赤い血のような太陽が、砂漠の端に沈もうとしていた。
落ちた陽は、徐々に周囲から温度を奪っていく。
砂漠の片隅に水が懇々と沸いている小さな小さな泉があった。僅かに植物が這えたそこは、人の誰も来ないオアシスだ。
誰もいなければ、実に美しかっただろうオアシスだが、今は血の匂いが充満し、その匂いの元に1人の男が立っていた。
数日の間手入れをされていないだろう粗野な無精髭が、男の顔を象っている。短く刈った鋼色の頭髪に、同じ鋼色の瞳。だが、その瞳は片方しか無い。もう片方は刀傷が縦に幾筋も走り、閉ざされていた。
男の足元には、血を流した身体が倒れている。男の両の手には反りの浅い刀が1本ずつ握られ、その刃からは赤い血が滴り、地面に染みを作っていた。
男は盗賊だった。奪うのが生業のならず者だ。
盗賊も若い頃は、一人で出歩くような若い行商人を狙っていた。
だが、いつしか盗賊が狙うのは、大概が自分と同業の、しかも獲物を屠ったあとの者たちに変わっていった。
そのほうが効率がいいという理由だ。
自分が手を汚さなくても、高価な荷を大量に持っている。売るものにも、得るものにも困らなかった。
武器も、馬も、駱駝も、食料も、酒も、彼らはどこにあるか知っている。自分と同じ欲望を抱え、自分と同じ暗い世界に生きている者たちだったから。
自分が必要になるものをわざわざ探さなくても、彼らはすべて持っているのだ。
だが恐らく、それだけではない。
盗賊は何より生と死に飢えていたのだろう。か弱く震えて命乞いをする行商人よりも、こちらを殺そうと牙を向く同業者達を狩るほうが、気持ちが昂ぶり高揚する。そういう血に飢えた戦いを繰り返すうちに盗賊は片目を失ったが、それでも刃の筋は狂いを見せず、盗賊の盗賊と呼ばれ、やがて同業者にもその存在を知られるようになった。
盗賊は今宵も、そういった同業者を狩った。
小さなオアシスは、盗賊が最近見つけた気に入りの場所だ。
そこで身体を休めていると、たまたまたどり着いたらしい同業者がやってきた。
獲物を探しに行く手間が省けたと、盗賊は易々と同業者に手を掛ける。
恐らくまだ経験が浅い者なのだろう。隻眼の盗賊の手にかかれば、若い賊は造作も無かった。
血の滴る刀を死んだ人間の服で拭うと、鞘に納める。死体を検分する為に腕を伸ばした、とき、だった。
不意に、風が変わった。
むせかえるような血の匂いが地面に落ちるように収まり、死の気配が嘘のように消える。
そして風に乗って、盗賊に届く不思議な香。
盗賊が顔を上げて咄嗟に刀を抜いて構えると、横倒しになった杖を浮かせてそこに座る、黒いローブを深く被った女が居た。
ローブから零れ落ちる髪は黒く、僅かに覗くのは口元のみ。その口元は何の表情も浮かべておらず、こちらを見ているのかどうかも、不明だ。
女はすとんと杖から降りると、盗賊のことは気に留める風も無く水際にしゃがみこみ、そっと手を伸ばした。
盗賊も勿論、聞いたことがあった。
砂漠に生きる者、砂漠を渡る旅人に、その存在を知らない者は居ない。
気まぐれに旅人を助け、望むものを取引し、人のように言葉を交わし、迷うものを導くという、砂漠に浮かぶ黒い魔女。
「砂塵の魔女」と呼ばれる者。
見たことのある者は一様に、憧憬の眼差しでその姿を語る。
盗賊自身は、見えるのは初めてだった。
「女。」
盗賊の声が聞こえたのだろう。しゃがんで水に手を浸した魔女が振り向いた。水から手を離して、立ち上がる。
「私のことかしら。」
魔女の声は満ちた香に不釣合いなほど涼やかだった。
「お前以外に誰が居る。」
盗賊は2本の刀の内、1本を鞘に納めた。刀を魔女に向けたまま近づく。…脅すつもりの、その刀。切先が魔女のローブに届くか届かないかの距離まで近づいた。
「死にたくなければ荷を置いていけ。」
「私は魔女よ。」
「だから?」
「貴方が奪って満足するようなものは何も持っていないわ。」
