風をとらえた、さんのひめ

004.近付く手

国誕祭に出席する来賓の入国が始まったらしい。アルフォールについて知らない者もまた多く入国するから、森と聖苑については特に注意せよとの国王からの手紙が来ていた。

聖苑とそこに続く森は、王族しか立ち入る事は許されない。もっと手前の狩り場になっているところならば王族以外も立ち入る事は出来たが、7年前から立ち入りは禁じられている。それでも禁を知らぬ諸外国の人間が迷い込む事もあるかもしれない、という懸念だ。現に毎年この森や聖苑に興味を持ち、足を踏み入れようとする輩は出ていた。

「諸外国……か」

他国への興味は無いと言ったら嘘になるが、行ってみたいと心を躍らせるほどではなかった。それよりも、国誕祭が何事も無く終わりますようにと願う気持ちの方が強い。それでも、祝いにも祈りにも参加する事が出来ず、宮で1人、微かに聞こえる花火や宴の音に耳を澄ませているだけなのかと思うと、ほんのわずかに寂しい気持ちもある。

そんな風な気持ちで、オルディナがいつも中庭から見ている森……その奥へと視線を向けると、ちらりと馬影が見えた気がした。

「……スレンフィディナ?」

いや、そのはずはない。スレンフィディナは先ほど宮に入れたばかりで、そこから森の奥へ行くには庭を通らなければ行けない。庭は居間にもオルディナの自室にも面していて、スレンフィディナが通れば分かるはずだ。

それならば、あの馬の影は一体何者なのだろう。

「フレク? ミーニア? スレン?」

オルディナは侍女と家令……そして護衛の名前を呼ばわったが、今日に限ってその誰からもすぐには返事が聞こえず、駆けつけるまでの間に少しの時間が空いた。人の少ない宮であると、こうした時に不便だ。

「あ」

しかし待っている間に森の奥へ馬の影が消えてしまう。慌てたオルディナは立ち上がり、テラスへ続く窓を開けて庭に降り立った。

「待ちなさい、そっちへ行ってはダメよ」

さすがにスレンフィディナ無しで庭から森へ足を踏み入れるのは躊躇われ、庭から森へと向かって声を張ると、馬影がひたりと足を止めた。すぐに馬首をこちらに向けて、ぽくぽくと向かってくる。

そう時間を開けずに馬と……そして、馬を引く1人の青年が姿を現した。青年は黒い外套マントを深く被り、困ったような雰囲気できょろきょろと辺りを見回しながら、やがてオルディナに視線を留める。

「これは、失礼いたしました。方向がよく分からず」

「……あなたは?」

青年が黒い外套をそっと頭から外した。短く刈った金色の髪は緩くウェーブが掛かっていて、切れ長の紫色の瞳は鋭く自信に満ちていた。年齢はオルディナやスレンとそう変わらないだろう。

「私は、隣国フレイスリクの王子ティワルズと言います……もしや、貴女はアルフォールのオルディナ姫?」

「私は……」

否と答えるべきか是と答えるべきか、一瞬躊躇うと、ディワルトが片手を上げて続きを制した。

「いえ、結構。貴女が何者であろうとも、私はオルディナ姫……と思う事にします。もう会う事は叶わぬでしょうから、この時間だけはせめて貴女をオルディナ姫だと思わせて欲しい」

「?」

甘い声と言葉に反して、値踏みするような不躾な視線でオルディナを見ていたティワルズは、ヒヒン!……という声に、ハッと我に返ったようだ。見ればティワルズの隣には青毛の大きな馬が、トツトツと蹄を鳴らしている。

「あ」

「馬はお嫌いですか? アルフォールの馬は確かに素晴らしいが、私の愛馬もよき馬ですよ」

「い、え」

ティワルズの声には、アルフォールの馬に対する羨望と、それに惑わされない自慢の色も含まれている。しかしそれよりも、オルディナには別の事が気になった。ティワルズが連れている馬は、オルディナを怖がっていない。

「この子、私を怖がらない……?」

「人懐っこい馬でして。むしろ困るくらいです」

「そうではなく、て」

そういう問題ではない。オルディナとスレンフィディナ以外の馬との関係は、懐くとか懐かないとかそういった問題ではなく、もはや王城の馬達全てを揺るがす大問題で、恐らくそれが原因でオルディナは7年もの間、宮から外には出ていない。それなのに、この馬はオルディナが側近くに寄ってもまるで平気な様子で、むしろ興味深そうに鼻面を近付けようとしていた。

