目と耳と鼻がぐらぐらとしびれていて上手く感覚が戻って来ない。寝台の上で眠っていたはずだったのに、肩と足と首がむき出しで、触れる空気が冷たかった。
ここはどこだろう。
背中と膝裏が痛く、高い位置に持ち上げられているようだ。自分の身体の下の方で、ペチャリ、ペチャリ……と音がしている。そしていつもの自室の香りではなく、泥のような生々しい湿った匂いがした。
その不吉な音と匂いをオルディナは知っている。
「……!」
そして、その記憶が蘇った瞬間、オルディナの意識も覚醒した。身体をびくつかせると、「おやおや」……という、どこか陽気さすら感じさせる声がすぐ上から響く。
「もう少し時間が稼げるかと思いましたが、姫君は存外神経が図太いようだ」
「……貴方は」
オルディナの顔を楽しげに覗き込んでいるのは、森の中で出会ったティワルズ王子だった。ティワルズはオルディナの身体を抱き上げているようで、しかもオルディナは腕が剥き出しの下着のような寝間着1枚というひどい格好だ。周囲は夜の森で、自分は男に抱き上げられている。恐怖と嫌悪と危機感に一気に襲われ、半ば混乱したオルディナは抱き上げられたままティワルズを押し退けた。
「おっと」
ティワルズにとってオルディナの抵抗は予測していなかったのか、あるいは捕捉した側の余裕なのか、ティワルズの体勢は簡単に崩れた。オルディナの身体は転がり落ちるように地面に倒れ込む。冷たい地面に剥き出しの腕がこすれ、生成りの寝間着はあっという間に泥だらけになった。
しかし自分の格好に構ってなどいられない。なんとか立ち上がり駆けようとしたが、身体が震えて上手くいかず、足がもつれて再び転んだ。
後ろから、ペチャリ……と音がする。ティワルズは普通の長靴を履いていたように思ったし、地面は泥沼というほど濡れてはいない。泥の中を歩くような音などするはずもない。そのはずなのに、湿った音は徐々に近付いてくる。
振り向くと、冷たい笑みを浮かべたティワルズがオルディナを見下ろしている。ゆっくりと近付いてくるティワルズに、オルディナは立ち上がれないまま後ずさる。しかし背中に何かが当たった。樹に逃げ道を遮られ、追い詰められる。
目の前にいるのはティワルズ王子だ。しかし、泥の中を歩くような足音にオルディナは聞き覚えがあった。そして蘇る記憶に重なるそれは、全く別のものだ。
「……ティワルズ、王子……?」
呼ばれて、ティワルズがニタリと笑う。ティワルズの本当の姿を知っている者ならば、その笑みが彼本来の笑みではないと分かるだろう。憎悪からくる嘲笑をオルディナに定めて、ティワルズの表情は何かに取り憑かれたように濁っていた。
「……そう、ティワルズですよ、オルディナ姫」
オルディナは首を振る。
オルディナはさほどティワルズを知っているわけではなかったが、目の前の王子が我を失っているのは分かる。なぜならば、ティワルズが纏うその気配をオルディナは知っているからだ。「それ」がティワルズ王子であるはずがない。ティワルズ王子の姿をした……。
「……化け物……」
「ほう」
「あなた、はっ」
そう。幼い頃にウィスリールとオルディナの目の前に姿を現した事のあるそれは……伝説にあるアルフォールの先住の民を苦しめていた化け物そのものだった。
「黒泥の」
オルディナの声が震える。
ペチャリ、ペチャリ、という不快な足音に、禍々しい黒い気配がオルディナの心を冷えさせる。ティワルズの足下を見ると、地面を踏みしめる王族が履くにふさわしい意匠の長靴が、雨など降っていないはずなのにどす黒い泥に塗れていた。
「おや……アルフォール王族のひめに覚えてもらっているとは、光栄なことで」
クク……と笑って、ティワルズは外套を脱ぎ捨て、スカーフを外した。オルディナの眼前に膝をつくと、突然顔が近付いて、おもわず「ひ」と喉を鳴らす。幼い頃の記憶が蘇り、無防備な今の状態が恐怖を上塗りする。知らず首から提げたペンダントをぎゅっと握りしめていると、ティワルズが紫色の瞳を細めた。
「私から力を奪い、土地を奪った、憎らしいアルフォール戦士の血を引くむすめ。ようやく辿り着いた」
「辿り着いた……?」
