人の子に「神」と呼ばれる存在がある。
世界の成り立ちから見れば彼らは力そのものの存在で、ただ人の世とは異なる界に存在しているというだけに過ぎない。しかし時折、人に興味を持ち人と関わろうとする者もあり、人と異なる力を持つそれらは神と呼ばれるようになった。
彼らに流れる時間は人の歴史よりなお長く、国の伝説を越える者の方が多い。そうした存在の中に、まだ新芽の如く若く自由気侭な存在として生まれて来た者がいた。
彼が何故生み出されたのか、彼自身は知らない。風を好み緑の香りを好んだ彼は、彼よりももっともっと精度の高い力を持つ、やはり気まぐれな別の存在によって、これまでとは全く異なる役割と存在意義と名前を与えられた。
彼にそれを与えたのは、メーア・ヴェンターナと呼ばれる存在で、与えられた名前もまた「メーア・ヴェンターナ」だった。
つまり彼は勝手にメーア・ヴェンターナの後継者にされてしまっていた。アルフォールという、自分の見た事も聞いた事も無いような王国の聖なる草原を守れと勝手に決め、勝手に界に帰っていった先代は、アルフォールの民から「神」と呼ばれていた。そして言ったのだ、次はお前が「神」なのだと。拒む事は許されなかった。なぜなら、彼を生み出したのが先代の神「メーア・ヴェンターナ」だったからだ。
こうして彼には美しい草原と、自分を畏れて近寄ろうとしない馬と自分を畏れる見知らぬ民と、口やかましいウサギの従神だけが残された。
冗談ではないと思った。風踊る界を馬の姿で駆けることに慣れた彼に、アルフォールの聖苑は狭すぎる。心を躍らせる存在はどこにもなく、在るのは泥のように長く横たわる時間だけ。
素晴らしき時間を生きよと、先代は言った。
しかし、彼には分からなかった。素晴らしい時間は気侭に駆ける時だけだというのにそれも奪われ、得たのは孤独と虚無ばかり。若く不安定な強い力は制御できず、神の気配は他の馬達を畏れさせて遠ざける。それなのに、聖苑にアルフォールの血筋がやってきては、彼が守る馬達を伴侶と定めて連れ去っていくのだ。馬と人が寄り添って去っていく姿も、また彼の孤独を少しずつ痛めつけた。それはおそらく羨望だった。自分に近付く者は誰もおらず、永遠の孤独の中にあるというのに、弱き者達は愛し合い、笑みすら浮かべて伴侶と共に去っていく。
そんな倦むような時間を過ごしていたある時、黒泥の魔が、王族の一部と聖苑の馬とを傷つけた事があった。
アルフォールにかつて住まっていた黒泥の魔は、先代が聖苑を守っている頃からずっと、幾度か姿を現して王族の一部を傷つけては打ち倒されるという愚行を繰り返していたのだが、彼の代に変わってそれが起こったのは初めての事だった。
そして、その直後。
魔の愚行に傷つけられた王族の、妹らしき少女が聖苑にやってきたことを知る。聖苑に来る者達は、皆、勇敢で威風堂々としているというのに、その者は孤独に疲れて途方に暮れた顔をしていた。
どうしてか、その小さな小さな……瑣末とも言える程の弱い娘が気になった。力と勇気を得たいと奮い立つ強い心と、どうしていいのか分からず震えているか弱い心が、助けて、助けてと呼んでいる。そのくせ、助けを求めてはいけないと己を戒めて、幼い矛盾に娘はただ、泣いていた。
娘の孤独と自分の孤独が重なって、彼は思わず聖苑に姿を現した。恐る恐る、娘に近付いてみる。弱い人間に興味など無かったはずなのに、近付いてみるとこの娘は草原と風のよい香りがした。ふんふんと鼻を近付けて、瞳から溢れるしずくを受け止めようと頬を寄せる。
ああ、なんて温かいのだろう。そう思った瞬間、娘にぎゅうっと抱き締められた。
その時、彼は娘がとても温かい事を知り、娘に触れ合う自分もまた、温かいのだという事を知った。今まで誰にも触れた事のない己に触れた娘。彼は、他に触れる事によって自分の存在の意味を知る。
聖苑の馬達が自分達の主を見つけたように、神であるはずの彼もまた、自分の背に乗るべき者を見つけてしまったのだ。
彼をじっと見つめていた娘が、不意に唇で鼻筋に触れる。ぎょっとして瞳を瞬かせると、娘が銀の瞳をきらきらと輝かせながら言った。
「わたしが、オルディナ、ディナだから……あなたは、スレンフィディナ」
娘……オルディナは、彼に名前を与えたのだ。
