのだ。
聖苑に出向く戦士達だけが知る掟がある。
それは、聖苑を駆ける金色馬には触れてはいけない、という掟だ。金色馬は創国の神であるメーア・ヴェンターナの化身。触れると神の気配が身体に移り、全ての馬に畏れられる。
神官と、聖苑に出向く王族には皆教えられる事だが、オルディナは聖苑に出向くことが許された戦士ではなかった。知らなかったのも無理は無い。神の化身がいまだ草原を駆けている……という事象は秘であり、聖苑を知る者以外には教えてはならないことであるからだ。とはいえ、金色馬が現れた様子は、これまで何世代にも渡って確認されたことは無い。もちろん王とて見た事は無く、王の息子達も同様だった。
それなのに、戦士ではないオルディナが聖苑に行き、まさにその金色馬を捕まえてしまったのだ。……いや、聖苑の馬は人に捕らえられるのではなく、人を捕らえるのだという。おそらくオルディナが、金色馬に捕らえられてしまったのだろう。
それは国が始まって以来、少なくとも伝説にも無く歴史書にも無い事態で、どのような対処も思い浮かばず、出来る事というと早急にオルディナと金色馬……スレンフィディナと名付けていたが、それらを隔離する事だった。その間に何か打てる手は無いかと神官達が歴史書を紐解いたが、結局は芳しい答えが見つからず、オルディナを宮から出してやる事はほとんど出来なかった。
王も妻である王妃も、そして王子や王女達も、それ以降オルディナと会う事はなかった。オルディナが宮に入るとき、そして一度宮を抜け出したとき、王はオルディナの身体に触れたのだが、その後暫くは愛馬が暴れて手につかなくなってしまったのだ。アルフォール王国の王族が馬に触れぬ日などあるはずがなく、馬に乗れぬ日があってはならない。ゆえに、オルディナに会う事は出来なくなった。
オルディナの宮に遣わしているフレクやレイクの話によれば、スレンフィディナや護衛と共に、変わらぬ日々を過ごしていると聞く。そうした報告を聞いては、王は王妃と共に安堵する毎日だ。金色馬にオルディナが捕まえられる……その意味を、王も神官も誰も知らない。突然神の世に連れ去られてしまうのかもしれず、突然馬にされるのかもしれない。オルディナの愛馬がメーア・ヴェンターナそのものなのか、あるいは遣いなのかも分からない。もちろん生きてくれるのであればそれでかまわない。しかし、相手は神なのだ。贄として求められてしまえば、オルディナはどうなるのか。
そして、もしも、そのようなことになれば、城と国の安全を確保するために、アルフォールの国王としてオルディナを差し出すことを躊躇わないだろう。それがいつになるのか、……いつまでもそのようなことは起きないのか、判断などつくはずもなかった。
こうして、オルディナを7年もの間宮に閉じ込める事になった。12歳になるまでは普通に王女として振る舞ってきたオルディナが、突如社交の場に出なくなった事態は様々な噂を呼び、金色の馬を連れ帰ったことは神秘性を産んだ。結果、国内よりも国外から興味を持たれることになる。もちろんアルフォールの産む馬や、聖苑に住まう神馬への興味も多少は含まれるだろうが。
国王を心配そうに伺う妻と息子……王妃と王太子を安心させるように頷き、控えていた侍従に書簡の準備をさせる。
王として何をするべきか、父として何をしてやれるのかを考える。父も、母も、オルディナが可愛くないはずがなかった。