「なにヲ、書イているのだ、きさ」
帳面に何かしら書き付けているキサを、マギはそっと椅子ごと抱き締めた。カシャ……と金属のこすれる音がして、甲冑の隙間から溢れる温かな呼気がキサの耳をくすぐる。
「日記を、書いているの」
言いながら、キサは日記を書き終えたらしく、クロウの作った羽根ペンを机に置いてノートを閉じた。自分の肩に回る堅い腕にそっと触れて後ろを振り返る。
マギが恐る恐るといった風に、キサの頬に頭をすり寄せた。
キサもそれを受けて、静かに体重を掛ける。
季節を1つ2つ越えて、この家での暮らしが落ち着いた頃、マギとキサは時折こうして触れ合う事が多くなった。
マギは知っている。これは発情だ。
キサには発情期が無い。だから人間種を放逐されたのだと言っていた。しかしマギにはそれがあった。機人種の男の発情期はサイクルが遅いが、1度始まると長い。抑えきれないこの性的な欲望は数度目の体験だったが、キサと寝食を共にするようになってからは初めてだ。
マギにとって、発情とは単に女に子種を植え付ける前兆に過ぎなかった。女を見て欲情するのではなく、発情しているから女に反応するだけの行為だったのだ。しかし、今のマギはまったく違う。目の前のキサが欲しくてたまらない。
愛しい存在だということは認識していた。機人種は、一般的にそうした感情に鈍い。それでもキサが他のどのような女とも異なり、マギにとって特別な女……クロウが言う「妻」なのだという自覚はあった。夫婦という言葉が示す誓いを交わしたわけではなかったが、マギにとってキサは確かに妻であり、キサにとってマギは確かに夫だ。それでも、これまで性的に欲しいと思う事は無かった。
しかし、今は違う。
例えキサに生殖機能が無いとしても、マギはキサと身体を交じらせたいと強く思った。
「きさ」
人間種とは少し発音の違うマギの声が、キサを誘う。弾かれたようにキサが顔を上げ、恥じらうようにすぐに俯いた。
マギはキサを寝台へと誘った。
キサの細い身体をマギが組み敷く。身体の大半を有機機械で構成されたマギの身体は、キサの細い身体につながるのだろうかと不安もあった。これまでマギが抱いた事の無い不安だ。それをマギが口にすると、キサがほんのりと笑って首を振る。
「怖くないわ」
「きさ」
「怖くない、大丈夫。きっと」
きっと大丈夫。こんなにも私はマギのことが大好きだもの。そう言って、キサの腕がマギの背中に回った。優しい手のひらの感触は、有機機械の皮膚にはすぐに伝わらない。だが、ゆっくりと撫で擦られると少しずつ温もりが移っていく。その温もりに息を吐いて、マギはキサの柔らかな身体に静かに触れた。
種は分たれたが、交わり合う方法と感じ合う感覚までもが分たれた訳ではなかった。マギがキサの男を受け入れる部分を探すと、それはすぐに見つかった。キサの美しい声が「マギ、マギ」と懸命に男の名前を呼ぶ。それに応えるようにマギが身体を近付けて、探り当てた部分に深く大事に指を入れていくと、キサの奥から男を受け入れるための蕩けるような蜜が溢れてくる。
マギは自身の身体の一部が異常に熱く、堅く苦しくなっている事に気が付いた。常は隠されているそれが、今はキサの中に入りたいと鎌首をもたげている。己の一部であるのに、まるで己ではないように制御が効かない。それでも必死で手綱を繰りながら、マギはそれをキサへと押し付けた。
「ああ……」
どちらのものか分からないため息が、寝室に響く。
キサが受け入れるにはあまりにも大きいマギの欲望は、キサの奥まで届いてもなお余っている。力強く突いてキサを壊してしまわぬよう、ゆっくりと、まるで何かの儀式のようにマギはキサの上で身体を揺らした。しばらくの間そうして体をつなげていると、苦しげに何かを堪えていたキサの声が、歌うように甘い声に変わる。
愛する者との交わりは、なんと甘美な行為なのだろう。
やがてマギはキサの中に、機人種の精を吐き出した。じんわりと広がるマギの白濁を、キサの身体は深く飲み込む。
マギの発情期は7晩の間続いた。
****
発情期が終わっても、マギは時折キサを抱いた。愛する者が目の前にあれば、発情期など関係ないのだとマギには分かった。キサを抱いているだけでマギは幸せで、マギに包まれているだけでキサは幸せだった。
寄り添うように2人の穏やかな生活が続き、そんな2人をクロウはいつも静かに見守っていた。