……彼女の名前が彼の名なのだと言った。初めて貰った自分自身の名前に、彼はどれほど歓喜に心を躍らせたか。これまで彼は「メーア・ヴェンターナ」と呼ばれてきた。しかしそれは、単に彼がそれを継いだからという理由だけであって、自分のための名前ではなくアルフォールの民達のための名前だ。
しかし、このスレンフィディナという名前は違う。己を定めた愛らしい娘、その娘と同じ名前を自分だけに与えられる。それはまさに、彼に「存在」を与えた出来事だった。
娘の名前がオルディナで、彼はまるで風だから、スレンフィディナ。しかし、スレンフィディナはオルディナを得るためならば、風のように過ぎ去ってしまうものになどならなくてもよいと思った。風になるならばオルディナと共に成ろう。それが出来ないならば地に身体を得て過ごそう。オルディナを見つけたことは、スレンフィディナにとって決定的な出来事だった。
しかし、スレンフィディナがオルディナと共に王城で生きていくのは困難だった。当時、オルディナに近付く者はたとえそれが娘の父親であろうとも、力の弱い馬であろうとも、全てがオルディナを奪おうとする敵に見えたのだ。スレンフィディナの強い力はさらに不安定になり、「オルディナに触れるな」という意志がオルディナに移って、全ての馬に畏れられるという結果を産む。
そうした剥き出しの神としての精神を守るため、従神のウサギがたちまちのうちに人間と自分達との間に入り、生活の場を整えてくれた。それだけは感謝してもよいと思う。宮に閉じ込められた原因を作ったのはスレンフィディナで、孤独に悩むオルディナを可哀想だと思ったが、1頭と1人寄り添って、まるで互いには互いしかいないように時間も空間も共有するのは心地が良かった。
しかし誰よりも早く草原を駆け、誰よりも美しく風と一体になることのできるはずの馬の本性が、徐々に窮屈に感じるようになってきた。常に人間に姿を替えてオルディナの頭を撫でるフレクが羨ましい。自分もオルディナに触れたい。オルディナの頭を撫で、手をつなぎたい。そう思った。
もちろんスレンフィディナとて、人間と同様の性と姿の自分を持っている。いつだって人の姿をとって、オルディナを抱き上げることは出来たのだが、小さなオルディナに必要なのはもの言わぬ愛馬なのではないか、人の姿を取って嫌われたらどうすればいいのかと、スレンフィディナらしからぬつまらぬことで悩んでいた。
しかし、ある日泣いているオルディナの涙にどうしても触れたいと思ったとき、スレンフィディナは思わず人間の姿をとってしまったのだ。それも、オルディナの見た目に合わせて自分の見た目も縮んでしまった。後から考えれば、幼馴染みとして側にいる事ができたからよかったのだが、当時の自分はたいそう慌てて、慌てる自分に驚いたほどだ。相手はたかが人間の少女なのに。
スレンと名乗ったスレンフィディナは、以後、オルディナの幼馴染みとして、護衛として常に側にいた。オルディナと共に勉強するふりをしながら、その横顔を垣間見るのは楽しかった。神たるスレンにとって、剣も歴史も数理もたやすかったが、語学と礼儀作法だけは役に立ったものだ。……人として生きるならばその程度は知っていろと、フュレクゲーリに言われて渋々習得したが、いずれにしろ、オルディナと共に学び過ごす時間は愛おしい。これまでの倦むような長い時間を思い出せないほどに。
オルディナという少女は、美しい女性に成長した。
最初は、自分の心をとらえた少女に対する興味と保護対象としての愛おしさだけだったのに、自身も幼い姿を取り、共に成長していくに従って、全く別の心持ちが育っていくことにスレンは気が付く。「愛しい」としか表現する事が出来ないのに、今までとは全く別の気持ちは何と呼ぶのが正しいのか。そしてそれは感情だけではなく肉体も伴った。スレンの性は男であり、オルディナは女だ。彼女が欲しくて、抱きたくて、焦燥にも似たこの気持ちを持て余す。
スレンにとってオルディナと交わることは容易い。しかし双方の心を交わすのは、どれほど難しいことだろう。
オルディナが他の男に触れている、それを見るだけで嫉妬という名の感情が膨れ上がった。あのティワルズという男、王子なのだという報告をフレクから受けていた。恐らく古いアルフォールの王族の血が色濃く出ているのだろう。王族以外の立ち入りがあればすぐに反応するスレンの力が一切反応せず、森への立ち入りを許してしまった。