思わず、そっと手を伸ばしてみる。

オルディナはアルフォールの娘だ。よちよち歩きの頃から馬に乗せてもらい、馬に触れて育ってきた。馬は大好きな動物で、12歳になるまでは、馬の方もまたオルディナを大好きだとでもいうように、いつも懐いてくれていたのだ。

ティワルズの馬は、そんなかつての城の馬のようだった。オルディナがその頬に手を触れても動じず、鼻の上に手を伸ばせば、撫でてもいいといわんばかりに顔を下ろした。忘れていた、初めて見るが初めて懐いてくれた時のなんともいえない嬉しさを思い出して、オルディナは思わず笑った。

「おとなしいだわ」

「ありがとうございます、……アルフォールの姫のお褒めの言葉は、この上もない光栄です」

「あなたは……国誕祭に来てくださった方ですか?」

「はい。祝辞を述べに。……そして、オルディナ姫にお会いしたいと思って」

「え?」

馬に向けていた視線を上げて、思わず振り返る。ティワルズは思いのほか強く油断ならない瞳で真っ直ぐにオルディナを見つめていて、その視線の強さに馬から手を離した。

しかし、強い視線はすぐさま苦笑に掻き消され、ティワルズは肩を竦める。

「ですが、断られてしまいました」

「断られた?」

「はい。アルフォール国王陛下に」

お父様に、……と言いそうになった言葉を飲み込んで、オルディナは口を閉ざす。その沈黙をどのように解釈したのか、ティワルズは続けた。

「よい話……と思ったのです。私の国と姫の国はこれまでもずっと良好な関係を築いていますが、ここ何代かは婚姻による結びつきはなく、これまでの関係をより強固に出来る。……国同士、平和のために手を取り合うのは王族としての役割だと」

「王族としての、やく、わり……?」

「それに……王族として、だけではありません。私は貴女の噂を聞いて……黒い髪と銀の瞳の、とても活発で可愛らしい姫と聞いていました。それでぜひお会いしてみたい、と。馬も、貴女にとても懐いている」

「馬が、懐いて」

ですが、……と残念そうに笑って、ティワルズはオルディナに一歩近付いた。呆然としているオルディナの手を取って、真剣にも見える表情でじっとオルディナを見つめたまま、目を逸らさない。

「もし、姫が私に興味がおありでしたら、ぜひアルフォール国王陛下に……」

ティワルズが、オルディナの手に口づけるように顔を下ろす。ハッとして手を引こうとしたが、思いのほか強く握られていて、咄嗟の動きでは抜けなかった。

しかし。

「オルディナ」

聞こえてきたスレンの低い声に、ティワルズの手が一瞬止まる。オルディナの腰に長い腕が回されて、広い胸板に引き寄せられた。

「スレン……!」

驚いて振り向いたオルディナをそのままスレンが胸に抱き込む。ティワルズの方に背を向けるようになったオルディナを抱えたまま、スレンがティワルズを睨みつけた。

口を閉ざしたティワルズもまた、浮かべていた笑顔を消し、すう……と冷たい表情になる。

「君は、何者かな……?」

「申し訳ありません、彼は、私の、護衛で……ちょっとスレン、離し」

「護衛如きが姫をそのように扱うとは、無礼ではないかな?」

「黙れ」

「スレン!」

「ティワルズ王子とお見受けする」

相手は王子だというのに恐ろしく無礼な口を利くスレンに慌てて、なんとか腕から逃れようとする。しかし、オルディナを抱き寄せているのは片腕だというのに全く解く事が出来ない。オルディナはじたばたともがき……実際には、身体の変なところに力が入るだけの結果に終わった。それどころか、もう片方の手はオルディナの頭に回ってぎゅっとスレンの身体に押し付けられ、言葉を塞がれる。

スレンの、普段は優しげな声色が硬くなった。この場を支配する声で、王子を追求しようとしている。

「ここは、オルディナ王女の宮の森であり、これより先はアルフォール国王により立ち入りは禁じられている場所。他国の王子といえど、自国ではない場所をうろうろするばかりか、禁じられた場所に足を踏み入れるとは、無礼はどちらか」

「なるほど……確かに。姫の宮と森に入った事は謝罪しましょう。オルディナ姫、無礼をお許しください」

「……」

何か言おうと思うが、スレンに強く押さえられているため声が出ない。

「フレク」

スレンが鋭い声で呼ばわると、今までどこに居たのか、森には似つかわしくない穏やかそうな……それでいて手厳しそうな老紳士が姿を現した。フレクはスレンとオルディナ、そしてティワルズとの間に割り込むと、ティワルズに丁寧な一礼を取る。

