ラジ=マウは、目の前の光景に驚きを隠せなかった。
男は故郷である人間種の集落を離れて長く旅をしてきたが、このような建造物は初めて見る。
深い深い森の奥、だがその森は樹海というほど恐ろしい場所ではなく、驚くほど豊かで誰の手も付けられていなかった。木、土、水、動物、あらゆる資源が豊富で、あまりに厳かで手出しをする気にもなれない。
旅の疲れから警戒を忘れ、ラジはその建物の扉に手を掛けた。扉は木製で出来ていて、あちこち修繕の痕があった。何度か交換もしたのかもしれないが、そもそも木で出来ている建造物というのがあり得ない。
ラジが、扉を開けようとノブらしき場所を回す。
「だれ?」
不意に後ろから女の声がして、ラジは飛び上がった。今まで人の気配など感じなかったのに、急に現れたそれに思わず腰の機銃に手を触れる。
だが、振り返って声の主を見たとき、ラジはぽかんと口を開けた。
目の前には、集落では見た事の無いほどの美しい少女が立っていたからだ。
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ラジは人間種の集落で、機人種の生態を研究している異端の研究者だ。多くの有機生命体の研究者が人間種の出生率について調査している中、機人種という、かつては人間種の敵であった者達を研究するなど気が触れたのかと罵られた。
ラジとて、かつては人間種の研究をしていたのだ。だが元を正せば先祖を同じとする機人種への興味は尽きない。機人は人間には持っていない強い生命力を持っている。その力の源を探れば、人間種の生存の道もまた探れるかもしれない。
しかも、ここ最近、人間種と機人種の間には急速な変化が起こり始めていた。まだそれほど多くはないが、外の世界でも機人と人間を見かけるようになっていたのだ。
そのためにいくつかの小競り合いも起こっているようだったが、それよりも戸惑うような接触と交流が多いようだ。ラジも何人かの機人を遠目に見つけ、もしや一瞬で殺されるかと覚悟をしたが、向こうはこちらを見つめているだけで何の危害も加えては来なかった。
一度など獣に襲われているところを助けられた。お礼を言うと、ぎょっとした声で首を振って逃げてしまったが。
少し話して研究をしてみたかったが、逃げられた事は残念だった。しかしもしかしたら外の世界には別の種や、別の機人がいるかもしれない。そう思って、ラジは旅を続けた。
そこで見つけたのが、今、ラジが身を寄せている家だ。
豊かな森の奥にこじんまりと建っている家は不思議な場所で、「クロウ」と呼ばれる旧型の人型機械が、ローアという娘とともに暮らしている。クロウはラジにとってはもはや歴史的遺物とも言えるほどの機械、いやロボットで、このようなものが未だ動いていることに驚きを隠せなかった。
クロウは訪ねて来たラジを拒む事が無かった。
「いらっしゃいませ、お客様」
そう言って、出迎えてくれた。
この家の世話をしているらしいクロウは、自分の事を「執事」だと言っていた。毎日ローアとラジの食事を作り、掃除をし、畑仕事をし、家畜の世話をし、裏庭の手入れを怠らない。このような場所に生活に必要なものがあるとは思えないのに、魔法のようにクロウはそれらを自給自足で生み出して、惜しげも無くラジに提供してくれる。
毎日驚きの連続だったが、もっとも驚いたのがローアという娘だ。
青と銀の斑の髪の娘は、身体の大半が人間種によく似ていたが、腕と足の一部は、機人種の特徴である有機機械の殻で覆われている。どうやら機人種と人間種の間に産まれた子供であるらしい。
つまり、かつて、ここに機人種と人間種の男女が暮らしていたということだ。クロウに尋ねると彼らは夫婦で、かつての主人だったのだと言う。人間種の母はローアを産んだ後すぐに死に、後を追うように父である機人種も亡くなったのだそうだ。
裏庭には細やかな彫刻が施された立派な石碑が2つ並んでおり、1つに1組の男女の名前が彫られていた。恐らく2組とも、クロウの主人であったのだろう。片方の石碑はまだ新しかったが、もう1つの石碑は何百年と経っているかのように苔むしていた。しかしどちらの墓も大事に世話をされており、周囲には花が咲き乱れ、警戒しない動物達が思い思いの場所で休んでいるのが見受けられる。
「ラジ、何してる?」