人間などとは比べ物にならないほどの強い力を持っている神だというのに、スレンは決して、人間と同列の存在にはなれない。しかし、ティワルズは違う。オルディナと同じ人間だ。スレンよりもオルディナの相手にふさわしいのかもしれない。だからこそ、許せない。自分以外の存在に、オルディナを許すことなど出来るはずもなかった。
激情に任せてオルディナに触れてしまった。そして、拒まれた。
多少奢っていた部分もあったのかもしれない。オルディナは自分に心を許してくれたのではないか。しかしオルディナが心を許していたのは、愛馬であって護衛では無かったのだ。だから、あんな風に「嫌だ」……と……。
拒まれた衝撃は大きく、オルディナは立ち去ってしまったので見ていないだろうが、思わず耳と尻尾が飛び出してしまったほどだった。あんなことしなければよかったと思う反面、触れた唇と舌と、胸の柔らかさの感触が離れない。あれが愛する女の触り心地なのだ。
嫉妬と、拒否と、2つの衝撃を食らって、スレンはその力が一時的に不安定になった。心を落ち着けようと、ふらふらと聖苑へと赴く。
その時、だ。
覚えのある邪悪な気配が森を覆った。その邪悪の中にある2つの王族の気配。1つはどうでもいい、しかしもう1つは……。
「オルディナ……!」
夜空に一際高く馬の嘶きが響く。叫び声にも似たそれはあっというまに風に飲み込まれ、その風と同じ早さで金色の馬が駆け出した。
****
コトン、……と小さな音が、隣の部屋から聞こえた気がして、ミーニアは後片付けの手を止めた。宮に住まう人間はそれほど多くないが、使用人はミーニアとフレクだけである。フレクがいないときは、レイクやゲーリも手伝ってくれるし、料理や洗濯は王城で調達するため不便はないが、オルディナの守りや相手が少ないのは困りものだ。
しかし、出来る限り少ない人間でオルディナの生活が不便でないように、というのは王の意向らしく、これ以上人出が増えることはないだろう。
ミーニアは現在16歳。オルディナの侍女になったのは2年前だが、宮に来るようになったのはもっと前、9歳のときからだ。オルディナが宮に入る前から侍女をしていたミーニアの姉が、そのままオルディナについて宮でも引き続き侍女をすることになった。しかし、もともと兄弟姉妹の多かったオルディナが急に1人にされたことを想って、ミーニアを行儀見習いとして連れてきてくれたのだ。最初は馬に嫌われる王女という噂だけでびくびくしていたが、実際には単に可愛らしい王女で、ミーニアはすぐに宮の生活に慣れた。
家令のフレクも楽しくて優しいし、家庭教師のレイクはとても美人だ。皆、宮に閉じこもってばかりだというのに、城下で流行のお洒落もお菓子もよく知っていて、一緒にいると飽きる事が無かった。オルディナも優しくて、そして芯のしっかりした王女で、12歳でたった1人だというのに、その頃から既に王女としての務めを果たそうと努力をしている姿は素敵だった。上手く感情を表に現すことの出来ないミーニアは、同じ年頃の子供たちからは敬遠され、大人達からは子供らしくないと言われることが多かったが、オルディナもフレクもレイクも……そして、まあ、スレンも、そのような態度は全くなく、この宮でミーニアに出来る限りのことを懸命にするのは楽しい日々だ。
もうすぐ国誕祭で、この日は王城ではしめやかな祈りと華やかな宴が両立する。オルディナは参加することが出来ない……というのがミーニアには納得出来ないが、何よりもそれをオルディナが受け入れているのだから、ミーニアにはどうしようもなかった。
その祭事を控え、今日のオルディナは少し様子がおかしかった。皆がいない時に森へと行ったあと、スレンがそれを探しにいったのだが、フレクもいつの間にかいなくなってしまっている。オルディナは戻ってきたが明らかに様子がおかしく、だがすぐにいつものオルディナの様子に戻った。湯浴みも寝る準備も、ミーニアの手を煩わせようとしないのは常で、別段珍しくも思わない。
ただ、気になるのはフレクとスレンが帰ってきていないという事だ。
先ほどの物音は、フレクかスレンが帰ってきた音だろうか。
「フレク様?」
ミーニアは、フレクの部屋の扉をノックした。帰ってきたのならばミーニアに一言あってもいいはずだが、だんまりなのは珍しい。
返答が無く、いつものミーニアであれば暫く様子を見てから再度訪ねるのだが、この時ばかりはどこか胸騒ぎを覚えて再びノックをした。
「……て」
「え?」
「みずを」
水?