「そう。この時を待っていた。王族どもに入り込める、この時を」
黒泥はずっと待っていた。
アルフォールに古くから居た彼は、いわゆる先住の民を餌に生きる黒い魔物だった。人間共は弱く餌を取るのは容易で、この地は彼にとって楽園も同義の素晴らしい場所だったのだ。恐怖に戦く人間を追い詰めるのは楽しく、なす術も無く自分を恐怖しひれ伏す姿を見ては優越に浸った。
いつまでも続くはずだった楽園に、暴虐の徒がやってきたのはいつだったか。馬に乗った黒い髪と銀色の瞳を持った戦士達、そしてそれらを導く一際美しく光り輝く馬の姿に、今度は己が恐怖した。か弱い人間と鼻で笑っていたが、彼らは今まで食らってきた人間とは異なり戦い方を知っている。決して無敵ではない黒泥は、追い立てられ、追い詰められて、とうとう打ち倒されたのだ。
かくして楽園はアルフォールという名の憎い戦士達の国となり、草原は聖苑と名付けられて、神に愛される馬達が解き放たれた。国の者は皆、馬を愛し、先住の民も新しくやってきた戦士達も、仲を分つ事無く平和を享受するようになった。先住の民達が恐怖に引き攣っていた顔は無くなり、馬を見るときは優しくなり、戦士達を見るときは尊敬に輝いたが、何故かそれがさらに黒泥の憎しみを煽った。
彼は泥の一滴となっても、醜い嫉妬と憎悪で地を這いずった。力を溜めて時折姿を現しては、その度にアルフォールの王族に倒されたが、何百年に一度、兵士達に混じって王族を道連れにすることがある。それだけが楽しみな薄昏い時が流れた。
先住の民とアルフォールの戦士が交わり合い新たな血族となるほどの時間が経った頃、禍々しいとしか思えなかった金色の馬の形を為した女神が1人の王族の戦士を見出し、彼を連れてこの草原を去った。これは契機かと思ったが、次に現れた金色の馬は若々しい力にあふれ、むしろ聖苑に近付けぬほどになった。
聖苑とその周囲は、アルフォールの王族以外は容易に近付けない。それは神が定めた決まり事だ。その力がさらに強まり、人も馬も金色の馬を慕わず、畏れるようになった。人や馬の瞳は神の実体からは逸らされ、ただ畏怖のみが残り、神の眼もまた人や馬から逸らされる。
その隙を突いて泥の一滴は森に潜み、数百年に一度の王族を殺す時を待った。
もちろんその場で打ち倒されたが、代わりに王族を1人と若い兵士を数名犠牲にしてやった。恐怖に戦いてその場を逃げ出す少女の顔に醜い喜びを見出し、勇敢に自分に立ち向かってくる青年の凛々しい横顔を死の淵へ追いやってやったと醜い勝利に酔いしれて、再び泥の一滴へと戻る。
次の力を溜めるため、眠りについたはずだった。
しかし、すぐに揺り起こされる。
偶然にもその泥の一滴を踏んだのは隣国の王子で、踏みつけられた怒りに転ばせてやろうかと思ってとどまった。彼からは微かにアルフォールの王族の血の匂いがしたのだ。恐らく数世代前に彼の血族にアルフォールの王族が居たのだろう。髪も瞳の色もアルフォールの王族とは似ても似つかないが、馬に愛され馬を手繰るその気質は、確かにアルフォールの戦士のものだ。
王子はどうやら故人であるウィスリールの友人だったようで、アルフォールの国に入る前に王族の墓地へ個人的に参っていたようだった。
アルフォールの王族の血を持つ「王族」……若い神の眼が人間から逸らされている今、この王族に取り憑いて神の眼を欺くことが出来るのではないか。弱っている彼にとって、人間に取り憑くなどという特殊な力を使うことは危険極まりない。しかし、この何百年の間に思いつきもしなかった、そしてたった今思いついてしまった考えに、黒泥の魔は己の身を委ねた。王族に取り憑き、人間の真似事をしていれば、アルフォールの王城にすら入る事ができるではないか。
計画はうまくいった。ティワルズに流れているアルフォールの王族の血に誤摩化され、オルディナのいる宮の側に近付く事が出来た。探ってみると、あの憎い金色馬の二代目はその王女に飼われているようで、神も堕ちたものよと鼻で笑った。
しかも金色馬の魔力は安定せず、ティワルズが少しオルディナを揺さぶっただけで激昂して方向を見失った。強すぎる力は森を覆って危険だったが、範囲を絞りきれぬ様子なのは好都合だ。宮に忍び込んだ足で、ウサギに水を掛けてやれば他愛も無い。
