エピローグ 『マギサの日記』

私はこの日記を私の生きているうちに公表し、私の見解を述べる事を避けた。機人種と人間種同士であれば子を為せると、ただそのように公表したとて、今の事態が好転するとは思えないのだ。

いまだに人間種の出生率は上がらず、人間種の多くが機人種へ眼を向けることは無い。だが私は、彼らに警鐘を鳴らすのすら止めようと思う。

なぜならば、もし機人種と人間種の間にならば子が産まれると知れば、今度は恐らく子を為すためだけに、我らは交じり合おうとするだろうから。しかしそれではかつての私達と何一つ変わらない。子が産まれない事に焦るあまり、自分らの尊厳を失い、ただひたすら、精子と卵子を掛け合わせるだけに心血を注いでいたあの頃と、何ら変わりはしないのだ。

どうせ滅びる私達だ。

それならば、私は機人種と人間種の、少しだけ崩れかけたこの均衡に全てを掛けたい。

かつて機人種の男が書き残したように、既に各地で奇跡は起こっている。長い旅の途中で、私もそれを目の当たりにした。他の者達もきっと、少しずつそれに気付くだろう。それでいい。可能性はそれだけでいい。機人種の強い身体と繊細な心、そして人間種の弱い身体としなやかな心。それらは無理矢理邂逅させるものではなく、自らの意思で、互いを補うように、自然と寄り添うべきものだ。

……ああ、だが、いや……もう遅いのかもしれない。

これから機人種と人間種の間にわずかの子供が産まれたとて、それらがこの世界の滅びを食い止める歯止めになどならないのかもしれない。

それでもどうか、その奇跡達が、愚かな我らの失敗と同じ轍を踏まぬよう。

どうか、あの場所で私が見つけた安らぎを、彼らもまた、見つけますように。

 

忘れぬうちに、追記を。

私はあの場所から、愚かにもその奇跡を連れ出そうとしていたことがあったが、幸いなことに叶わなかった。

彼女は森の出口で、私にこの日記を渡してこう言ったのだ。

「ここまでで大丈夫? もう帰れる? それじゃあ、さようなら。ラジ」

若かった私はみっともなくうろたえて一緒に行かないのかと問うたが、彼女は不思議そうに首を傾げただけだった。

「ラジは帰るのでしょう。私も帰る」

「どこに?」

「クロウの家。私の家に」

それを聞いて、ようやく気付く。私はただの客人で、彼女を連れ出す権利など一切無かったのだ。本当に愚かなことに、私は彼女を連れ出すことが彼女のためになるのだと、半ば本気で思っていた。

しかし彼女の家は、彼女の帰る場所は、クロウの待つあの家だけ。私のそばではなく、クロウのそばであるのだ。彼女は私のような正義感という偽善の語る未来ではない、全く別の未来に生きている。彼女は私達がこれから見つけるだろういくつもの可能性のたった1つに過ぎず、それは彼女自身の為に用意された、彼女自身がクロウと共に歩むべきものだ。

私は頷いて、日記を見下ろした。

「持っていっても、いいのかい」

「うん。日記はね、クロウが全部覚えてる。クロウに言えば、いつも話してくれるから」

「そうか」

「うん」

「元気で」

「ラジも」

私達の交わした会話はこれが最後。それから彼女がどのように過ごしたのかは知らない。おそらくはクロウと共にずっと在ったのだろう。そう、私は信じている。

ローアの幸せを、私は祈っている。

(ラジ=マウ著 『マギサの日記』後書きより抜粋)

****

「キサラ、おい、そんなに走るな」

「大丈夫よマグニ、地面が柔らかいから、転んでもきっと平気」

「そういう問題ではなくてだな」

狩猟用の戦闘服スーツに身を固めた男女が、森の奥にぽっかり空いた空間を探索していた。マグニと呼ばれた体格のいい男はゴーグルを外して額に引っかけ、ひょいひょいと軽やかに岩を越えて行く女の後ろ姿を眩しげに見る。