「これはこれは、フレイスリクのティワルズ殿下。道にお迷いですか? 王城までご案内致しましょう」

たった今初めてティワルズを見つけた……とでも言うように、礼を取ったままフレクがすっと片手を出して方向を指し示した。有無を言わさぬ雰囲気に、ティワルズもそれ以上は何も言わずに身を退く。

指し示された方向に馬と共に歩き始め、フレクもまた一歩退いた距離を保ちつつ追い掛ける。庭を抜け、王城に到着するまで見届けるつもりだろう。

2人の背中が庭から抜けたのを見送って、ようやくスレンがオルディナを抱いている腕を少しだけ緩めた。

「……スレン、ちょっとどういう……」

「ディナ、ディナ……どこにも触れられていない?」

「え?」

見上げるオルディナの頬をスレンの両手が包み込んだ。翡翠色の瞳には、不安と怒りと焦りが入り交じって混沌としている。オルディナが何かを言い返す前に、こつりと額と額が触れ合った。顔をスレンの温度に包まれ、熱い吐息が唇に触れる。オルディナが何も言えずにいると、再び両腕がきゅ……とオルディナを抱き締めた。

「……あいつ、あの男め……ディナの指に触った」

スレンの抱き締めている手の片方が、オルディナの手を掴んだ。そのまま持ち上げて、スレンの口許に近付ける。

近付けただけではなかった。

「あ、スレン……っ」

そのまま指先をぱくりと口に入れる。一噛みだけ甘噛みして、噛んだ指先をぺろりと舐め……最後に、ぎゅっと大きな手に握り込んだ。

握り込まれた手がゆるゆると動き、指先が絡まり合う。

「オルディナ……」

オルディナの腰に回されていた手が頭を抱え、スレンの顔がゆっくりと近付く。

「スレ、ン……?」

避ける事は出来なかった。

顔を背けることも突き飛ばす事も出来たはずなのに、オルディナには何故かそれが出来なかった。気が付けば、唇に温かく濡れた何かが触れた。

最初は少し触れただけだった。小さな頃、戯れにオルディナの頬に口付けした時のような、あるいは大きくなってからオルディナの指先に口付ける時のような、そんな慎ましやかな触れ合いだ。しかし、一瞬で離れるかと思ったそれは何度も繰り返され、数度、音を立てて咥えられた。

オルディナが思わず「ん」と呼気をこぼすと、絡まっていた指先が離れ、今度こそ深く抱き締められた。いつもオルディナが気にしている腰回りをぐっと引き寄せられ、身体ごと僅かに持ち上がった唇がスレンに押し付けられる。唇同士がすりすりと触れ合って、スレンの温もりがぬるりと入り込んだ。

「ん、……ふ」

上がったオルディナの息に、スレンの荒くなった吐息が重なる。オルディナが思わずスレンの服にしがみつくと、呼応するようにスレンの手が強くオルディナの首筋を支えた。スレンの探るような舌をどうすればいいのか分からず、あふ……と懸命に息を継ぐと、その隙を縫うようにますます追い掛けてくる。追い詰められてとうとう舌同士が触れると、触れただけなのに、ぞくぞくと息が詰まりそうな感覚が走って逃げられない。

スレンの舌はオルディナに触れただけでは満足せず、何度も何度も絡まり合った。逃げることも出来ずに、裏も表もくまなく触れられる。唾液が流し込まれ、幾度も水音が響いた。