オルディナは手中におさめた。うまくいけば……。
「アルフォールの第三王女、貴女が私の子を孕めば、王族と私の血が混じり合う事になる」
それを聞いたオルディナの表情が、みるみるうちに、これまでの恐怖とは別種の恐怖に彩られていく。幼い頃の記憶と、女としての危機感で、逃げなければと思うのに身体が凍ってしまったように動けなかった。
肩を木に押し付けられ、寝間着の中にゴワゴワとした手が侵入してきた。太ももを撫で回しながら、顔を近付けてくる。
「い、いや」
足に触れる気色の悪い感触に息が上がる。
「安心なさい。貴女との婚姻は断られたが、既成事実があれば王も否とは言うまい。それに私がこの王城に婿入りすれば、貴女は国外に出なくてすむ」
「そ、んなこと……」
「許されない? 許すのは私だ、アルフォールの王族ども! 私から餌場を奪った盗人の末裔めが!」
急に荒げた声にびくりと身体を震わせ、無意識にペンダントに触れる。その様子に、ティワルズの顔をした化け物がペンダントを掴んだ。
「……い、!」
首に焼け付くような痛みが走り、ブチリとペンダントの鎖が切れる。ティワルズが瞳を憎しみに染め、唇は残忍な笑みを浮かべてペンダントを揺らした。
「こんな駄馬など信仰して。……馬に嫌われる呪われたひめのくせに」
「か、えして」
「黙れ!」
ティワルズがぎゅっとオルディナの太ももを強く握った。爪が食い込む痛みに叫びたくなるのを耐え、思わず呼吸を止めて眉をしかめる。しかしその痛みが、震えて凍えそうな気持ちに熱を灯らせた。
「……やめて、返して!!」
近付いてきた生ぬるいティワルズの肩を掴もうと手を振り上げると、一瞬脇腹を庇うような身体の捻り方をした。咄嗟に右脇腹を掴むと、ティワルズがヒヒン!!と馬のように嘶く。
突然の嘶きに一瞬時が止まったが、先に意識を取り返したのはオルディナで、舌打ちしたティワルズの脇腹をもう一度掴もうと手を伸ばした。
「くそっ……!」
ティワルズが口汚く悪態をついて身を捩ったが、オルディナは脇腹は掴まずに相手の腰に挿してあった短剣を抜き取った。シュリンと金属の音がしたかと思うと、オルディナはそれをティワルズに向ける。
「はっ、往生際の悪い!」
言いながらオルディナの身体を突き飛ばす。しかし、オルディナは背中をしたたかに打ち付けながらも、体勢を整えた。立ち上がるオルディナに合わせるように、奪ったペンダントを握りしめたままティワルズも立ち上がる。
「およしなさい。そんな短剣一本で貴女に何が出来る」
「……」
何も出来ないかもしれない。……しかし、おとなしくここで「既成事実」とやらを作るつもりもなく、オルディナはティワルズに向き合うように短剣を構えた。手は震えない、涙も出て来ない。ただ、ペンダントを奪われたまま背中を向けて逃げ出して襲われるより、手が付けられないほど暴れて、血まみれになるまで抵抗した方がいいと思った。あのペンダントは父親から直接受け取った最後の贈り物で、あれだけが、オルディナが確かに王の娘であることを王に証明してもらったもののように思っていた。それを奪われていいはずがない。
アルフォールの第三王女は、決して黒泥の化け物に唆されなどしなかったのだと、証明しなければならない。
だが、ティワルズは追い詰められたオルディナに比べて余裕を見せ付けていた。悠然と近付いて、オルディナの短剣を奪おうと右手を伸ばす。オルディナの短剣はそれを躱し、くるりと短剣を回してティワルズの手首に刃を向けた。
ティワルズが一歩飛び退き、肩を竦めて剣を抜き放つ。
「ではお手並みを、……第三王女」
言いながら、ひゅ……と剣を大きく薙ぎ払い、オルディナへと距離を詰めてきた。届かない距離だとは知っていたが一歩後ろに動き、突いてきたところを中段に構えた短剣で受け止める。オルディナの肩を避けてティワルズの剣が伸びた。剣筋が甘いのはティワルズがあからさまに手加減をしているからだろう。しかし、そんなことを悔しく思っている暇など無かった。オルディナがちらりとティワルズの脇腹に目をやると、よほどそこが弱いのか、交わしている刃が軽くなる。