「これ、岩かと思ってたら、人工物のようね」

「そうだな。なんかの建物の、土台か?」

マグニの返事を聞きながら、キサラもまたゴーグルをおろして首に掛け、崩れかけた岩……いや、建物の一部に足を掛けて周囲を見渡した。

空間の奥には大きな石碑が2つ並んでいて、そのずっと手前、……恐らく建物の中心に黒い固まりが置かれている。

「まるでお墓ね」

「白い石碑と、黒い石碑か」

マグニはキサラに追い付くと、黒い固まりを見つめるキサラの肩を抱いた。マグニもキサラと同じように、眼前の黒い固まりに眼を凝らす。

「……と思ったが、これは石碑じゃないのか?」

「石じゃないみたい。……金属?」

「ふむ」

マグニはキサラから離れると、腰のナイフを抜いて、刃の腹で黒い固まりを叩いてみた。カンカンと乾いた音が響く。少なくとも石ではないようだ。おそらくは金属、それもかなり古い、旧時代の黒錫か黒銀か。今は作られていない金属に見受けられる。形はまるで、人間が膝をついているような、そんな形だ。

すぐにゴーグルを装着して、いくつかの操作を行う。

黒い固まりをゴーグルを通して観察すると中の構造を見る事が出来る。内部は複雑なパーツに分かれていて、石碑ではない何かの機構ギミックであることが明らかだった。

「おい、これ……」

ゴーグルを再び外してマグニがつぶやくと、すぐそばに居たはずのキサラが居ない。

「キサラ?」

「マグニ、見て! この石碑に彫られてる、名前!」

マグニが駆けて行くとキサラがわずかに瞳を潤ませて、振り返った。マグニが言葉の続きを視線で促すと、キサラがもう一度石碑を見上げる。

「マギと、キサ」

「マギと、キサ?」

「うん。……きっと、ここ、『マギサの日記』に出てくる、ラジ=マウの……」

『マギサの日記』とは、ラジ=マウという前時代の研究者が残した一冊の手記だった。とある夫婦の日記と、それに対する考察が記述されたその手記は、長く世間に公開されることなく、ラジ=マウが死んで数十年経ってから発見されたものだ。走り書きされていた文字が『マギサ』に見えたというのが名の由来だが、本来は『マギ・キサ』である……とするのが最も有力な説である。

この頃には既に機人と人間の交配は少しずつ進んでいて、人間種、機人種、そして人間種と機人種が共に住む、3つの集落に世界は分かれていた。時代は進み、世界は今、機人と人間の隔たりの無い安定の元に成り立っている。

マグニとキサラは前時代の遺跡と機人種・人間種、すなわち今の自分達の先祖の文化を研究している夫婦だ。

ラジ=マウが遺した『マギサの日記』は、それまでに彼が遺してきた研究書に比べると、あまりに情緒的すぎて研究の価値が無し……とされた書籍である。いまだに価値が認められていないその本は、キサラの父の愛読書で、キサラの名前は『マギサの日記』に出てくる「キサ」という女性から付けられたのだという。

ちなみにマグニは有機機械研究技師で、日記に出てくる「クロウ」という人型機械に興味を持っていた。この『マギサの日記』がマグニとキサラという夫婦の馴れ初めであるのだが、それは余談である。

マグニとキサラは世界各地の遺跡を巡り、機人種と人間種の交流の文化を研究している。その2人にとって、『マギサの日記』に出てくる「クロウとローアの家」を発見する事は夢でもあった。

その夢が、今まさに目の前にある。

「ということは、これが……『クロウ』か」

「そう、きっとそうよ!」

長年探し求めてきた「クロウとローアの家」に自分達は立っている。キサラはその感動に興奮し、しかし少しだけ残念な気がした。

もしかしたら自分達も「マギ」と「キサ」のように、クロウに迎えられるかもしれない……なんて、おとぎ話めいたことを考えていたからだ。

しかし現実には赤茶けた三角屋根と煤けたクリーム色の土壁も無く、透明ガラスのはめ込まれた窓も無い。あるのはかつて家があっただろう土台の痕跡と、そして石碑が2つ、クロウらしき黒い固まりだ。