「それは俺が判断する。」
「そう。どうやって?」
「まずその杖を渡せ。」
魔女は首を傾げた。だが、大人しく、片方の手に持っていた長い杖を盗賊の手に渡す。先ほどまで魔女の身体を乗せていた杖だというのに、盗賊は恐れずそれを奪い、傍らにカランと放った。
「次に身に付けている武器。」
魔女は腰のベルトから、短剣を鞘ごと外して盗賊に渡した。盗賊は片方の手で器用に鞘を少しずらす。刃は黒く、艶があった。盗賊は片方の眉をぴくりと動かして、鞘を口に咥えて刃を完全に抜く。短剣の刃はどうやら黒曜石のようだ。意匠はシンプルだが、かなり高価なものだろう。鞘に戻さず、抜き身のまま鞘と共に杖の傍らに放る。
「腰から下げている、その鞄。」
魔女は大人しく、腰に巻いている小さな鞄を取り外した。カシャンと僅かに音が鳴り、それは盗賊の手に渡る。盗賊はその中身を確認することなく、ゆっくりと地面に下ろした。その間も、片方の瞳は魔女を見据えたままだ。
盗賊は少し刃を動かして、先ほどからローブの隙間に覗いていた、輝石の付いたペンダントの鎖にその刃を引っ掛けた。ぐ…と引っ張ると、それはぷつんと切れて魔女から離れる。刃を傾け、滑らせるようにそのペンダントを手に納めると。盗賊は刀を下ろした。
盗賊の視線が魔女を捉える。
ローブの中の表情は伺えないが、間違いなく魔女の視線は盗賊を見ていた。
盗賊が一歩踏み込むと、魔女との距離は零になる。
「満足かしら。」
「まだだ。」
「もう貴方が奪うものは何も無い。」
「まだあるだろう。この砂漠に足りないものが。」
「貴方に足りないものは、何?」
盗賊の手がローブに伸びて、それを乱暴に剥ぎ取った。だが、魔女はその手に驚くことなく盗賊をじっと、見つめている。
露になった魔女の瞳は綺麗な銀色で、その視線が盗賊の片方と絡まった。
盗賊は魔女の手を乱暴に掴み、自分に引き寄せた。互いの息がかかるほどに顔が近づき、僅かに身を動かせば魔女の髪に唇が触れる。
「女だ。」
言うと、盗賊は魔女の唇に自分の唇を重ねた。
空いたもう片方の手は魔女の腰を引き寄せて、自分の身体に密着させる。
1人の同業者を屠った血の匂いは、魔女から香る不思議な香りを吸い込んでも、まだ肺の奥に溜まっていて荒ぶったままだ。
息を求めて唇が離れた一瞬、魔女は強く抵抗するわけでもなく、そっと盗賊から身体を離した。その動きは盗賊の身体を離すほどの力ではなかったのに、まるで柔らかな羽毛の手触りを楽しむかのようで、ふわりと2人の身体に距離が生まれる。
「それならば、止めておいたほうがいい。」
「なぜ。」
「私は魔女だから。」
盗賊の隻眼が怪訝そうに魔女を見た。離れた身体を再び強く引き寄せ、黒髪に指を埋めて顔を上げさせる。盗賊は魔女の口の中に自分の舌を挿れ、激しく貪り始めた。
徐々に猛っていく盗賊の身の内は収まることを知らず、眼前の魔女の…いや、女の肌を求めて疼く。
陽はいつのまにか完全に沈み、周囲の気温は下がり始め、砂漠の冷えた空気に触れる唇が温かかった。
****
盗賊の劣情は魔女に触れれば触れるほど膨れ上がった。
敵を屠って昂ぶった気を鎮めるには女が一番だが、街に行かねば抱けない。街までは数日かかる。盗賊にとって、手っ取り早く身の内の熱を吐き出すために、砂漠には滅多に居ない女に欲情しただけのことだ。例え、それが、砂塵の魔女であろうとも。
だが、本当にそれだけだろうか。
盗賊は、例え狩りの対象であろうとも、奪う相手を犯したことなどはなかった。別に矜持というわけではない。わざわざ、ざらついた砂の上で、女を抱く気分にはなれなかったというだけだ。女を陵辱して殺すか売るかする賊も居るが、彼はそういった類の商売に興味は無い。なるほど、街に行かねば女は居ないが、行けば足りる。
だが、怯えるでもなく、積極的に身を委ねるでもない、抵抗することもない魔女の態度が、なぜか盗賊には腹立たしかった。腹立たしく思う気持ちが、支配欲へと変わっていく。