短剣から力を抜いてティワルズの剣をやり過ごし、脇腹をちらちら見ながら回り込もうとすると、ティワルズがいらついて、オルディナの構えた剣を下から振り上げた。
ガキィ……! と音がして、オルディナの手から短剣が飛ぶ。強く握りしめていた柄が離れる衝撃に痛みが走った手首を思わず押さえると、ティワルズが、ふん……と鼻息を荒くした。
「おとなしくしていれば、痛い思いも怖い思いもせずにすんだものを、馬鹿なひめだ。一思いにやってやろうか」
地面に映っていたティワルズの影がねちゃりと揺れ、落ちた短剣が黒い泥に沈み込んでいく。
「……え?」
ティワルズの顔から笑みが消えた。
突然操り人形の糸が消えたようにがくんと首と手を垂らして力をなくす。その代わり、ティワルズの影のように見えていた黒泥がずるずると持ち上がり、馬の形を為し始めた。
オルディナが驚愕に目を見開く。
その姿を見た事が合った。脳裏にこびりついて離れない、ウィスリールを殺した黒泥の化け物だ。実際に見たあの化け物と同じ姿を目の当たりにして、身体中に鳥肌が立つ。
ピチャリ……と泥を踏んだ音をたて、黒泥の馬がオルディナに近付く。
再び震え始めた足を、一歩退く。
「さっきまでの勢いはどうした、第三王女よ」
嘲笑の響きを帯びた声を吐きながら、馬が近付いた。ぴちゃ、ぴちゃ……と泥を伴った足音が早くなり、泥の塊が前足を振り上げ甲高く嘶く。
「……いや……!!」
喉が強張り、悲鳴すら上げられなかった。頭を庇うように両手をあげて、ぎゅ……と目を瞑る。……しかし、思っていた泥も衝撃も無く、まるで辺りの泥の臭気を打ち払うような風と緑の香りがオルディナの側を通り抜ける。
ギャアアアアアアア!!
続けて不快な悲鳴が響き、グシャリと何かが崩れるような音がする。オルディナが恐る恐る目を開けると、そこには金色に輝く大きな馬が、オルディナを守るように立ちはだかっていた。
「スレンフィディナ!! ダメよ!」
しかし、目の前にいる馬が自分の愛馬だと分かった途端、オルディナはその首にかじりついた。下がらせようと懸命に引くが、スレンフィディナは一歩もその場から動かない。
目の前の黒泥は馬の身体をどろどろと崩しながらも、再び形を為していく。
「……この、金色馬めが……」
「スレンフィディナ、さがって、危ないから……!」
かつてウィスリール王子と共に命を落とたファングのことを思い出す。スレンフィディナもオルディナを守ってそんな風になってしまったら、そう思うと、自分の半身が斬りつけられたように痛い。この金色の綺麗な馬身に傷がつくなんて耐えられなかった。
「お願いだから……!」
「下がって、ディナ」
「……え?」
だが、人の声を発したスレンフィディナに、このような状況であるにも関わらずオルディナは目を丸くした。その声には聞き覚えがあった。いや、それどころか毎日聞いている心地の良い声だ。呆気に取られて腕の力を弱めたオルディナの身体を、スレンフィディナが馬の首を軽く曲げて小さく押しやった。そうして一歩、二歩、進んで、再び黒泥と向き合う。
その勇ましく頼もしい身体が、優しく逞しい見覚えのある背中に重なる。そんなはずはない。スレンフィデナは馬で、その人はオルディナの幼馴染みのはずだ。
しかし、どこか確信を持って、オルディナは呼ぶ。
「スレン……?」
「うん」
オルディナに背を向けたまま、確かにスレンフィディナが返事をした。そしてもう一度「下がってて」と言うと、ゆらりと前足を持ち上げる。
それに呼応するように黒泥の馬も前足を持ち上げる。
組み合った2頭の内、先に歯を剥いたのは黒泥に塗れた方だ。しかし、それはスレンフィディナの首に届かず、半身を捻るように躱して前足で横腹を蹴る。黒い塊はドウと音を立てて泥の中に倒れ込んだがすぐさま起き上がり、起き上がった時には口に何かを咥えていた。
オルディナのペンダントだ。
黒泥は、そのまま首を垂直に上げてペンダントを飲み込んだ。
「もうそれでおわりかよ、やくたたずの、さんのひめ」
「な。何を言ってるの……」
黒泥の魔物は、スレンフィディナのことを見ていなかった。まっすぐにオルディナのことを見つめている。その視線を遮るようにスレンフィディナが立ちはだかり、再度前足を持ち上げて黒泥に振り下ろす。