しかしその石碑と黒い固まりこそが、ここが本物の「クロウとローアの家」の証明であるに違いない。

『マギサの日記』によれば、クロウという人型機械は旧時代から前時代にかけてずっと動き続けていたはず。それなのに今は駆動していない……ということは、止まったのは前時代に入ってからだろうか。動かなくなっている身体は苔や蔦が張っていて、肩部や頭部には可愛らしい花が咲いている。

2人は暫くの間、周囲を探索した。キサラは主に石碑周辺を、マグニはもちろん『クロウ』を重点的に調べる。ゴーグルを付け替えて、そばに端末を置いて何やら操作していたマグニが、ゴーグルを外してキサラを呼んだ。

「キサラ! これ……どうやら記憶メモリを持っているみたいだ」

「え? 確認できそうなの?」

「多分。……旧時代の記憶メモリだから、解析に時間はかかりそうだが……」

マグニは『クロウ』の背中を開けて、基盤の一部に差し込まれていた記憶メモリを抜いて端末の上に置いた。端末の上に「解析中」のサインが表示され、暫くの間、息を詰めてそれを見守る。

隣に来たキサラがマグニの肩に頭を預けた。マグニは端末に視線を向けたまま、キサラの頭をそっと撫でる。

沈黙の中に落ちた穏やかな時間は、わずかに「マギ」と「キサ」が過ごしたであろう時間を思い起こさせた。

しばらくして、「解析中」のサインが消える。

「出来たぞ」

「見て、いいのかな」

「全部は無理かもしれんが」

「そうじゃなくて」

まるで人の心の中を覗き見するような、そんな後ろめたさを覚えた。しかし研究者としての興味、『マギサの日記』を愛読している者としての興味が、その後ろめたさを越えた。

データには膨大な動画と記憶、そしていくつかの『重要』『最重要』とマークされた映像があるようだ。

全てを見る事は出来ないから、まずは『重要』とマークされた映像を再生する。

「これ……」

「ああ」

映ったのは、穏やかで優しそうな老夫婦の映像だった。まるで我が子を呼ぶように「クロウ、クロウ」と話しかける老婦人、その映像に映り込む老紳士。老婦人が立派な毛糸のショールを広げて、広げたまま近付いてくる。映像が傾いたのは、クロウが首を傾げたのだろうか。少し視線が低くなって、毛糸のショールがふうわりと画面から消えた。『とても似合うわ』とか『これで寒くないわ』と老婦人が楽しそうに話していて、『奥様、私は寒くありませんから』とクロウが答えている。

そんな老夫婦とのやりとりがいくつかあったあと、ずいぶんと年代が経ってから、今度は機人と人間の男女が映った。

ソファに2人並んで座っているところに、クロウの手が映り込んだ。お茶とお茶菓子を出していて、それを珍しそうに人間の女が見つめている。女が隣に並んでいる銀色の甲冑と、恐らくクロウを見比べて、恐る恐る、お茶菓子を手にして口に含んだ。『あまくておいしい』そういって、美しい人間の女が微笑むと、『ありがとうございます、奥様』という音声が聞こえた。

その次に、銀色の甲冑の機人が人間の女を背後から抱き締めて座って、花畑を見つめている映像が映った。傍らにはバスケットが置かれていて、時折中に入っている食べ物を2人して口に入れている。2人までの距離は少し遠い。クロウが2人の邪魔をせぬように、静かに見守っているのだろうことが知れた。

そうした青い髪の人間と銀色の機人……キサとマギの仲睦まじい映像がいくつかあって、次に愛らしい少女が映った。どうやらその映像が最も多いようだ。

映り込むクロウの黒い機械の腕に、小さな乳飲み子が乗ってわんわんと泣いている映像。青と銀の斑の髪と瞳で不思議そうにクロウを見上げる映像、流れてくる子守唄は明らかにクロウのものではない女の声で、それを聞いて乳飲み子がすやすやと眠りにつく。乳飲み子はやがて幼児へと成長し、幼児は愛らしい少女へと変わっていった。