花畑の角に座り、スケッチをしていたラジのそばにローアがやってきた。張りのある健康的な身体をしたこの娘は、クロウによると15歳なのだという。出生率が下がった今、自分よりも若い者を見た事が無かった男は、眩しげにローアの若い姿を見つめた。
「絵を、描いている」
「え?」
「記憶に残すんだよ。観察して、どこがどうなっていたかというのを後から思い出すために」
「そんなの!」
あははとローアが笑った。
「クロウに言えば、記憶してくれる。あとで映像を見せてもらうといいのに」
「うん」
だけど自分で手を動かすことと、単に記憶しておくことは違うんだとラジはローアに説明した。ローアはよく分かっていないようで、何度か首を傾げた。しかしラジにはうまく説明する事が出来ない。
「ローアも描くかい?」
「描く!」
試しにそう言ってみると、ローアは楽しそうに笑ってラジから渡された紙にペンを走らせた。
ローアは字の読み書きにも不自由せず、生活に必要なことはラジよりも上手にこなした。全てクロウが教えてくれたのだと言っていたが、絵の才能は無いようだ。見た目通りに描こうと努力しているのが見て取れたが、ラジのように上手くいかないと頬を膨らませている。
愛らしいその表情を見て、ラジは久しぶりに心から笑った。
不思議だなとラジは思う。クロウという表情の無いロボットに育てられたにも関わらず、ローアはよく笑い、物怖じをせずにラジと接する。滅びに向かい、絶望と虚無しか無かった集落では見ることの出来ない表情だ。
朝起きて家に置いてある本を読ませてもらい、クロウの記憶から人間種と機人種の、かつてクロウの主人であった夫婦の話を聞く。それらの全てがラジには興味深い。
外の話をローアは聞きたがったが、ラジはそれを話すのを躊躇った。奇跡のようなここでの生活に比べると、ラジが体験してきたこれまでの出来事は全てが色の無い、白黒の世界のように思えたからだ。だからラジは、クロウの話す機人種と人間種の話、……マギとキサという名の夫婦の話を、ローアと共に聞いていた。
ローアはもちろん、マギとキサのことを知っていた。ローアは母の編んだショールを大切に身に付け、父の一部だという銀色の鋼をペンダントにして首から提げている。
ある日、ローアはラジに1冊の帳面を見せてくれた。
あちこちが擦り切れてずいぶんと古いそのノートは、ローアの母がここに辿り着いてからずっと付けていた日記なのだと言う。
「読んでもいいのかい?」
「どうしてダメなの?」
他人の日記を読むということに躊躇いを覚えて聞いたのだが、なぜそんなことを問うのかとローアが首を傾げた。その表情を見てラジは苦笑したが、ありがたく読ませてもらう事にした。
2晩をかけて、ラジはその日記を読んだ。
そこには時に淡々と、時に愛情深く、人間種の女がどのように機人種の男と出会い、どのように愛したかが記されていた。驚くべきことに、人間種の女には発情期が無く、それゆえに集落から孤立していたのだという。ラジも人間種であるから分かる。あの集落は、子を望めぬ者には冷たい場所だった。
その人間種の女に、子が産まれたという可能性。そこにはあらゆる生物学的要因と、あらゆる心理的要因が働いているのだろう。
しかしそんなものは2人には全く関係なく、ただ愛し合い、その結果ローアが産まれたのだ。
日記の一番最後に書かれたマギ……機人種の夫の言葉に、ラジは全ての可能性を見つける。
『2つに分たれた我々は、再び1つに交じり合う事によって新たなものを得た。恐らく私達のような奇跡は、すでにいくつか起こり始めているだろう。滅びを受け入れて外に出た機人と人間であれば、全てのしがらみ捨てて手を取り合うことが出来るはずだ』
人間種と機人種が再び交じり合えば、次の世代が産まれるのかもしれない。
この結果を持ち帰り、今すぐにでも機人種と人間種の橋渡しをしたい。2つの種族の暗黙的盟約が忘れられかけた今ならば、そう難しくはないはずだ。
ラジは自分のスケッチブックに、マギとキサの最後の言葉を書き留めた。研究としてだけではなく、知ってしまった以上は忘れてはならない言葉だと思ったからだ。
滅びかけたこの世界の一筋の希望。それに立ち会える事の興奮に、ラジの心は震えた。そして、ふと思う。そんな未来であるならば、ローアに胸を張って見せる事が出来るかもしれない。いや、見せたい。機人と人間の未来を、未来そのものであるローアに。