やがてスレンの手がオルディナの腰回りをぐるりと撫で始めた。何度も柔らかみに指を沈め、忙しなく身体を這い上り、オルディナの胸の膨らみに辿り着く。

「ん!」

「ディナ……」

胸の重みを下から持ち上げるように一度撫で、軽く握ろうとして、一瞬、感触の違う部分にスレンの指が強く触れる。

「あっ……いやっ!」

ほんの少し触れただけなのに、他とは全く違う強く切ない感触がして、思わずオルディナが声を上げた。自分の声にオルディナが我に返り、少し強くスレンの身体を突き飛ばす。

それほど力を入れた訳ではなかった。スレンの腕の力ならば、オルディナの動きを封じ込める事だって出来たはずだ。だが、あっさりとオルディナとスレンの身体は離れる。

「あ、あの」

「ディナ、待って」

後ずさったオルディナの手を捕まえて、スレンが泣きそうな顔で首を振る。先ほどまで翻弄していたのはスレンの方だ。それなのに、どうして泣きそうな顔をしているのだろう。

「ひとりに、ひとりにして、スレン……お願い」

「ディナ……」

オルディナはスレンに背を向けて走り、庭を横切って部屋に飛び込んだ。がしゃんとテラスへ続く窓を閉めて、外から見えないようにカーテンを閉める。

「オルディナ様?」

「ミーニア」

カーテンを後ろ手に閉めて肩で息をしていると、そっと伺うように部屋の扉が開いた。

「いかがなさったのですか? 先ほどオルディナ様を探しにスレンとフレク様が出て行かれて……オルディナ様?」

ミーニアにはオルディナの様子がただ事ではない風に見えたのだろう。いつものように表情の希薄な瞳を少しだけ細め、オルディナを労るように見遣る。しかし、オルディナは何と言っていいのか分からず、ぶんぶんと頭を振った。

「だ、いじょうぶ。大丈夫、だから! ……あの、私、お湯を使ってからもう休むわ」

「お湯は……用意してありますが、お手伝いを」

「いい! いい、いらない!」

慌ててミーニアを部屋から追い出すと、オルディナはようやく1人になって、はあ……と息を吐いた。ミーニアを追い出したあとの扉に座り込んで、両手で顔を覆う。

熱い。

顔が熱い。

『ひとりにして』

……などと、スレンに向かって言ってしまったのは初めてだ。

しかし、オルディナはどうしてそんなことを言ってしまったのか。スレンを拒否した理由がオルディナ自身にも分からなかった。決してスレンのことを嫌ったわけではない。そして、先ほどの行為が嫌というわけでもなかった。……嫌ではなかった、と考える事自体がとてつもなく恥ずかしい。けれど、あの温もりは間違いなく嫌悪するものではなく、むしろもっと触れていたい……と感じる類のものだった。行為の意味だって知っている。

しかし、あのままスレンの行動に流されてしまうのも、また、納得がいかなかった。

「スレン……」

両手で顔を覆ったまま、もごもごとスレンの名前を呼んでみる。幼馴染みで、護衛で、優しくて、少し不思議なスレン。12歳の頃からずっと一緒だった。ずっと一緒に育って……けれどスレンはすぐにオルディナを追い越した。おっとりしているように見えて、スレンは絶対に自分の意見を曲げないし譲らない、とても頑固なところがある。そしてスレンは……オルディナが泣きそうになったとき、そっと頬を拭ってくれる。

いつからか気になり始めた、スレンの低い声、硬い身体、繊細なようで無骨な指先、……時々鼓動が早くなる自分の心臓。

分かっている。

オルディナは、多分スレンが好きなのだ。

そして、もしかしてスレンも、オルディナの事を想ってくれているのだろうか。時々、不意に身体が近付く事はあったけれど、あんなに本格的に……恋人同士がするような触れ合いをしたのは初めてだった。近付く距離は幼馴染みだからだと思っていた。側にいてくれるのは護衛だからだと思っていた。けれど、本当は……? スレンは、オルディナのことを1人の女性として想ってくれたりもするのだろうか。こんな馬にしか興味が無いみたいな、……王女として何も出来ていない自分でも。

王女として……。

ティワルズの言葉を思い出す。『国同士、平和のために手を取り合うのは王族としての役割』だと言っていた。それならば、オルディナはティワルズ王子に応えるのが王族として最善なのだろうか。……馬も怖がっていなかったし、オルディナがティワルズ王子の国に行けばアルフォールの馬と家族と、国の民のためになるのだろうか。

それならば、スレンフィディナはどうなるのだろう。連れて行けるのだろうか。しかし何故かは分からないが、スレンフィディナが普通の馬のようにアルフォールを出て、聖苑から遠く離れるのは現実味が沸かない。

コンコン、とノックの音が聞こえて、扉のそばからミーニアの落ち着いた声が聞こえた。

「オルディナ様。……おやすみになられるのでしたら、鍵はお掛けになって。寝台の側に、柑橘シトラスを少し絞ったお水を作ってますから、よろしければお飲みになってくださいませね。気持ちがすっきりします」

心得た侍女は、こういうとき、オルディナをいつもそっとしておいてくれる。急に忙しなくざわついていた心が落ち着いて、オルディナは覆っていた手を離して立ち上がった。ふう……と息を吐き、扉は開けずに答える。

