001.砂塵の魔女

砂漠の夜は静かで、まるで時が止まっているかのようだ。
空気は澄んでいて、月は細い。星が良く見えて、風が凪いでいる。

その砂漠には砂の内に滅びた王国があり、王国跡には1人の魔女が住んでいるという。
気が向いては砂漠のオアシスに現れて、時折、王国跡に踏み込む冒険者に道を教える。
魔女は、人の望みが正当な取引であればそれに応じ、それ以外には容赦が無い。

砂漠に生きる人間と、砂漠を渡る旅人は、憧憬を込めて彼女をこう呼ぶのだ。

「砂塵の魔女」と。

****

「この辺りに野営地があるはずなんだ。きっともうすぐ着くよ。」

月が砂漠を優しく照らしている。

その砂漠を歩く影が2つあった。
その影の一つは、旅の若者。もう1つは若者が連れた駱駝。
若者は、隣を歩く駱駝の脇をぽんぽんと優しく叩いた。柔らかい砂を踏みしめて、1人と一匹はとぼとぼ歩く。
彼は若い商人で、砂漠を渡るのは初めてだった。
慣れない砂漠の夜の寒さは若い商人の体力を消耗させたが、初めて砂漠を渡るという冒険は若者の心を沸き立たせた。師匠から受け継いだ地図と空の星を合わせて読むと、砂漠の方向もよく分かる。自分でも、きっと渡れると、若さゆえの勢いと師匠からの激励が、彼の背中を後押しした。

だけど。

砂漠はそれほど甘くは無い。
たとえ、正確な地図があろうとも、目にも同じの砂だけの景色は、旅人から距離感と判断力を奪うのだ。彼は、初めて経験する寒暖の差と試される精神力に、今にもくじけそうだった。そうして、丁度三方を砂丘に囲まれた窪みに入り込んでしまった。あの砂丘を登らなければ成らないと思うと、どうにもならない疲労が滲む。

突如、馬の嘶きが聞こえた。

若者が見上げると、砂丘の頂の一方に2騎の砂馬(砂漠用の騎馬)と、馬上の影が見える。

人だ。

再び馬の嘶きが聞こえ、砂煙を上げながら砂丘からその2騎が降りてきた。まっしぐらにこちらに向かってくる。
嫌な予感がした。
若者のすぐ近くまで来た馬上の2人は、顔を布で覆っていて表情が分からない。剣を抜く金属音が聞こえ、問答無用でこちらに向かってくる。

恐らく、賊。

護衛などを雇う金も無い自分は今、1人。多少腕に自信があったとしても、場慣れしている賊に囲まれたらひとたまりも無いだろう。
賊2人は若者を挟むように位置を取り、剣を向けた。

「…な、何者だ…。」

「命が惜しければ、荷を置いていけ。」

「盗賊か…。」

若者は、こんなにも広い砂漠で運悪く賊に遭遇してしまった己を呪った。判断を間違えれば、次の瞬間首が飛ぶ。こんな砂漠の真ん中で、1人死んでいくのは忍びない。…それが嫌ならば、命と引き換えに荷を置いていくしかないだろう。だが…商人にとっては命の次に大切な商品を簡単に置いていくことなど、できるはずがない。
正義感と恐怖の狭間で若者が葛藤していると、賊の1人が首を傾げた。

「大人しくすれば命だけは助けてやろう。」

「…くっ…。」

若者は賊から駱駝を守るように、腰の短剣に触れた。
その様子を見て、賊の1人が顎をしゃくった。

「抵抗するか。馬鹿な商人が。」

もう1人が頷いて馬から降り、無造作に剣を抜いた。若者がびくりと肩を震わせて、それでも何とか短剣を抜こうとその柄を握る。
そのとき。

ヒュ!