しかし、時折、キサが体調を崩すようになった。抱いているキサの体温は常よりも高く、大好きだった穀物粥も食べたくないと言い始めた。変わりに苦手だった果実が食べられるようになり、それなのに食べては吐き気を催す。
その変調の正体に最初に気が付いたのはクロウだった。
「奥様は妊娠なさったようです」
午後、いつものようにキサの体調を見ていたクロウがマギに告げる。
クロウは家にある全ての書物を読み、前の主人が生きていた頃に人間の多くを学んでいたという。人間種のこと、機人種のこともクロウには話してあり、クロウによれば人間種とかつての人間は、見た目こそ違う部分があるものの、生物的な営みは何ら変わっていないらしい。キサの体調の変化は、どうやら「つわり」というもののようだった。
「ジブンに、コドモが?」
それを聞いたマギは、明らかにうろたえた。まったく予測していないことだ。種として子供が生まれず、滅びを待つしかない人間種と機人種、その種から弾かれた自分達にまさか子供が出来るとは。
「きさが、オレのコを……」
腹の奥から言いようの無い感情がこみ上げてくる。それはマギの鋼の心臓をどくどくと打ち鳴らした。紛れも無く、喜びと恐怖だった。
産まれなくなって久しい「子供」というものが、あっさりとキサから産まれてくるのだという。キサには発情期が無く子は出来ぬはずだったのに、なんという奇跡なのだろう。
しかし喜ばしい奇跡であるのにとてつもなく怖い。あの身体から子が出てくるのかと思うと、よもやキサの身体が裂かれて死んでしまうのではないだろうかと恐ろしい。そもそもどうやって、どこから出てくるのか。いや、知っている。いつもマギがキサに種を植え付けているあの場所から子供は出てくるのだ。あんなに狭く、きついのに。
しかしキサはそれらの何もかもを受け入れた。「嬉しい」と、これまでに見た事の無いような美しい笑顔で、マギに頷く。
「きっと元気な子供を産むわ」
そう言った顔をマギは受け入れることしか出来ず、ただただ、マギはキサを抱き締めた。
****
マギがいくら不安を覚えても、腹の中の子の成長は止められない。日に日にお腹は大きくなり、それと共にキサは見るからに弱っていった。もとよりキサの身体は丈夫な方ではなく、本当に子を産むという行為に耐えられるのか。しかし、キサはいつもマギに美しく笑った。しなやかで強い心を感じ、マギは己の弱い心を恥じた。同時に自分の頑強な身体をキサに分け与えられたらよいのにと望む。心はキサから貰えるのに、どうして身体はキサにやれないのか。
クロウの助けを借りて、とうとうキサは子を産んだ。手と足が有機機械の殻に包まれた、銀と青の斑の髪の、玉のような娘だった。
「名前は何にする?」
愛くるしい子を腕に抱いて、弱々しい、しかしとても清らな声でキサがマギに問う。元気な子を産んでくれた妻の上半身を娘ごと抱き寄せて、マギは甲冑の奥から感嘆の息を吐いた。
「ローア、と」
「ローア」
妻がその名を口にすると、ローアが「あふ」と何やら音を発した。キサはそれを愛おしく抱き締めて眠りに落ちた。
****
「きさ、きさ」
マギが寝台で眠るキサの肩を揺する。
キサがローアを産んでから数日が過ぎた。キサは日に日に弱っていき、マギの眼にもそれは明らかだった。眠っている時間が長くなり、起きているのはローアに乳を含ませる時だけ。それでも眼が覚めているときは、いつもマギとローアの名前を呼び、時々クロウのことも呼んで、消えそうなほどに儚い笑顔を見せた。
もう、マギにも分かっていた。
子を産む行為はキサの心を強くしたが、それに反して身体を弱らせた。愛するキサは、ローアを産んで、そして死んでいく。
キサも知っているのだろう。知っているのに、マギに向かって笑ってみせる。
「マギ」
ああ、もうしゃべらなくてもいい。
知っている。その言葉の先を、マギは知っているから。だから、お願いだから、息をして、どうか。
そう願うのに、マギはキサの言葉を待ってしまう。マギはキサの手を握り、キサはそれを握り返した。
「愛してるわ、マギ」
「きさ」
「愛してる」
「俺も愛してる、キサ」
はっきりと、マギが想いを口にする。それを聞いて本当に本当に嬉しそうに笑ったキサは、まるで眠りにつくように静かに眼を閉じた。
****
キサが子を孕んでから、クロウの日常は少し変化した。奥方の好みが変わり、主人の過保護に拍車が掛かる。食べ物の好みが変わったから、主人と相談して奥方の栄養になるものを優先して食事を作り、子が産まれてからは奥方の身体を弱らせぬように、栄養価が高くて口に含みやすいものを研究する。