ベシャア……と、黒泥の脇腹が欠けてよろめいたが、視線はもうスレンフィディナには向かなかった。
「やくにたたない、こむすめが。おまえがいなければ、あにきも、うまも、しななかったかもなあ」
「あ……」
黒泥が断末魔の力を振り絞り、ごぽりと口から泥を吐きながら、強い憎悪をオルディナに向ける。その憎悪をまともに受けて、オルディナは無意識に胸元に手をやり、何かをたぐり寄せようとした。
だが、そこには父から貰ったペンダントは下がっていなかった。ペンダントは敵に飲み込まれてしまったのだ。
「……っ」
「おまえがしねば、よかったのに。やくたたずのおまえが、しねば、しねば、しねば!」
側にはスレンフィディナもいるはずなのに、オルディナは唐突に1人にされたように思った。父から貰ったペンダントは失くしてしまった。もうオルディナを王族と証明するものは無い。強くて賢いウィスリールではなく、役立たずのオルディナが死ねばよかった。宮から出る事も出来ず、戦うことも出来ず、守る事も出来ず、王族としての責務も果たさない、何も出来ない第三王女が……
「わたしっ、はっ」
でも死にたくない。スレンとスレンフィディナと、宮の皆と一緒にいたい。……けれど、そうやって思うことすら自分の甘えなのだろうか。生き残りたい、死にたく無い、そんな風に思う事は許されないのだろうか。
『甘えん坊さんだな、ディナは』
笑って言うウィスリールの言葉が蘇る。
甘えてはいけない。泣いてはダメだ。もう19にもなるのだから。だけど、怖くて震えが止まらない。怖く思う事すらも甘えだ。生き残った自分が甘えてはいけないのに。
「ディーナ」
オルディナが震えていると、耳元をふうわりと優しい声がくすぐった。
顔を上げると賢そうなスレンフィディナの顔があって、知らず流れていた涙を受け止めるように、すりすりと頬を寄せている。
「スレンフィディナ……スレ、ン、スレン……わたし」
「うん」
先ほどと同じ返事をして、すう……と、スレンフィディナの姿が消えた。……いや、消えたわけではなかった。目の前にいるのは綺麗な金色の髪と翡翠色の瞳をした、護衛で、幼馴染みで……オルディナの大好きな、スレンだ。スレンはいつものようにオルディナの頬に手の平をあてて、涙を拭ってくれた。
スレン……と呼ぼうとして、声が掠れる。
その時だ。
「しね、しね、しね、きんいろのうまも、ぎんのめのせんしも、みんな、みんな、しんでしまえ!」
もはや馬の嘶きには聞こえない甲高い叫び声を上げ、泥の塊がスレンの背後に頭をもたげた。泥の塊の一部が馬の形を無し、大きな歯……いや、牙をスレンの肩目掛けて振り下ろす。
「スレン!」
ギャアアアアアアア……アアア……アア
けれど、その一撃もスレンとオルディナの元には届く事無く、片方の手に握られていたスレンの剣が馬の首に食い込んだ。そのまま、バターでも切るかのように馬の首を振り抜いて、グシャア……と頭が泥に落ちる。
崩れ落ちた泥の化け物を、スレンが表情を消して見下ろす。
「ア、ア、ア、なんでおれさまが」
「黒泥の魔物よ……」
「よわいにんげんを、たべて、なにがわるい。ころして、たのしんで、なにがわるい!」
「……ワタシも、ずっと人間を弱い生き物だと蔑んでいたから。長い時間に飽きて、お前のようになっていたかもな」
「しにたくない、しにたくない」
「けれどオルディナが、倦んだワタシを掬って……救ってくれた」
長い時間を生きてきた黒泥の魔物。彼は先代、今代のメーア・ヴェンターナの時間をも越えるほど、長くこの地に住まっていた。長い長い時間を生き抜く魔の力の強さはその地に住まう弱い力を蔑み、長い時間を越える孤独は短い時間を助け合って生きる弱い力を妬んだ。蓄積された憎悪と嫉妬は、もしかしたら今代のメーア・ヴェンターナの遠い遠い未来の姿だったかもしれない。彼もまた、長い時間を飽き、若い力を持て余し、自分を畏れて近寄らぬ人や馬に心を開く事無く、かといって彼らに嫉妬を向けていたから。