まるで神聖なものを見ているような心持ちで、2人はクロウの瞳が見ていた景色に見入っていた。

なんという、愛情深い視線だろうか。

美しいもの、愛すべきもの、クロウは機械……ロボットであるにも関わらず、それらを確かに知っていた。自分の出会った主人と、主人に愛された様子と、主人を愛した様子を、『重要』な記憶として自身の体内に遺していたのだ。

次に2人は『最重要』と記された映像を見る。

そこに映っていたもの、それは……。

****

「ねえ、あの記憶メモリ。持って帰らなくてよかったの?」

「そうするべきだと、お前も思っただろう」

「うん」

キサラとマグニは「クロウとローアの家」を後にした。結局あの時に見た映像は記録として保存する事無く、記憶メモリもクロウの基盤に戻したのだ。何日かその場所にキャンプを張ってとどまり、いくつかの調査は行った。しかし、最も重要であろう資料……「クロウの記憶メモリ」だけは持ち帰る気にはなれなかった。

あれは、あの場にだけ、あるべきだ。

マギとキサの日記はラジ=マウの手によって世に出たが、もうそれだけで十分だろう。他は「クロウ」だけの、クロウとその主だけの神聖な記憶で、あの記憶が無くても自分達は生きていける。

映像の中で、クロウは自分のことを「執事」だと言っていた。

家を守り、主の暮らしを守るのが仕事なのだと。

クロウはこれからもずっと、あの場所で主を守り続けるに違いない。穏やかな老夫婦、愛を知った異種族の夫婦、そして最後に彼が呼んだ少女……。クロウの身体の在った場所は館の真ん中、きっと寝室か、居間か、誰かが過ごしていた場所のはず。そこで動かなくなっていたことの意味を考える。

……墓碑は、2つ。

それでは、ローアの墓はどこにあるのだろうか。玄関ではなく、建物の中でしゃがみこんでいたクロウの身体。彼は最後に一体何を見て、なぜ動きを止めたのだろう。

なぜ、ローアの墓を作る事が出来なかったのだろう。
彼は今、動かぬ身体で誰の墓碑になっているのだろう。

「クロウとローアは、幸せだったかな」

「ああ」

マグニはキサラの声に頷いて、その身体を抱き寄せた。かつて2回の滅びを経験したこの世界で自分達は生きている。

「まあ、どっちにしろ、俺は幸せだ」

「もう! そんなこと聞いてないわよ!」

「そうか? そういうことを聞いてるのかと思った」

若い夫婦の研究者は互いに痛いほどの愛しさを覚えながら、この健やかな森を後にする。まるで夢のようなこの場所が、どうか長く長く誰にも知られぬ事の無いようにと、自分勝手なことを願いながら。





「クロウ!」

愛らしい少女の声に、真っ暗だった視界が突然広がる。きょろきょろと周囲の映像を映し、やがて森の奥から走ってくる小さな銀と青の斑の少女に映像の焦点が定まった。

「ローア、お嬢様」

「クロウ、ただいま」

「ローアお嬢様」

「クロウ?」

すぐに少女の姿は近くになって、丸く大きな瞳がぼやけたりくっきり映ったりと、焦点が定まらなくなった。

「クロウ、どうしたの? お腹痛い?」

「いいえ、お嬢様」

いつもは少女よりも遥かに高い視線から見下ろしているのに、なぜか今は視線が同じ位置にある。恐らくクロウが膝をついているからだろう。

「じゃあ、どうしてしゃがみこんでるの。早く家に入ろう。お腹空いた!」

「お嬢様」

「何?」

「ローアお嬢様」

「どうしたの、クロウったら!」

キャッキャと楽しげに少女が抱きつく。真下に向けた視界の中に、クロウの胸板とそれに腕を回す少女の頭が映っていた。

不意に、その映像に、黒い腕が映り込んだ。

「クロウ?」

少女の背中に黒い腕が回されていて、見上げる少女の額に視線が近付き、やがて真っ暗になった。

「おかえりなさいませ、ローア」

「ただいま、クロウ!」

視界が広がる。

そこには青と銀の斑の髪の少女が、満面の笑顔で映っていた。