唇を合わせて荒く舌を絡め取る。さらにその舌は、魔女の耳を、首筋を、濡らすように何度も滑っていった。混ざり合い流れ込む魔女の唾液は甘く、離すのが抗い難いほどの香りがする。
身を包むマントを砂地の上に敷き、魔女をその上に押し倒す。
服を脱がすのももどかしく、布の上から激しく魔女の身体を弄った。魔女の口と肌を使って、盗賊は自分の全てを満足させていく。濡れた箇所を探ればそこは甘く、白い肌に強く吸い付けば、盗賊のものであるかのような赤い印がそこに付けられた。
盗賊が魔女の中に自分を沈めるのに、そう時間はかからなかった。
何よりも魔女の身体に自分を埋めて動かせば、それは目眩むような感覚だった。
盗賊は若いとはいえない年齢だったが、年端の行かぬ若者のように、幾度も魔女の内奥を味わった。
魔女は抵抗しなかった。自分の背に腕を絡めるようなことはしないものの、喉の奥から零れる声は確かに甘い響きがある。それを聞いて盗賊は小さく笑みを浮かべる。
「抵抗しないのか。」
自分を挿れて強く揺らしながら、盗賊は腕の中の魔女に問うた。僅かに疲れの見える表情で、魔女が盗賊を見上げる。
「してほしいの?」
「…………。」
盗賊が動きを止め、隻眼で魔女を見据えた。だが、それに怯むことなく魔女の銀色が盗賊を見つめ返す。
少し前まで盗賊を咥えていた唇は乾くことなく濡れていて、犯している最中だというのに魔女の顔は静かで美しい。
「貴方の求めるものが、女の身体なら…間違えたわね。」
「何だと。…っく…。」
盗賊が身体を揺らすと魔女の中がぬるりと熱く締まり、盗賊の余裕が消えた。一瞬眉を潜めて堪え、魔女を見下ろす。魔女の吐く息もまた、甘く揺れた。
「……んっ…、言ったでしょう、私は…魔女だ、と。」
「どういう、意味だ。」
「この行為の何がいいのか、分からないわ。」
「そうは思えないな。」
魔女の言葉は当然のように盗賊を苛立たせた。激しい動きを止め、濃厚な動きに変える。途端に魔女の銀が悦楽に揺らめき、唇が小さく開かれる。その様子を見ながら、盗賊は魔女の首筋を舌でなぞった。魔女から零れる声は小さいが、どんな女よりも盗賊を欲情させた。
「…ぅん…。」
「言え、どこがいいのだ。」
「…私ではな、く、貴方、が、いいの、でしょう…?」
今度こそ、その言葉は盗賊の怒りを買った。盗賊は今まで以上に魔女の身体を激しく貫き、動かし、夜通し飽くことなく魔女を抱き続けた。
****
信じられないことに、盗賊は眠ってしまっていた。
これまで、賊として生きてきて、いつ眠ったのか分からないということは初めてのことだった。朝、気温が高くなり始める前に目が覚めたのは幸いとも言える。
盗賊は眠っていても敵の気配があればすぐに目覚める自信はある。それだけに、気を失ったわけでもないのに、女を抱いて果てて眠るなど、尋常とはいえなかった。
盗賊はよもや、あれは夢だったのかと疑った。砂漠は、人を狂わせるから。
だが、ちらりと目を横にやると魔女から奪った鞄と短剣はそのままだ。盗賊は思わず舌打ちした。魔女は自分の眠っている間に、杖だけを取り戻して去ったのだ。他の品物を取り替えすことも出来ただろうに、品は要らぬとばかりに置いていった。
自分の傍らに魔女の首から毟り取った、輝石のペンダントがあった。手に掴んでそれをよく見てみると、薄い紫か桃色か、どちらともいえる、どちらの色も混ざった不思議な輝きを放っている。丸く磨かれ、鎖が網のように絡まって石を支えていた。
それを手の中で転がしながら盗賊は思う。…疑いようも無く、確かに自分の腕の中にあの魔女はいた。何より自分の身体には女を抱いた後の余韻と感覚が残っている。
そしてもう1つ、確信ともいえる証拠があった。
盗賊の身体に微かに纏わり付く、それはあのときの魔女の香りだった。