だが、その長い時間にふと現れた少女が、自分に存在を与えてくれた。不意に交わった少女と馬との時間、取りこぼしていたらもう次は無いかもしれない唯一の奇跡を、スレンフィディナは掴んだ。
人間に意味など見出さなかったら決して得られなかった時間と存在を、スレンフィディナはオルディナから与えられたのだ。
「疾く、去れ。ここはお前が生きていくには向かない」
「いやだいやだいやだ、よわいものを、たべて、ころして、くらしたい」
「ならば無理やり帰すまでだ。いつかお前が在る意味を見出すがいい」
いやだいやだいやだいやだ……
スレンはオルディナを下がらせて、グズグズと崩れていく泥の中に剣を突き立てた。すると泥の臭気が一気に消える。一筋、その刀身が煌めいただけで、泥の一滴を残さず全てがサラサラとした白い砂になっていった。
金属の小さな音がして、白い砂の上にポトリと金色のペンダントが落ちた。スレンが白い砂の中からペンダントを取り上げて、自分の上着の中に入れる。
振り返ると、顔を真っ青にしたオルディナが自分の身体を抱えていた。
「スレン、わたし」
「ディナ」
「私、……」
張り詰めていた神経がぷつりと切れたようにオルディナの身体が傾いだ。もちろんそれはスレンの腕が受け止めて、しっかりと抱き寄せる。
「ディナ……よかった」
オルディナの身体を抱き締めたまま、スレンは天を仰いだ。はー……と、息を吐いて緊張を解く。
聖苑で不安定になった力を落ち着けていると、突如感じた黒い気配。そして、その中央にいた王族の気配に、スレンは心臓が止まるかと思った。ティワルズにアルフォールの王族の血が流れていて、その血に黒泥が巧妙に乗り移っているなど全くの予想外だ。スレンはそもそもオルディナ以外に興味は無く、オルディナ以外の王族に目を向けた事が無かったが、その弊害が一瞬の判断の遅れに繋がった。
「泥だらけだ、ディナ。……洗わないと」
一度オルディナの髪に頬摺りすると、スレンは自分の外套を脱いでオルディナの身体に巻き付けた。オルディナはいつもの薄い寝間着一枚で、この姿で泥を這い回り、この姿をティワルズに晒したのかと思うと、唸りたくなるような怒りが込み上げる。
外套に包んだオルディナを抱き上げると、駆ける足音が聞こえてきた。気配で誰か分かったスレンは警戒を解いて視線を向ける。
「坊ちゃん!」
走ってきたのはフュレクゲーリだった。青年の姿はオルディナの執務官レイクだが、いつもの色っぽい女装ではなく、片眼鏡にフロックコートを着崩している。そして白と斑の巻き毛の隙間から、ぴょこんと長いウサギ耳が生えていた。
「お前か」
「……姫は」
「気を失っているだけだ。無事だ」
「そうですか……宮の方に」
「ダメだ。……泥を落としてから行く」
「坊ちゃん!」
なんだかんだ言って、スレン……坊ちゃんには甘い従神だったが、珍しく声を低くして嗜めた。しかしスレンは黙って首を振る。
「もう無理だ。これ以上は耐えられない」
「……しかし」
「行け、フュレクゲーリ。頼むから、しばらく放っておいてくれ」
フュレクゲーリ……レイクが思わず息を飲む。スレンの見た目は服が汚れているだけでさほど変わらないが、雰囲気が切羽詰まっている。今にも怒りとも焦りともつかぬ感情が溢れ出し、周囲を飲み込みそうだ。
沈黙している忠義な部下に、スレンが背中を向ける。
「そこに倒れてるティワルズ王子を城に返しておけ」
視線を少し横に向けると、白い砂が撒かれた空間の端の方にぐったりとティワルズが倒れていた。レイクはやれやれと頭を掻きながら、ティワルズを見下ろす。ティワルズは憑き物が取れたようにすっきりとした面持ちで気を失っている。気を失ってもなお失わない高貴さは生粋の王族ゆえか。レイクはティワルズの首根っこを掴み、よいしょと肩に担ぎ上げると、心配そうな……しかし、どこか安堵したような表情でスレンの消えた方向を見つめた。
従神フュレクゲーリはいつだって主の幸せを願ってきた。神が娘に一目惚れしたとか神の孤独を救ったとか、そんな伝説的な未来ではなく、ただの幼馴染みとして育った寂しがりやの少年と泣き虫の少女が、2人寄り添って幸せになる小さな未来を願ってきた。
きっとそれは近いうちに叶うだろう。
ウサギの従神はそれを確信している。