その日の朝も、クロウは夜通し研究してようやく出来た粥を盆に乗せ、夫婦の寝室へと運んで来たところだった。
「おはようございます、旦那様、奥様」
しかしいつものマギの、不思議な発音の「おはよう」は聞こえてこない。
失礼しますと声を掛けて、クロウは部屋の中に入る。
そこにはいつものように、奥方のキサが寝台に横たわっていた。その傍らには、キサの手を握ったマギが肩口に重なるように身体を伏せている。
「旦那様?」
クロウは主人を呼んだが分かっていた。クロウの瞳に、マギとキサの生体反応は映っていない。2人は「死」を迎えたのだ。
眠るように事切れている夫婦に近付くと、クロウの視界に1冊の帳面が入った。それはいつもキサが書き留めていた日記帳で、その最後の言葉の続きに、マギが何かを書き足していた。
その文字を追い、マギの最後の言葉を記憶に保存していると、「あー」と妙な声が聞こえる。
感じる生体反応は、マギとキサの娘、ローアのものだ。
「お嬢様」
キサの動かなくなった腕を退かせると、そこから小さな小さな命が現れた。産まれて間もない命の固まりを、クロウは壊れものを扱うようにそっと抱き上げる。
まだ息をすることしか知らぬ命をクロウは見下ろした。
そして言ったのだ。
「ローアお嬢様、私はクロウと申します」
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チェラサス月3日目
愛しいローア。マギが名前をつけてくれました。
すぐそばには、マギが取って来てくれたお花が置いてあります。裏の花畑から取って来たのです。ダメじゃないって言ったら、それくらいはいいだろうって。クロウも、いいですよと言ってくれたそうで少し驚きました。かれはあの裏の花畑をとても大事にしていたから。
チェラサス月4日目
今日食べたものは、クロウの作った木の実のスープです。甘くて美味しい。もう1杯飲みたいと言ったら、クロウが静かに「ありがとうございます」と言いました。何にお礼を言ったのかしら。
それにしてもふしぎね。
とっても心が落ち着いていて、マギがそばに居れば何も怖くないのです。
きっと大丈夫。元気になって、裏庭の石碑にまたお祈りに行きましょう。
今度はマギと、ローアと、クロウの、4人で。
チェラサス月7日目
昨日とこのあいだと、日記をつけられませんでした。ずっと眠っていて。
チェラサス月8日目
すごく眠いです。
ローア、あいしてる。
クロウもすきです。
マギ、だいすきです。すき。だいすき。
マギ、あいしてる。
マギ
(中略)
先日私の妻が子を産んだ。元気なその娘に私はローアと名付けて、妻が乳を飲ませる姿を不思議な気持ちで見つめていた。
滅びを受け入れて外の世界に出た私達に、まさかこのような奇跡が起こるとは思っていなかった。
滅びに近付いていると思われた機人種と人間種だが、まだ希望は潰えていないのかもしれない。
2つに分たれた我々は、再び1つに交じり合う事によって新たなものを得た。恐らく私達のような奇跡は、すでにいくつか起こり始めているだろう。滅びを受け入れて外に出た機人と人間であれば、全てのしがらみ捨てて手を取り合うことが出来るはずだ。
しかし、もうそんなことは私にとってはどうでもいい。
涙の流れぬ己の殻が疎ましい。
人間の皮膚に張り付いた私の銀色の甲冑を、妻は、キサは、とても綺麗だと褒めてくれたが、そのキサはもうどこにもいない。
私の子を産み、彼女は死んだ。
残された子の為に生きるべきだと分かっているが分からない。
キサの身体が死んだとき、私の心も死んだのだ。
最後に1つ、気付いた事がある。
人間種ははかなく弱い身体しか持っていないが、その心はしなやかで、どこまでも強い。反して、機人種は強く逞しい有機機械の肉体を持っているが、その心は恐ろしく弱く脆い。
その証拠に、私の死んだ心に連動して、私の心臓は止まろうとしている。
もう指に力が入らない。願わくば、私の魂がキサと共にあらんことを。
クロウ、ローアを頼む。
ローア、私とキサの娘。どうか母の強い心と父の強い身体を持って育ってくれ。
お前の母は美しく強かった。
キサのことしか考える事の出来なかった、愚かで弱い父を許して欲しい。
キサが手を引いてくれている。子の事を顧みることのできぬばかなおとこなのにそんなおとことおまえはいっしょにいてくれるのか
ありがとうつれていってくれるんだな
おれは おまえがいないと いきていけない
きさ あいしてる あいしてる あいして