「分かった、ミーニア。お水いただくわね」

「はい、オルディナ様」

「ミーニア、ありがとう」

「……いいえ。おやすみなさいませ」

扉越しでもミーニアの落ち着きのある静かな表情が見えるようだ。オルディナは「おやすみなさい」と答えたあと、よし……と頷いた。

湯を使って身体を清めた後、温まった身体で柑橘シトラス水を一口飲む。湯を使う間だけ寝台の横に置いておいた、父から貰った馬の意匠のペンダントを首に掛け直すと、寝台へと潜り込んだ。寝台からもいい香りがする。オルディナがスレンフィディナのところでなければ眠れなかった頃から、フレクがいつも作ってくれる薬草の入った枕だ。

そういえばスレンもまた、眠れないオルディナを気遣ってくれたっけ。

「スレン……」

スレンフィディナがいなくても、ワタシが一緒にいるのに!……と、12歳のスレンが寝台に潜り込んできたことが何度もあった。2人してお行儀悪く足をジタバタさせながら、スレンが持ってきたビスケットを食べて、フレクに呆れた顔をされたこともあった。そうだ。あの時フレクは呆れた顔をしただけで、怒ったりはしなかった。いつもだったら、叱られるはずなのに。

オルディナの側にいてくれたのは、スレンフィディナだけではない。みんなずっとオルディナの側にいてくれた。今更こんなことに気が付くなんて、自分はなんて子供なのだろう。

きゅ、と、父親にもらったペンダントを握りしめた。そういえば、オルディナは父親の口から宮に連れて来られた理由を聞いたことがない。聞いてはいけないことなのだと思っていた。聞いたらスレンフィディナが連れていかれるかもしれないと、自分で勝手に思っていた。しかし、本当にそうなのだろうか。

「話してみようか、スレンのことを」

ここにはいないはずのスレンに、話しかけてみる。

どうして自分は外に出てはいけないのか。どこまでなら許されるのか。王女として出来ることはあるのか。なぜティワルズとの話を断ったのか。このままスレン達と一緒にいてもいいのか。

オルディナ王女は、護衛のスレンを好きになってもよいのか。自由に振る舞うにはやるべきことをやらなければならない。オルディナにとって、それは何なのか。

父親に……アルフォール国王に、話をしてみよう。オルディナは、そう心に決めた。

「会いたいな、スレン」

会ってスレンにもう一度確かめたい。どうしてあんな瞳でオルディナを見つめたのか。どうしてあんな口付けをしたのか。

手を離したのは自分だったのに、今はそれがひどく心に刺さった。あんな風に拒まなければよかった。自分勝手だと分かっているが、拒んだなんて思われたくなかった。もう部屋に戻っているだろうか。今から行くのは……王女として、はしたないかもしれない。それならば明日、もう一度会って……今度は。

どうしよう。

自分の気持ちを認めるのと、それを伝えるのとは全然違う。

そんな風なことを悶々と考えていたオルディナは、浴室から微かに聞こえたピチャリという水音に気が付かなかった。いや、耳を澄ましていたとしても気が付いたかどうか分からないほどの、小さな気配だ。先ほどオルディナが身体の汚れを落とした時、服の裾に僅かについていた泥が浴室の床に落ちたのだが、それがじわじわと黒い染みのようになって面積を増やしていく。

その黒い染みはどんどん膨れ上がり、やがて黒い外套マントを纏った男の姿になった。

「……王家の第三王女さんのひめ

外套の下から覗く唇がそのように発音したが、実際には誰の耳にも届かなかっただろう。滑るように音もなくその人影は浴室を横切り、脱衣所を通り過ぎると、オルディナの寝室へと容易く侵入する。

「メーア・ヴェンターナといえど、王族の血を纏えば他愛もない」

男は薄く笑い、ひたひたと部屋を進みオルディナの寝台の前へとやってきた。まだ眠りの浅いオルディナが気配に気が付いて薄く瞳を開けそうになったが、黒い手が覆うと再び眠り始める。躊躇う事なく眠っているオルディナの上掛けを剥ぎ、その身体を抱き上げた。

「あの金色の馬鹿が愛する血は、俺様が貰い受ける」

脱げたフードから、短い金髪と紫色の瞳が露になった。しかし男をティワルズ王子と認識できる人間はいない。ティワルズは、オルディナを軽々と抱き上げたまま庭へ続く窓へと近付く。

月に照らされ床に映った影は人ではなく、泥で出来たかのように崩れかけた馬だった。

オルディナの宮は誰もいないと見紛うほど静かで、黒々とした闇の気配に包まれている。