風を切る音が聞こえて、どうと人の倒れる音がした。駱駝に手を掛けようとした男が矢を喉に受けて絶命したのだ。
若者はハッとした顔で、矢の飛んできた方向を見た。
そこにはもう1騎の、砂馬の影。

「貴様…っ 仲間がいたのか・・・!?」

「え、ち…ちが」

違う…と言いかけた若者は、自分が助けられたことに思い至る。何故、自分は助けられたのだろうか。
若者の混乱とは裏腹に、砂馬が嘶いた。月を背に砂煙を上げもう1騎は駆け下りてくる。馬上の人物が駆け下りながら弓をしまい、片方の腰から刀を抜いたのが、見えた。その人間も顔を布で覆っている。だが、唯一、賊と違う特徴があった。片方の目が砂を塞ぐ目的ではなく、隠されているようだ。弓矢の1騎が、呆然としている2人の前のすぐ近くに来るのに、そう時間はかからなかった。

「なんだお前は…。こいつの仲間か。」

「死にたくなければ退け。」

「なんだと?」

「退かねば殺す。」

「やはり仲間か…荷を置いていかぬというのならば死ね!」

若者を襲おうとしていた賊達の昂ぶるような口調に比べ、男の声は低く淡々としている。圧倒的な余裕すら感じさせるその様子に苛立った、馬上の賊が剣を振り上げた。その方向は男ではなく若者へと向けられ、標的にされた自分の最期を悟って、彼は目を瞑った。だが。

その剣は届かず、代わりに背が震えるほどの賊の悲鳴が響いた。閉じた瞳を恐る恐る開くと、馬上の賊は砂の上に、恐らく斬られたのであろう片方の腕を掴んで転がっていた。斬られたそこは手で押さえることもできないほど深く、とめどなく血が噴出している。

「き…きさ、貴様…!」

「剣も持てんようだが、まだ続けるつもりか。」

「くそ…っ」

「馬は置いていけ。その腕ではどうせ乗れないだろうが。」

「殺せ!」

「死にたければ自分で死ね。」

若者は、自分を救ってくれたはずの男の言葉にゾッとした。広く目標物の無い砂漠の真ん中に、腕が千切れかけるほどの怪我をしたまま放り出されれば、生き延びる可能性は限りなく低い。太陽が昇れば、砂漠は生き物全てを乾かす。腕を切られ出血している男にとっては死刑宣告にも等しい。それも、一思いに死ぬのではなく、じわじわとなぶり殺しにされるのと、同じだ。男はただ当たり前のことだという風な口調で、賊を見下ろした。

「運に見放されていなければ、生きるだろう。」

「生き残ればお前を殺すぞ。」

「勝手にやれ。」

千切れかけた上腕を支えた賊は、ずるずると立ち上がり、苦しげに歩き始めた。若者が進もうとしていた方向と、逆の方向だった。吹いた風が砂丘の形を変化させ、賊の姿はあっというまに消えた。

若者は、助けてくれた男をおずおずと見上げる。

「あ、の。」

男はその声に、ちらりと目を向けた。布の合間から覗く片方だけの瞳は射抜くように鋭く鋼色をしていた。その頑なな鋼色に若者は怖気ずく。だが、男はすぐに若者から視線を外し、その背後に目を向けた。その視線の動きに、若者がそっと振り向く。

風が、変わった。

砂丘の形を変えた風が止み、あたりの空気がゆるりと変わる。
辺りに充満していた血の匂いが納まり、死の雰囲気が消えた。
それを感じ取ったのだろうか。駱駝の前足がとっとっ…と砂を優しくけり始める。
そうして届くのは、若者の鼻腔をくすぐる魔女香。

振り向く若者の目に入ったのは、夜の砂漠に浮かぶ黒いローブの1人の女。深く被ったローブの中からは慎ましい口元だけが見え、その顎を象るように、黒い髪が豊かに零れ落ちている。

若者は聞いたことがあった。いや、砂漠を旅するものは、誰もがその噂を聞いたことがあるはずだ。気まぐれに旅人を助け、望むものを取引し、人のように言葉を交わし、迷うものを導くという、砂漠に浮かぶ黒い魔女。常に隻眼の男と共に在るというその魔女は、砂漠を渡る若者から憧憬を込めてこう呼ばれていた。