翌日、朝食の席でラジはローアに日記を返して言った。
「僕は帰ろうと思う」
「帰る?」
「うん。それで、ローア」
きょとんとした表情のローアはあまりにも愛らしい。ラジの胸に灯るこの感情は、もしかしたらこれが、マギやキサの感じたものだろうかと一瞬だけ思いを馳せる。
そうして、続ける。
「君も一緒に来ないか、ローア」
給仕をしていたクロウの手が、わずかに止まった。
****
「一緒に?」
「うん。たくさんの人間種や、それから多分、機人種にも会える。君のお父さんやお母さんと、同じ種族の人達だ」
「おとうさんと、おかあさん」
「うん。……それに、その、僕が、君と一緒に来て欲しい」
少しだけ頬を赤くして言うラジに、相変わらずきょとんとしたままで、ローアはクロウを振り返った。
「クロウ」
「はい、お嬢様」
「クロウも一緒に行く?」
ローアの言葉に、ラジがハッと顔を上げた。クロウはローアの大切なロボットだ。もちろん、一緒に来てくれてもかまわない。クロウはラジには出来ない事が何でも出来るし、来てくれるときっと助かる。
「もちろん、クロウも一緒に来てくれてかまわない。みんなで一緒に行こう」
自分の考えがとてもいいもののように思えて、ラジは思わず椅子から立ち上がった。しかしクロウは微動だにせず、ラジを見向きもせず、ローアにだけ聞かせるように言った。
「いいえ、私はここに残ります」
「え?」
「私はこの家の執事です。私が守るべき家はここですから、私は共には行けません」
「クロウ。……でも」
「ローアお嬢様。行かれるならばお風邪を召されぬように、お怪我をなさらぬように、十分にお気をつけ下さいませ。ラジ様、ローアお嬢様をよろしくお願いいたします」
一気にそう言って、クロウは朝食の後片付けを始めた。ローアは呆然とその姿を見つめていて、ラジはローアの肩をそっと抱き寄せた。
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「それじゃあ、行ってくるね、クロウ」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「今までありがとう、クロウ」
「……お嬢様をお願いいたします、ラジ様」
いつものように淡々と言って、いつものようにクロウはローアを見送った。しかしいつもと異なるのは、ローアは森に木の実を取りに行く訳でもなく、裏庭の世話に行く訳でもないことだ。
ローアはクロウと別れを告げ、この家を出てラジと共に外の世界へと旅立つ。
手を振るローアに深々と頭を下げ、顔を上げると小さくなっていくローアの背中がクロウの視界に入った。
生体反応が遠ざかり、やがてクロウにも感知出来ぬ場所まで離れるとそれが消える。
……クロウは、2度、主人との別れを記憶している。それは「死」という避けられぬ別れだった。だが、クロウに取ってそれは別れでありながら、別れではない。もの言わぬようになっただけでクロウの側にはいつでも守るべき主人の墓があり、毎日その墓碑を世話し、毎日花畑を育てて、いつも共に居たからだ。
しかし今度の別れは違う。
3番目の主人は、2番目の主人達が残した小さな少女。乳飲み子の頃から家畜の乳を与え、離乳食を与え、2番目の主人の奥方がよく歌っていた子守唄を記憶から再生して寝かしつけ、言葉を教え、生活のすべてを教え、共に暮らして来た。
その少女との別れは「死」ではなかった。ただ、離れていく。もう2度と側にいることはないだろう。
クロウはとうとう1人になった。
次「おかえりなさいませ」と、クロウが発音するのはいつになるのだろうか。
「お嬢様」
玄関で立ち尽くしたクロウが、主人のことを呼ぶ。あらゆる言葉とあらゆる行動を学び、家を守るために駆動してきたクロウの身体が、初めて家を守るためでなく、ただ、呼ぶ。
「ローアお嬢様」
呼んだとて何も変わらないとクロウは理解していた。それでもなぜか呼ぶ事を止める事が出来ない。自分の身体に内臓などないはずなのに、まるで内側が掻き混ぜられているかのような感覚を覚えて、クロウはがしゃんと膝をついた。
「ローアお嬢様、ローアお嬢様、ローアお嬢様、……ローア!」
森の奥にその慟哭は響いたのか。
クロウに返事をする声は無く、ただ、黒い人型の固まりがそこに在り、いつまでもいつまでも主人の名前を呼んでいた。