微かにしか聞こえないが、確かに老いたフレクの声だ。もう一度扉に耳をあてて中の様子をうかがってみたが、もう続きは聞こえなかった。ミーニアは意を決して扉を開ける。
「失礼します、フレクさ……ま?」
部屋を見渡すと何故か床が水浸しで、その真ん中に小さな物体が転がっていた。一体なんだと警戒したが、うっすらと月明かりに照らされるそれは、長い耳をぐったりと垂らし、乾いていればさぞや緻密で手触りのよさそうな白と薄茶色の斑の毛皮をしょんぼりと湿らせた……
ウサギだった。
****
「ウサギ……?」
思ったよりもこじんまりとした存在に、ミーニアは思わず首を傾げた。しかし、水浸しになった床の真ん中に横たわるウサギなど怪しい事この上も無く、近付くべきかどうするべきか、正常に判定できずに足を止める。
「……ミニ、ア」
「え?」
「ミーニア……」
掠れた声は相変わらずフレクのものだが、目の前にいるのはウサギだけで、老いた片眼鏡の紳士はどこにもいない。訝しげにきょろきょろするミーニアをさらに呼びかける。
「ミーニア、ミーニア、ここだ……」
「どこです? フレク様?」
「ここだ、……お前の、足下の」
「足下にはウサギしか……」
「……」
しかしここまで来ると、声の主がウサギであることは否定できない。ミーニアはしゃがみ込み顔を近付けて、そうっと手を近付けてみる。
「えっと……?」
「ミーニア……」
口許がぴくぴくと動いた。ウサギがしゃべっているのだ。
「……!」
「ふが!」
ウサギがしゃべっている! そう思って、可愛い! とか、ふかふかしている! などとはしゃぐ前に、ミーニアは目の前のしゃべるウサギを気味の悪い生き物と認識した。長い耳を遠ざけるように、手でぐっと押し返す。ウサギの小さな身体は非力で、あっさりと、そしてぐんにゃりと水の上を転がった。
「ひいいいい」
「えええええ」
毛皮が水で濡れるのが嫌のようで、フレクの声でしゃべるウサギは濡れそぼった毛皮を最大限に膨らませようとしていた。
「な、何者ですか! フレク様の声を真似する不届きなウサギめ!」
「違う、私だ。私がフレクだ……!」
「はあ? フレク様が、そんな、う、ウサギな訳が無いでしょう! フレク様は剣の腕もお茶を淹れる腕もお持ちの多才な方ですのよ!」
「……ほ、ほめ、褒められるのは嬉しいが、オルディナ、ひめが」
「オルディナ様が?」
「あぶない……」
「なんですって!」
それを聞いてミーニアは、表情だけではなく感情も冷静さを取り戻した。すぐさまウサギを抱き上げて、自分の顔の前まで持ってきた。焦りのあまり軽く揺らすと、ウサギの耳がかっくんかっくん上下する。
「オルディナ様は お部屋に戻ったはずなのに!!」
「み、ミーニア、ちょっと落ち着」
「オルディナ様はどこですか!」
「ぐえ」
焦ったミーニアが、ウサギをぎゅっと抱き締めて、きょろきょろと辺りを見渡した。ミーニアは華奢に見えるが胸だけはなぜか成長している。その胸の圧力にむぎゅりと襲われて、普段ならば……というか、通常の成人男性ならば胸のほんわりに包まれて幸福な気分になっただろうが、小さなウサギにはそれどころの話ではなかった。
ふしゅう……と空気が抜けるようにウサギの耳が垂れていく。
「フレク様!?」
「拭いてくれ、身体、水が……鼻と耳に……」
メーア・ヴェンターナの従神フュレクゲーリ、常の姿は家令のフレク、ある時は執務官のレイク、または馬屋の少年ゲーリと呼ばれている。人の少ない宮にて、坊ちゃんが心置きなく過ごせるように、オルディナが寂しくないようにと、1人3役をこなす苦労人だ。2代に渡ってメーア・ヴェンターナに仕え、従神であるにも関わらず主神のメーア・ヴェンターナを超越する知識と経験を備えた彼には、たった1つ弱点があった。
鼻と耳に水が入るとダメになるのである。