「砂塵の魔女…。」

若者は、搾り出すような声でやっと呟いた。

砂塵の魔女は、宙に浮いたまま滑る様に若者の横を通り過ぎた。馬上の男の側まで来ると男が手を伸ばす。魔女がその手に自分の手を重ねると、男は口元を隠す布を下ろして、ゆっくりと魔女の手の甲に唇を付けた。名残惜しげに男の唇が離れると、魔女が静かに振り向く。

「旅人殿。」

魔女の声はもっと人を惑わすような甘い声かと思っていたが、水の流れるような、それは涼しげな声だった。

「砂漠の薔薇と火酒種をいただきに参りました。」

「え?」

「薬と交換に、貴方のお師匠さまに注文を。」

「あ!」

若者は思い出した。確かに、師匠より引継ぎされていた注文だ。注文主の名前は教えてもらえなかったが、その特徴的な内容には覚えがあった。砂漠を渡るオアシスの途中で、必ず注文主に会うだろう。会えばすぐに分かるはずだ。失礼の無いように注文の品を渡し、代わりの品を受け取るようにと言われていたのだった。
若者は慌てて、駱駝の荷物から注文の荷を取り出した。それほど大きな荷ではないが、「砂漠の薔薇」も「火酒種」も恐ろしく高価な品物だ。それなのに、代わりに受け取る品物は注文主から渡される薬瓶が5本だという。旅に出る前はそれを怪訝に思ったが、今は微塵も疑問を持たなかった。

若者が荷をそっと魔女に向かって差し出すと、馬上の男が魔女の代わりにその荷を受け取った。それを見て、魔女が丈の長いローブの中から小さな箱を取り出した。簡素な箱を開くと、小瓶が6つ入っている。若者は、魔女の手からそっとそれを受け取る。受け取るときなど、若者は思いがけず魔女の手に触れてしまい、まるで見知らぬ生き物に触れたかのように、ぴくりと小さく震えてしまった。

「確認を。」

魔女に促され、若者は小瓶を少しずつ持ち上げて中に何かの液体が入っていることを確認した。すべての小瓶を確認すると、若者は一本を取り出し首を振る。

「一本多いようです。」

「魔女の友人の弟子が、初めて砂漠の旅に出たことの、祝いです。」

「え。」

「どうぞ、納めて。」

「しかし、助けてもらった上にこれは受け取れません。」

魔女が僅かに首をかしげたようだ。傍らに在る馬上の男が手綱を引くと、砂馬の蹄が非難がましく砂を蹴る。男が初めて、若者に声を掛けた。

「魔女の祝いを受け取れぬ、と?」

「い、え、そういうわけでは…」

「では大人しく受け取れ。」

「…あ、…ありがとうございます。」

男の口調には有無を言わせぬ強いものが込められていた。若者は恐縮しながら、小箱の蓋を閉めて頭を下げる。下げた頭を上げて、再び見上げた魔女の口元は、満足気に小さく笑ったようだ。その笑みを見て、若者は何故だか安堵した。

「では、私達は、これで。」

「は、い。」

男はいつのまにか賊が置いていった砂馬の手綱を引き、身を翻している。魔女はふわりとそちらに身体を向けた。よく見ると、魔女は浮いている杖に横座りしているようだ。ふと、思い出したように魔女が振り向く。

「貴方のお師匠さまに、よろしく…とお伝えください。」

「は、はい!」

「それから。オアシスに行くには、少うし、方角がずれているようね。星を、よく見て?…東に、少し。」

「あ…。」

魔女が、す…と空を指差した。魔女を包む服が下がって、細くたおやかな腕が僅かに露になる。導かれるように空を見上げると、目標にしていた星の位置が、確かにずれているようだった。

「ありがとうございま…」

若者が星の位置を確認して、視線を戻すと、そこには既に魔女と男の姿は無い。
砂の上に僅かに残る2頭の砂馬の足跡も、魔女香の混じった砂漠の風に掻き消えた。

若者にとって、それはまるで幻のような出会いだった。
そして、これから何度も渡ることになる、砂漠を旅するときに思い出す、彼の誇りでもあった。

若者はいずれ師匠の後を継ぎ、砂の上を渡る大いなる商人に成長する。師匠と同じように、魔女に信用される商人として。
だがそれはまた、別の話。